2011/09/16

本願寺門主「50年後はどうなる?」不安を吐露 親鸞会との違いはどこに?

「“ただ”の“ただ”もいらぬ“ただ”じゃったと、無条件の救いに驚き呆れた“ただ”である」。ただ念仏の「ただ」がこんなに凄い「ただ」だとは誰も知りません。親鸞会の講演会で、本当の親鸞聖人に会えたと喜ぶ真宗難民の方々はあとをたちません。

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2010/05/11

私も親鸞学徒|オーストラリアから日本へ

オーストラリア オリヴィアさん

「人生の目的と、目標の違いを知らされたことです」

仏教のどこに引かれたかを尋ねると、きれいな日本語で端的な答えが返ってきた。

聞法してまだ半年のオーストラリアの親鸞学徒である。

「私は目標を幾つも達成してきました。

でも達成した瞬間から、次は?その次は?と問われるのです。

高森顕徹先生から『目的を知らぬ人生は、ゴールのないトラックを回り続けるようなもの』と聞かされた時、自分の人生がまさにそれだと感じたのです」

南半球で最良の大学といわれるオーストラリア国立大学を、オールA以上の成績で卒業。学士号を2つも取得し、日本留学も2回果たした。

傍(はた)からはうらやまれる学生生活も、心からやすらぎを感じられなかった。

「何かが足りない」

そう思い悩んでいた時、東京の大学で親鸞会と出遇った。

昨年9月、初めて二千畳(富山県射水市の親鸞会館)に。

「一念発起」など難しい仏語に戸惑ったが、

「これは大事な話。理解できるようになりたい」

と思った。以来、毎月欠かさず親鸞会館に参詣している。

4月からは二千畳のある富山に移り、塾で英語を教えながら聞法に励んでいる。趣味は茶道に料理。

「このまま日本に住み、国際交流をサポートする仕事をしたい」

と夢を語る。

(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)

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2009/12/15

「善をしてゆけば、そのうちに助かる」は誤り(信心の沙汰・親鸞会)

 
講師

今日は、次のような疑問について、話し合いたいと思います。

「善をしてゆけば、信仰が進んでゆく、そのうちに助かる、というのは、
『今、助ける』という平生業成の教えに反する、善慧房の教えではないか」
皆さんなら、どう答えますか。

 
学徒

「それは、だれが言っていることですか」と聞きます。
 
 
学徒

「三願転入の教え」から善を勧められますが、「善をすれば助かる」とは、親鸞聖人は
おっしゃっていませんし、親鸞会で「善をすれば助かる」なんて、聞いたことありません。
 
 
学徒

親鸞会がこのように話しているとでも思っているのでしょうか?
とんでもない聞き誤りですね。
 
 
学徒

阿弥陀仏は十九願で善を勧めておられますが、それは、善が救われる条件なのではなく、
本心を誓われた十八願の無条件の救済にあわせるための方便でしょう。
 
 
講師

善を勧めておられるのは、阿弥陀仏の御心です。
しかし、自分のやった善が間に合って助かるのではありません。
善慧房証空はここを間違えたのです。こういう誤りを、何といいますか。
 
 
学徒

「諸行往生」です。
 
 
講師

そうですね。「諸行」とは、善。
私たちのやった善で救われるのでは決してありません。
ところがこの人は、善が勧められるのを聞いて、親鸞会が「善によって助かる」と言っていると
誤解しているのです。
「諸行往生は親鸞聖人の教えではありませんよ」と話している親鸞会に、
「善慧房の教えじゃないか」と言っているのですから、大変な誤解ですね。
 
 
学徒

自分の聞き誤りを根拠にして、親鸞会を非難しているのですから、
あきれたものですね。
 
 
学徒

最近、あちこちでそんな非難がありますよ。
 
 
学徒

いつの世も「よく聞くこともまた難し」ですから。
それにしても、あまりにトンチンカン。
 
 
講師

では、阿弥陀仏が善を勧めておられる御心を、親鸞聖人はどのように教えられていますか。
 
 
学徒

「方便」と言われています。
 
 
講師

そうですね。
「矛盾か、仏意は」という言葉があります。

「修善の絶対できぬ逆謗の屍が十方衆生と見ぬいて、
 十八願を建立なされた阿弥陀仏が、
 その真実の十八願に入れるために、
 なぜ十方衆生に修善を勧められる十九願を建立なされたのか。
 矛盾か、仏意は」

十八願へ転入させるためのご方便として、阿弥陀仏が十九願で善を勧められているのです。
 
 
学徒

「今、助ける」という平生業成の誓いは、十八願のことです。
その世界に出させるための善の勧めだと知らないから、
この人は、善を勧めることが間違いだと思っているのだと思います。

学徒

「平生業成だから、方便なんかなくても、すぐに助けてもらえる」
というような気持ちだから、出てくる非難ではないでしょうか。

学徒

「三願転入」の否定ですね。十八願だけでいいと思っているのでしょう。
全く阿弥陀仏の願心が分かってないんです。

学徒

三願ともに「十方衆生」と誓われているのですからね。

学徒

自分は、十九、二十願は関係ないとでも思っているのでしょうか。

学徒

方便を通らずして、誰一人、真実へは入れませんよね。
仮(け)よりしか真に入れず、従仮入真(じゅうけにゅうしん)ですよ。

   *          *           *

「蓮如上人仰せられ候、『方便を悪しということは有る間敷なり。
 方便を以って真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。
 弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる』由、
 仰せられ候と云々」

                蓮如上人『御一代記聞書』177

   *          *           *

 

◆救われるのはいつか◆

学徒

「そのうちに助かる」というところも、おかしいと思います。

学徒

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、
「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」
と聞き誤りやすいのだと思います。
善をするには時間がかかるし、
「やっぱり今すぐには助からない。平生業成ではないじゃないか」
という誤解ではないでしょうか。

講師

そうですね。「そのうちに助かる」は、弥陀の本願ではありません。
では、無上仏(阿弥陀仏)は、いつ助けると約束なされていますか。

全員

一念です。

講師

弥陀がなぜ、一念で救うという誓いを建立なされたか、覚如上人の『口伝鈔』から
教えていただきましょう。
如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
もし、多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、
いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす(『口伝鈔』)

“弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、
最悪の人を眼目とされている。
もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。
一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ”
いかに一念の救い(一念往生)を親鸞聖人は強調されたか。
「真宗の肝要、一念往生をもって、淵源とす」
とまで言われている。「肝要」も「淵源」も、これ以上重い表現は
ないからである。(『なぜ生きる』342ページ)

講師

ここで、「肝要」とはどういう意味ですか。

学徒

「要の中の要」です。

講師

「淵源」は?

学徒

最も大事なところ、ですか。

講師

そうです。
それを『なぜ生きる』では、
「主眼であり、本領なのだ」
と書かれています。
一念の救いは、弥陀の誓願にしかないことであり、弥陀のすごい狙いだ
ということです。

弥陀の救いは一念であると、このように明示されているのに、
どこをどう聞き間違ったのか、
「親鸞会は、そのうちに助かる、と言っている」と、聞き誤っているのです。
『顕正新聞』10月15日号にも書かれていたので、読んでみたいと思います。

 

●平生業成の本願●

「善をしてゆけば、そのうち助かる」と聞き誤っている者がいる。
「今、助けるという平生業成の教えに反する」と、非難してくる者さえある。
だが二千畳では常に「平生の一念に助ける」弥陀の本願ばかりが説かれているのだ。
平生とは現在ただ今。
「今、助ける」本願が常に説き切られているのに、「善の積み重ねで助かる」
とか「そのうち助かる」と聞くのは、とんでもない聞き誤りではないか。
『歎異抄をひらく』にも「弥陀の救いは『今』である」と明言されている。
言ってもいないことを言っていると的外れの非難は自損損他にしかなるまい。
一念往生、現生不退が阿弥陀仏の救いである。
釈尊も親鸞聖人も、ただこの阿弥陀仏の救いのみを伝えられている。
そのみ教えを「我も信じ、人にも教え聞かしむるばかり」が親鸞学徒だ。
そのうえでなお善を勧める理由を問うならば、それは阿弥陀さまの願心だから、
阿弥陀さまに聞かれるがよかろう。

◆私にも同じ心がある◆

学徒

すみません、先ほどからお聞きしていて、私にも、こうやって聞いていれば
そのうちに一念がやってきて助かる、という気持ちがあるように思います。

講師

いいところに気づきましたね。
二千畳にも毎月参詣している、信心の沙汰に参加している、こうやって一生懸命
やっていれば、そのうち阿弥陀さまが助けてくださるだろうという心ですね。
「そのうち」って、いつですか。

学徒

死ぬまでのいつか……。

講師

今日は無理?じゃあ、明日?明日も無理だったら?

学徒

「そのうち」や。

学徒

そうすると、私にも同じ心があると思えてきました。

講師

明日もその次の日もダメで、まだまだ1年以内は無理だろう。
2、3年でも厳しいのではないか。となると、結局……。

学徒

死ぬまで助からんのじゃなかろうかと思います。

講師

そうしたら、死んだら助かるだろうかと思いますよね。
「死んだらお助け」と言っていた善慧房と同じになってしまいます。
今日は無理だと思っても、今晩死ぬかもしれませんよ。そうしたら、どうしますか。

学徒

「死んだら何とか……」と望みをつなげることになります。

学徒

「今」以外は、「そのうち」なんですね。

学徒

病気になれば、無常を感じて、少しは慌てるかも。

学徒

そりゃあ、わしもそう思っとる。

学徒

そういう善慧房と同じような心が、自分の中にウヨウヨしているんですね。

講師

「今、ここ一つ聞き抜く」という心でないと、いつまでたっても、
「そのうち、そのうち」と聞き流しているわけです。
これは、「今、助ける」という弥陀の本願に反する。
そういう迷いの心を捨てなければなりません。

学徒

私も、「今日や明日には死なん。まだまだ聞いておれるだろう」という気持ち
だから、結局、「そのうちに助かる」という思いになるのだと思います。
自分が「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」だと思っていないから、
「今、助ける」本願に、命懸けになれないのかなって。

学徒

今夜にも死ぬかどうか分からぬ無常を知らされたら、三願転入、
一念往生の弥陀の救いに向かって真剣にならずにおれないのではないでしょうか。

学徒

蓮如上人はそれを、
「これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、
いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり」
とおっしゃっているのですね。

学徒

「三願転入」は、時間の長短ではありませんからね。

学徒

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と言うのと、
「善をしなければ助かりません」との違いが、分かりにくいのですが……。

学徒

「善をしなければ助からない」と言うと、私たちがやった善が間に合って
助かるということだから、これは間違いです。
「善をしなければ信仰は進まない」とは、従仮入真、三願転入の弥陀の願心から
言われることです。
この2つは全く違います。

学徒

聴聞も法施も私はできていないことが多く、もう少し聴聞して、法施もできるよう
になれば、信仰が進んで助かるんじゃないかと思ってしまいます。

学徒

「あの人よりは、こうやって善をしているのだから、その分、早く助かるんじゃ
なかろうか」と思いますよね。

学徒

「どんな極悪人でも、今、助ける」本願だと、なかなか思えない。

学徒

お聞きしていて、「善をしていけば信仰が進み、そのうち助かる」という迷いは、
私の心にもあるんだなぁと知らされました。
結局、平生の一念に助けるとはどういうことなのか、分からなくなる。

講師

「もっと善をすれば、信仰が進んで、後生の一大事何とかなるだろう」という心を
何といいますか。

全員

「自力の心」です。

講師

「何とかすれば何とかなれる」というのは、自力の心です。
救われた時とは、その心が弥陀の不可思議な願力によって浄尽した一念です。
「そのうちに助かる」という間違った心が、一念ですたるのです。

南無阿弥陀仏を聞信(もんしん)した一念に、自力がすたって、
仏智満入(ぶっちまんにゅう)、ああ、自力は一切間に合わなかった、
名号のひとりばたらきであったなあと知らされます。

*   *

講師

今日の信心の沙汰をまとめてみましょう。
親鸞聖人の教えは、「善をしてゆけば、そのうちに助かる」ではありません。
高森先生は、そんなことを一度もおっしゃったことがない。
それを、そう言っていると言うのは、とんでもない聞きぞこないです。

しかし、救われるまでは、こういう心がある。
その心を正して、「この一座しかない」という思いで、聞法していかなければ
なりません。

弥陀の救いは「聞其名号 信心歓喜」の一念です。

学徒

こういう疑問を縁に、自分の心はどうかと見つめなければならないですね。

講師

そうです。
すべて勝縁にしていかねばならないですよ。
自分にも同じ心があれば、本願を正しく聞けていないのです。
聴聞しているけれども、誤って聞いている。
その聞き誤りを正していかなければなりません。

阿弥陀仏の平生業成の誓いを「そのうち」と聞き誤っては
絶対になりません。

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2009/10/07

『目的』が抜けた、社会の変遷

9月親鸞会館で『正信偈』の一節『獲信見敬大慶喜』の講演を聞かれた方の感想です。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

かつて、“経済成長”という、生きる『手段』を『目的』に置き換え、
多くの人が走っていました。

成長の実感が得られなくなると、今度は画一的でない個人の生き方が
求められるようになりました。

そして現代は、“成熟社会”と言われています。
価値観が多様化し、生き方の自由度は格段に高まりましたが、
『得た自由で何をすべきなのか』が明確でない“不安”は
一層強まっているように思います。

社会は、様々な変遷を経ていますが、一番大事な「人生の目的」が
わからないため、結局、迷走を続けているのだと感じます。

親鸞聖人は、この全ての人が求めてやまない『人生の目的』を
『信心獲得(獲信)すること』と教えられ、
獲信する前はどうなのか、獲信した後はどうなるのか、を
『教行信証』に書き残してくださいました。

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2009/10/03

『一字』もおろそかにはできません

9月親鸞会館で『正信偈』の一節『獲信見敬大慶喜』の講演を聞かれた方の感想です。

今回のご縁で、「親鸞聖人のお言葉は、一文字さえ、読み違えたり、
聞き誤ったりしては大変だ」と知らされました。

世間的な感覚だと「たった一文字くらい」と思ってしまいます。
しかし、親鸞聖人の一文字には「人生の目的達成してくれよ」
という深くて重い、大変な心が込められています。

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2009/09/11

親鸞会の顕真学院の研修に参加して

【親鸞会の顕真学院の研修に参加して】

学院の皆さんは皆、生き生きとして常に優しく
食事はいつも心のこもったものばかりでありました。
また、研修に参加した人たちも皆、思いやりがあり、
私はいつも手助けしていただきました。
行く前は不安でありましたが、参加してみると、
不安など一つも感ずる暇なく過ごすことができ、
参加して本当によかったと思います。
帰りは、お礼の言葉も涙にかき消され、言葉にもなり
ませんでした。

静寂な大自然に建つ、あこがれの顕真学院に、まさか
この私がご縁を頂こうとは想像もできず、夢の
ような3日間でした。
細かく教えていただき、長年、主婦をやってきましたが、
我流であることが浮き彫りにされた思いです。
節約に対しても、全く感覚が違うこと、浄財の重さを
感じさせていただきました。
また、身だしなみの大切さ、バッジ、名札とのバランス、
その場に応じたあいさつなど丁寧に教えていただきました。
親鸞会会員・親鸞学徒として、あるべき姿をたくさん教えていただき
ましたので、一つ一つ実行していきたいと思います。
研修に参加させていただき、強く反省させられました。
高森先生の、一刻も無駄にされないお姿に、自分の
生ぬるさを知らされるばかりでした。
整った環境の中で、何から何まで教えていただき、研修会に
ご縁がなければ分からないことばかりでした。
このようなご縁を頂き、心より感謝いたします。

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2009/09/10

あるタレントの死【アメリカの方からのお手紙】

 

 

先日、イギリスの27歳の女性タレント、ジェイド・グッディが
ガンで亡くなりました。

Jade Goody wikipedia
彼女は半年前、ガンと分かり、死を宣告されました。
その時、残りの人生をメディアにさらして生きることを
決意したのです。
メディアは、連日、日に日に弱っていく彼女の写真を流し、
私も毎日見ていました。
そんなある日、私は衝撃を受けました。
死に近づく彼女の記事を読み終えたあと、

「急げよ、おまえも死ぬぞ」

という声なき声が聞こえてきたのです。
無慈悲にも私は、彼女の苦境を楽しんでいたのでした。
まさに“娯楽”だったのです。
しかし、もっと衝撃的だったのは、さらに心の奥底を
見てみると、そのことに“恥じる気持ちがない”ということでした。
こんな自分は間違っていると分かってはいます。
懺悔のない、鬼の心だと思います。

このようなことを知らされるのは辛いですが、
それは、もっと深く自己を見つめよ、ということだと思います。
いまだ知らない自分がどれほどあるかしれません。

しばらくしたある日、私は彼女の死を知りました。
ショックでした。
しかし、、自身の死を宣告された時、私は、どれほど
衝撃を受けることでしょう。

こんな私でも救われる親鸞聖人の教え、阿弥陀仏の本願を
真剣に聞かせていただきたいと思います

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2009/08/30

どうすれば孝行できるのか、ずっと悩んできました。

8月2日親鸞会館にて行われた親鸞学徒追悼法要では、親の恩の重きことを教えた
『父母恩重経』について聞かせて頂きました。
その感想を紹介したいと思います。

※親鸞学徒追悼法要についてはコチラをご覧ください。
親鸞学徒追悼法要って何?|法子と朋美の仏教講座|浄土真宗親鸞会
http://www.shinrankai.or.jp/b/noriko-tomomi/01houyou.htm

今回、親鸞学徒追悼法要にて母と一緒に『父母恩重経』について
聞かせていただき、言葉で表せないほど感動しました。

私は一人っ子で、両親の結婚後9年目にやっとできた子供です。
妊娠中の母は好きでもない煮干しを1日20本も食べていたと聞きました。
おかげで私は生後二ヶ月半で乳歯が生えはじめ、10ヶ月で
歩くという骨の丈夫な子となりました。
私の好きな果物などは「もう食べたから」と、お腹いっぱい
食べさせてくれたり、私の喜びを自分の喜びとしてくれました。

愛情たっぷりの優しい母ですが、子供の頃はやはり恐い印象が
強くありました。
ものすごく怒られ、叩かれ、ベランダに出されました。
ですので母は、当時の私にとって一番嫌いな人であり、一番好きな人だったです。

叱ってくれるということは、何と有難いことなのかと
大人になって知らされるようになりました。
母はどれほど苦しい思いをして、愛する娘を叱らなければ
ならなかったことでしょう。
どれだけ悩み、辛い思いをさせたか知れません。

あいさつの大切さ、
人に感謝すること、
謝ること、

これらを小さい頃から教えてくれた母に、感謝と申し訳なさでいっぱいです。

どうすれば孝行できるのかとずっと悩んできました。
親に喜んでもらえる娘でいようと、
感謝の気持ちを伝えることを心がけてきました。
しかし、私はまだ本当の親の恩も、孝行の道も私は知らなかったのです。
仏法と縁があってはじめて、本当のご恩と孝行の道を知らされました。
そして、

「両親にも、仏法を喜ぶ身になってもらいたい」

そう思うようになりました。
そんな私にとって、今回の『父母恩重経』のお話は本当に嬉しいご縁でした。

 

親鸞会.NET» » 産婦人科研修で知らされた親の大きな恩
http://www.shinrankai.net/2009/08/daion.htm

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2009/08/28

産婦人科研修で知らされた親の大きな恩

8月2日に親鸞会館で行われた親鸞学徒追悼法要では、『父母恩重経』を通して
『親の大恩十種』について聞かせていただきました。
その感想を紹介したいと思います。

※親の大恩十種についてはコチラをごらんください。

 親鸞会 親子ネット|仏説父母恩重経のこころ
http://homepage2.nifty.com/shinran/other/

『仏説父母恩重経』に説かれる親の大恩十種は、どれも痛切に
知らされます。
私は研修医をしておりますが、ちょうど、この1ヵ月は産婦人科での
研修でした。

妊婦検診で外来に訪れる母親は、懐胎守護(かいたいしゅご)の恩を、
毎日のように会う分娩では、臨生受苦(りんしょうじゅく)の恩を、
生まれたばかりの赤子の泣き声で陣痛の苦しみを忘れ
「五体満足ですか、指は5本ありますか」と聞き、
わが児を一目見ると
「よく生まれてきたね、頑張ったね」とのうれしそうな言葉に
生子忘憂(しょうしぼうゆう)の恩を知らされます。

私も今まで母をどれだけ苦しめ悩ませたか分かりません。
そんなご恩をツユ知らず、恩返しどころか忘恩ばかりで
申し訳なく恥ずかしく思います。

両親がいなければ、仏法に遇わせていただくことも、人生の目的を
知ることもできませんでした。
そう知らされますと心から仏法を聞かずにおれませんし、
孝行に励まずにいられなくなります。
親鸞会.NET» » どうすれば孝行できるのか、ずっと悩んできました。
http://www.shinrankai.net/2009/08/daio.htm

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2009/07/26

憎しみ転じて歓喜の涙

東野恵美さんの永年の悩みの種は、姑との人間関係でした。

「なぜこんな家に嫁いだのか」

真剣に離婚を考えたこともあり、救いを求めてイロイロな宗教に迷ってきました。

そんな中、友人の紹介で浄土真宗親鸞会のことを知り、地元の講演会に参詣するや、

「やっと真実の宗教に巡り遇えました!」

と大変喜び、親鸞会会員になられたのです。
間もなく、お仏壇に正御本尊を迎え、毎月の親鸞会館、地元の講演会、勉強会と
感謝の心いっぱいで聞法を重ねられるようになりました。

そして恵美さんは「自分がこの教えに遇えたのは姑さんのおかげ」と知らされたのです。

「義母さんも難度海(※なんどかい・苦悩の人生)で
 辛い思いをしているのだから何とか聞いてもらいたい。
 今のままでは本当にかわいそうだ」

と思い、それまで離れの隠居部屋に一人いた姑さんに

「義母さん、一緒にお勤めしましょ」

と毎日声をかけるようになりました。
それからというもの、一緒に正御本尊の前で正信偈を拝読し、二人で仏法讃嘆をするの
が楽しい日課となったのです。

そして、姑さんも恵美さんと一緒に親鸞会館へ参詣されるまでになりました。
初めは硬い表情でしたが、だんだんと打ち解け、

「私は若いころから病気の主人の看病、9人の小姑の世話と苦しみの連続で、
本気で入水自殺をしようとしたこともあった」

と語られました。
それから、姑さんは、このように言われたのです。

「私は、息子夫婦の仲のよさがねたましく、
 意地悪なことばかり言ってきた」

姑さんは泣いていました。

「それなのに私を恨んでいるはずの嫁さんから、 
 寺などでは絶対に聞けない本当の親鸞聖人のみ教えを
 聞かせてもらうことができました。
 うちの嫁さんは善知識です。
 私は幸せ者です。
 ありがたいです」

と心から喜び、

「嫁さんについていくので私もお仲間に入れてください」

と言われたのです。

「憎しみ合っていたのに、本当に夢のようです。
 すべて阿弥陀さま、高森先生のおかげです」

とお二人の目からは涙があふれていました。

「今度は主人(息子)にも伝えたいね」

二人とも輝く瞳で笑っていました。

王舎城の悲劇(※)を彷彿とさせる如来のドラマを目の当たりにし、思わず
私ももらい涙でした。

(お名前はプライバシーの関係で配慮しております)

※難度海についてはコチラをご覧ください。
※王舎城の悲劇についてはコチラをご覧ください。

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