2010/04/10

比較対照『歎異抄をひらく』【5】「ただ信心を要とす」の「信心」とは 親鸞会.NET

前回( 歎異抄第一章の「往生」は「新しい生活」のこと?? 親鸞会.NET)
http://www.shinrankai.net/2010/04/tannisyo-17.htm
》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

《原文》

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし (『歎異抄』一章)


『初めての歎異抄』山崎龍明著の意訳

阿弥陀仏の本願は、年齢とか、人間の善し悪しにかかわらず、阿弥陀仏の真実に深くうなずくことが最も大切です。




『歎異抄をひらく』高森先生著の意訳

弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切差別はない。ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。

弥陀の救いには一切の差別はありません。
老人も若者も、世間でいう善人も悪人も区別なく、なんの隔てもなく救う弥陀の本願ですが、「ただ信心を要とすと知るべし」とクギをさされ、「信心一つの救い」が鮮明にされています。
『歎異抄』二章には「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とあるので、「ただ念仏さえ称えれば救われるのだ」と誤解している人がほとんどです。しかし、全十八章の収まる第一章には、「ただ信心を要とすと知るべし」信心一つで救われると明言されています。このお言葉は、『歎異抄』全体を通じて数ある誤解を正す、限りなく重い聖人の発言といっても決して過言ではありません。

ところが、この大事なお言葉を、『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿著は、「言おうとしていることの焦点がぼけている」と述べ、苦言を呈しているのです。解説書を書くような人でも、理解の難しい所なのでしょう。

ここで肝要と確言される「信心」は、一般に使われている「信心」とは根本的に異なることを『歎異抄をひらく』では、次のように詳説されています。

一般には、金が儲かる、病気が治る、息災延命、家内安全などのゴリヤクを、仏や神に祈念することを「信心」と言われている。
また、神仏を深く信じて「疑わないこと」と考えている人がほとんどだ。
しかし、よく考えると、疑う余地のまったくないことなら信ずることは不要になる。「夫は男だと信じている」と言う妻はないだろう。疑いようがないからである。
ひどい火傷をした人は、「火は熱いものだと信じている」とは言わない。熱かった体験をしたからだ。
疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言うが、「信じている」とは言わない。「信じる」のは「疑いの心」があるときである。
難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしないから、「合格を信じている」という。「合格を知っている」とは言わない。”ひょっとしたら失敗するかも”の、疑心があるからであろう。
世間でいう信心も同様だ。ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心である。だが親鸞聖人が肝要と言われる「信心」は、根本的に異質のものだ。どこが、どう違うのか。喩えなどで詳述しよう。
乱気流に突っ込んで激しく機体が振動し、しばしば機長のアナウンスが流れる。「大丈夫です。ご安心下さい」。それでも起きる不安や疑心は、無事着陸したときに消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、「助かった時」に破れる。「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなるように、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”という弥陀の約束(本願)に対する疑いは、「摂取不捨の利益」を私が受け取ったときに晴れるのである。
この「弥陀の本願(誓願)に露チリほどの疑いもなくなった心」を、「信心」とか、「信楽」と聖人はおっしゃるのだ。 (『歎異抄をひらく』147ページ)


親鸞聖人の説かれる「信心」は、弥陀の本願にツユチリほどの疑いも無くなったことです。そのような、世間に全く無い信心を、聖人は何を根拠に教えられたのでしょうか。

親鸞聖人は決して、今まで誰も言わなかった珍しい法を説かれたのではありません。釈迦が説いた「本願成就文」の教え一つ、伝えられた方でなのです。

その本願成就文を聖人は「一実円満の真教・真宗これなり」と言われ、大宇宙唯一の完全無欠の教えであり、真実の宗教だと喝破されています。

聖人九十年の教えは、この本願成就文以外にはありません。畢生の大著『教行信証』は、本願成就文四十字を六巻に開かれた解説書です。
つまり聖人が教えられた「信心」とは、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」と説かれている信心なのです。

ここで「聞其名号」と言われる「聞」とは、「信心」と同じ意味だと、聖人はこうおっしゃっています。

「『聞其名号』というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。(中略)『きく』というは、信心をあらわす御法なり」 (『一念多念証文』)

また、この「聞」を分かりやすく、こうも詳説されています。

「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」
(『教行信証』)

「聞」イコール「信心」だから、『「信心」とは、阿弥陀仏の本願にツユチリほどの疑いも無くなったことだ』と聖人は明らかにされているのです。
このように聖人が明解された本願成就文の教説から、『歎異抄をひらく』は、一章の「信心」を「『仏願に疑心あることなし』の信心」と意訳されています。

なぜこのような意訳になるのか疑問に思っていた読者もあるでしょうが、本願成就文によって「信心」を解説されていることが分かるでしょう。

今日、当然あるべきそんな解説書は、悲しきかな皆無です。聖人は「疑心有ること無し」と、疑いが金輪際、無くなった「信心」を説かれているにもかかわらず、ある倫理学者は、この「信」は疑いを含むと自説を展開しています。衆生が本願を疑い無く信じることなど不可能だから、信と不信を絶えず揺れ動くのが当然だと、

『歎異抄論註』佐藤正英著は、次のように主張します。

〈信〉は〈不信〉を内包している。そしてそれは〈不信〉への絶えざる揺り戻しとして現れる。(中略)衆生たるわれわれはいずれ〈不信〉へと揺り戻されずにはいられない。〈信〉に静止することは衆生たる以上不可能である。(佐藤正英『歎異抄論註』)

我々煩悩具足の衆生には、弥陀の本願を信ずる心は微塵もない。だから、聖人の信心は弥陀から賜る「他力の信心」であることを、『歎異抄をひらく』では、次のように解説されています。

弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。

このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、”弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。
(『歎異抄をひらく』150ページ)
本願に疑い晴れた心は、決して衆生がおこせる心ではないのですが、その点が曖昧な解説書がほとんどです。例えば『歎異抄 全講読』安良岡康作著では、衆生の中には、本願を「信じ得る人」がいて、そんな特別な人が救われるのだと、次のように説明されています。

親鸞は、「衆生」、その中でも、特に、「本願」を言葉として聞き、理解し、信じ得る人・人間が弥陀の本願により往生し得る道をここに説示しているのである (安良岡康作『歎異抄 全講読』)

本願に疑い晴れた心は、衆生が持ち合わせる心ではなく、弥陀から賜る信心だから、親鸞聖人の教えでは、「信心を獲る」「信心を獲得する」とは言われても、「信心する」とは絶対に言わないのです。
「信心する」では、信じようと自分が努力する「自力の信心」になってしまうからです。

ところが、信心すればさえ救われると、『誤解された歎異抄』梅原猛著では、不浄な解釈がなされています。

ただ信心が肝心なのです。信心さえすれば、どんな人でも阿弥陀さまは救ってくださるのです。
(梅原猛『誤解された歎異抄』)

他の解釈も似たり寄ったりで、現今『歎異抄』研究の第一人者と自他ともに認める、武蔵野大学教授の山崎龍明氏も、冒頭で引用したように、一章の「信心」を「阿弥陀仏の真実に深くうなずくこと」と解釈しています。
『現代語 歎異抄』親鸞仏教センター著も同様で、「如来の本願に目覚めるこころ」と訳されています。これでは全く、他力信心になりません。

蓮如上人は

「信心という二字をばまことの心と読めるなり、まことの心と読む上は凡夫自力の迷心に非ず全く仏心なり」

とおっしゃって、「他力の信心」は迷った人間の心ではなく、弥陀から賜る仏心だと明らかにされています。
我々がうなずいたり、目覚めたりする「凡夫自力の迷心」とは次元が違うのです。

親鸞聖人が九十年のご生涯、ただ一つ教えられた「他力の信心」が、「うなずく」とか「目覚める」程度に説明されていては、解説書は氾濫すれど『歎異抄』は依然、霧の中なのです。

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