2010/04/12

比較対照『歎異抄をひらく』【6】「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《急ぎ仏になりて》)
http://www.shinrankai.net/2009/12/hikak-2.htm

に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

<原文>

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに
(『歎異抄』一章)


『誤解された歎異抄』梅原猛(※1)著の意訳

それゆえ、この阿弥陀さまの本願を信ずるためには、他の善をなす必要は毛頭ありません。
ただ念仏すればいいのです。念仏以上の善はほかにありませんから。




『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳
ゆえに弥陀の本願に救い摂られたならば、一切の善は無用となる。弥陀より賜った念仏以上の
善はないからだ。


この一節を、梅原氏のように”本願を信ずるには、諸善は必要ない”と理解する人が多くあります。
『歎異抄 全講読』安良岡康作(※2)著も、
「本願を信じようとするに当っては、ほかの善い行いも必要ではない」と、次のように解説しています。

初めての聞き手にとっては、耳を驚かす立言であったに違いない。
本願への信心には、いかなる善行も不要であるというのであるから。
読経も讃歎も礼拝も供養も写経も布施等も、不要な雑行として退けられる
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

『初めての歎異抄』山崎龍明(※3)著も、「善根は救いには無関係」と言っています。

『歎異抄』の第一条には、「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」とあります。
つまり、阿弥陀仏の本願に生きる者は、他の一切の善根をおさめる必要がないというのです。
善根は救いには無関係だといっています。
(山崎龍明『初めての歎異抄』)


ここに、浄土真宗の堕落の原因があります。
「”本願に救われるには、善は一切いらない”と『歎異抄』に書いてあるじゃないか」と、
浄土真宗の者は積極的に善に向かおうとしません。

消極的、退嬰的な者ばかりで、ポジティブな人がいないのです。
善い種をまかなかったら、やってくるのは悪果ばかり。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはない」と、とんでもない聞き誤りをしているから、
真宗の凋落は目に余る惨状です。

ですがそれは、聖人ご在世中からあった根深い謬見でもあります。
『歎異抄をひらく』では、聖人が悪を戒め善を勧められたお言葉を提示して、その誤解を正されています。

「弥陀の本願に救われるには、念仏以上の善はないのだから、念仏さえ称えていれば、
他の善はしなくてもよい。本願で助からぬ悪はないのだから、どんな悪も恐れることはないのだ」
と得手に聞き、平気で悪を犯す輩が、聖人ご在世からあったとみえて、「放逸無慚なるまじき」と、
しばしば忠告されている。


一、二を挙げておこう。

われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも
言いなどすることは、あるべくも候わず (末灯鈔)


「これで自分は、極楽へ往けるようになったのだから」と広言し、勝手気ままに、してはならないことを
したり、思うてはならぬことを思ったり、言ってはならぬことを言ったりするなど、決してあっては
ならないことだ。
煩悩具足の身なればとて、心にまかせて、身にも為まじきことをも許し、口にも言うまじきことをも許し、
意にも思うまじきことをも許して、いかにも心の儘にてあるべしと申しおうて候らんこそ、返す返す不便に
おぼえ候え。


酔もさめぬ先になお酒を勧め、毒も消えやらぬにいよいよ毒を勧めんがごとし。「薬あり、毒を好め」と
候らんことは、あるべくも候わずとこそ覚え候
(末灯鈔)


どうせ煩悩の塊だからと開き直って、思うにまかせて、やってはならぬ振る舞いをし、言ってはならぬ
ことを言い、思ってはならぬことを思っても、これは仕方のないこと、慎む必要はないのだ、と話し合って
いるようだが、はなはだ情けない限りである。
泥酔者に、なお酒を勧め、毒で苦しんでいる者に「薬がある、どんどん毒を飲め」と言う愚者が、どこにあろうか。

真意の理解される困難さと、聖人の悲憤の涙が伝わってくる。

(『歎異抄をひらく』155ページ)

では、「本願を信ぜんには」をどう理解すべきでしょうか。
種々に解釈されてきたが、『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿(※4)著は次のような
歯切れの悪い解説をしています。

「もしも信ぜられるならば、その場合には」といった意味に解されるのが、「信センニハ」の意味するところであろう。

(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)

『歎異抄論註』佐藤正英(※5)著も、同様に言葉を濁しています。

「信じているとすれば、それ以上には」の意に解すべきではなかろうか。 (佐藤正英『歎異抄論註』)

「であろう」「ではなかろうか」という憶測が氾濫する中、『歎異抄をひらく』では、「本願を信ぜんには」を
「弥陀の本願に救い摂られたならば」と、鮮明に意訳されています。
「本願を信ぜんには」とは、「本願を信じたならば」ということです。
弥陀の本願は、信ずる一念で救うお約束だから、「本願を信じたならば」とは「本願に救い摂られたならば」に
ほかなりません。

「本願を信ぜんには」が読めないから、続く「他の善も要にあらず」も”仕事も家族もすべて重要でなくなる
ことでしょう”とか、”世間を超越して仕事に専念することでしょう”などと誤解、曲解に満ちています。

『現代語 歎異抄』親鸞仏教センター(※6)著には列記されています。

A▼広げて考えれば、自分が大事にしている家族、健康、財産、地位、名声、仕事など、この世の
あらゆる価値が、肝心なことではなくなるということでしょう。(中略)
C▼この世を超越した視点をもって、この世の仕事に専念することでしょう。


(親鸞仏教センター(※6)『現代語 歎異抄』)


仏教の目的が浄土往生であることが、まるで抜けた、論外の解釈です。
『歎異抄をひらく』では、「他の善も要にあらず」を「一切の善は無用となる」と意訳されています。

これは”浄土往生には”無用ということです。
仏法は、百年足らずの泡の一生でなく、永遠の魂の解決が説かれるから、常に浄土往生が目的です。
弥陀に救われたら”往生には”一切の善は無用ということであって、この世の生活面に善が不要という
ことではありません。

信心決定の身になったら、何もしなくても財や物が集まり、人から尊敬されると思ったら大間違いです。
善をしなければ、人生の落伍者になるだけです。
大宇宙の功徳「南無阿弥陀仏」を丸もらいすれば、いつ死んでも往生間違いなしと大満足するから、
往生のためには善は一切無用となります。
それを「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに」とおっしゃっているのです。

この真義を、『歎異抄をひらく』では次のように詳解されています。

「他の善も要にあらず」(他の善は必要ない)とは、弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った
念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、
ということである。


難病が特効薬で完治した人は、他に薬を求めようという心がないのと同じだ。他の薬に用事があるのは、
全快していないからであろう。


既に救い摂られた人に、救われるに必要な善などあろうはずがない。
善が欲しいのは、救われていない証である。


(『歎異抄をひらく』158ページ)

「カミソリ聖教」の異名を持つ『歎異抄』の中でも、とりわけ危険な誤解を生む一節だから、特に留意して
読まねばなりません。


まとめ》

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(『歎異抄』1章)

・他の『歎異抄解説書』

「本願を信ずるには(弥陀の本願に救われるには)善は一切いらないから、親鸞聖人の教えに善の勧めはない」
と聞き誤っている。
この『歎異抄』の誤解から「善をすすめぬ真宗」となり、今日の衰退をもたらした。



・『歎異抄をひらく』


「本願を信じたならば(弥陀の本願に救い摂られたならば)浄土往生のためには一切の善は無用となる」
と説かれて
いる。




■関連記事

「ただ念仏して」の「ただ」の誤解|マンガ:『歎異抄をひらく』の衝撃度|浄土真宗親鸞会 

親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【1】《ただ念仏して》
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【2】《弥陀の本願まことにおわしまさば》
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【3】「急ぎ仏になりて」
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【4】 歎異抄第一章の「往生」は「新しい生活」のこと?? (親鸞会.NET)
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【5】「ただ信心を要とす」の「信心」とは 親鸞会.NET

親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【6】「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【7】なぜ東大教授も誤読したのか 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【8】『歎異抄』と「二種深信」 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【9】『霧に包まれる「摂取不捨の利益」  親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【10】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

〔※1 梅原 猛(うめはら たけし)哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。
京都市名誉市民。文化勲章受章者〕

〔※2 安良岡 康作(やすらおか こうさく)国文学者。
東京学芸大学名誉教授。日本中世文学、国語教育専攻〕

〔※3 山崎龍明(やまざき りゅうみょう)日本の仏教学・真宗学者。
武蔵野女子学院中学校・高等学校宗教科教諭、本願寺教学本部講師、
龍谷大学文学部、駒澤大学仏教学部非常勤講師を経て、武蔵野女子大学
(現・武蔵野大学)文学部日本語・日本文学科教授となる。
のちに同大学仏教文化研究所所長を併任。世界宗教者平和会議(WCRP)
平和研究所副所長。東京都小平市の浄土真宗本願寺派法善寺住職、
同派布教使でもある。特に『歎異抄』が専門。 wikipediaより〕

〔※4 石田瑞麿(いしだ みずまろ)仏教学・日本仏教専攻。文学博士。
東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業。
その後、東京大学講師、東海大学教授〕

〔※5 佐藤 正英(さとう まさひで)日本の宗教学者・倫理学者
東京大学文学部名誉教授〕
〔※6 親鸞仏教センターのホームページにはこう紹介されています。

“親鸞仏教センターは、2001年首都・東京において時代の苦悩と
親鸞聖人の思想との接点を探り、現代人に真宗を語りかけるための
新しい視点とことばを見いだそうと設立された、真宗大谷派
(京都・東本願寺)の研究交流施設です〕

gz197 l1 300x225 比較対照『歎異抄をひらく』【6】「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落

関連記事:

    None Found


この記事に関するコメントを行う

お名前
メールアドレス
ウェブサイト
コメント:

親鸞会講座

最新の情報


Go Top