2010/11/18

「全く知らぬ」聖人の真意 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【16】

に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
原文

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり
(『歎異抄』第二章)


・梅原猛著

『誤解された歎異抄』の意訳では、
私は、ただ念仏すれば、阿弥陀さまにたすけられて必ず極楽往生ができるという、あの法然聖人のおっしゃいましたお言葉を、ばか正直に信じている以外に、別の理由は何もないのであります。
念仏をすれば、本当に極楽浄土に生まれる種をまくということになるのでしょうか。それとも、それはうそ偽わりで、念仏すればかえって地獄におちるという結果になるのでしょうか。残念ながらそういうことは私はとんと知ってはいないのであります。

とある。




・高森顕徹先生著

『歎異抄をひらく』の意訳では、
親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。
念仏は浄土に生まれる因なのか、地獄に堕つる業なのか、まったくもって親鸞、知るところではない。


と書かれている。

●二章の典型的な誤解

「総じてもって存知せざるなり」を、文字どおり「全く知らぬ」と受け取って、「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞聖人も、まるで分かっておられなかったのだ」と誤解する者が少なくありません。

例えば、安良岡康作著
『歎異抄 全講読』の解説では、
「念仏」に対して、それが、真実に「浄土に生るる種子」なのか、「地獄に堕つべき業」なのかを自問自答した結果を、「惣じて以て存知せざるなり」とあるように、はっきりした断定・確信に達していないことを、説得や主張ではなくして、聞き手に向って告白しているのである。


と、聖人も「分かっていなかった」告白だと解説しています。
冒頭に引用した梅原猛著
『誤解された歎異抄』も、

親鸞は、念仏をすれば阿弥陀仏に助けられて往生することが出来るという法然の教えを聞いて、それを信じているだけだときっぱりと言い切るのである。

と解説しています。このような誤解が生じるのは、直後に聖人が、

たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。

(意訳)
たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に堕ちても、親鸞なんの後悔もないのだ。


と仰っているからでしょう。「だまされて地獄に堕ちても後悔しない」という信じ方は、常識では考えられません。法然上人に絶対の信順をされていたことは、誰の目にも明らかです。
ですが、果たして聖人は、法然上人という
「人」だけを信じて、「念仏」については判然としておられなかったのでしょうか。

山崎龍明著『初めての歎異抄』は、

「よきひと」法然との邂逅は、念仏の法そのものとのであいであり、単なる「人」とのであいではなかったようです。

と疑問を投げかけるが、「ようです」の推測に終わっています。


本願念仏こそ往生極楽の道

親鸞聖人が、「念仏まこと」に確信を持たれぬはずがありません。二章冒頭で、弥陀の本願念仏を「往生極楽の道」とまで明言され、他に道があると疑うのは、甚だしい誤りだと断定されているからです。

おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。


(意訳)
あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から身命を顧みず、この親鸞を訪ねられたお気持ちは、極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろう。
だがもし親鸞が、弥陀の本願念仏のほかに、往生の方法や秘密の法文などを知っていながら、隠し立てでもしているのではなかろうかとお疑いなら、とんでもない誤りである。


関東で20年、親鸞聖人が弥陀の本願念仏一つ説かれたことは明白です。ではなぜ「念仏まことか、どうか」を尋ねた関東の同行に、「知らぬ」と言われたのでしょうか。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』は、

あまりにも見当違いな質問をした、

信仰未熟な人たちにはこうした方法も必要だったのであろう。いずれにせよ、この章はいろいろな想像をたくましくさせ、そのために誤った理解をも呼び起こした章として注目される。

と、単純に片付けています。


●聖人の鮮明不動の信念

「総じてもって存知せざるなり」は、「知らぬ」とは正反対の、知りすぎた「知らぬ」であることを、『歎異抄をひらく』では、聖人のお言葉で解明されています。

念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞も、まるで分かっていなかったのだ」「命がけで来た者に、答えないのは無責任ではないか」と、外道の者はムチを打つ。
それはだが、まったく逆である。
弥陀の本願念仏を「往生極楽の道」とまで明言し、浄土に往ける道は念仏のほかに術なしが、親鸞聖人の教導であったことは明白だが、二、三、分かりやすい根拠をあげておこう。


念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)

念仏によって仏のさとりをひらく、これが真実の仏法である。それまで誘導する方便の教えが、他の仏教である。

南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益きわもなし
流転輪廻の罪きえて
定業中夭のぞこりぬ(浄土和讃)
念仏を称えれば、長らく苦しめてきた罪消えて、当然受くべき大難や若死からも免れ、この世も幸せ一杯に暮らせるようになるのだ。
念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなく受くとぞ説きたまう(正像末和讃)

この最尊の念仏を謗る者の報いは怖ろしい。かならず阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちて八万劫という永い間、ひまなく大苦悩を受けねばならぬと、経典に説かれている。
『教行信証』には、弥勒菩薩は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりを得ることはできないが、
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
(教行信証)
弥勒菩薩に対して念仏の人は、この世の命が終わると同時に、仏のさとりをひらくのである。
と詳述されている。
関東で二十年、親鸞聖人は、この弥陀の本願念仏以外の布教はなかったのだ。
ところが聖人の帰京後、関東には同朋らの信仰を惑乱する、種々の事件が頻発。その一つが日蓮の「念仏無間」の大謗法である。「念仏称える者は無間地獄へ堕ちるぞ」と、関東一円を熱狂的に煽動した。
動揺した同朋たちが、直の聖人の言葉が聞きたいと、決死に来訪した心中を洞察し、「念仏が地獄に堕ちる業だとなぁ、いままでそなたたちは、何を聞いてこられたのか、情けないことよ……」
やり場のない、その心情を、
「そんなことは、親鸞知らぬ」
言い放たれた聖人の、やるせない心中が痛いほど伝わってくる。
あんなに長らく聖人の教えを聞いてきた人たちに、いまさら「念仏は極楽の因か地獄の業か」と聞かれて、これより適切な表現が、ほかにあったであろうか。
余りにも分かりきったことを聞かれると、もどかしい言葉を止めて世間でも、「知らんわい」と答えることがある。私たちにもあるだろう。言うに及ばぬことなのに、それをしつこく聞かれると、「そんなこと知らん」と突き放すことがあるではないか。
「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ”知らん”とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」
と嘯いているのとは、知らんは知らんでも、”知らん”の意味が、まるっきり反対なのだ。
「念仏のみぞまことにておわします」
有名な『歎異抄』の言葉もある。
「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念の最も簡明な表明だったと言えよう。
この聖人の大自信に接し、喜色満面、勇んで帰る関東の同朋たちが、彷彿とするではないか。


耳を疑う確言の続く二章は、聖人のお言葉を根拠に読まなければ、いくら想像をたくましくしようと、誤解が生まれるばかりです。



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*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*石田瑞麿……元・東海大学教授。
浄土教の研究が専門。
著書多数

○浄土和讃─親鸞聖人が阿弥陀仏とその浄土を賛嘆された詩
○方便─真実まで導くために絶対必要な手段
○正像末和讃─弥陀の本願のみが救われる道と教えられた親鸞聖人の詩
○八万劫─気の遠くなるような長い期間
○弥勒菩薩─仏のさとりに最も近いさとりを開いている
有名な菩薩(仏のさとりに向かって修行中の人)

★おぞましや
仏法使って 自慢する

★勿体なや
名聞利養に する仏法

★教えなし
自己宣伝の ほかはなし

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