2011/05/05

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点《第19回「善も悪も全く知らぬ」他力信心の表明》 親鸞会.NET

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点  親鸞会.NET

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に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう

原文

善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御心に善しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、如来の悪しと思し召すほどに知りとおしたらばこそ、悪しさを知りたるにてもあらめ
(『歎異抄』後序)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』

人間が決めた善悪などにとらわれる必要はない。なぜなら、如来の真実にかなう善悪を知っているというのならば、本当の善悪を知っていることにもなろう


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

親鸞は、何が善やら悪やら、二つともまったく分からない。そうではないか、如来が「それは善である」とお思いになるほど知りぬいていれば、善を知っているともいえよう。如来が「悪だ」とお思いになるほど知りぬいていれば、悪を知っているともいえるだろう。

●時や所によって変わる善悪

「親鸞は、何が善やら悪やら知らないし、まったく分からない」
 耳を疑う発言です。
「善悪ぐらい心得ている」と思っている人ばかりですから、「それで教えが説けるか。無責任だ」と非難する者さえあります。
 しかし、人間の「善悪」は時代や場所によって変わる相対的なものであることを、『歎異抄をひらく』では、こう例示されています。

。。。。。。

 日本では、臆病者よりも泥棒といわれると傷つくが、アメリカでは、臆病者の方が侮辱と感ずる。
 日本では、平手よりもゲンコツが厳しい制裁だが、欧米では平手打ちがより屈辱だという。
 戦前は、産めよ殖やせよが善であったが、現今は、多く産む人は大変だねぇと同情される。最近、少子化が社会問題になると、またも国や企業も子育て支援に大わらわの状態だ。
 かつては、領土を拡大した者を英雄と讃えられたが、現代では侵略者の汚名を着せられる。
 江戸時代は、将軍や大名のために死ぬのを忠(チュウ)と言ったが、明治以降は天皇のために命を捨てることに限られ、最高善とされた。それが今や、梁上の君子の鳴き声か、と言う者までいる始末。
 敗戦までは、「主権在民」「労使平等」などは絶対禁句、漏らせばたちまち”危険分子””赤だ”と投獄された。
 今は一応、天皇も労働者も平等だが、政権が転覆すると憲法も変わり、収監されていた者も、一夜にして無罪放免、昨日までの権力者は糾弾され、断罪される国もある。

。。。。。。

●衝撃的告白の真意

 従来の解説書では、世間の価値判断が相対的であることまでは説明しても、親鸞聖人がなぜ”善も悪も全く知らぬ”と仰ったのかは、曖昧です。

例えば親鸞仏教センター著
『現代語 歎異抄』は、

人間の善悪は条件によって変化しますよね。殺人は悪だけど、戦時下に敵を殺せば、善として自国で称賛されます。ですから、人間というものは、条件付きの善悪は知っていても、絶対的な善悪は知らないのでしょう。

と皮相な解説で終わっています。

山崎龍明著『初めての歎異抄』も、

知ったかぶりをして善悪をふりまわす者の危うさ

を教えられたと述べるだけです。

冒頭で引用した、延塚知道著
『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』は、
真宗大谷派のトップ小川一乘(教学研究所所長)監修によるものですが、

世間の価値は時代や状況でいつでも変わるものだから絶対ではない、だからそれにとらわれる必要はさらさらない

と放言しています。
 いくら世間の常識が相対だからといって、「とらわれる必要はさらさらない」と無視したら、一日たりとも生活できません。こんな無責任発言が、教学最高責任者の下でなされているのです。
佐藤正英著
『歎異抄論註』も、意味不明の独り合点で、

善も知らず、悪も知らないという述懐によって、親鸞は、己れを阿弥陀仏とは対極的な存在へ押しやる。それは阿弥陀仏の〈絶対知〉を己れの内に思い描くことであり、同時に己れを阿弥陀仏の〈絶対知〉の前にさらけ出すことでもある。

何の『註』にもなっていません。
●信心の表白でないのか

 聖人は、ただ世間的な「善悪」を論じておられるのではありません。衝撃的な言葉が続く『歎異抄』は、全て真実信心のむき出しなのです。ですが、石田瑞麿著
『歎異抄──その批判的考察』も推測にとどまり、

ここにいう「善悪」は世間的な善悪を指すと同時に出世間的な善悪をも指しているようにみえる。世俗の倫理的世界はもちろん、宗教的な自力他力をも含めていっているかのようである。

と歯切れが悪い。

安良岡康作著
『歎異抄 全講読』を開いても、

彼の宗教的信心は、人間的次元を超越して成立し、形成されることの表白である。

と、余計分からなくなります。
●自力浄尽した他力信心

 聖人の告白は、自力の計らいが尽きた、他力信心の表明であることを、『歎異抄をひらく』では、こう詳説されています。
 蓮如上人も、親鸞聖人のことを聞かれて、
「我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも、開山(親鸞聖人)のめされ候ように御沙汰候」 (御一代記聞書)
と言われている。

 時や処でしばしば変わり、人によって評価が異なる、絶えず揺れ動く判断基準で、「自分の考えは正しい」「善悪ぐらいは心得ている」「納得できぬことは信じない」と、不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を計ろうことの愚かさを、親鸞聖人は、こうたしなめられる。

補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議を計らうべき人は候わず (末灯鈔)
あの弥勒菩薩でさえ、弥陀の本願力不思議は想像も思慮もできないのに、阿弥陀如来の仏智を計らえる人がいるはずないではないか。

「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」
 聖人の告白は、不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を、善悪に囚われ計らう自力が浄尽した、善も欲しからず悪をも怖れぬ、大信海の表明にほかならない。
 私たちは、自分が正しいと思うことは「善」、正しくないと思えば「悪」と判断し、しかもその判断は正確だという大前提で生きています。
ですから納得できることは実行しますが、納得できないと素直に従えません。
 善悪の判断が誤りなくできるなら、そもそも教えを聞く必要はないのです。自力の強情我慢で「善悪は分かっている」「正しい判断力がある」とうぬぼれ、仏智を計らっている間は、弥陀の本願は聞けません。
「一切の自力の計らいを捨てよ」
 聖人の重大なご教示が、『歎異抄をひらく』で鮮明にされているのです。
脚注

*延塚知道……大谷大学教授
※梁上の君子 ネズミのこと
*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている
*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授
*佐藤正英……東京大学名誉教授。
       日本倫理思想史、倫理学の研究者
*石田瑞麿……元・東海大学教授。
       浄土教の研究が専門
*安良岡康作……国文学者。
        東京学芸大学名誉教授
※不可称・不可説・不可思議 言うことも、説くことも、想像もできないこと
※弥勒菩薩 仏のさとりに最も近いさとりを開いている有名な菩薩(仏のさとりに向かって修行中の人)

 

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2011/02/14

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【18】《鬼気迫る対峙 聖人の慈誨》親鸞会.NET

前回の、 歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【17】《「追善供養」の迷信を破られた聖人のお言葉》親鸞会.NET

に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう
鬼気迫る対峙 聖人の慈誨

(原文)

おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。(『歎異抄』第二章)

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の意訳では、

あなたがた一人一人が、はるばる長い道のりを、大切な身体と生命を危険にさらしてまで、訪ね求めてこられた志は、真実の生活が実現する道理を体得したいということにある。


高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の意訳では、

あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から身命を顧みず、この親鸞を訪ねられたお気持ちは、極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろう。

 

●聞法に命を懸けた同行

『歎異抄』二章は、聖人を命として関東から京都まで決死の聞法に参じた同行に仰ったお言葉です。

対面されるや否や聖人は、

「ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」

極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろうと直言されています。
「身命を顧みず」数十日かけた旅に、何のねぎらいも慰めもありません。
またその聞法心を、評価されてもいません。

「私たちだけが、こんなに遠くまで来たのです」と、心中ひそかにうぬぼれていた心を見透かされた関東の同行は、肝を冷やしたことでしょう。
同時に、最も尊敬する聖人の鉄槌は、誰から褒められるより、うれしかったに違いありません。

関東の同行は、この世で信頼できるのは親鸞聖人だけと思えばこそ、全てを犠牲にして聞きに行ったのです。
ところが実態は、関東で20年間、常に教え続けてくだされた聖人に、疑いの刃を向けていたのです。

「今まで、何を聞いてこられたのか、情けないことよ……」
聖人の怒りにも似た心情が、冒頭から胸を刺します。

ですが、仏法に身命を懸ける同行と聖人との、鬼気迫る対峙を解説する書は、どこにも見当たりません。
医師は病に応じて薬を与えるように、仏教は相手に応じて法を説く「対機説法(たいきせっぽう)」ですから、身命を懸け、聞きに来た同行には、それ相応の表現がなされて当然でしょう。
この関東の同朋の心情が分からねば、聖人のお言葉は到底、分かるものではありません。
●南都北嶺(なんとほくれい)への烈々たる批判(※南都・・奈良 北嶺・・比叡山)

冒頭から火花散る二章は、続くお言葉も痛烈です。

(原文)

しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かるべきなり。

(意訳)

だがもし親鸞が、弥陀の本願念仏のほかに、往生の方法や秘密の法文などを知っていながら、隠し立てでもしているのではなかろうかとお疑いなら、とんでもない誤りである。
それほど信じられぬ親鸞なら、奈良や比叡にでも行かれるがよい。あそこには立派な学者が多くいなさるから、それらの方々にお遇いになって、浄土に生まれる肝要を、篤とお聞きなさるがよかろう。
“南都北嶺のド偉い学者に聞かれるがよい”
これほどの皮肉があるでしょうか。
南都北嶺こそが、神信心の権力者と結託して、法然上人を弾圧した親玉なのです。

その承元の法難を、『歎異抄をひらく』では、こう書かれてあります。

庶民や武士に加え、聖道諸宗(天台や真言、禅宗など)の学者や公家・貴族まで、法然上人の信奉者が急増。
急速な浄土宗の発展に恐れをなし、聖道諸宗は強い危機感を抱く。彼らを支えた公家・貴族までもが、法然支持に回るのは到底、黙視できることではなかった。やがて聖道諸宗一丸となり、前代未聞の朝廷直訴となる。
承元元年(1207)、ついに、浄土宗は解散、念仏布教は禁止、法然・親鸞両聖人以下8人が流刑。
住蓮・安楽ら4人の弟子は死刑に処せられる。
親鸞聖人も死罪だったが、元関白九条兼実らの尽力で越後(新潟県上越市)に流罪、35歳だった。法然上人は土佐(高知県)へ遠流となる。
聖道諸宗と権力者の結託で、日本仏教史上かつてない弾圧だ。
世に「承元の法難」といわれ、『歎異抄』末尾にも記されている。
天皇らの横暴に、聖人の消えざる激怒が『教行信証』に記されています。

「主上・臣下、法に背き義に違し、忿を成し、怨を結ぶ」
(天皇から家臣に至るまで、仏法を謗り正義を蹂躙し、怒りにまかせて恐るべき大罪を犯した。なんたることか)

と喝破し、南都北嶺には、

「然るに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶す」
(『教行信証』)

(しかるに、一宗一派を開いた者〈伝教、弘法、道元、日蓮〉たちまでもが、「阿弥陀仏もその浄土も、われらの心のほかにはない。心のほかに弥陀や浄土を説くのは、幼稚な教え」
と見下し、真実の仏法をけなしている)

と、峻烈な批判がなされています。

「末代の道俗」とは、「今日の僧と在家」ですから、僧俗ともに一網打尽です。
華厳・天台・真言宗はいうまでもなく、法然上人を攻撃した栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)、笠置(かさぎ)の解脱(げだつ)をはじめ、禅宗の栄西など、当時の仏教界の指導者を総括して「真実の仏教を知らざる輩」と斬り捨てられています。

それだけではありません。

「今日の仏教は、全く廃れ切っている。寺も僧もたくさんいるが、仏教のイロハも分からぬ者ばかり。儒教をやっている者も、正道邪道のケジメさえも分かってはいない。浄土の真宗のみが盛んではないか」

と、次のように記されています。

「ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛なり。然るに諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて、邪正の道路を弁うること無し」(『教行信証』)

南都北嶺を完膚なきまでに批判された聖人が、それらをここでは「ゆゆしき学匠にお会いなさるがよい」と語られています。
想像してさえ、震える光景です。
●「学問を非難された」という見当違い

ですが、外道邪教はもとより、聖道諸宗までも批判された聖人を知る人は少なく、
「南都北嶺の学者に聞け」を、学問を批判された程度にしか感じていない人ばかりのようです。

例えば、真宗大谷派のトップ小川一乘(教学研究所所長)監修、延塚知道著『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』の解説によると、「往生極楽の道」は、頭で納得するものでなく、全身で理解するものである。知的に理解したければ南都北嶺の学者に聞けばよいが、それを批判されたのが、二章だと、次のように述べています。
親鸞は、関東から来た門弟たちに対して、「往生極楽のみち」を存知したいと言うのであれば、奈良や比叡山にいる優れた学匠たちによくよく聞きなさい、と言う。
存知とは、信知と対応する言葉で、知識的に理解するとか分別するという意味である。
それに対して信知という言葉は、身・口・意で分かることである。(中略)「往生極楽のみち」を知識的に理解するというだけでは充分ではない、
(中略)つまり、一人ひとりが本願の信心を自覚的に明らかにする道しかない

と教えられたのが二章だと主張しています。

山崎龍明著
『初めての歎異抄』も、聖人が学者を批判されたのは、「愚者」にかえることによって救われるからだと、次のように見当外れな解説をしています。

親鸞聖人が「学生」という語を用いるときは、だいたい批判的に用いていることが知られます。なぜなら、聖人は「愚」にかえることによって人が人となり、救いにあうことだと確認していたからです。(中略)
親鸞聖人はこの「愚者になりて往生す」という法然聖人の言葉に深い感銘をうけ、そこを自己のよって立つ根拠としました。
法然上人も親鸞聖人も、傑出した大学者であり、歴代の善知識方は誰一人、教学を排斥された方はありません。
ですが『歎異抄』二章を、学問を批判されたと誤解する人が多くあります。

安良岡康作著
『歎異抄 全講読』は、

この章の全体が(中略)学問や学者に頼ろうとする異義に対する批判になっていると言い、遠来の人々のいわゆるお門違い・見当違いを皮肉ったのでなくして、自己の信心が、知識や学問とは全く異なる立場において形成されたものであることを聞き手に訴えて、理解を求めようとする意志の発露と考えるべきであろう。

と他人事のように述べています。
南都北嶺に対する聖人の憤激が全く伝わってこない、乾燥した解説は、

佐藤正英著
『歎異抄論註』も同じです。

わたしはあなたがたの考えておられるような、なにか特別すぐれた能力を持った存在ではない。学識豊かな学僧でもない。一介の隠遁者でしかないと親鸞はいう。(中略)第二条を通読したときに見えてくるのは、叱責でも冷やりとした感じでもまして皮肉や揶揄ではない。(中略)少しも気張ることなく、淡々とした息遣いで語る親鸞がいる。稀れにみる率直さである。
親鸞聖人のご著書は多くありますが、二章ほど恐ろしい、殺気さえ覚えるお言葉はありません。
そんな「稀れにみる」鋭い信心の露出を、淡々と解説する書しかないのが現状です。
根本は「命懸けても聞かねばならぬ真の仏法」を知らないからにほかならない。

★こうなった
体験談の
ほかはなし

★口開けば
自慢ばなしに
花が咲く

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2010/12/15

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【17】《「追善供養」の迷信を破られた聖人のお言葉》親鸞会.NET

前回の、 
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   「追善供養」の迷信を破られた聖人のお言葉

(原文)
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。   (『歎異抄』第五章)


親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の意訳
 
 

私〈親鸞〉は、亡くなった父母への供養のために念仏したことは、いまだかつて一度もない。その理由は、いま現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在だからである。
どのような存在であろうとも、やがて仏の位に到ったときには、だれをも救済することができるのである。
   ↑
   ↓

高森顕徹先生著
『歎異抄をひらく』の意訳

親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことはない。
なぜならば、忘れ得ぬ父母を憶うとき、すべての生きとし生けるもの、無限に繰りかえす生死のなかで、いつの世か、父母兄弟であったであろうと、懐かしく偲ばれてくる。されば誰彼を問わず、次の生に、仏になって助けあわねばならないからである。


●「孝養」とは「追善供養」
 
 ここで聖人が「父母の孝養」と言われたのは追善供養であり、「念仏」には一切の仏事が含まれると、『歎異抄をひらく』には次のように解説されています。
「孝養」とは「追善供養」であり、死んだ人を幸福にすると信じられている行為のことである。
四歳で父を失い、八歳にして母を亡くされた聖人の、両親を憶う切なさは、いかばかりであったろうか。亡き父母は、最も忘れえぬ聖人の幻影だったであろう。
そんな聖人が、
「父母の追善供養のために念仏を称えたことなど、一度もない」
と言われる。無論これは、念仏だけのことではない。亡き人を幸せにしようとする読経や儀式、すべての仏事を「念仏」で総称されてのことである。
言い換えれば、
「親鸞は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事をしたことは、一度とてない」
の断言だから驚く。
「死者の一番のご馳走は読経だ」などと、平然と先祖供養を勧めている僧侶や、当然のようにそれを容認している世人には、いかにも不可解な聖人の発言であり、”なんと非情な”と冷たく感ずる人もあるだろう。
だが、誰よりも父母を慕われた聖人が、衝撃的な告白で根深い大衆の迷妄を打破し、真の追善供養のあり方を開示されているのが、この章なのである。

孝行を否定する反道徳的発言という批判も浴びせられてきたこの章で、何を聖人は否定され、どんな誤解を正されたのでしょうか。解説は、まちまちです。冒頭に引用した、

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』では、

「一切衆生が世々生々の父母兄弟だ」という見方は、人間の見方じゃない。如来の眼が見た世界ですね。(中略)そういう広大な視座が開かれた世界から見れば、自分の父母の供養のためだけに念仏することが、どれほど狭い世界なのかを教えられるのです。

と、「自分の父母」だけを供養するのは「狭い世界」であることを教えられたものと主張しています。
ですが聖人は、「父母」だけ供養すべきでないとか、「一切の有情」(すべての生きもの)のために念仏を称えるべきとか、そんなことを論じられているのではありません。ここで破られているのは、追善供養そのものなのです。


●「追善供養」を否定された釈迦

「追善供養」を否定する仏教を、『歎異抄をひらく』では、こう詳説されています。
葬式や年忌法要などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、世の常識になっているようだ。
印度でも、釈迦の弟子が、「死人のまわりで有り難い経文を唱えると、善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか」と尋ねている。
黙って小石を拾い近くの池に投げられた釈迦は、沈んでいった石を指さし、「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか」と反問されている。
石は自身の重さで沈んでいったのである。そんなことで石が浮かぶはずがなかろう。
人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのだから、他人がどんな経文を読もうとも死人の果報が変わるわけがない、と説かれている。
読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのである。釈迦八十年の生涯、教えを説かれたのは生きた人間であり、常に苦悩の心田を耕す教法だった。死者の為の葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったといわれる。
むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、真の転迷開悟(迷いから覚めて、さとりを開くこと)を教示されたのが仏教であった。
今日それが、仏教徒を自認している人でも、葬式や法事・読経などの儀式が、死人を幸せにすることだと当然視している。その迷信は金剛のごとしと言えよう。

釈迦の教えは歪曲され、「追善供養」が仏教だと、深く信じられてきました。


山崎龍明氏著『初めての歎異抄』は、

昔も今も変わりなく日本の仏教は「追善仏教」であるといったらいいすぎでしょうか。

と言葉を濁していますが、今の仏教はまさしく、葬式・法事の「追善仏教」。「追善供養」を否定された五章は、日本仏教の全否定といえましょう。ですが、この仏教界に反省を迫る深刻なメッセージを鮮明にする書がありません。


●念仏は「極楽へ往くため」か

聖人が「孝養のため」に念仏を称えたことはないと仰った理由を、

梅原猛氏著『誤解された歎異抄』は、

念仏はいつも二種廻向のためである。つまり、自分が極楽に行って、また極楽から帰ってくる。そのために念仏をするわけである。

と説明しています。ですが、極楽に行く「ため」に称えるのが念仏とは、どこにも親鸞聖人は仰っていません。浄土往生の可否は、信心一つで決するというのが、聖人90年のみ教えです。
『歎異抄』では一章に「ただ信心を要とす」と、「信心」一つの救いが明らかにされ、三章でも、

(原文)

自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり

|意訳|

本願を疑う自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得すれば、真実の浄土へ往生できるのである。

浄土往生は「信心」一つと明言されています。
蓮如上人の証文も多数にのぼるが数例、挙げてみましょう。

信心一つにて、極楽に往生すべし(二帖目七通)

|意訳|
信心一つで、極楽に往生するのだ。
 |意訳|
他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。
最も広く知られているのは、次の「聖人一流章」でしょう。

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候

|意訳|

親鸞聖人の教えは”信心一つで助かる”という教示である。

蓮如上人は断言されています。

では「念仏」とは何でしょう。同じく「聖人一流章」では、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり

|意訳|
弥陀に救われてからの念仏は、浄土往生が決定した大満足の心から、その御恩に報いる念仏である。

信心獲得してからの念仏は、必ず往生できると定めてくださった弥陀への「報謝の念仏」だと教示されています。しかもそれは六章で、
「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏申す」(まったく弥陀のお力によって称える念仏)
と教導されているように、すべて弥陀のお計らいで称えさせられる念仏だから、「他力の念仏」とか「他力廻向の念仏」といわれるのです。
「他力」とは弥陀のお力のみをいい、「廻向」とは「差し向ける」ことです。
『歎異抄』の「念仏」はすべて、弥陀の方から私たちに与えてくださる「他力廻向の念仏」なのです。
「念仏」は極楽へ往く”ため”に称えるなどという教説は、親鸞聖人、蓮如上人のどこにもありません。



●「自力廻向」を破邪(間違っていることをハッキリ教えて、邪を破ること)された聖人
 
 
弥陀から私たちに与えてくださる「他力廻向」に対し、自分の励んだ善を亡者に差し向け、助けようとするのを「自力廻向」といいます。この「自力廻向」を徹底して破られた方が、親鸞聖人でありました。それは五章の後半でも明らかです。
(原文)

わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ

|意訳|

念仏が自分で励む善根ならば、その功徳をさしむけて、父母を救えるかも知れないが、念仏は私の善根ではないからそれはできない。

世間では葬式や法事、読経の功徳を認めて、現世や来世の幸福を祈祷しますが、どれだけ盛大な儀式をしようと、念仏を称えようと、亡者は自らの業で行き先が決まるのですから、他人にはどうすることもできません。親鸞聖人は、それら一切、仏事を役立てようとする「自力廻向」を断固、破邪されたのです。
かつてしたことがないと聖人が言われる、葬式や法事を本分のように心得て、「追善仏教」に終始している僧侶の、いかに多いことでしょう。
僧俗ともに根深い「追善仏教」を破られた五章の真意が、全く伏せられています。いまにして聖人のご金言を噛み締めなければ、残るは死骸の仏教のみとなるでしょう。

 

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*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている
*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。武蔵野大学教授
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授
 

他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく往生すべきことの、更に何の疑いもなし(二帖目十四通)

 

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2010/11/18

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【16】《 「全く知らぬ」聖人の真意》親鸞会.NET

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に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。 
原文
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり
(『歎異抄』第二章)


・梅原猛著
『誤解された歎異抄』の意訳では、
私は、ただ念仏すれば、阿弥陀さまにたすけられて必ず極楽往生ができるという、あの法然聖人のおっしゃいましたお言葉を、ばか正直に信じている以外に、別の理由は何もないのであります。
念仏をすれば、本当に極楽浄土に生まれる種をまくということになるのでしょうか。それとも、それはうそ偽わりで、念仏すればかえって地獄におちるという結果になるのでしょうか。残念ながらそういうことは私はとんと知ってはいないのであります。

とある。


・高森顕徹先生著
『歎異抄をひらく』の意訳では、
親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。
念仏は浄土に生まれる因なのか、地獄に堕つる業なのか、まったくもって親鸞、知るところではない。

と書かれている。
 
●二章の典型的な誤解
「総じてもって存知せざるなり」を、文字どおり「全く知らぬ」と受け取って、「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞聖人も、まるで分かっておられなかったのだ」と誤解する者が少なくありません。
例えば、安良岡康作著
『歎異抄 全講読』の解説では、
「念仏」に対して、それが、真実に「浄土に生るる種子」なのか、「地獄に堕つべき業」なのかを自問自答した結果を、「惣じて以て存知せざるなり」とあるように、はっきりした断定・確信に達していないことを、説得や主張ではなくして、聞き手に向って告白しているのである。
と、聖人も「分かっていなかった」告白だと解説しています。
冒頭に引用した梅原猛著
『誤解された歎異抄』も、
親鸞は、念仏をすれば阿弥陀仏に助けられて往生することが出来るという法然の教えを聞いて、それを信じているだけだときっぱりと言い切るのである。
と解説しています。このような誤解が生じるのは、直後に聖人が、
たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
(意訳)
たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に堕ちても、親鸞なんの後悔もないのだ。
と仰っているからでしょう。「だまされて地獄に堕ちても後悔しない」という信じ方は、常識では考えられません。法然上人に絶対の信順をされていたことは、誰の目にも明らかです。
ですが、果たして聖人は、法然上人という
「人」だけを信じて、「念仏」については判然としておられなかったのでしょうか。
山崎龍明著『初めての歎異抄』は、
「よきひと」法然との邂逅は、念仏の法そのものとのであいであり、単なる「人」とのであいではなかったようです。
と疑問を投げかけるが、「ようです」の推測に終わっています。


●本願念仏こそ往生極楽の道
親鸞聖人が、「念仏まこと」に確信を持たれぬはずがありません。二章冒頭で、弥陀の本願念仏を「往生極楽の道」とまで明言され、他に道があると疑うのは、甚だしい誤りだと断定されているからです。
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。
(意訳)
あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から身命を顧みず、この親鸞を訪ねられたお気持ちは、極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろう。
だがもし親鸞が、弥陀の本願念仏のほかに、往生の方法や秘密の法文などを知っていながら、隠し立てでもしているのではなかろうかとお疑いなら、とんでもない誤りである。
関東で20年、親鸞聖人が弥陀の本願念仏一つ説かれたことは明白です。ではなぜ「念仏まことか、どうか」を尋ねた関東の同行に、「知らぬ」と言われたのでしょうか。
石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』は、
あまりにも見当違いな質問をした、
信仰未熟な人たちにはこうした方法も必要だったのであろう。いずれにせよ、この章はいろいろな想像をたくましくさせ、そのために誤った理解をも呼び起こした章として注目される。
と、単純に片付けています。


●聖人の鮮明不動の信念
「総じてもって存知せざるなり」は、「知らぬ」とは正反対の、知りすぎた「知らぬ」であることを、『歎異抄をひらく』では、聖人のお言葉で解明されています。
「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞も、まるで分かっていなかったのだ」「命がけで来た者に、答えないのは無責任ではないか」と、外道の者はムチを打つ。
それはだが、まったく逆である。
弥陀の本願念仏を「往生極楽の道」とまで明言し、浄土に往ける道は念仏のほかに術なしが、親鸞聖人の教導であったことは明白だが、二、三、分かりやすい根拠をあげておこう。
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)

念仏によって仏のさとりをひらく、これが真実の仏法である。それまで誘導する方便の教えが、他の仏教である。
南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益きわもなし
流転輪廻の罪きえて
定業中夭のぞこりぬ(浄土和讃)
念仏を称えれば、長らく苦しめてきた罪消えて、当然受くべき大難や若死からも免れ、この世も幸せ一杯に暮らせるようになるのだ。
念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなく受くとぞ説きたまう(正像末和讃)

この最尊の念仏を謗る者の報いは怖ろしい。かならず阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちて八万劫という永い間、ひまなく大苦悩を受けねばならぬと、経典に説かれている。
『教行信証』には、弥勒菩薩は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりを得ることはできないが、
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
(教行信証)
弥勒菩薩に対して念仏の人は、この世の命が終わると同時に、仏のさとりをひらくのである。
 と詳述されている。
関東で二十年、親鸞聖人は、この弥陀の本願念仏以外の布教はなかったのだ。
ところが聖人の帰京後、関東には同朋らの信仰を惑乱する、種々の事件が頻発。その一つが日蓮の「念仏無間」の大謗法である。「念仏称える者は無間地獄へ堕ちるぞ」と、関東一円を熱狂的に煽動した。
動揺した同朋たちが、直の聖人の言葉が聞きたいと、決死に来訪した心中を洞察し、「念仏が地獄に堕ちる業だとなぁ、いままでそなたたちは、何を聞いてこられたのか、情けないことよ……」
やり場のない、その心情を、
「そんなことは、親鸞知らぬ」
言い放たれた聖人の、やるせない心中が痛いほど伝わってくる。
あんなに長らく聖人の教えを聞いてきた人たちに、いまさら「念仏は極楽の因か地獄の業か」と聞かれて、これより適切な表現が、ほかにあったであろうか。
余りにも分かりきったことを聞かれると、もどかしい言葉を止めて世間でも、「知らんわい」と答えることがある。私たちにもあるだろう。言うに及ばぬことなのに、それをしつこく聞かれると、「そんなこと知らん」と突き放すことがあるではないか。
「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ”知らん”とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」
と嘯いているのとは、知らんは知らんでも、”知らん”の意味が、まるっきり反対なのだ。
「念仏のみぞまことにておわします」
有名な『歎異抄』の言葉もある。
「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念の最も簡明な表明だったと言えよう。
この聖人の大自信に接し、喜色満面、勇んで帰る関東の同朋たちが、彷彿とするではないか。
耳を疑う確言の続く二章は、聖人のお言葉を根拠に読まなければ、いくら想像をたくましくしようと、誤解が生まれるばかりです。

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*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授
*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
*石田瑞麿……元・東海大学教授。
浄土教の研究が専門。
著書多数
○浄土和讃─親鸞聖人が阿弥陀仏とその浄土を賛嘆された詩
○方便─真実まで導くために絶対必要な手段
○正像末和讃─弥陀の本願のみが救われる道と教えられた親鸞聖人の詩
○八万劫─気の遠くなるような長い期間
○弥勒菩薩─仏のさとりに最も近いさとりを開いている
有名な菩薩(仏のさとりに向かって修行中の人)
★おぞましや
仏法使って 自慢する
★勿体なや
名聞利養に する仏法
★教えなし
自己宣伝の ほかはなし

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2010/10/21

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【15】《九章に表れる懺悔と歓喜》親鸞会.NET

 前回の(親鸞会.NET» » 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【14】《親鸞聖人の教えは「二益法門」》)に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
【原文】

「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」(『歎異抄』九章)

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の意訳

「念仏を称えていましても、かつてのようにおどり上がるような喜びが感じられないのはどうしてなのでしょうか?
また、喜び勇んで浄土へゆきたいというこころの起こらないのは、どうしてなのでしょうか?」と親鸞聖人にお尋ねしましたら、「私〈親鸞〉も、このことが疑問でありました。唯円房、あなたも同じ疑問をもたれていたのですね。
とある。


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

「私は念仏を称えましても、天に踊り地に躍る歓喜の心が起きません。また、浄土へ早く往きたい心もありません。これはどういうわけでありましょう」と、率直にお尋ねしたところ、
「親鸞も同じ不審を懐いていたが、唯円房、そなたも同じことを思っていたのか」と仰せられた。

ここで唯円は二つのことを尋ねています。
「踊躍歓喜の心がない」ことと、「早く浄土へ往きたい心がない」ことです。
率直な問いに聖人は、「親鸞も同じ不審を懐いていた。そなたも同じ心であったのか」と、虚心坦懐に答えられています。
冒頭で引用した親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』では、親鸞聖人が唯円と同じ不審を持たれたのは、過去のことだと解説しています。

「かつて自分も唯円と同じ疑問にとらわれていたけれども、いまはその疑問が解けたのですよ」というニュアンスです(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』も同様です。

親鸞自身にもそうした思いが「不審」としてあったことを述べたのであろう。しかしその「不審」はかつてあったけれども、親鸞ではすぐ打ち消されるほどのものだったにちがいない。(石田瑞麿『歎異抄その批判的考察』)

唯円と同じ不審が、聖人の場合は「すぐ打ち消されるほどのものだった」という推測は、根拠なき私見です。

それは『教行信証』に、正定聚の身に救われても喜ぶ心は無く、急いで浄土へ参りたい心もないと親鸞聖人は懺悔されているからです。

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥ずべし、傷むべし(教行信証)

情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海に沈み切り、名誉欲と利益欲に振り回されて、仏になれる身(定聚)になったことを少しも喜ばず、日々、浄土(真証の証)へ近づいていながらちょっとも愉しまない。なんと恥ずかしいことか、痛ましいことよ。

ここで聖人は、「仏になれる身になった(定聚の数に入る)」「日々、浄土へ近づいている(真証の証に近づく)」と明言されて「恥ずべし、傷むべし」と懺悔されています。

弥陀の本願は、この世は弥勒菩薩と同格の「正定聚」に救われ、死ねば浄土に生まれさせられる、こんな無上の幸福に救われながら、少しも喜ばない、痺れきった自己を懺悔されているお言葉なのです。
ところが、佐藤正英著『歎異抄論註』は、
聖人が本願に合致した信心に「到達しえないことを歎いた文」と、解釈しています。

『教行信証』において親鸞は次のようにしるしている。
誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞(中略)恥づべし、傷むべし、と。
経典論釈に則して精細に辿ってきた〈信〉の在りように、己れが到達しえないことを歎いた文である。(佐藤正英『歎異抄論註』)

聖人が「喜べない」と仰ったのは、真実信心に到達されていないからというのです。
九章で親鸞聖人は、それは煩悩のせいだと、ちゃんと仰っているのに、です。

(原文)
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。(『歎異抄』第九章)

(意訳)
よくよく考えてみれば、助かる縁なき者が助けられた不可思議は、天に踊り地に躍るほど喜んで当然なのだ。それを喜ばぬ者だからこそ、〝往生間違いなし〟と明らかに知らされるではないか。喜んで当たり前のことを喜ばせないのは、煩悩のしわざ。

喜ぶべきことを喜ばぬ、煩悩の塊が我々だと、とうの昔に弥陀は見抜かれています。
喜ぶ心のない、自己が知らされるほど、そんな「煩悩具足の凡夫」を助けると誓われた本願が、いよいよ頼もしく思われるのだと、親鸞聖人は続けられるのです。

(原文)
しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。(同上)

(意訳)
弥陀は、とっくの昔から私たちを「煩悩の塊」とお見抜きになっている。弥陀の本願は、このような痺れきった私たちのためだったと知られて、いよいよ頼もしく思えるのだ。

ここで「いよいよ頼もしく覚ゆるなり」と、聖人が大歓喜されていることが読めないから、「親鸞さまでさえ、喜ぶ心がないと仰っている。喜べなくて当然だ」と広言し、〝喜ぶのはおかしい〟という者さえ出てきています。
喜ばぬ心が見えるほど、いよいよ喜ばずにおれないと歓喜されているところまで『歎異抄』を読み通す人がないのです。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』も、
「煩悩」を自覚すればするほど、「悲願」を仰ぐ心も深くなる
と述べるにとどまっています。

懺悔の裏には歓喜があることを、『歎異抄をひらく』では次のように詳説されています。
「後序」にも、聖人の歓声が轟く。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ(歎異抄)
弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ。こんな量りしれぬ悪業を持った親鸞を、助けんと奮い立って下された本願の、なんと有り難くかたじけないことなのか。

このような歓喜があればこそ、しぶとい呆れる根性を知らされて、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
の懺悔があるのである。
仏法の入り口にも立たない者が、針の穴から天を覗いて、「喜べないのが当然」と開き直っているのとは、全然次元が異なるのだ。弥陀の救いに値わない者には、懺悔もなければ歓喜もない。当然だろう。
また、急いで浄土へ往く気もなく、少し体調を崩すと「死ぬのではなかろうか」と、心細く思えてくるのも煩悩のしわざである。
果てしない過去から流転してきた、苦悩の絶えぬこの世ではあるけれど、なぜか故郷の如く懐かしく、安楽な浄土を恋い慕わず、急ぐ心のないのが私たちの実態だ。
暴風駛雨のような煩悩を見るにつけ、いよいよ弥陀の本願は、私一人を助けんがためであったと頼もしく、〝浄土往生間違いなし〟と、ますます明らかに知らされるのである。
「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候え」(『歎異抄』第九章後半)が、その告白だろう。
喜ぶべきことを喜ばぬ、麻痺しきった自性が見えるほど、救われた不思議を喜ばずにおれぬのだ。それをこんな喩えで、聖人は解説される。

罪障功徳の体となる
氷と水のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し(高僧和讃)

弥陀に救い摂られると、助けようのない煩悩(罪障)の氷が、幸せよろこぶ菩提(功徳)の水となる。大きい氷ほど、解けた水が多いように、極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者である。

九章で言えば、こうなろう。
「喜ぶべきことを喜ばぬ心(煩悩)」が「氷」であり、「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候えの喜び(菩提)」が「水」に当たろう。
無尽の煩悩が照らし出され、無限の懺悔と歓喜に転じる不思議さを、
「煩悩即菩提」(煩悩が、そのまま菩提となる)
とか
「転悪成善」(悪が、そのまま善となる)
と簡明に説かれる。
喜ばぬ心が見えるほど喜ばずにおれない、心も言葉も絶えた大信海に、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)なり」(教行信証)
ただ聖人は、讃仰されるばかりである。
この九章も、懺悔と歓喜に生かされる不可称不可説の真実信心を知らずに読むと大ケガをする、カミソリのような所なのです。

 

東京学芸大学名誉教授

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2010/09/13

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【14】《親鸞聖人の教えは「二益法門」》

前回(《弥陀の本願まことにおわしまさば》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

原文

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり (『歎異抄』第一章)

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。
高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
『歎異抄』一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」には、弥陀の二度の救いが明示されています。

「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは、平生の一念に「摂取不捨の利益」に救われたことであり、「往生をば遂ぐる」とは、死んで弥陀の浄土へ往生することです。

現在の救いを「現益(げんやく)」(現世の利益)、死後の救いを「当益(とうやく)」(当来の利益)といいます。
弥陀の救いは、今生と死後と二度あるので、「現当二益(げんとうにやく)」といわれます。
その根拠は枚挙にいとまがありませんが、聖人は二度の救いに疑い晴れた大慶喜を『教行信証』に、こう記されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。 (『教行信証』)

「本当にそうだったなぁ!あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。
しかもだ。弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に
浄土へ往って、仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか」

弥勒大士とは、仏のさとりにもっとも近い、51段目の「等覚」のさとりを得ている菩薩のことです。
弥陀に救われると、この世は弥勒と同等になり、死ぬと同時に「大般涅槃」(仏のさとり)を得ることができます。
これを『正信偈』には「成等覚証大涅槃」の一行で、この世は等覚に成り、死ねば大涅槃(仏のさとり)を証すると「現当二益」を明かされています。

蓮如上人も問答形式で、分かりやすく教えられています。

問うていわく、
「正定と滅度とは、一益と心得べきか、また二益と心得べきや」。
答えていわく、
「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり」 (『御文章』)

「弥陀の救いは一度でしょうか、二度でしょうか」

との問いに対して、

「弥陀の救いは平生の一念で、正定聚(等覚)になる。これは穢土(この世)の救いである。次に滅度(仏のさとり)は、死ぬと同時に浄土で得られる救いである。だから弥陀の救いは二度あるのだ」

と答えられています。

「現当二益」が親鸞聖人の教えだから、「二益」を説かなければ浄土真宗にはなりません。
ところが、どの『歎異抄』解説書を読んでも、二度の救いがハッキリしないのです。例えば先に引用した、

山崎龍明著『初めての歎異抄』は一章を要約して、

従来、浄土真宗の教えの三大特質は、次の三つにあると説かれています。
他力本願(本願他力)
悪人正機(悪人救済)
往生浄土(往生成仏)(中略)
第一条には、このような教えのすべてが凝縮されています。
と解説し、死後の往生浄土ばかりが強調されています。

それに対して
『歎異抄をひらく』では、平生の一念の救いが、次のように鮮明に教えられています。

まず、古今の人類が探求してやまぬ人生の目的を、「摂取不捨の利益にあずかる」弥陀の救いであると開示し、その達成は、「弥陀の誓願不思議に助けられ『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」であると説く。
しかも救いは万人平等で、一切の差別がないと道破する。
もっと詳細に弥陀の救いの、時と内容を、『歎異抄』一章に聞いてみよう。
まず弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。
ではその救いとは、いかなるものか。
「摂取不捨の利益を得る」
と言葉は簡明だが、その内容は極めて深くて重い。(中略)
「摂取不捨」とは文字通り、”摂め取って捨てぬ”ことであり、「利益」とは”幸福”のことである。
“ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福”を、「摂取不捨の利益」といわれる。「絶対の幸福」と言ってもよかろう。

「弥陀の誓願不思議に助けられ」た、「『念仏申さん』と思いたつ心のおこる」一念で、「摂取不捨の利益」に救われます。
これは現在の救い(現益)ですが、「往生をば遂ぐる」のは死んでから(当益)です。

誓願不思議に助けられた平生の一念に、死後の往生に疑い晴れたことを、「往生をば遂ぐるなりと信じて」と言われています。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、「念仏申さんと思いたつ心」「摂取不捨の利益」も、表現が異なるだけで、弥陀に救われた「一念」のことです。
同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。

ところが、

安良岡康作著『歎異抄 全講読』では、順序があるように解釈しています。

弥陀の誓願の絶対性のお助けをこうむることによって、「往生を遂げるのだ」と信ずるようになって(中略)浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この「念仏申さんと思ひ立つ心」が「起る」
他の解説書も、「絶対の幸福」に救い摂られる一念を明言しないので、「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは現在の救いか、死後の往生か、曖昧です。

例えば、

佐藤正英著『歎異抄論註』は、

不思議としての阿弥陀仏の誓願にたすけられて〈真にして実なる〉浄土に生れると信じ、進んで念仏を称えようとするとき、ただちに摂めとって捨てることのない阿弥陀仏の恵みにあずかる。
と意訳し、

梅原猛著『誤解された歎異抄』の意訳も、

阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。

となっています。
梅原氏の言うように、「阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて」いるだけなら、死んでみなければ、誓願に助けていただけるかどうか、ハッキリしないことになります。
きっと極楽往生できると信じて「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始める」とき、弥陀は「輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さない」と言うに至っては、「一念の救い」とかけ離れた、私釈と断ずるほかありません。

弥陀の本願を、釈迦が『大無量寿経』で解説された「願成就文」では「信心歓喜乃至一念」と、弥陀の救いは「一念」であると明言されています。
そのあとには「即得往生住不退転」と、平生の一念で正定聚不退転に救い摂られる「不体失往生」が教えられています。
現在ただ今、不体失往生できている人だけが、死んで浄土往生させていただけるのです。

このように弥陀の誓願には、現在救われる「不体失往生」と、死んで救われる、浄土に往生する「体失往生」の、二度の救いが誓われているのですが、「この世の往生」しか言わない『歎異抄』解説書もあります。

真宗大谷派(東本願寺)の教学研究所の所長・小川一乘氏が監修した、
延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、弥陀の救いは、この世だけのことだと主張しています。

第一章では、「弥陀の誓願不思議」の救いが、「往生をばとぐる」と言われ、「摂取不捨の利益」にあずかる、と説かれる。(中略)それらは二つのことが別々にあるのではなくて、本願成就の救いを別の角度から説いたものである。

東本願寺の立ち上げた「親鸞仏教センター」も、『現代語訳 歎異抄』で「弥陀の浄土へ生まれる」というのは「神話的な表現」だと冒涜し、一章の「往生をばとぐる」を、「新しい生活を獲得できる」と迷訳しています。

「現当二益」を説かねば、弥陀の救いにはならないし、聖人の教えにもなりません。
「二益」の教えで一貫し、一念の救いが詳説されている『歎異抄をひらく』が、いかに希有の書であるか、次回からも明らかにしたいと思います。

・・・・・・・・・・・

○龍華三会の暁─56億7000万年後に、弥勒が仏になって最初に説法する時
○横超の金剛心─阿弥陀仏より賜った金剛心
○本願成就文─阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を、釈尊が明らかになされたもの
○正定聚─正しく仏になることに定まった人たち。さとりの51段目をいう
○不退転─後戻りしない。崩れない絶対の幸福をいう

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*延塚知道……大谷大学教授

*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

・・・・・・・・・・・

東京学芸大学名誉教授

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2010/08/13

『歎異抄』解説書の比較対照【13】 《弥陀の本願まことにおわしまさば》

前回(《『歎異抄』解説本を比較する意義》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意

原文

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。   (『歎異抄』二章)

梅原猛氏著『誤解された歎異抄』の意訳

もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことをあの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまの説法が間違っているはずはありません。もしもこのような『三部経』におけるお釈迦さまの説法が間違っていなかったならば、それを正しく解釈した善導大師の注釈書が間違っているはずがありません。


高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。

『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「もしも本願が、まことであるとするならば」と領解する人が多くあります。
ですが、この章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、決死の覚悟で訪ねた時に仰ったお言葉です。
弥陀の本願が「まことか、どうか」をお尋ねした同行に、聖人が「もし、まことであるならば」と仮定で語られたとすれば、何の解答にもなりません。なぜ、答えにならない答えをされたのか、解説者は説明に苦心してきました。
例えば

延塚知道氏著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、この一節は
『歎異抄』は、『観経』の伝統の中から生まれてきた書物であることを伝えようとしていると解説しています。

釈尊が『観無量寿経』で説かれた「弥陀の本願」を、善導大師が『観無量寿経疏』で注釈され、それをそのまま法然上人、親鸞聖人が伝えられているという「伝統」を示すものだと言うのです。「本願まことか、どうか」を命懸けで聞きに来た同行に、聖人がそんな「伝統」を語られるはずがないでしょう。

また、山崎龍明氏著『初めての歎異抄』は、
「親鸞聖人はやや遠慮がちにいっています」と解説していますが、聖人が「本願まこと」を「遠慮がち」に語られることなど、考えられません。

仮定で語られることすら「本来、親鸞にはありえない」のだと、
石田瑞麿氏著『歎異抄 その批判的考察』は、こう批判します。

「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視されたり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえないことがわかる。それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれなものだったことによる。

関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったから、『歎異抄』だけは、本来ありえない表現がなされたというのでは、取って付けたような説明です。

「仮定」で解釈する従来の説は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、
佐藤正英氏著『歎異抄論註』の解説は、

「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて解したのでは文意が死んでしまう。従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられているのだろう。親鸞は、阿弥陀仏の誓願が〈真にして実なる〉ものであることを己れの〈知〉において捉えているわけではない。〈信〉を抱いているにすぎない。いいかえれば己れの〈信〉においてのみ阿弥陀仏の誓願は〈真にして実なる〉ものとして現前している。その〈信〉の地平を明示せんがためであろう。

この説明は、「……であろう」という私見にすぎません。親鸞聖人は、「弥陀の本願まこと」を自分の知恵で“知っておられた”のではなく、「〈信〉を抱いているにすぎない」ことを明示されたのであろう、と推測するにとどまっています。肝心なのは、「弥陀の本願まこと」だと「〈信〉を抱いている」という、その「信」の意味です。これがご自分の心で信じ固めた「信念」にすぎないのか、阿弥陀仏から頂いた「他力の信心」なのか、最も大切なことが書かれていません。

安良岡康作氏著『歎異抄 全講読』も、この一節の「明言・確説は、話し手である親鸞の信念によって証得されたものである」と解説していますが、これでは聖人はご自分の心で信じ固めた「信念」を語られていることになります。

『歎異抄をひらく』では、「弥陀の本願まこと」と疑い晴れた心は、ひとえに弥陀から賜る「他力の信心」であると明言されています。

弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。
このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。

そして『ひらく』では、「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「まことならば」と「仮定」で語られたのではなく、「弥陀の本願まことだから」という「断定」であると、根拠を挙げて明快な解説がなされています。

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法  (教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします  (歎異抄)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。

「弥陀の本願まこと」と、いくら言っても言い足りないのが他力信心なのです。
各人各様の推測や私見をどれだけ読んでも、「弥陀の本願まことにおわしまさば」の理解はおぼつかない。

 
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*延塚知道……大谷大学教授

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

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2010/07/17

『歎異抄』解説書の比較対照【12】《『歎異抄』解説本を比較する意義》

前回(《弥陀の救いは平生の一念 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●『歎異抄』解説本を比較する意義

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す」
(『歎異抄』序)

〔意訳〕
決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない。このような願いから、かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記しておきたい。

『歎異抄』の著者は、後の人が断じて「自見」(自分の勝手な判断)によって教えを曲げることのないようにと、耳の底に残る親鸞聖人のお言葉を、泣く泣く書き記しました。
それから七百年たった今、聖人の願いもむなしく、『歎異抄』は「自見」や「私見」「主観」で奔放に解釈され、根拠のない無責任な解説がまかり通り、親鸞聖人の教えが大きく誤解されています。
異説を正すために書かれた『歎異抄』が、新たな異説・誤解を生んでいるのです。

親鸞聖人が直接、書かれたお言葉を示して、世間に流布した誤謬(あやまり)を正さねばなりません。

高森先生のご著書『歎異抄をひらく』が、聖人自作の『教行信証』や、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、古今の間違いや曖昧さをどのように正し、『歎異抄』の真意をひらいているか、比較してみたいと思います。

●弥陀の救いは信心一つか、念仏か

『歎異抄をひらく』が世に出てから三カ月後、山崎龍明著『初めての歎異抄』という書が出ました。
これは平成18年のNHK番組「こころの時代 歎異抄を語る」のテキストをもとに出版した本です。
新たに書かれたものではありませんが、著者は武蔵野大学の教授で、現役の『歎異抄』研究者の中ではトップレベルと評されています。
その最新刊となれば、今の真宗界を代表する解説書といえるでしょう。

今日は、この本と『歎異抄をひらく』を比較しながら、『歎異抄』の特に誤解されやすい点を検討していきます。

●「ただ念仏して」の誤解

〔原文〕

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 (『歎異抄』二章)

〔意訳・山崎龍明『初めての歎異抄』〕
この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われて、広大な世界に生まれていくだけです」という法然聖人のお言葉を信じているだけで、ほかになにかの理由があるわけではありません。

〔意訳・高森先生『歎異抄をひらく』〕
親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。

『歎異抄』二章の「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の「ただ」の誤解が甚だしい。
「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と思っている人が非常に多くあります。

山崎氏もそう解説していますが、”ただ念仏を称えて救われる”という一般的な解釈だけでは心配なのか、念仏より信心を重んずる別の解釈もあると、次のように言葉を濁しています。

(『初めての歎異抄』)
この「ただ念仏」という語は、一般的には文字どおり「ただ念仏」するということで、ここの「ただ」とは「念仏し」にかかる副詞です。

しかし、この「ただ」はあとの「信ずるほかに別の子細なきなり」の「信ずる」にかかると指摘する人もいます(前掲、佐藤正英『歎異抄論註』)。
親鸞聖人は念仏を称えることよりも、「信」ずることを中心にしたという立場からの指摘のようです。

他人事のような書き方ですが、山崎氏本人は「親鸞聖人は念仏を称えることよりも、『信』ずることを中心にしたという立場」ではないようです。
ですが聖人の教えは、「『信』ずることを中心にした」どころではありません。
“信心一つで救われる”というのが、一貫した聖人の教えであり、これ以外に九十年の生涯、教えられたことはなかったのです。
これを間違えたら、「ただ念仏して」はおろか親鸞聖人の教えすべてを誤解することになってしまいます。
その最も大事な教説の根拠を、『歎異抄をひらく』では繰り返し提示されているのです。

以下はその一部です。

(『歎異抄をひらく』150ページ)

「涅槃の真因は唯信心を以てす」(教行信証)

浄土往生の真の因は、ただ信心一つである。

「正定の因は唯信心なり」(正信偈)

仏になれる身になる因は、信心一つだ。

(『歎異抄をひらく』173ページ)

聖人の教えは一貫して、信心一つの救いだから、「唯信独達の法門」といわれることは、既に詳述した(150ページ)。
『歎異抄』では「ただ信心を要とす」(第一章)と明示し、蓮如上人の証文も多数にのぼる。
ほんの数例、『御文章』から挙げてみよう。

「往生浄土の為にはただ他力の信心一つばかりなり」
(二帖目五通)

浄土へ往くには、他力の信心一つで、ほかは無用である。

「信心一つにて、極楽に往生すべし」(二帖目七通)

信心一つで、極楽に往生するのだ。

「他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく
往生すべきことの、更に何の疑いもなし」
(二帖目十四通)

他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。

最も人口に膾炙されるのは、次の『御文章』だろう。

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」(五帖目十通)

親鸞聖人の教えは”信心一つで助かる”という教示である。

蓮如上人は断言されている。

『歎異抄をひらく』では、”信心一つで助かる”という聖人のお言葉を根拠
に、「ただ念仏して」の「ただ」は、他力信心を表す「ただ」であると詳説
され、「ただ念仏さえ称えたら救われる」という世の迷妄を正されています。

そして次の「念仏して」は、救われた喜びから噴き上がる「報謝の念仏」になることも、根拠を挙げて説示されています。

「ただ」は一般的にはこういう意味、また別の指摘もあるという「私見」の羅列を、親鸞学徒は容認してはなりません。

モノサシとすべきは、親鸞聖人のお言葉なのです。

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2010/06/18

『歎異抄』解説書の比較対照【11】《弥陀の救いは平生の一念》

前回(《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●弥陀の救いは平生の一念

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり(『歎異抄』第一章)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳

阿弥陀如来の本願のはたらきによって大涅槃の真実に触れてたすけられたものは、自己の本来の世界である浄土(大涅槃の真実)へ往き生まれる道が決定されたと信じて、念仏申そうという心が湧き上がってくる。
その時、如来の大悲に迷いの身の全体が丸ごと摂め取られて、人生の全体がどう転んでも涅槃の真実に向かうのだと決定されて、退くことのない精神の大地を得るのである。


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

『歎異抄』一章の冒頭では、「摂取不捨の利益」の弥陀の救いにあずかる時を、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」と言われています。
ここで親鸞聖人が「すなわち」と仰ったのは、弥陀に救われた「一念」を表す、限りなく重い「すなわち」です。
ですから「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」とは、「平生の一念」のことだと、『歎異抄をひらく』では次のように解説されています。

弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。 (『歎異抄をひらく』)

ところが、先に引用した延塚氏は、「すなわち」を「その時」と意訳しています。他の解説書も同様です。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の意訳では、

阿弥陀仏のお誓いの不思議なお力にお助けいただいて、極楽浄土に生まれることができるのだと信じて、念仏を称えようと思いたつ心がおこるとき、同時に、阿弥陀仏は、そのお光のなかにおさめとってお捨てにならない救いの恵みにゆだねさせになるのである。

と言い、

山崎龍明著『初めての歎異抄』では、

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

と意訳してあります。

「すなわち」を「その時」「同時に」「ただちに」とばかり意訳され、それ以上の解説は皆無です。
これでは、誰が、弥陀の救いは「一念」だと知りえるでしょうか。

弥陀の救いの「一念」を親鸞聖人は、分秒にかからぬ「時尅の極促」と説かれています。

「一念」とは、これ信楽開発の、時尅の極促をあらわす(『教行信証』)

「『一念』とは、弥陀に救われる、何億分の一秒よりも速い時をいう」

「一念の救い」は、弥陀にしかない救いであり、親鸞聖人が最も強調されることです。

覚如上人は「真宗の肝要、一念往生をもって、淵源とす」(口伝鈔)

とまで言われ、「一念往生」(一念の救い)こそが、仏教の「肝要」であり「淵源」だと喝破されているのです。
「肝要」も「淵源」も、仏教では唯一の大事であり、これ以上に重い言葉はありません。

ですから蓮如上人は『御文章』に60回以上も「一念」という言葉を記され、『御一代記聞書』には「たのむ一念の所肝要なり」と道破なされているのです。

親鸞聖人が、「一念」を「すなわち」と表現されているお言葉を挙げておきましょう。

本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり

(『愚禿鈔』)

これは、聖人が弥陀の本願を解説されたものです。
こんな短いお言葉に、2ヶ所も「即(すなわち)」と言われています。
「即の教え」と親鸞聖人の教えがいわれるのも、うなずけます。
「本願を信受する」とは、「阿弥陀仏の本願まことだった」とツユチリほどの疑いも無くなった「一念」ですから、「聞即信」といわれます。
その「一念」を聖人は、仮に「前念」と「後念」に分けられて、前の命の死と後の命の生とを説かれたのが、「前念命終 後念即生」です。

親鸞聖人は「即(すなわち)」を『唯信鈔文意』に

「『即』はすなわちという、『すなわち』というは時をへだてず日をへだてぬをいうなり」

と、一念のことだと明示されています。
「即得往生」とは、本願を信受した、聞即信の一念で救われた(往生を得る)ことです。
このように親鸞聖人は、平生の心の臨終と誕生の「一念」を、「即(すなわち)」で表されます。

親鸞聖人のこの「即(すなわち)」を知らないから、『歎異抄』の「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」を水際立った「平生の一念」と解説する書がないのです。

事実、親鸞仏教センター著『現代語歎異抄』でも

「本願に従おうというこころが湧き起こるとき」

と意訳し、

梅原猛著『誤解された歎異抄』では

「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき」と意訳しています。

「湧き起こる」「芽ばえ始める」では、「念仏申さんと思いたつ心」が「一念の弥陀の救い」とは、全く分かりません。

一念の「念仏申さんと思いたつ心」がどんな心かを表明されたのが、一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて」です。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とは、弥陀の誓願によって摂取不捨の利益に救い摂られ、誓願不思議を不思議と知らされたこと。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」とは、”必ず浄土へ往ける”と、往生がハッキリした後生明るい心です。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、
「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、
「念仏申さんと思いたつ心」
「摂取不捨の利益」も、
表現が違うだけで、同じ心です。

同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』は、

「浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この『念仏申さんと思ひ立つ心』が『起る』」

と解説しています。「往生をば遂ぐるなりと信じた」心に催されて、「念仏申さんと思いた

つ心」が起こるという主張です。

佐藤正英著『歎異抄論註』も、一章冒頭の言葉は、同じ「信心」を別の面から表したものではなかろうか、と推測するに止まります。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき」

という文へもう一度戻ってみよう。ここでは、信じてそれから念仏を称えようとか、信じてのちにその

あとで念仏を称えようといったような、両者の間になんらかの間隙が入りうるような、たるんだ関係が語られているのではない。(中略)〈信〉を持つ

ことを別の面から語ったものではなかろうか。(佐藤正英『歎異抄論註』)

「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」は「平生の一念」だと明言される『歎異抄をひらく』は、他の解説書とは、根底から異なる書だと知らされます。

。。。。。。。

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、
『歎異抄』。『本願寺新報』に教学の解説をしばし掲載している

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2010/06/17

『歎異抄』解説書の比較対照【10-2】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

前回(『歎異抄』解説書の比較対照【10-1】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●「無碍の一道」は「念仏」だという誤解

煩悩にまみれた人間の生活は、常に碍りだらけで、「無碍」になることなど、想像もできません。そこで多くの論者が、「無碍」というのは、「弥陀に救われた人(念仏者)」のことではなく、「称える念仏」のことだと理解します。
彼らは「念仏者は無碍の一道なり」を、「”念仏は”無碍の一道なり」と読んで、次のように意訳します。

佐藤正英著『歎異抄論註』の意訳

念仏はなにものにも妨げられない絶対的な手だてである。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』の意訳

念仏を申すことは、何ものもさまたげることのない、ただ一つの通路である。

「念仏」は何ものにも妨げられないと聞いても、理解できる人はないでしょう。

『歎異抄』七章では「念仏者」を、すぐ後で「信心の行者」と言い換えられているのですから、「念仏者」は当然、「弥陀に救われ念仏する者」の意味であることは明々白々です。

●救われて無くなる「碍り」とは

そこで問題は、弥陀に救われた人は、どんな「碍り」が無くなるのか、ということです。

『歎異抄』七章の終わりに「罪悪も業報を感ずることあたわず」とありますから、「念仏者は、罪悪感から解放される」「念仏すれば、悪の報いを受けずに済むのだろう」と思う人さえあるようです。

しかし、罪悪感から解放され、罪を犯しても平気な不道徳人間になったら、社会ではとても生きられません。まして、弥陀に救われたら、悪の報いを受けなくなると主張すれば、悪因悪果・自因自果の「因果の道理」を破壊することになります。

そこで、罪悪感が無くなるのでも、悪の報いが消えるのでもありませんが、業の報いを恐れなくなることが「無碍の一道」だという、苦渋の説明がなされるのです。

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の解説

念仏を信ずれば業の報いを恐れなくてよいといいたいのでしょう。罪悪感が不必要だと主張すると、倫理否定になるからね。(中略)倫理に苦しむこころからの解放を得るということでしょう。

「倫理」の「否定」ではなく「解放」だと言われても、意味不明でしょう。

梅原猛氏は全く別の解釈をし、「無碍の一道」とは、この世とあの世を自由に往復することだと言うのですが、これも根拠なき私見に過ぎません。

梅原猛著『誤解された歎異抄』の解説

念仏行者は、自由にこの世とあの世の間を往復する人間である。だからそれは、絶対自由の行者であり、天神・地祇も敬服し、魔界、外道も障礙することはない。

意味不明な解釈や想像があふれる根本原因は、仏教の究極の目的が分からないところにあります。

●仏教の究極の目的は「浄土往生」

「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、”浄土往生”であることを確認しておかなければなりません。

仏教は後生の一大事に始まり、その解決に終わる。後生の一大事を解決して、弥陀の浄土へ往生することが、仏法の究極の目的なのです。
(※後生の一大事について詳しく知られたい方は、コチラをお読みください。» » 後生の一大事について(1)  親鸞会.NET仏教講座)

弥陀に救われたとは、”いつ死んでも浄土往生間違いなし”の身に救い摂られたことです。この大安心を「無碍の一道」というのですから、「無碍」の「碍」とは、浄土往生のさわりです。

弥陀に救われた往生一定の大満足は、何ものも妨げることができないから「無碍の一道」と言われるのです。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』では、「無碍」とは、悪業煩悩が往生の障りとならないことだと示唆しているものの、信心の行者は「過去の悪業の報いから解放される」と、誤解を招く表現をしています。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の解説

「罪悪モ業報ヲ感スルコトアタハス」ということは、「信心ノ行者」の「無碍ノ一道」を行く、そのすがたということができる。「信心ノ行者」はみずからかつて犯してきた過去の悪業の報いから解放されることができるわけである。

『歎異抄をひらく』では、「無碍の一道」を、次のように明解されている。

「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、”浄土往生”であることを確認しておかなければならないだろう。

ゆえに「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、”浄土往生の障り”のことである。

弥陀に救い摂られれば、たとえ如何なることで、どんな罪悪を犯しても、”必ず浄土へ往ける金剛心”には、まったく影響しないから、

罪悪も業報を感ずることあたわず(『歎異抄』第七章)

いかなる罪悪も、「必ず浄土へ往ける身になった」弥陀の救いの障りとはならない。

と言明し、「念仏者は無碍の一道なり」と公言されるのである。

ではなぜ、悪を犯しても往生の障りにならぬのか。

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに(『歎異抄』第一章)

ひとたび弥陀の救いに値えば、どんな罪悪を犯しても、自分の罪の深さに怖れおののき、
浄土往生を危ぶむ不安や恐れは皆無となる。弥陀の本願に救われた往生一定の決定心を、
乱せるほどの悪はないからである。

何ものも崩せぬ、邪魔だてできぬ、不可称・不可説・不可思議の世界が信楽(信心)だから、「無碍の一道」と聖人は喝破されたのだ。

同時に「無碍の一道」の素晴らしさは、いかなる善行を、どんなに励んだ結果も及ばぬ、十方法界最第一の果報であるから、

「諸善も及ぶことなし」(第七章)
「念仏にまさるべき善なし」(第一章)
『歎異抄』の中でも特に知られる「無碍の一道」ですが、仏教の究極の目的は「浄土往生」という出発点を誤れば、正しい理解は望むべくもないでしょう。

と、『歎異抄』は宣言するのである。

。。。。。。

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山崎龍明

元・西本願寺教学本部講師
武蔵野大学教授
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

佐藤正英

東京大学名誉教授
日本倫理思想史、倫理学の研究者

安良岡康作

国文学者
東京学芸大学名誉教授

親鸞仏教センター

真宗大谷派の学者の集まり
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

梅原 猛

日本を代表する哲学者
京都市立芸術大学名誉教授
国際日本文化研究センター名誉教授
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数

石田瑞麿

元・東海大学教授
浄土教の研究に専心
著書多数

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