2010/04/16

比較対照『歎異抄をひらく』【7】 なぜ東大教授も誤読したのか 親鸞会.NET

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《急ぎ仏になりて》)
http://www.shinrankai.net/2009/12/hikak-2.htm
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。


《原文》


「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)



『誤解された歎異抄』梅原猛著の意訳


阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。




『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
かつて親鸞研究の第一人者として、自他ともに認める東大教授が、この一節を誤読して、大きな問題を起こしたことがあります。

氏は、ここを「心から阿弥陀仏の救いを信じて念仏をとなえれば、ただ一度の念仏で極楽往生が約束される」と解釈し、高校の教科書『詳説日本史』にもそう記したのが発端でした。

「あれでよいのか」の告発意見が、毎日新聞の投書欄などに続出した。
親鸞聖人の教えは漢字四字で「信心為本」「唯信独達」と言われるように、信心一つで助かるという教えです。
弥陀の本願に疑い晴れた一念で、浄土往生間違いない身に救い摂られるのです。
東大教授が言うように、「ただ一度の念仏で救われる」のであれば、信心獲得した直後、一度も念仏を称えずに死んだ人は、極楽へは往けないことになります。

ですから、ある投書氏などはダイレクトに、

「弥陀の本願の『信』がこもった直後、一度の念仏も称えずに死んだ者は、往生が決定しなかったのか」と牙城に迫りました。

自他ともに認める親鸞研究の権威、どんな回答を寄せるか、大いに固唾をのませた教授の返答は、何ともそっけない落胆させるものでした。
「返事になるかどうか分かりませんが、『歎異抄』をよくよくお読みください。それがすベてです」


■救いは信心一つか念仏か


果たして『歎異抄』には、教授が言うように「念仏称えたら助かる」と書かれているのか、それとも「信心一つで助かる」と書かれているのか。

一章冒頭には、

「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(『歎異抄』第一章)

とあります。
「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」とは、弥陀に救い摂られ極楽往生が決定したことです。それが、
「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」
と説かれています。
これでは極楽往生が決定するのは”念仏称える前”であることは、誰の目にも明白です。

教授の解釈をめぐって、新聞紙上にも活発な意見が多数掲載され、浄土真宗の学者たちも登場し、「某教授の説は誤り」「訂正さるべき」と痛烈な批判が公表されました。

それでも沈黙を守っていた教授は、間もなく自説を撤回し、「念仏を唱えようかなと思い立つ心の起こるとき、直ちに、弥陀のすくい取って捨てることない利益にあずからせてくださるのだ」と訂正。

問題の教科書も、”親鸞の教えは念仏で救われるのではなく、信心一つの救いである”と改訂されました。

こんな親鸞聖人の教義の、核心にかかわる誤りが、なぜ起きたのでしょう。

それは『歎異抄』の「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」を、「一度の念仏を称えたとき」と、勘違いしたところにあったのです。
「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」と、「念仏称えたとき」とは、明らかに前後があるのに、です。
東大教授・親鸞研究の大家でも、いかにも誤りやすいのが『歎異抄』ともいえましょう。


■典型的な『歎異抄』の誤解


多くの解説書が『歎異抄』一章を、東大教授と同様に、「念仏を称えたら助かる」と解釈している。冒頭に引用した梅原猛著『誤解された歎異抄』も、ここを念仏の救いを説かれた章と解説しています。

これは、親鸞の思想であると同時に法然の思想でもある。口称念仏の行はまことに易しい行であり、末代の凡夫でも可能である。(中略)知恵もなき徳もなき末代の凡夫は、念仏往生するより往生の道はない。
(梅原猛『誤解された歎異抄』)


『歎異抄 全講読』安良岡康作著も、人間の信心から発する念仏で救われると書いています。

弥陀の誓願に対する人間の信心がいかにして成立するか、また、それにもとづいて発する念仏によって、弥陀の摂取の利益に参加させ給うに至るかが、極めて緊張した、無駄のない文体で、力強く叙述されている
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)


『歎異抄』には「念仏」が頻出するから、このような”念仏称えたら救われる”という誤解は後を絶ちません。

■弥陀の救いはいつか

「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」を、単純に「念仏称えたとき」と理解する人がほとんどですが、『歎異抄をひらく』では、これは「念仏称えたとき」ではなく、弥陀に救われた「一念」だと解説されています。

弥陀の救いの時は、「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」と、平生の一念であることが明言されている。(140ページ)

「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき(一念)」と、「念仏称えたとき」とは、前後があるのだから、明確に区別されなければなりません。
その信の一念の水際を知らず、自力と他力の峻別ができないから、「念仏称えたとき救われる」と誤解していくのです。


『歎異抄論註』佐藤正英著
などは、この二つを区別するどころか、一体化させるような解説をしています。

「念仏まふさんとおもひたつ」とは、それ故、往々誤解せられているような、たんに念仏を称えようという考えを起す、の意ではない。
念仏を称えようという考えを起し、進んで念仏を称える、の意である。
念仏を称える行為をそれ自身に内包しているところの言い廻しである。
(佐藤正英『歎異抄論註』)


このような、弥陀の救いが、ますます分からなくなる解説に対し、『歎異抄をひらく』では、「南無阿弥陀仏」の「な」も言わない前の、”称えよう”と思いたつ心の起きた一念に救い摂られると明言されています。

■「念仏申さん」と思いたつ心

次に問題になるのは、「念仏称えようと思いたつ心」とは、どんな心かということです。
“念仏称えよう”と思いたつ心のおきたとき、といっても、いろいろの場合が考えられます。

夜中に一人で、墓場の近くを歩いている時に称えようと思う念仏もあるでしょう。
無意識であっても、魔よけの心が働いているのかもしれません。
肉親の死にあって、悲しみに暮れて称える念仏もあろう。台本にあるから仕事心で称える俳優の念仏もあるだろう。”念仏称えようと思いたつ心”といっても、様々です。
科学的に分析すれば同じ涙でも、”うれし涙”やら”悲し涙”"悔し涙”など、心はいろいろあるように、同じく南無阿弥陀仏と称えていても、称え心はまちまちです。


親鸞聖人は、念仏を称え心によって三とおりに分けられています。


弥陀が十九願で誓われ、それを釈迦が『観無量寿経』で解説された念仏を、聖人は「万行随一の念仏」と言われ、

二十願で誓われ『阿弥陀経』に説かれる念仏を「万行超過の念仏」、

十八願で誓われ、『大無量寿経』に説かれる念仏を「自然法爾の念仏」と教えられています。

これら三とおりの念仏を『歎異抄をひらく』では、平易に詳説されています。

万行随一の念仏――十九願――観無量寿経
万行超過の念仏――二十願――阿弥陀経
自然法爾の念仏――十八願――大無量寿経


■参考

【マンガ】念仏にも三とおりある(1/2)|浄土真宗親鸞会

※浄土真宗 親鸞会公式サイト|念仏を称えてさえいれば助かるのが浄土真宗ではないのか(三通りの念仏)

※浄土真宗親鸞会★朋ちゃんHappy diary♪ ≫ Blog Archive ≫ ★三通りの念仏 『顕正新聞』2月1日号に!!★


同じく念仏称えていても、「諸善よりも勝れているのが念仏」ぐらいに思って称えている念仏者(万行随一の念仏)もあれば、「諸善とはケタ違いに勝れた大善根が念仏だ」と、専ら称える念仏者(万行超過の念仏)もいる。
称え心を、もっとも重視された聖人は、これらの念仏者を総括して自力の念仏者と詳説される。
それとは違って、弥陀に救われた嬉しさに、称えずにおれない念仏者(自然法爾の念仏)を、他力の念仏者と聖人は判別されている。
聖人の念仏者とは、いつもその中の、他力の念仏者であり、弥陀に救われた信心獲得の人のことである。(234ページ)

■「念仏申さんと思いたつ心」=「他力の信心」

一章の「念仏申さんと思いたつ心」に戻ろう。これがどんな心かを表明されたのが、冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて」です。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とは、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)にあずかって、弥陀の誓願不思議だった”と知らされたこと。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」とは、”必ず浄土へ往ける”と、往生が本決まりになった後生明るい心です。

この「信じて」は、世間で使う「明日は晴れると信じている」というような「信じる」とは、根本的に異なります。

「信知して」ということであり、ツユチリほどの疑いも無く「明らかに知らされたこと」である。”必ず浄土往生できる”とハッキリしたことを、「往生をば遂ぐるなりと信じて」と言われているのです。

言葉に前後があります、「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、「念仏申さんと思いたつ心」「摂取不捨の利益」も同じ心だが、同時に書いたり、言ったりはできないから、前後のできるのは仕方がないのです。

これらは弥陀より賜る心ですから、「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」と言われています。弥陀よりあずけしめたもう心であるから、「他力の信心」といわれます。
「他力」とは、”弥陀より賜ること”。

「念仏申さんと思いたつ心」は、「他力の信心」にほかなりません。
「唯信独達」の「信」も、「念仏申さんと思いたつ心」であり、この心を弥陀から賜った一念に、摂取不捨の利益に生かされるのです。

しかし、「念仏申さんと思いたつ心」イコール「他力の信心」という解説は、皆無に等しい。反対に、この二つを別ものと考え、念仏称えようという心が無くても救われると解説する本さえあります。


『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿
著は、

「念仏を称えようと思うことの有無にかかわらず、信心がえられたとき、摂取不捨の利益に与(あずか)る」
と書いています。
これでは、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、摂取不捨の利益にあずかる」と書かれた一章を否定することになるでしょう。

一章は冒頭から、勝手な解釈がまかり通っているから、『初めての歎異抄』山崎龍明著では、「念仏申さんと思いたつ心」を、真理への「うなずき」だと、無責任な自見を述べています。


「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」とあるとおり、念仏を申して救われるのではなく、そのこころがおこるとき、すでに「救済」されていると示されます。
言葉をかえていえば、それは「真理」なるものへの「うなずき」が生じたとき、といってもよいかもしれません。ここに「信心」の重さが示されています。
(山崎龍明『初めての歎異抄』)


聖人の教えで最も重い「信心」が、かくも軽い感覚で解説されているのです。
まして、「往生をば遂ぐる」を「この世で新しい生活が始まる」と言い換え、仏法の究極の目的である「浄土往生」が抜けてしまった『現代語歎異抄』親鸞仏教センター著の意訳まで飛び出す始末です。

人間の思慮を超えた阿弥陀の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して、本願に従おうというこころが湧き起こるとき、迷い多きこの身のままに、阿弥陀の無限なる慈悲に包まれて、不動の精神的大地が与えられるのである。
(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)


肝要の「他力の信心」を表す「念仏申さんと思いたつ心」が、真理への「うなずき」とか、「本願に従おうというこころ」程度に訳されているのですから、後は推して知るべしでしょう。

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*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授。
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数

*安良岡康作…国文学者。
東京学芸大学名誉教授

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*石田瑞麿……元・東海大学教授。
浄土教の研究に専心。著書多数

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』。
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

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