2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(1) 親鸞会.NET

当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載したいと思います。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───

ネット上で、浄土真宗の重要な教えについての、論争がなされていました。

○論争の発端は、浄土真宗親鸞会で仏教を聞き始めたという「新人太郎」さんに対して、「459」と名乗る人物が、

「浄土真宗では善を勧めないのに、親鸞会は善を勧めているから間違いだ」

と発言したことです。

そして、

〝浄土真宗では善を勧めない〟根拠として、

「親鸞聖人は『雑行(ぞうぎょう)を捨てよ』と仰っている」

と主張しました。

「雑行を捨てよ」

とは、

「諸善をやめよ。善をするな」

ということだ、というのです。

(※雑行について、漫画で分かりやすくコチラで解説されています)
↓  ↓  ↓

【マンガ解説】『雑行・雑修・自力の心』浄土真宗親鸞会 公式サイト
http://www.shinrankai.or.jp/b/zougyou-zasshu-jiriki/index.htm

○争点は、
「雑行を捨てよ」とは、「諸善を捨てよ」ということなのか。
「雑行を捨てよ」と教えられた真意は何か、に絞られてきました。
親鸞聖人の教えを少しでも知る者にとって、「雑行」とは何か。
最重要の問題であり、誤解を放置しておれるものではありません。

果たして、親鸞聖人の教えに善の勧めはあるのか、ないのか。
正しい浄土真宗の教えを知って頂くご縁になればと、この「新人太郎氏」と「459氏」との論争をまとめてみました。

(全記録はこちらのサイトhttp://www.geocities.jp/shinran0826/index.htmにありますので、詳しく知りたい方はどうぞお読み下さい)

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●先に述べましたように、事の始まりは、459氏が、

「真宗では『諸善』を勧めていません。『極善』を勧めているんです」
と発言されたことです。

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これに対して、新人太郎氏は、

折角のご返事でしたが、
「真宗では『諸善』を勧めていません。『極善』を勧めているんです」
とあるのには、少々とまどいました。
「諸善」と「極善」の違いを、仏教の素人にもわかるように教えてください。
お願いします。

と問われました。

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459氏は、こう答えています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

では仏教の素人(?)にもわかってもらえるようにカキコするつもりでいきます。

『諸善』とは六度万行といえばわかりますか?

布施(お金を寄付する、仏法の話をする)、持戒(戒律を守る)などですね。他にもあります。

『極善』とは念仏です。南無阿弥陀仏です。

違いはわかりましたか?

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ここから、新人太郎氏は、

「『極善』「念仏」「南無阿弥陀仏」とはどんなことなのか」、
これが分からなければ、
「浄土真宗は諸善を勧めない、とはどういうことか。浄土真宗は何をどう勧められているのか」
が分かりませんから、重ねて『極善』の意味を尋ねます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

早速の返信、ありがとうございました。
「これで諸善と極善の違いがわかりましたか」
とありましたが、失礼ですが、さっぱり分かりません。
仏教に素人の私には、諸善の説明はわかりましたが、
「極善とは念仏です。南無阿弥陀仏です」
の念仏とはなんですか。南無阿弥陀仏とはなんのことでしょうか。

逃げも見放したりもせず、仏教の素人にも分かるように説明すると言われている力強い言葉がうれしいです。
よろしくお願いします。

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ところがこの素朴な新人太郎氏の質問に、459氏はいっこうに答えません。

先に、大上段に構え、

「浄土真宗は極善を勧めているんです」

と主張していたのに、その意味を尋ねられると答えない。

何と無責任かと驚いたものでした。

同時に、言葉の意味を知らずに使うと悲惨な結果をまねく、典型例を見る思いがいたします。

さてこの後、459氏は、

「とにかく親鸞聖人は、『諸善』を勧められていないんだ」

という論調で、話を切り上げよう(逃げよう)としたのですが、

新人太郎氏から「待った」がかかりました。

続きは、次回に。

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(2) 親鸞会.NET

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
前回の続きです。

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459氏は、新人太郎氏に

「とにかく親鸞聖人は、『諸善』を勧められていないんだ」

という論調で、話を切り上げよう(逃げよう)としたのですが、

新人太郎氏から「待った」がかかりました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「親鸞聖人が『諸善』を勧められなかったことは、これまでの説明で
分かったろう」

と言われていますが、失礼ながら全然分かりません。
一体、どんな根拠で、どんな説明をなされて、こんなことを高言されるのでしょうか。
理解に苦しみます。

(中略)

459さんは、

「親鸞会は諸善を勧める。真宗は諸善を勧めない。
違うじゃありませんか、全く」

と言われていますが、「真宗は諸善を勧めない」とは本気の話ですか、
驚きました。

道理で寺へ行っても人はまばらでお年寄りばかり。
悪を容認し善を排斥して、「念仏のみで助かる」「南無阿弥陀仏を心得る」
と、その意味も知らずに、なにやらの一つ覚えのように、言っているのが
真宗なら、現今の衰退のワケも頷けるような気がします。
それが真宗なら滅亡して当然でしょう。

悪を認め善を勧めないのが親鸞聖人の教えでしょうか。
なにかの誤解ではありませんか。

459さんも誤解されているのではと思われてなりませんが、
いかがでしょう。

それとも親鸞聖人の教えに、そのような根拠があるのなら一つでも教えてください。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この質問に、459氏が挙げてきた根拠が、

★「雑行を捨てよ」

だったのです。

ではここからは、やりとりをしばらく見てみましょう。
少々煩瑣に思われる人もあるかも知れませんが、ここが、

「親鸞聖人の教えに、善の勧めはない」

という、浄土真宗を衰滅させてきた恐ろしい聞き誤りですから
議論の流れを熟読理解し、正しい親鸞聖人の教えを学ばせて頂きましょう。
(途中でコメントをはさみます)
次回に続きます。

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(3) 親鸞会.NET

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
今日が第3回目です。
「親鸞聖人の教えに、善の勧めはない」
は、浄土真宗を衰滅させてきた恐ろしい聞き誤りですから、議論の流れを熟読理解し、正しい親鸞聖人の教えを学ばせて頂きましょう。(途中でコメントをはさみます)

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新人太郎氏から459氏へ
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「雑行とは、諸善万行だ。その雑行を捨てよという根拠を、こんなに挙げているのに、お前はまだ分からんのか」
と、叱られそうですが、それくらいは、新人でも聞かされています。

お尋ねしているのは、そんなことではないのです。だから、そんな言葉は何千何万挙げられても、私の質問には無駄なのです。

459さんは、それにまだお気づきではないようですから、もう一度、お聞きします。
「真宗は、諸善を勧めない」とあなたが言われるから、
「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われている親鸞聖人の言葉を示して下さいと、お願いしているのです。

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459氏から新人太郎氏へ
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親鸞聖人が『この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく』と教行信証にて書いているのです。

「諸善を捨てよ、止めよ」と「雑行を捨てよ、止めよ」は別の意味ですか?
同じ意味のことが書いてあるということがわかりませんか?

あなたはそんなに往生のために諸善がしたいのですか?
何か根拠があるのですか?
根拠があるならば「往生のために諸善をせよ」と言われた親鸞聖人の言葉を示してください。
蓮如上人の言葉でも結構です。
根拠がないなら「ない」とお答えください。

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新人太郎氏から459氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「諸善を捨てよ、止めよ」と
「雑行を捨てよ、止めよ」は、
同じではないのですか、とのお尋ね、驚きました。
そんな違いさえ、分かられないのですか。
それぐらいは心得ての、今日までの発言だと思っていた私がバカだったのかも知れません。
机上の勉強だけでは、分からないことかも知れませんが、努力して明らかにして下さい。

それに、何も言っていないことを、あれこれ言われても困ります。
「諸善は往生の助けにならない」ことは、親鸞会発行の『なぜ答えぬ』にも強調されていますので、私も「諸善が往生のためになる」と言ったことはないはずです。証拠があれば教えてください。
私の言っていないことを責められても無茶です。
まして親鸞聖人の言葉などとは、とんでもないこと。
くどいようですが、私の尋ねていることをもう一度確認させていただきます。
「真宗は、諸善を勧めない」とあなたが言われるから、
「諸善を捨てよ、止めよ」と言われている親鸞聖人の言葉をお尋ねしているのです。

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459氏から新人太郎氏へ
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「諸善を捨てよ、止めよ」と
「雑行を捨てよ、止めよ」は、
ここでは同じ意味です。
少なくとも私はそう思います。

思うにあなたは諸善を考え違いしています。
それはSAさん[両氏の議論に、割り込もうとしている第三者]も説明していることです。
世間道徳倫理上の善と、仏法の往生のための善のふたつです。それをごちゃまぜにしているのではないですか?

私が今まで説明していた『諸善』とは仏法上の諸善のことです。
諸善を勧めないから、世間でいう善をしないという理由にはなりません。

『「諸善は往生の助けにならない」ことは、親鸞会発行の
『なぜ答えぬ』にも強調されていますので、私も「諸善
が往生のためになる」と言ったことはないはずです。証
拠があれば教えてください』

とありますが、では往生の何の役にも立たない諸善をなぜ親鸞会はするのですか?
根拠を示してください。

「真宗は、諸善を勧めない」
「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われている親鸞聖人の言葉は、私が今まであげてきた根拠がそれです。
それがご不満ならばなぜ不満なのか、親鸞聖人の根拠を示してください。

私はあなたから親鸞聖人のお言葉をお聞きしたことがありません。
それからSA氏があなたの質問に答えてくれるそうです。そちらにもどうぞ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(コメント)

ここで459氏は、

「『諸善を捨てよ、止めよ』と
『雑行を捨てよ、止めよ』は、
ここでは同じ意味です。」

と、重大なことを断定されています。
ところがなにかを察知したのか、直後に、

「少なくとも私はそう思います」

とも述べています。

しかし、今問題になっているのは、両氏の「思い」や「考え」ではありません。「親鸞聖人の教え」です。

「親鸞聖人の教えに、善の勧めは、あるのか、ないのか」

を論じているのに、
「私はそう思います」
などと発言すること自体、459氏の立ち位置が、「常に断言で説かれている」親鸞聖人の教えからは逸脱していることが分かります。

続く

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「雑行を捨てよ」の真意(4) 親鸞会.NET

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
今日が第4回目です。

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新人太郎氏から459氏へ
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「諸善にふたつある。
倫理道徳でいう善と、仏法の往生のための善である。
私の今まで言っている『諸善』とは、仏法上の善である。世間でいう善ではない。
それをごちゃまぜにしている」

と、今度は叱られました。
だいぶ混乱しておられるようですが、ふたつの諸善の違いをお聞かせ下さい。

そして前にあなたが、

「『諸善』といえば、六度万行のこと。
布施(お金を寄付する、仏法の話をする)、持戒(戒律を守る)などですね。他にもあります」
と言われている『諸善』は、どちらの善でしょうか。お尋ねします。

また、

「往生の何の役にも立たない諸善を、なぜ親鸞会は勧めるのか」
と信じられないようなことを仰っている。
たとえばの話ですが、難民のような、肉体的にも精神的にも苦しんでいる人々を見ても、
「諸善は往生のためにならぬのだから、捨てよ、止めよ」
と、支援を勧めないのが、親鸞聖人の教えですか。
どこかおかしいところがあるのではありませんか。

ますます、はっきりお聞きしなければなりません。
「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われている親鸞聖人の言葉をお尋ねします。

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459氏から新人太郎氏へ
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混乱しているのはあなたです。
仏法上の諸善とは、往生のための諸善、出世間の諸善のことです。
世間でいう諸善は、倫理、道徳上の諸善のことです。
私はあなたとずっと仏法の話をしていました。
ですから当然私のいう諸善は仏法・出世間の諸善のことです。

『「往生の何の役にも立たない諸善を、なぜ親鸞会は勧め
るのか」と信じられないようなことを仰っている。
たとえばの話ですが、難民のような、肉体的にも精神
的にも苦しんでいる人々を見ても、
「諸善は往生のためにならぬのだから、捨てよ、止めよ」
と、支援を勧めないのが、親鸞聖人の教えなのですか。
どこかおかしいところがあるのではありませんか』

といわれていますが、その考えが世間善と出世間善とをごちゃまぜにしている証拠です。
往生のための諸善は、往生には何の役にも立たないから捨てよと聖人は言ってるのです。
ボランティアや募金、献血などは往生のための諸善とは違います。それは世間・道徳・倫理の善です。
親鸞聖人は、『世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ』と仰せです。
決して世間善を否定された方ではありません。
以上のことを踏まえた上で以前の私が挙げた根拠をお読みください。

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新人太郎氏から459氏へ
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「私がずっと話ししてきたのは、ボランティアや募金、献血などの、世間でいう善ではありません。当然、仏法上の諸善です。
仏法上の『諸善』といえば、六度万行のこと。布施(お金を寄付する、仏法の話をする)持戒(戒律を守る)などですね。他にもあります」
と、明快に答えて頂きました。
その仏法上の『諸善』を、すべて『雑行』と言われるのならば、弥陀に救われた親鸞聖人が、日野左衛門や弁円などに、懸命に仏法を話し、伝えようとされたことも、『雑行』と言われるのでしょうか。
あのように仏法を伝えることは、仏法上の諸善に入らないのですか。

いよいよ、「諸善を捨てよ、止めよ」と言われている親鸞聖人の言葉が聞きたくなりました。
よろしくお願いします。
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(コメント)

親鸞聖人は、『教行信証』に、
「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す」
(親鸞は、二十九歳の時、雑行を棄てて、阿弥陀仏に救い摂られたのだ)
と告白されています。

もし、459氏の言うように、「仏法の話をする」などの仏法上の諸善が、すべて「雑行」ならば、
「雑行を棄てて、弥陀に救い摂られた」後の、親鸞聖人の「仏法を伝えられた」行為は、どうなるのか。「雑行」と言われるのか。

それが「雑行」ならば、
「雑行を棄てて」
の聖人のお言葉はどうなるのか、と追及されています。
続く

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
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459氏から新人太郎氏へ
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『その仏法上の〝諸善〟を、すべて〝雑行〟と言われる
のならば、弥陀に救われた親鸞聖人が、日野左衛門や弁
円などに、懸命に仏法を話し、伝えようとされたことも、
〝雑行〟と言われるのでしょうか』

といわれてますが、『弥陀に救われた後』ということはご存知のようですね。
それらは仏恩報謝の行です。
往生のための行ではありません。

『ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す』(教行信証)

『この一念を他力より発得しぬるのちは、生死の苦海をうしろになして涅槃の彼岸に到りぬる条、勿論なり。この機のうへは、他力の安心よりもよほされて仏恩報謝の起行・作業はせらるべきによりて行住坐臥を論ぜず、長時不退に到彼岸の謂あり』
(改邪鈔)

以上を踏まえた上で今までに挙げた根拠を読み返してみてください。
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新人太郎氏から459氏へ
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「親鸞聖人の仏法を伝えようとなされた行為は、仏法上の善に入らないのですか」
とお聞きした答えが、
「あれは、仏恩報謝の行です」
でした。

仏法伝えようとするのは、諸善の一つだと言われたのはあなたでした。
「諸善が往生の助けになる」とは、誰も一度も言ってはいません。もう忘れてもらっては困ります。

お聞きしているのは、この場合の仏恩報謝の行体は何ですか。仏法上の諸善ではないのですか。それとも諸悪ですか。また、そのいずれにも入らないことですか、ということです。

「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われた親鸞聖人の言葉を聞かせて下さい。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

あなたとの議論のなかで扱ってきた「諸善」は往生行です。
報恩行ではありません。
報恩行とは救われた後の感謝報謝の行です。
「助かりたい」等の参らせごころのある往生行とは別物です。ですからここでは「そのいずれにも入らない」ということになります。

『しかれば最勝の弘誓を受行して、穢を捨て浄を欣へ。如来の教勅を奉持して、恩を報じ徳を謝せよ。ここに片州の愚禿(親鸞)、印度・西蕃の論説に帰し、華漢(中国)・日域(日本)の師釈を仰いで、真宗の教行証を敬信す。ことに知んぬ、仏恩窮尽しがたければ、あきらかに浄土文類聚を用ゐるなり』(浄土文類聚鈔)

『平生に善知識のをしへをうけて信心開発するきざみ、正定聚の位に住すとたのみなん機は、ふたたび臨終の時分に往益をまつべきにあらず。そののちの称名は、仏恩報謝の他力催促の大行たるべき条、文にありて顕然なり』(口伝鈔)

『されば弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ』(御文章)

いずれにしても、『弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ』ですからあなたにはまだ時期尚早のことですね。

以上を踏まえた上で以前挙げた根拠を読んでください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新人太郎氏から459氏へ
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「仏法を伝えようとするなどの報恩の行体は、善でも悪でも、そのいずれにも入らないことになります」

との返信、目パチクリです。

「行体」という言葉の意味を理解されてのことですか。
苦渋の選択だったのでしょうが、そんなことを言われてもよいのでしょうか。

くどいようですが、あなたの発言を確認しておきたいと思います。

「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らぬ」
これでよろしゅうございますか。
お尋ねします。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(コメント)

「行体」とは、あとで「行為自体」と言い換えられているように、「行いそのもの」と理解すればよいでしょう。
その、「報恩行」という「行いそのもの」の、仏法上の善悪を尋ねられているのに、459氏の意外な答えが……。

続く

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新人太郎氏から459氏へ
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「仏法を伝えようとするなどの報恩の行体は、善でも悪でも、そのいずれにも入らないことになります」

との返信、目パチクリです。

「行体」という言葉の意味を理解されてのことですか。
苦渋の選択だったのでしょうが、そんなことを言われてもよいのでしょうか。

くどいようですが、あなたの発言を確認しておきたいと思います。

「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らぬ」
これでよろしゅうございますか。
お尋ねします。

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459氏から新人太郎氏へ
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??
私がいつそのように言いましたか?
勝手に人の発言を改ざんしないでください。
私の発言はそのまま引用してください。

私は報恩行は往生行諸善ではない、と言ったのです。
仏法上の善、悪について言ったのではありません。

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新人太郎氏から459氏へ
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「報恩行とは救われた後の感謝報謝の行です。
『助かりたい』等の参らせごころのある往生行とは別物です。
ですからここでは『そのいずれにも入らない』ということになります」

と、459さんが言われたので、

「救われた人の仏法を伝えるなどの、感謝報謝の報恩の行は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らない、と理解してもよろしいのでしょうか」

とお尋ねしたのです。

それに対して、

「私がいつそのように言いましたか?勝手に人の発言を改ざんしないでください。私の発言はそのまま引用してください」

と叱ったあと、

「私は、報恩行は往生行諸善ではない、と言ったのです」

と当然なことを言い、

「仏法上の善、悪について言ったのではありません」

と逃げられる。

報恩行の仏法上の善悪を聞いているのに、答えになっていると思われますか。

もう一度お尋ねします。

「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善悪の、いずれにも入らないのでしょうか」

よろしくお願いします。

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459氏から新人太郎氏へ
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あなたが論点をずらしているのがわかりませんか?
私は、報恩行は、あなたとの議論で扱ってきた往生行諸善とは別物だと言ったのです。
言葉のまま理解すればいいものを、それをなぜ『仏法上の善悪』という問題にすりかえるのですか?
私がここで言いたかったことは往生行と報恩行は別のものということだけです。
それは理解できたのですね?

あなたは、『くどいようですが、あなたの発言を確認しておきたいと思います。「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らぬ」
これでよろしゅうございますか。 お尋ねします』
だったのです。
『発言を確認しておきたいと思います』とあなたは言ってるのですから、私は『そのようなことは言ってない』と言ったまでです。

別の論題に進むのならばその段階を踏むべきです。
一体あなたは私と何をしたいのですか?
確認させてください。

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新人太郎氏から459氏へ
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「私がここで言いたかったことは往生行と報恩行は別のものということだけです」

と明言されているように、私の尋ねているのも、そのこと一つです。
論点をずらしているとは、とんでもない。
論点はピタッと定まり、微塵の狂いもありません。

「仏法を伝えるなどの往生行」と、
「仏法を伝えるなどの報恩行」の
行体は、別のものだと、あなたは言われる。
仏法を伝える行為のどこがどう違って、別のものと言われるのでしょうか。

「一体あなたは私と何をしたいのですか?
確認させてください」
と459さん、お望みですからもう一度言いましょう。
仏法を伝えるという同じ行為なのに、どこがどう違って、
「あれは往生行」
「これは報恩行」
と、分けられるのですか。
わかる言葉で、分かれ目を、わかるようにお聞きしたいだけなのです。
よろしくお願いします。

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459氏から新人太郎氏へ
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『論点をずらしているとは、とんでもない。
論点はピタッと定まり、微塵の狂いもありません』
とは。
あなたは天然ですね(笑)

「仏法を伝えるなどの往生行」と、
「仏法を伝えるなどの報恩行」の違いは、
真宗では信前・信後で変わります。

以前あなたが勘違いされていた「仏法上の善悪」についてはひとこともふれないのですね。

あなたは私との議論で一体何をしたいのか、と聞いたのです。

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(コメント)

ここです。
「仏法を伝えるなどの往生行」と、
「仏法を伝えるなどの報恩行」は、
「信前・信後で変わります」
と、459氏は明言されました。

「信前」とは、信心獲得する前(阿弥陀仏に救われる前)ということであり、
「信後」とは、信心獲得した後(阿弥陀仏に救われた後)ということです。

この「信前・信後」の変わり目こそが、浄土真宗の肝要と言われる、
「信の一念」
です。

蓮如上人は、『御一代記聞書』に、

「聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり」

と、これを仰っています。
すなわち、弥陀に救われる前と、救われた後とでは、何が、どう変わるのか。その変わり目の「一念」こそが、自力と他力の水際であり、地獄と極楽の分かれ目であり、弥陀の本願の至極であり、釈迦出世の本願の肝要ですから、
この「信前・信後」の変わり目を、徹底的に峻別されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』六巻であり、90年のご生涯であったのです。

その「信前・信後」という言葉を出して、459氏はようやく答えました。というよりも、そう答えざるを得ないようになった、といったほうが適切かも知れません。
いずれにせよ、この、
「真宗では信前・信後で変わります」
の一言が、議論を大きく前進させ、また459氏にとっては命取りになるのですが、少なくともこの時点では、気がついていないようです。
続く

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(7) 親鸞会.NET

当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───

今日が第7回目です。

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新人太郎氏から459氏へ
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「『仏法を伝えるなどの往生行』と、
『仏法を伝えるなどの報恩行』の
行体は、別のものだ」

と、あなたは言われる。

「仏法を伝える行為のどこがどう違って、別のものと言われるのでしょうか」

の問いに、

「真宗では信前・信後で変わります」

と返信頂きました。

「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、往生行ともなり、報恩行ともなる」
と、理解してよろしゅうございますか。

確認させて頂きます。

「私がいつそのようなことを言ったか」
と、またお逃げになるかな?
何しろ世話のやける天然ですから、お見放しなく、よろしくお願いします。

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459氏から新人太郎氏へ
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ですから私の言葉の通りに理解すればよいのです。
自分の都合のいいように改ざんする必要はないんです。

質問。

あなたはそれを知って(理解して)どうするのですか?
初期の議論の目的とはズレズレですよ。
目的は大事だと高森氏はくどいほど言ってるはずですが・・・。
ヒコーキとかタクシーとか・・・。

あなた一体何がしたいんですか?

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新人太郎氏から459氏へ
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「『仏法を伝えるなどの往生行』と、
『仏法を伝えるなどの報恩行』の
行体は、別のものだ

と、あなたは言われる。

「仏法を伝える行為のどこがどう違って、別のものと言われるのでしょうか」

の問いに、

「真宗では信前・信後で変わります」

と、あなたは答えられました。

そこで私は、

「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、往生行ともなり、報恩行ともなる」
と、理解してよろしゅうございますか」

と確認したのです。

それに対して、あなたの返事はこうでした。

「私の言葉の通りに理解すればよいのです。自分の都合のいいように改ざんする必要はないんです」

案の定というべきか459さん、また簡単な確認作業を拒まれた。よほど自己の発言の意味を確認されることが、お困りらしい。
なぜだろう。
確認すると、たちまち自己矛盾が浮き彫りになるからでしょうか。

今はただ、
「見放さずに、じっくりいきますからね」
の459さんのかつての言葉が、懐かしく思い出されるだけです。

私の理解が、あなたの言葉の通りかどうかの確認は、目的への始まりです。

「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、往生行ともなり、報恩行ともなる」

と、理解してよろしゅうございますか。
再度、確認させて頂きます。

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459氏から新人太郎氏へ
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どんな自己矛盾ですか?
教えてください。

私も同じく「親鸞会の教義がひとつでも親鸞聖人の教えと異なれば親鸞会を辞める」と言っていた頃のあなたが懐かしいです。
今は目的を見失い、ただ意地で書き込みつづけるあなたがかわいそうです。

あなたが本当に親鸞聖人の教えが知りたい人ならば、SA氏やその他の人の問いかけを無視するはずがありません。

私が書き込まなくなればあなたは法論に勝って安心ですか?
一体あなたは何がしたいのですか?

どんな目的?
「始まり」ということは以前の目的は果たされたので、次の目的を新たに設定したんですか?

『「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、
往生行ともなり、報恩行ともなる」
と、理解してよろしゅうございますか』

と言われますが、別物だと言ってます。

往生行諸善雑行の法施と、報恩行の法施とは全く別物です。
別物ですから「行体は同じ」ではありません。

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新人太郎氏から459氏へ
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『「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、
往生行ともなり、報恩行ともなる」
と、理解してよろしゅうございますか』

の重ねてのお尋ねに、漸く重い腰を上げられた459さん、

「仏法を伝えるなどの往生行諸善雑行と、報恩行とは、全く別物で、行体は同じではありません」

とお答え下さった。

それではお尋ねいたします。

「仏法を伝える」という行為そのものは、全く変わらないのに、459さんは、別物だと言われる。
仏法を伝えるという行為自体、信前・信後で、どう違うのか。どこが変わるのか。
「あれは、往生行」
「これは、報恩行」
と、何をもって分別するのか。

わかる言葉で分かれ目を、天然にもわかるように、答えて下さい。

「一体あなたは何がしたいのですか?」
の再度のお尋ねには、あなたがまだ気付いてはいられない自己矛盾を知って頂くため、とでもお答えしておきましょう。

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459氏から新人太郎氏へ
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『「あれは、往生行」
「これは、報恩行」
と、何をもって分別するのか。
わかる言葉で分かれ目を、天然にもわかるように、答え
て下さい』

に答えます。

信前、信後で分別します。

他力信心を獲たか、獲ないかをもって分別します。

『あなたがまだ気付いてはいられない自己矛盾を知って頂
くため』

といわれているが、
そうですか・・・。
私が私の自己矛盾を知るのが、あなたの議論の目的ですか・・・。
わかりました。
それがあなたの目的ならば私はこれでサヨナラです。

条件から逸脱しますからね。

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新人太郎氏から459氏へ
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「仏法を伝えるという行為自体、信前・信後で、どう違うのか。どこが変わるのか。
『あれは、往生行諸善雑行』
『これは、報恩行』
と、何をもって分別するのか」

という親鸞聖人の教えにとって、最も大事な問題を前にして、なんということでしょう。
「あなたの目的が、条件から逸脱しますから、私はこれでサヨナラです」
早々と459さん、敵前逃亡ならぬ、悲しいサヨナラ宣言をなされた。

信前・信後で、われわれの行為のどこが、どう変わるのか。
他力の信心を獲る前と獲た後と、仏法を伝えるなどの行為自体、変わるのか、変わらぬのか。
こんな肝要が、親鸞聖人の教えにありましょうか。
そんな肝心の信前・信後、自力・他力の違いに答えられない口実が、「条件逸脱」では、仏法を論ずる者として、あまりにも低次元過ぎるとは思われませんか。

信前・信後の水際さえ分かっていれば、誰でもキチンと答えられることです。
信前・信後の意味を知らずに言葉を使う悲劇をさけるため、サヨナラ宣言せざるをえなかった、と疑われても仕方ないでしょう。

昔、男女同権を、男女同県人の意味で使っていた老婆の話を思い出し、笑ってしまいます。
たとえ相手がどうであれ、自分に危険が迫っていても、決して真実開顕から逃げられなかった親鸞聖人を、仰がずにおれないのです。

以前の元気な459さんに、立ち返って、
「善を勧めない真宗」の教えを明らかにしてください。

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新人太郎氏から459氏へ
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459さん、お元気ですか。

同じ仏法を伝えるなどの行為なのに、
「あれは雑行だ」
「これは報恩行だ」
と、何をもって分別するのですか。

それに459さんは、

「信前・信後で、分別します」

と答えられました。

それでは信前・信後の違い目は何ですか。他力の信心を獲る前と、獲た後とで、どこが、どう変わるのですか。
変わらないのですか。
この信前・信後、自力・他力の水際こそが親鸞聖人の教えの至極ではありませんか。
その真宗の至極が、今、459さんに問われているのに、
「条件から逸脱するから、サヨナラします」では、
外野の声援も空しく果てるのかと、ガッカリするむきもあるのではないですか。
仏法者本来の姿に立ち返って、奮起して下さい。

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新人太郎氏から459氏へ
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459さん、新人太郎です。
お変わりありませんか。

仏法を伝えるなどの同じ行為でも、
「あれは雑行だ」
「これは報恩行だ」
と、何をもって分別するのかのお尋ねに、
「信前・信後で分別する」
と459さんは、お答えなさった。

では、その信前・信後の違い目は何でしょうか。どこが変わるのでしょうか。
この信前・信後の分かれ目こそが、「もろもろの雑行」が捨たるところでしょう。

以前に私が、

「諸善を捨てよ、やめよ」と言われた、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を聞いた折、
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」などの、蓮如上人や親鸞聖人のお言葉を14箇所もあなたは、ずらーっと出されたことは忘れません。

しかし、「雑行を捨てよ」の言葉をいくら並べても分かりませんが、実地に雑行の捨たった体験をすれば、雑行が捨たるとは、どんなことか、何が、どう捨たるのか、ハッキリするのではありませんか。

そこが、信前・信後の水際でしょう。
むろん、雑行が捨たった体験がなければ、逆立ちしても分からないし、言えないところでしょう。

親鸞聖人の教えの最要の、信前・信後の違い目が分からねば、雑行の行体も分からねば「捨てよ」の真意も分からない。
それでは「雑行を捨てよ」の多くの提示もナンセンスになりましょう。

「雑行を捨てよ」
とは、459さんの言うような、
「諸善を捨てよ、やめよ」
ということではなく、
「諸善を往生の役に立たせようとする心を捨てよ」
ということではありませんか。

それを、
「諸善をやめよ、するな」
と、聞き誤っている、真宗の道俗のいかに多いことか。
答えに窮される459さんも、そのお一人にすぎないと言えましょう。

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(コメント)

今から、親鸞聖人が、

「雑行を捨てよ」

と言われているのは、

「諸善を捨てよ、やめよ」

ということではなく、

「諸善を往生の役に立たせようとする心を捨てよ」

ということであることが、示されていきます。
ここが、みんな誤解しているところですから、ねんごろに、重ねて、
「雑行を捨てよ」の真意が、明らかにされていきます。

続く

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(8) 親鸞会.NET

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───

今日が第8回目です。

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新人太郎氏から459氏へ
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こんにちは、459さん。お加減いかがでしょうか。

「あらおかし 世はさかさまに なりにけり
乗った人より 馬が丸顔」

で、叱っていた人が、いつの間にやら諭されているような、おかしなことになってしまいましたが、猛火が迫っているのですから、目を覚ました者から眠っている人を起こさねばならないでしょう。

「『雑行』とは、仏法上のすべての『諸善』のことであり、『雑行を捨てよ』とは、『一切の諸善を捨てよ、やめよ』ということである」
「諸善を勧める親鸞会は、いかにインチキかに気付いてもらうのが私の仕事」
とまで、459さんは言いなさっています。

「雑行を捨てよ」

ということを、

「諸善を捨てよ、やめよ」

と誤解しているのは、459さんだけではないことは、先にも述べたことですが、因果の道理を否定する輩ならともかく、因果の道理を深信する仏法者なら、

「諸善を捨てよ、やめよ」

と言えるはずがありません。
もしあれば、その人は、「諸善」を「雑行」と嫌われ捨てよと言われる真意を知らないだけでしょう。

ではなぜ、
「諸善」を「雑行」と嫌われ捨てよ、と言われるのか。
「諸善」を行う心がけが悪いからです。

その悪い心とは、

「往生の役に立てようとする心」

です。

「雑行」とは、その悪い心で行う諸善のことでしょう。

「諸善」が悪いはずはなく、それをやる心がけが悪いから、雑行とけなされ捨てよ、と言われるのであって、諸善そのものを捨てよ、やめよ、ということではないのです。

「往生の役に立てようとする自力の心を捨てよ」
と言われているのを、459さんはじめ多くの真宗の人は、
「諸善を捨てよ、やめよ」
と聞き誤っているのです。

往生の役に立てようとする心で行う「諸善」はすべて雑行といわれ、「念仏」ならば雑修と言われるのではありませんか。

重ねて言いましょう。

「雑行を捨てよ」
の教誨は、断じて、
「諸善を捨てよ、やめよ」
ということではなく、
「諸善を往生の役に立てようとする自力の心を捨てよ」
ということであることを。

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新人太郎氏から459氏へ
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459さん、その後いかがお過ごしですか。

459さんは、9月28日のカキコで、
「諸善を捨てよ、止めよ」と「雑行を捨てよ、止めよ」は同じことだと、まだ分かりませんか、と叱っておられます。

「諸善」と「雑行」の違いが分からず、
「雑行を捨てよ」は、イコール
「諸善を捨てよ、止めよ」の教えだという誤解は、真宗にとって極めて重大です。

「雑行」も「諸善」も、その行体は変わりませんが、
「往生の役に立てようとする自力の心でやる諸善」は「雑行」と嫌われ「捨てよ」
と言われます。

その自力の心が、他力の心に切り替えられて、広大な仏恩に感泣し動かされる諸善は、報恩行となるのでしょう。

同じ諸善が、自力の信心でやるか、他力の信心かで、雑行ともなり報恩行ともなるのではありませんか。

たとえば、同じ菓子箱が試験の前に持参すればワイロと悪くいわれますが、見事合格した後に持って行けば、誰にはばかることのないお礼の菓子箱になるようなもの。菓子箱そのものは少しも変わりませんが、持っていく心は大違いです。

救われていない信前は、雑行と嫌われ捨てよといわれていた諸善も、救われた信後は報謝の行となる。同じ「諸善」が、信前・信後で雑行ともなり、報恩行ともなるのでしょう。

「雑行」と「諸善」の違いは、行体にあるのではなく、それを行う心の違いではありませんか。
だから「雑行を捨てよ」は「諸善を捨てよ」ではなく、自力の心を捨てよということなのです。

諸善をすべて雑行だとすれば、「雑行を棄てて、本願に帰す」といわれてからの親鸞聖人の報恩行の活動は、一体なんだったのか。

諸善ではなかったのか。
「雑行」と「諸善」の分別がハッキリしていないと混乱し行き詰まってしまうのです。
「真宗では、諸善を勧めない」などと大衆に、悪人製造の教えのような誤解を与える罪は、決して軽いものではないでしょう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
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あなたの「問い」はあなたがどうしても知りたいことですか?
どのぐらい知りたい気持ちがありますか?

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新人太郎氏から459氏へ
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「あなたの問いは、あなたが、どうしても知りたいことですか」

久しく、ご無沙汰の459さんの返信は、何をいまさらと思わせる、大変心外なものでした。
「親鸞聖人の教え」と「親鸞会の主張」の、どこがどう違うのか、どうしても知りたくて、問い続けてきたのではありませんか。
今までも今からも、このこと一つの為ですから、初期の目的を踏み外さずにお願いします。
なにしろ世話のやける天然ですから。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

親鸞会と真宗の違いはすでに示しました。
それは「浄土真宗は諸善を勧めるか否か」という点です。
どうしてもあなたが知りたいというのならばSA氏が懇切丁寧に教えてくれてます。
そちらへどうぞ・・・。

私はあなたとこれ以上議論するつもりはありません。
あなたが本当に親鸞聖人の教えと親鸞会の主張のどこがどうちがうのか知りたいという気持ちがあるならばSA氏の問いかけに無視する理由はありません。
あなたは私以外の人の問いかけに徹底的に無視ダンマリを決め込んでいますが、それが求道者の姿勢とは思えません。

真摯な気持ちをお持ちならSA氏の問いかけに答えるべきです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新人太郎氏から459氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「新人太郎さん こちらで・・・・」
と、他人を招きながら、
「私はあなたとこれ以上議論するつもりはありません」
とは、おかしすぎます。
至極さん以上の方があるとは思いませんが、初期の目的を果たすためなら、どなたの指導を受けられても結構です。
己の発言には、己が責任を持って答えるのが当然でしょう。
「他人に聞いてくれ」では、
「これ以上議論するつもりはありません」
が、
「これ以上議論できなくなりました」
と、勘ぐられても仕方ないでしょう。

獅子は伴侶を求めず。
もっと、自信を持って懇切丁寧に対応されるのが、真摯な気持ちをお持ちの方と思われますがいかがでしょう。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(コメント)

「459」というハンドル名は、「至極」という仏教の言葉からつけたのでしょう。

「至極」とは、仏教で最も重い言葉です。
これ以上大事なことはない、ことのみに用いられます。
そんな「至極」という最重要の言葉を、自分の名前に付けるくらいですから、よほど自信があったのでしょう。

「では仏教の素人(?)にもわかってもらえるようにカキコするつもりでいきます」
などと、最初に大見得を切ってしまったものですから、取り返しのつかないことになったのです。

ただ、
「雑行を棄てよ」
の真意が鮮明にされる、絶好の勝縁を与えてくれたのですから、そういう意味では感謝すべきかも知れません。

では、浄土真宗の至極とは何か。

これがまさに、「信前・信後の水際」の一念である、と親鸞聖人も蓮如上人も、
「聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり」(御一代記聞書)
と明らかにされています。
その「真宗の至極」が、459氏に問われているのです。

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(9) 親鸞会.NET

当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───

今日が第9回目です。

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459氏から新人太郎氏へ
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SA氏のスレ[発言]にレス[返信]してください。

私とSA氏では、真宗上の諸善についての解釈を同じくしていると思ってます。
(まあ親鸞会が異端なのですが・・・)

それともSA氏の問いかけに答えると何か都合が悪いのですか?

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新人太郎氏から459氏へ
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私の聞いているのは、ただ一つ。
9月28日のカキコであなたは、
「雑行と諸善は同じことだ」と言われていますが、そうですか。
簡単な、イエスかノーの一言なのです。
それに答えるのが、あなたの初期の目的ではなかったのですか。
仏法では、至極以上の重い言葉は無いそうですが、自分の言ったことにさえ責任とれず、「他人に聞いてくれ」では、459さんの名を汚すだけでしょう。
無責任な「逃げません」の誓いにならないようにして下さい。

「どこが異端ですか」と尋ねる者に、
「異端なのですから・・・」で答えになっていると思われますか。
「ダメなものはダメ」で、何の説得力もありません。
これ以上醜態をさらさないで下さい。

重ねてお聞きします。
「雑行」と「諸善」は、同じことでしょうか。

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459氏から新人太郎氏へ
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私の名前なんていくら汚れてもかまいません。
お尋ねの件に関してもSA氏がお答えくださると思います。

なぜあなたはそれほどまでにSA氏を無視し続けるのですか?
なにか理由があるのですか?
知りたい気持ちなんかまるでなく、ただ私が憎いだけですか(笑)?

それからあなたは「諸善」と「雑行」が違うとお考えのようですが、SA氏と議論する場合にはその聖教上の根拠を示してくださいね。
「聖教にない勝手なことを言っては仏法ではありません」(だったっけ?)とアニメで善恵房証空さんが言ってますよ(笑)。

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新人太郎氏から459氏へ
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「名前なんていくら汚れてもかまいません」と開き直られるのはかまいませんが、
「私が憎いだけ」などと被害妄想だけはしないで下さい。
そんな気持ちは少しもありませんから、ご安心の上、
「雑行」と「諸善」は、同じことですか、
分かっていられるのなら、イエスかノーでお聞かせください。

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459氏から新人太郎氏へ
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何度も言ってますが、私はあなたとこれ以上議論する気はありません。

もしあなたがお尋ねの件について知りたいならばSA氏のツリーに書き込めばいいだけです。
SA氏、茶畑氏、通行人Z氏などの問いかけになぜ頑なにダンマリを決めているのか理解に苦しみます。
なぜ答えぬ(笑)。。

今後あなたがSA氏他の問いかけに答えるまで私はレスしません。
楽しみにしてますよ。
さようなら。

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新人太郎氏から459氏へ
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「分かっていられるのなら、『雑行』と『諸善』は、同じことですか、イエスかノーでお聞かせください」

それに対して459さん、またまた、
「他人に聞いて下さい」
と無責任発言された。

459さんさえ、答えられぬことを誰が答えられるというのでしょう。至極以上はないのですから、ひとえに459さんに聞いているのです。
「私が憎いだけ」などと、ひがまないで下さい。憎まれるようなことをしてきた反省なら尊いのですが、ことは真宗の大問題ではありませんか。
個人的な、憎い、可愛い、というような次元のことではないでしょう。

真宗の諸善については、誰かさんの解釈と同じだといわれるのなら、その誰かさんのマネをして、答えられたらよいでしょう。
何か困ることがあるのでしょうか。
どんな他人をたのむより、弥陀をたのむのが一番でしょう。

再度のサヨナラ宣言、悲しいです。

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新人太郎氏から459氏へ
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一度サヨナラ宣言された459さんが、再度登場されて、他人に救いを求められたがうまくいかず、またサヨナラ宣言されました。

行き詰まられた問題は、
「諸善と雑行は同じことですか」
のイエスかノーの一言ですむことでした。

行き詰まられた原因は、
「諸善」と「雑行」の違いが分からず、
「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」と間違われたところにありました。

諸善とは、
「仏法上の諸善とは、布施(お金を寄付する、仏法の話をする)などの六度万行といわれるものです」
と、9月20日のカキコで459さんが言われている通りです。
因果の道理を根幹とする仏教が、諸善を捨てよと教えられるはずがありません。

では、「捨てよ」といわれている「雑行」とは何でしょう。
「往生の役に立たせようとする自力の心でする諸善」を「雑行」といわれます。
「雑行を捨てよ」とは、その「自力の心を捨てよ」ということです。
お聖教に「捨てよ」といわれている「諸善」もみな「往生の役に立たせようとする自力の心でやっている諸善」
のことであり、雑行と同じ意味です。

だから、「捨てよ」とは、
「往生の役に立たせようとする自力の心」
であって、決して、
「諸善を捨てよ、止めよ」ということではないのです。

それを459さんは、諸善と雑行の区別がハッキリしておられないから、
「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」
ということだと誤られたのでしょう。

悪いのは、心であって、行ではないのです。
459さんは、心と行を間違われたのでしょう。
「雑行を捨てよ」という教えはあっても、「諸善を捨てよ、止めよ」という教えは仏教のどこを探してもありません。
あれば仏教ではないでしょう。

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新人太郎氏から459氏へ
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459さんが、返答に窮された原因は、
「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」ということだと誤解されたところにあったのです。

もし、「雑行を捨てよ」が、「諸善を捨てよ、止めよ」ということならば、
「あれは仏法上の諸善だから捨てよ、してはならぬ」
「これは仏法上の諸善ではないから、してもよろしい」
と、仏法上の諸善と、そうでない善とを分別できなければなりませんが、どこで、どう、区別するのでしょうか。
誰もできる人はいないでしょう。
その分別ができなければ、捨てることも止めることもできません。

また、
親鸞聖人や蓮如上人は、弥陀に救われた一瞬に、「雑行」が捨たってなくなると教えられていますが、459さんのように、
「雑行」イコール「諸善」ならば、救われて雑行が捨たってなくなった後は、仏法上の諸善を一切やらなくなることになりましょう。
「諸善を捨てよ、止めよ」ですから、やってはならないことになります。
諸善を往生の役に立たせようとする「自力の心」は、弥陀に救われた瞬間になくなり、二度とあらわれることはありませんから、信後は一切、雑行ということはありません。

しかし、行が瞬時になくなったり、その後もあらわれないということは、ありません。

たとえば、今から煙草のむのをキッパリやめた、としても誘惑に負けてまたのむかも知れない。
親切するのは、もうやめたとしても、またすることもあるだろう。

念仏称えるのを止めた、捨てた、といっても、また称えることもあるでしょう。
雑行を捨てた後でも報謝の行はあふれてあらわれますが、二度とあらわれないのは、自力の心だけなのです。

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(コメント)

こうして、重ねて重ねて、何通にも渡って
「雑行を捨てよ」
の真意を明らかにされてきたのですが、

ここで、
「雑行を捨てよ」
ということが、もし、459氏の言うように、
「諸善を捨てよ、止めよ」
ということだとすると、おかしなことになる、二つのことが、示されています。
これが、新人太郎氏が明らかにしようとされた、
「459氏の自己矛盾」
といえるのでしょう。

一つは、こうです。

459氏の説によると、浄土真宗の教え(説法)では、
「あれは仏法上の諸善だから捨てよ、してはならぬ」
「これは仏法上の諸善ではないから、してもよろしい」
と説くことになります。

しかし、そのように教え勧めるためには、
「仏法上の諸善」と、
「そうでない善」
とを分別できなければなりませんが、そんなことのできる人は誰もいない、ということです。

 例えば、「お金を寄付する」という行為は、「被災者のために義援金を送る」とか「福祉施設に寄付する」とか、「経済的に困っている人にお金を与える」など、一般的にもなされている善です。
その「お金を寄付する行為」は、459氏は、
「仏法上の諸善だから捨てよ、止めよ」
と言われています。

 また、「仏法の話をする」行為も、459氏は、
「仏法上の諸善だから、してはならない」
と言われています。

 この459氏の主張に順えば、浄土真宗の教えは、こうなるのです。

「いいですか皆さん。困っている人にお金を寄付してはなりませんよ。仏法の話をする行為も『仏法上の諸善』ですから、絶対にしてはなりませんよ」

 果たしてこれが、「親鸞聖人の教え」なのか。
 極端に聞こえる人もあるかも知れませんが、459氏の主張では、そうなるのです。
 あるいは、
「被災者のために義援金を送るのは世間の善だからよいが、仏法のための寄付は仏法上の諸善だからいけませんよ」
と言われるのだろうか。

 ならば、「経済的に困窮しているために、遠方まで仏法を聞きにいけない人」に、
「仏法を聞いてもらいたいと思って、お宅を訪問し、少しでも生活費の足しにしてもらおうと、お金を与える行為」
は、「仏法上の善」なのか、それとも「仏法上の善ではない」のか。
 その際に、一言でも「仏法の話をした」ならば、その行為だけが「仏法上の善」ということになるのか。「お金を与えたこと自体」は、世間善であって「仏法上の善ではない」のか。
 どこからどこまでが、「仏法上の善」で、どこからが「仏法上の善ではない」のか。
 そんなことは、水際だつものではないでしょう。

 そもそも、「行」というのは、水際立てて、分別できるものではないのです。ですから、他人の行為を、
「あれは、仏法上の諸善だから、してはならなぬ」
「これは、仏法上の諸善ではないから、してもよろしい」
などと、教えられるはずがないのです。つまり、人間のやる行為の本質から言って、
「仏法上の諸善を捨てよ」
などという教えが、あり得るはずがない、ということです。

そして、もう一つが、
「行が瞬時になくなったり、その後もあらわれないということは、ない」
ということです。

親鸞聖人、蓮如上人のお聖教を拝読すれば、
「雑行」は「一念」という瞬時に捨たり、二度と現れないことは明らかです。
もし、その
「雑行を捨てよ」
の教えが、
「諸善を捨てよ」
だとすれば、「諸善」という行為は「一瞬でなくなり、二度としなくなるもの」ということになります。

しかし、「行」というものは、「瞬時になくなり、二度と現れない」というものではありえません。

ですから、親鸞聖人・蓮如上人が、
「雑行を棄てよ」
と言われているのが、
「諸善を捨てよ」
であるはずがないのです。
ここも、大いなる「矛盾」です。

では、なぜこの、
「行が瞬時になくなることはない」
という、極めて明らかな事実に気がつかないのか。

根本は、
「一念で捨たり、二度と現れない、『自力の心』」
が、分からないからです。

この「瞬時に捨たる心」が分からないから、
「だんだんとなくなるもの」「あとからまた現れるもの」が、「雑行」だと勘違いするのです。
すなわち、「雑行を棄てよ」を、「諸善を捨てよ」の教えと誤解するのです。

以上2つの点を、新人太郎氏は指摘されているのですが、これはまた、
「善の勧めを否定する者」の、共通した自己矛盾でもあります。

当然ながら、459氏は絶句するほかありません。
つづく

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(10・最終回) 親鸞会.NET

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───

今日が最終回です。

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新人太郎氏から459氏へ
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「雑行」イコール「諸善」と思い込んでいられる459さんが、
「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」
と誤解されるのも分からぬこともありませんが、真宗の「雑行」の本来の意味を知られないからです。

『教行信証』まで読まれなくても、蓮如上人の『御文章』を拝読すれば、弥陀の救いは、一念という瞬時で成就し、その一瞬に雑行が捨たって、永久に無くなると説かれているのがよく分かります。
これが親鸞聖人の教えの肝要でしょう。

親鸞聖人の教えでは、「雑行」とは、だんだんに捨たるものでもなければ、少しずつ無くなるものでもありません。
弥陀に救われた一瞬に捨たるものです。

459さんの言っていられるようなものが「雑行」ならば、一瞬に捨たったり、無くなってしまうということは毛頭あり得ないでしょう。お金を寄付するとか、仏法を話しするとかの行為ですから・・・・。

真宗で「雑行」といわれるものは、一念という瞬時に無くなるものです。
今まで言ってきた通り、
真宗で「雑行」とは、
「往生の役に立てようとする自力の心でする諸善」
を言うのですから、雑行が捨たったというのは、
「往生の役に立てようとする自力の心」
が捨たったことであり、無くなったことを言うのです。
「諸善を捨てる」ことでもなければ、
「諸善を止める」ことでもありません。
「雑行を捨てて本願に帰した」人ならば、明らかに体験することです。

実地に雑行の捨たった体験があれば、雑行が捨たるとはどんなことか、何が、どう捨たるのか、どんな天然でもバカでもハッキリ知らされることなのです。
それが分からねば、まだ雑行が捨たっていないのです。
これは机上の学問だけでは逆立ちしても分からないことですから、
「雑行を捨てる」とは、雑行の体は諸善だから「諸善を捨てる、止める」ことだと、ほとんどの人は思うのです。
そして「諸善を勧める親鸞会は間違いだ」
などと、とんでもない非難をするのです。

その結果、
「諸善を捨てよ、止めよ」という、親鸞聖人や蓮如上人の言葉をいくら尋ねられても、返答に窮することになるのです。
真宗の「雑行」の本義を知らないから、当然のことといえば当然でしょう。
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新人太郎氏から459氏へ
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459さんの主張が混乱し、行き詰まったのは、「雑行」と「諸善」の分別がハッキリしなかったからでしょう。

だから、

「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ」の教えと聞き誤られたのです。
体は同じ諸善ですが、
「往生の役に立てようとする自力の心」
でやれば、雑行といわれますが、それが他力の心に切り替えられ、広大無辺な仏恩に生かされ、努力せずにおれない諸善は、報恩感謝の行となるのでしょう。
同じ諸善ですが、信前・信後で雑行ともなり、報恩行ともなるのです。

「雑行を棄てて本願に帰す」
と宣言されてからの親鸞聖人が、何とか仏法を伝えようと弁円の剣の下をくぐり、石を枕に雪を褥に、日野左衛門に教えを説かれた不惜身命の活動は、雑行が捨たって、弥陀の本願に生かされた、やむにやまれぬ報恩行ではありませんか。

それを親鸞聖人は、“身を粉にしても、骨を砕きても報ずべし”と『恩徳讃』に言われているのでしょう。

459さんも、雑行を捨てて本願に帰したおつもりのようですが、9月24日のカキコで、「私の目的は、本当の仏教を説く為でもなく、念仏とは何かを説くことでもない、ましてあなたを他力信心の境地に導くことでもありません」
と言われています。

『恩徳讃』と対照的なのに驚きますが、それでも、恥ずべし傷むべしの懴悔も反省もなく、他の非難に明け暮れているとすれば、何といえばよいのでしょうか。
真に雑行が捨たり、弥陀に救われた人ならば、「条件逸脱」などの口実で、燃える『恩徳讃』が消えるとは考えられないことでしょう。
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新人太郎氏から459氏へ
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459さんの非難が破綻されたのは、「雑行」と「諸善」の違いがハッキリせず、
「雑行を捨てよ」の親鸞聖人の大事な教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」の教えと誤認されたところにあったことが、明らかになりました。

それにしてもその間、あまりにもひどい、その場しのぎの発言が多くありました。
その一、二を挙げますと、

9月22日のカキコで459さんは、
「大乗経典は、みなウソッパチなんです。あなたは、そんなウソッパチの書いた経典を信じるのか」
と言われています。

ところがその後、自分の主張の根拠に親鸞聖人や蓮如上人の言葉をずらーっと出されて、「これでもお前は分からんのか」と叱っておられます。
459さんが、ウソッパチの経典と罵倒されている『大無量寿経』を、親鸞聖人や蓮如上人は、真実の経とされているのに、です。

また、
9月25日のカキコでは、
「あなたの『わからん、わからん』の愚痴のひとことひとことが、阿弥陀仏の胸に五寸釘を打ち付けているということを、お忘れなく」
とまで戒めておられます。

『大無量寿経』をウソツキ経典と思っていられる人に、「阿弥陀仏を泣かせる云々」と嘆かれる心があったとは、まさに青天の霹靂で驚いたものでした。
いくら顔の見えないネット[インターネットの略]上といっても、こんな無責任放言がまかり通っている事実を知ると、他の多くの情報の信憑性を失う、代償の大きさを知らされるばかりでしょう。

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(コメント)

自説に行き詰まった459氏が最後、必死に救いを求めたSAと名乗る人物がいたことは、すでにご承知のはずです。
彼は、459氏の論調に力強い声援を送っていましたが、459氏の破綻を目前にして、彼の信念も崩壊したのでしょうか、次のような反省と出直しの弁を流して、姿を消しました。最も賢明な選択肢だったかも知れません。
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SA氏から
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通行人Zさん、茶畑さん、他の方がたへ。
ご挨拶せねばなりません。暫く(多分長く)来れなくなると思います。
一月より仕事が大層忙しくなりそうなのと多少環境も変わる為です。
あとじっくり一人で勉強をしたいと思うようになった事も一つの理由です。
最近、先師の本に他の人の安心や教えを批判するのは、自己の信心が確立できてからにせよという教えに触れまして、それに従おうと思った次第です。
ここに色々書いた関係でしばらく見ておりましたが、今日で最後になりそうです。
色々お世話になりました。
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10回にわたって「雑行を捨てよの真意」を連載してきました。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
浄土真宗で、『雑行を捨てよ』と教えられる真意とは」

という、浄土真宗の重要な教えについての論争がなされた
ことは極めて意義深いものです。

より詳しく知られたい方には、以下のサイトをお勧め致します。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

新人太郎氏と459氏とのやり取りの全記録

【マンガ解説】『雑行・雑修・自力の心』浄土真宗親鸞会 公式サイト

「親鸞会の本尊論を再考する」を読んで

後生の一大事について  親鸞会.NET仏教講座

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