2011/02/14

鬼気迫る対峙 聖人の慈誨 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【18】 親鸞聖人の教えを伝える親鸞会

前回の、 歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【17】《「追善供養」の迷信を破られた聖人のお言葉》親鸞会.NET

に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう
鬼気迫る対峙 聖人の慈誨

(原文)

おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。(『歎異抄』第二章)

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の意訳では、

あなたがた一人一人が、はるばる長い道のりを、大切な身体と生命を危険にさらしてまで、訪ね求めてこられた志は、真実の生活が実現する道理を体得したいということにある。




高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の意訳では、

あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から身命を顧みず、この親鸞を訪ねられたお気持ちは、極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろう。

●聞法に命を懸けた同行

『歎異抄』二章は、聖人を命として関東から京都まで決死の聞法に参じた同行に仰ったお言葉です。

対面されるや否や聖人は、

「ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」

極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろうと直言されています。
「身命を顧みず」数十日かけた旅に、何のねぎらいも慰めもありません。
またその聞法心を、評価されてもいません。

「私たちだけが、こんなに遠くまで来たのです」と、心中ひそかにうぬぼれていた心を見透かされた関東の同行は、肝を冷やしたことでしょう。
同時に、最も尊敬する聖人の鉄槌は、誰から褒められるより、うれしかったに違いありません。

関東の同行は、この世で信頼できるのは親鸞聖人だけと思えばこそ、全てを犠牲にして聞きに行ったのです。
ところが実態は、関東で20年間、常に教え続けてくだされた聖人に、疑いの刃を向けていたのです。

「今まで、何を聞いてこられたのか、情けないことよ……」
聖人の怒りにも似た心情が、冒頭から胸を刺します。

ですが、仏法に身命を懸ける同行と聖人との、鬼気迫る対峙を解説する書は、どこにも見当たりません。
医師は病に応じて薬を与えるように、仏教は相手に応じて法を説く「対機説法(たいきせっぽう)」ですから、身命を懸け、聞きに来た同行には、それ相応の表現がなされて当然でしょう。
この関東の同朋の心情が分からねば、聖人のお言葉は到底、分かるものではありません。
●南都北嶺(なんとほくれい)への烈々たる批判(※南都・・奈良 北嶺・・比叡山)

冒頭から火花散る二章は、続くお言葉も痛烈です。

(原文)

しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり。


(意訳)

だがもし親鸞が、弥陀の本願念仏のほかに、往生の方法や秘密の法文などを知っていながら、隠し立てでもしているのではなかろうかとお疑いなら、とんでもない誤りである。
それほど信じられぬ親鸞なら、奈良や比叡にでも行かれるがよい。あそこには立派な学者が多くいなさるから、それらの方々にお遇いになって、浄土に生まれる肝要を、篤とお聞きなさるがよかろう。

“南都北嶺のド偉い学者に聞かれるがよい”
これほどの皮肉があるでしょうか。
南都北嶺こそが、神信心の権力者と結託して、法然上人を弾圧した親玉なのです。

その承元の法難を、『歎異抄をひらく』では、こう書かれてあります。

庶民や武士に加え、聖道諸宗(天台や真言、禅宗など)の学者や公家・貴族まで、法然上人の信奉者が急増。
急速な浄土宗の発展に恐れをなし、聖道諸宗は強い危機感を抱く。彼らを支えた公家・貴族までもが、法然支持に回るのは到底、黙視できることではなかった。やがて聖道諸宗一丸となり、前代未聞の朝廷直訴となる。
承元元年(1207)、ついに、浄土宗は解散、念仏布教は禁止、法然・親鸞両聖人以下8人が流刑。
住蓮・安楽ら4人の弟子は死刑に処せられる。
親鸞聖人も死罪だったが、元関白九条兼実らの尽力で越後(新潟県上越市)に流罪、35歳だった。法然上人は土佐(高知県)へ遠流となる。
聖道諸宗と権力者の結託で、日本仏教史上かつてない弾圧だ。
世に「承元の法難」といわれ、『歎異抄』末尾にも記されている。

天皇らの横暴に、聖人の消えざる激怒が『教行信証』に記されています。

「主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ」
(天皇から家臣に至るまで、仏法を謗り正義を蹂躙し、怒りにまかせて恐るべき大罪を犯した。なんたることか)

と喝破し、南都北嶺には、

「然るに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶す」
(『教行信証』)

(しかるに、一宗一派を開いた者〈伝教、弘法、道元、日蓮〉たちまでもが、「阿弥陀仏もその浄土も、われらの心のほかにはない。心のほかに弥陀や浄土を説くのは、幼稚な教え」
と見下し、真実の仏法をけなしている)

と、峻烈な批判がなされています。

「末代の道俗」とは、「今日の僧と在家」ですから、僧俗ともに一網打尽です。
華厳・天台・真言宗はいうまでもなく、法然上人を攻撃した栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)、笠置(かさぎ)の解脱(げだつ)をはじめ、禅宗の栄西など、当時の仏教界の指導者を総括して「真実の仏教を知らざる輩」と斬り捨てられています。

それだけではありません。

「今日の仏教は、全く廃れ切っている。寺も僧もたくさんいるが、仏教のイロハも分からぬ者ばかり。儒教をやっている者も、正道邪道のケジメさえも分かってはいない。浄土の真宗のみが盛んではないか」

と、次のように記されています。

「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛なり。然るに諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うること無し」(『教行信証』)

南都北嶺を完膚なきまでに批判された聖人が、それらをここでは「ゆゆしき学匠にお会いなさるがよい」と語られています。
想像してさえ、震える光景です。
●「学問を非難された」という見当違い

ですが、外道邪教はもとより、聖道諸宗までも批判された聖人を知る人は少なく、
「南都北嶺の学者に聞け」を、学問を批判された程度にしか感じていない人ばかりのようです。

例えば、真宗大谷派のトップ小川一乘(教学研究所所長)監修、延塚知道著『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』の解説によると、「往生極楽の道」は、頭で納得するものでなく、全身で理解するものである。知的に理解したければ南都北嶺の学者に聞けばよいが、それを批判されたのが、二章だと、次のように述べています。
親鸞は、関東から来た門弟たちに対して、「往生極楽のみち」を存知したいと言うのであれば、奈良や比叡山にいる優れた学匠たちによくよく聞きなさい、と言う。
存知とは、信知と対応する言葉で、知識的に理解するとか分別するという意味である。
それに対して信知という言葉は、身・口・意で分かることである。(中略)「往生極楽のみち」を知識的に理解するというだけでは充分ではない、
(中略)つまり、一人ひとりが本願の信心を自覚的に明らかにする道しかない


と教えられたのが二章だと主張しています。

山崎龍明著
『初めての歎異抄』
も、聖人が学者を批判されたのは、「愚者」にかえることによって救われるからだと、次のように見当外れな解説をしています。

親鸞聖人が「学生」という語を用いるときは、だいたい批判的に用いていることが知られます。なぜなら、聖人は「愚」にかえることによって人が人となり、救いにあうことだと確認していたからです。(中略)
親鸞聖人はこの「愚者になりて往生す」という法然聖人の言葉に深い感銘をうけ、そこを自己のよって立つ根拠としました。

法然上人も親鸞聖人も、傑出した大学者であり、歴代の善知識方は誰一人、教学を排斥された方はありません。
ですが『歎異抄』二章を、学問を批判されたと誤解する人が多くあります。

安良岡康作著
『歎異抄 全講読』
は、

この章の全体が(中略)学問や学者に頼ろうとする異義に対する批判になっていると言い、遠来の人々のいわゆるお門違い・見当違いを皮肉ったのでなくして、自己の信心が、知識や学問とは全く異なる立場において形成されたものであることを聞き手に訴えて、理解を求めようとする意志の発露と考えるべきであろう。

と他人事のように述べています。
南都北嶺に対する聖人の憤激が全く伝わってこない、乾燥した解説は、

佐藤正英著
『歎異抄論註』
も同じです。

わたしはあなたがたの考えておられるような、なにか特別すぐれた能力を持った存在ではない。学識豊かな学僧でもない。一介の隠遁者でしかないと親鸞はいう。(中略)第二条を通読したときに見えてくるのは、叱責でも冷やりとした感じでもまして皮肉や揶揄ではない。(中略)少しも気張ることなく、淡々とした息遣いで語る親鸞がいる。稀れにみる率直さである。
親鸞聖人のご著書は多くありますが、二章ほど恐ろしい、殺気さえ覚えるお言葉はありません。
そんな「稀れにみる」鋭い信心の露出を、淡々と解説する書しかないのが現状です。
根本は「命懸けても聞かねばならぬ真の仏法」を知らないからにほかならない。

親鸞会では、その真の仏法、親鸞聖人の教えを、我も信じ、他人にも教え聞かしめるばかりです。

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