2012/08/23
「念仏者は無碍の一道なり」の「碍」とは? 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第25回
『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第25回 親鸞会.NET
往生浄土が
仏教の究極の目的
原文
念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。
(『歎異抄』第7章)
延塚知道氏著
『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳では、
本願の名号を称える者は、すべての束縛から解放された自由な道に立つことができる。その理由はなぜかと言えば、本願を信じる者には天の神や地の神が敬いひれ伏すからである。反対に、悪魔や外道も何の障りにもならない。また自分が犯した罪の一切を他力の信心が引き受けてくれるから、悩む必要はないし、善も誇る必要はない。他力の信念には善悪を超えた自由な道が開かれるのである。
とあります。
高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』では、
弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。
と意訳されています。
●一切が障りにならぬ幸福
冒頭で聖人は、弥陀に救われた「念仏者」は、「無碍の一道」に生かされると宣言されています。
「無碍」の「碍」とは、「障り」のこと。
障りだらけの人生を、夏目漱石は「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と嘆息しています。
そんな中、一切の障りが、障りのままで障りとならない絶対の幸福の厳存を説破されたのが、『歎異抄』7章なのです。
不自由の中に自在の自由を満喫する「無碍の一道」こそ、すべての人の求めてやまない究極の目的であり、これ以外、親鸞聖人の教えられたことはありません。
ところが、最も知りたい「無碍の一道」が、どの『歎異抄』解説を読んでも、要領を得ないのです。
その原因は、仏教が何を教えたものか、その目的が抜けた解説だからでしょう。
仏教は「後生の一大事」を知るところから始まり、「後生の一大事」の解決で終わります。後生の解決一つ、説かれたのが仏法ですから、この大事が抜けてしまったら、仏法は何十年聞いても全く分からないのです。
●後生の一大事とは
では「後生の一大事」とは、どんなことでしょうか。
「生ある者は必ず死に帰す」といわれるように、私たちは、やがて必ず死なねばなりません。何人も逃れることのできないものが、死です。死ねば来世であり、「後生」ともいいます。
「後生」は万人の、100パーセント確実な未来です。一休は、「世の中の 娘が嫁と花咲いて カカアとしぼんで 婆と散りゆく」と歌っています。これが女性の一生であり、男性も呼び名が違うだけで、すべて同じコースをたどります。
50年ないし100年で、このコースをたどり、行き着く先は「後生」です。若くして交通事故で死んだ人に「老後」はありませんが、「後生」は間違いなくあります。たとえ生まれた直後に死んでも、例外なく飛び込んで行く世界が、「後生」なのです。
何万年前も、今も、何万年後も、人間が死んでいくことに変わりはありません。日本、アメリカ、中国、いずこの国でも、後生のない人はいません。いつでもどこでも、三世十方を貫いて、すべての人の確実な未来が「後生」です。
人間、死んだらどうなるのか。後生は有るのか、無いのか。有るとすれば、どんな世界か。これは古今東西の全人類に関わる、人間存在そのものの大問題です。これ以上の大事はないから、仏教で「後生の一大事」と言われます。
ところが、こんな根本問題を、誰も口にしないし、気にもかけていません。大騒ぎしているのは、有るやら無いやら分からない老後や年金、また地震、津波、竜巻、原発事故のことばかりです。
一大事を一大事とも思わぬ顛倒の妄念(てんどうのもうねん・仏眼から見ると逆立ちしている、間違った考え)で、後生は頭下足上(ずげそくじょう)、真っ逆さまに苦患に沈む私たちを、必ず救うと誓われたお約束が、阿弥陀仏の本願です。
弥陀の本願に救われ、後生の一大事を解決したとは、弥陀の浄土へ必ず往ける「往生一定」の身になったことをいいます。
この「浄土往生」一つが、仏教の目的なのです。
だから『歎異抄』で「無碍の一道」と言われているのは、仏教の目的「後生の一大事の解決」を果たして、必ず「浄土往生」できる身になったことです。
「無碍」とは、一切が“浄土往生の障り“にならなくなったことだと、『歎異抄をひらく』には、次のように解説されています。
「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、“浄土往生“であることを確認しておかなければならないだろう。
ゆえに「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、“浄土往生の障り“のことである。弥陀に救い摂られれば、たとえ如何なることで、どんな罪悪を犯しても、“必ず浄土へ往ける金剛心“には、まったく影響しないから、
罪悪も業報を感ずることあたわず
(『歎異抄』第7章)
いかなる罪悪も、「必ず浄土へ往ける身になった」弥陀の救いの障りとはならない。
と言明し、「念仏者は無碍の一道なり」と公言されるのである。
●要の抜けた解説書
仏法がただ一つ教える「後生の一大事」が分からなければ、仏法は全く始まりません。
後生とも一大事とも知らず、まだ仏法の入り口にも立たない者が、仏教の真髄を露出された『歎異抄』を解釈していては、デタラメな解説が氾濫してしまいます。
冒頭に引用した延塚知道氏著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』も、その一つです。
この本を監修したのは、真宗大谷派・教学研究所の所長、小川一乘氏です。大谷派の教学トップが太鼓判を押した、この書では「無碍の一道」を、「すべての束縛から解放された自由な道」「善悪を超えた自由な道」と意訳しています。そして、その善悪から解放された境地を、「善悪、好き嫌い、勝ち負け」にこだわる「執着」から解放されたことだと解説しています。
弥陀に救われたとは、勝ち負けとか優越感と劣等感の間で苦しむことのない、「身も心も柔らかになって、何事も喜んで負けていけるような生き方」に転じたことだというのです。
「無碍」と聞いても、何の障りが無くなることか分からないから、「煩悩(執着)が無くなること」だと勘違いしているのです。
山崎龍明氏著『初めての歎異抄』も同様に、心の持ちようが変わる程度に説明しています。
苦しみは苦しみのままに、悲しみも悲しみのままに我が身にうけとめて生きていける世界が開かれます。そこから、これが私の人生であった、これでよかったという慶びの中に生きる自己の発見があります。
『歎異抄』7章後半に、「罪悪も業報を感ずることあたわず」とあるから、「念仏者は、罪悪感から解放される」と誤解する人もあります。
例えば安良岡康作氏著『歎異抄 全講読』は、
人間の誰もが抱く罪悪感からの解放は、「信心の行者」となることによってのみ実現する
と、平然と述べています。それでは倫理の否定になると、
親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』は批判しますが、その主張も、似たり寄ったりです。
念仏を信ずれば業の報いを恐れなくてよいといいたいのでしょう。罪悪感が不必要だと主張すると、倫理否定になるからね。(中略)倫理に苦しむこころからの解放を得るということでしょう。
佐藤正英氏著『歎異抄論註』も、浄土往生についてのことだろうと、推測するにとどまっています。
念仏を称えるかぎり、『真にして実なる』浄土に往生するについて、念仏者がそれまでに為したさまざまな悪しき行為もその報いを目のあたりに現し妨げとなることはできない、といったほどの意であろう。
後生の一大事の解決一つを目的とする、まことの仏法からいえば、「無碍」が「浄土往生の障りが無くなったこと」であるのは、常識です。『歎異抄をひらく』が発刊されて4年間、誰も反論できず、沈黙が続いています。
今まで、いかに仏法のイロハもわきまえぬ解説が横行していたか、この重い沈黙が証明しているといえましょう。
親鸞会では、後生の一大事と、その解決1つを明らかにしています。
*延塚知道氏……大谷大学教授
*金剛心……どんな人から、どのように攻撃されても微動だにもしない信心のこと
*山崎龍明氏……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授
*安良岡康作氏……国文学者。
東京学芸大学名誉教授
*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている
*佐藤正英氏……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者
関連記事:
- None Found