2011/05/05
「善も悪も全く知らぬ」他力信心の表明 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点《第19回》
『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 親鸞会.NET
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原文
善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめ
(『歎異抄』後序)
延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』
人間が決めた善悪などにとらわれる必要はない。なぜなら、如来の真実にかなう善悪を知っているというのならば、本当の善悪を知っていることにもなろう
↑
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高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳
親鸞は、何が善やら悪やら、二つともまったく分からない。そうではないか、如来が「それは善である」とお思いになるほど知りぬいていれば、善を知っているともいえよう。如来が「悪だ」とお思いになるほど知りぬいていれば、悪を知っているともいえるだろう。
●時や所によって変わる善悪
「親鸞は、何が善やら悪やら知らないし、まったく分からない」
耳を疑う発言です。
「善悪ぐらい心得ている」と思っている人ばかりですから、「それで教えが説けるか。無責任だ」と非難する者さえあります。
しかし、人間の「善悪」は時代や場所によって変わる相対的なものであることを、『歎異抄をひらく』では、こう例示されています。
。。。。。。
日本では、臆病者よりも泥棒といわれると傷つくが、アメリカでは、臆病者の方が侮辱と感ずる。
日本では、平手よりもゲンコツが厳しい制裁だが、欧米では平手打ちがより屈辱だという。
戦前は、産めよ殖やせよが善であったが、現今は、多く産む人は大変だねぇと同情される。最近、少子化が社会問題になると、またも国や企業も子育て支援に大わらわの状態だ。
かつては、領土を拡大した者を英雄と讃えられたが、現代では侵略者の汚名を着せられる。
江戸時代は、将軍や大名のために死ぬのを忠(チュウ)と言ったが、明治以降は天皇のために命を捨てることに限られ、最高善とされた。それが今や、梁上の君子の鳴き声か、と言う者までいる始末。
敗戦までは、「主権在民」「労使平等」などは絶対禁句、漏らせばたちまち”危険分子”"赤だ”と投獄された。
今は一応、天皇も労働者も平等だが、政権が転覆すると憲法も変わり、収監されていた者も、一夜にして無罪放免、昨日までの権力者は糾弾され、断罪される国もある。
。。。。。。
●衝撃的告白の真意
従来の解説書では、世間の価値判断が相対的であることまでは説明しても、親鸞聖人がなぜ”善も悪も全く知らぬ”と仰ったのかは、曖昧です。
例えば親鸞仏教センター著
『現代語 歎異抄』は、
人間の善悪は条件によって変化しますよね。殺人は悪だけど、戦時下に敵を殺せば、善として自国で称賛されます。ですから、人間というものは、条件付きの善悪は知っていても、絶対的な善悪は知らないのでしょう。
と皮相な解説で終わっています。
山崎龍明著『初めての歎異抄』も、
知ったかぶりをして善悪をふりまわす者の危うさ
を教えられたと述べるだけです。
冒頭で引用した、延塚知道著
『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』は、
真宗大谷派のトップ小川一乘(教学研究所所長)監修によるものですが、
世間の価値は時代や状況でいつでも変わるものだから絶対ではない、だからそれにとらわれる必要はさらさらない
と放言しています。
いくら世間の常識が相対だからといって、「とらわれる必要はさらさらない」と無視したら、一日たりとも生活できません。こんな無責任発言が、教学最高責任者の下でなされているのです。
佐藤正英著
『歎異抄論註』も、意味不明の独り合点で、
善も知らず、悪も知らないという述懐によって、親鸞は、己れを阿弥陀仏とは対極的な存在へ押しやる。それは阿弥陀仏の〈絶対知〉を己れの内に思い描くことであり、同時に己れを阿弥陀仏の〈絶対知〉の前にさらけ出すことでもある。
何の『註』にもなっていません。
●信心の表白でないのか
聖人は、ただ世間的な「善悪」を論じておられるのではありません。衝撃的な言葉が続く『歎異抄』は、全て真実信心のむき出しなのです。ですが、石田瑞麿著
『歎異抄──その批判的考察』も推測にとどまり、
ここにいう「善悪」は世間的な善悪を指すと同時に出世間的な善悪をも指しているようにみえる。世俗の倫理的世界はもちろん、宗教的な自力他力をも含めていっているかのようである。
と歯切れが悪い。
安良岡康作著
『歎異抄 全講読』を開いても、
彼の宗教的信心は、人間的次元を超越して成立し、形成されることの表白である。
と、余計分からなくなります。
●自力浄尽した他力信心
聖人の告白は、自力の計らいが尽きた、他力信心の表明であることを、『歎異抄をひらく』では、こう詳説されています。
蓮如上人も、親鸞聖人のことを聞かれて、
「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも、開山(親鸞聖人)のめされ候ように御沙汰候」 (御一代記聞書)
と言われている。
時や処でしばしば変わり、人によって評価が異なる、絶えず揺れ動く判断基準で、「自分の考えは正しい」「善悪ぐらいは心得ている」「納得できぬことは信じない」と、不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を計ろうことの愚かさを、親鸞聖人は、こうたしなめられる。
補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議を計らうべき人は候わず (末灯鈔)
あの弥勒菩薩でさえ、弥陀の本願力不思議は想像も思慮もできないのに、阿弥陀如来の仏智を計らえる人がいるはずないではないか。
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」
聖人の告白は、不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を、善悪に囚われ計らう自力が浄尽した、善も欲しからず悪をも怖れぬ、大信海の表明にほかならない。
私たちは、自分が正しいと思うことは「善」、正しくないと思えば「悪」と判断し、しかもその判断は正確だという大前提で生きています。
ですから納得できることは実行しますが、納得できないと素直に従えません。
善悪の判断が誤りなくできるなら、そもそも教えを聞く必要はないのです。自力の強情我慢で「善悪は分かっている」「正しい判断力がある」とうぬぼれ、仏智を計らっている間は、弥陀の本願は聞けません。
「一切の自力の計らいを捨てよ」
聖人の重大なご教示が、『歎異抄をひらく』で鮮明にされているのです。
親鸞会は常に、他力の信心1つを明らかにしていきます。
脚注
*延塚知道……大谷大学教授
※梁上の君子 ネズミのこと
*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている
*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授
*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者
*石田瑞麿……元・東海大学教授。
浄土教の研究が専門
*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授
※不可称・不可説・不可思議 言うことも、説くことも、想像もできないこと
※弥勒菩薩 仏のさとりに最も近いさとりを開いている有名な菩薩(仏のさとりに向かって修行中の人)
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