2010/02/04
【特集】テレビ座談会の反響(8) 親鸞会.NET
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テレビ座談会で「八識(はっしき)」について学びました。
●「識」とは、「心」のこと。
⑴眼識(げんしき) 色や形を見分ける心。
⑵耳識(にしき) 音を聞き分ける心。
⑶鼻識(びしき) 匂いをかぎ分ける心。
⑷舌識(ぜっしき) 甘、辛、酸など味を分ける心。
⑸身識(しんしき) 寒・暖、痛・快などを感ずる心。
●これらを「前五識(ぜんごしき)」といわれます。
⑹意識(いしき) 前五識を統制し、記憶・判断・思考・命令する心。
⑺末那識(まなしき)執着する心。
⑻阿頼耶識(あらやしき)
三世を貫く永遠の生命。全ての業力をおさめている処だから、
蔵識ともいわれる。
「アラヤ」は「蔵」の意。
※阿頼耶識についてもう少し知られたい方は、コチラ
日ごろ、人間が求めている幸せは、仏教で説かれる「八識」のうち、
「眼・耳・鼻・舌・身」の「前五識」の楽しみです。
これは、どんな幸福感でしょうか。
東さんは高森顕徹先生への手紙にこう書いています。
政治、経済、科学、医学などはすべて、「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識」を
喜ばせるためのものだと聞かせていただきました。
「見て、聞いて、嗅いで、食べて、触れて」、
肉体を楽しませる幸せは、やがてシャボン玉のように消えていきます。
きれいな人でも毎日見ていたら何も感じなくなったり、
美しい音楽もずっと聞き続けたら飽きが来るでしょう。
底の見えている楽しみを何とか継続させようと、
皆、努力しているのだと知らされました。
親鸞学徒が問題にするのは、滅びる肉体の楽しみではありません。
一瞬の人生で、「昿劫(こうごう)」「億劫(おっこう)」、何億兆年の魂の
解決をして、「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜を獲ることだと
分かりました。
東さんの言うように、ほとんどの人は、やがて色あせる「前五識」の楽しみを
求めているのではないでしょうか?
中には、「意識」の喜びを求めている人もあります。
金や物がなくても喜びを感ずる哲学者は、意識で楽しんでいる人の典型でしょう。
これも、仏教で教えられる幸福とは、異質の幸せです。
川西さんの手紙にはこう書かれています。
人間のすべての営みは、「前五識」の楽しみの追求であり、高尚な哲学・思想でも、せいぜい「意識」のレベルです。
また、執着を離れ、ひょうひょうとした言動で“高僧”と尊敬され、
生きざまの理想と憧憬される一休や良寛も、同じでしょう。
生命の大歓喜を得て、「恩徳讃」に生き抜かれた親鸞聖人とでは、
全く心の世界が異なることを、「意識」と「阿頼耶識」の違いから知らされました。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし (恩徳讃)
「弥陀と師教の大恩は、身を粉に、骨砕きても足りませぬ。
微塵の報謝もならぬ懈怠なわが身に、寝ても覚めても泣かされる」
江戸時代の禅僧・良寛は、子供と隠れんぼをしていて、日が暮れて子供たちが帰って
しまっても、まだ隠れていたといいます。
愚直で淡々と、一見、欲を離れたかのような生きざまに、
「こんな生き方ができたらなあ」
とあこがれる人もあるでしょう。
しかし良寛に、人界受生の本懐を果たした喜びはあったか。私たちに何を残したか。
親鸞聖人や蓮如上人とは、全く境涯が違うことを学んでいきましょう。