2010/06/14

『歎異抄』解説書の比較対照【10-1】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《『霧に包まれる「摂取不捨の利益」  親鸞会.NET》
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

『歎異抄』に新たな異変

『歎異抄をひらく』(平成20年3月発刊)が世に出て2年以上たちます。
日本の三大古文に数えられる『歎異抄』の解説書は、年に10冊は新刊が出ていたのに、『ひらく』が世に出て以来、その流れがパッタリ止まってしまいました。

それまで自由奔放に解釈されてきた『歎異抄』でしたが、『歎異抄をひらく』は従来の書とは一線を画します。『教行信証』など親鸞聖人のお聖教を根拠に、聖人のお言葉で『歎異抄』の真意を解説されているからです。そこには私見は一切、混じっていません。

真宗十派が、かつてしたことのない解釈が『歎異抄をひらく』なのです。正統を自負する者は当然、『教行信証』を土俵に反論しなければなりません。それがどうしたことか、2年たっても何の反論もないのです。

真宗十派の沈黙と対照的に、『歎異抄ひらく』は仏教書の常識を破る、17万部のベストセラーになっています。真の正統はどちらか、大衆に日々夜々、浸透しつつあります。これを自称「正統派」が黙視できるはずがありません。必ずや反論、批判に出るでしょう。

案の定、真宗大谷派(東本願寺)が、新たな動きを見せました。「聖人七百五十回御遠忌記念出版」として、シリーズ『親鸞』全十巻を、4月から毎月1冊ずつ刊行するというのです。監修は、真宗大谷派・教学研究所の所長を務める小川一乘氏(前・大谷大学学長、74歳)。大谷派の教学のトップです。

このたび、第1回として『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』が発売されました。著者は大谷大学教授の延塚知道氏、62歳。紹介には「『教行信証』を正確に読むために、『浄土論註』を当面の研究課題としている」とあります。

『歎異抄』解説は、「これは私の一解釈」と前置きした無責任なものばかりですが、今回の解説書は冒頭から『歎異抄』と『教行信証』は「まったく同質」と言い切り、しかも聖人のお言葉を多数、引用しています。『歎異抄をひらく』をかなり意識しているのでしょう。
従来なかったスタイルの解説書の登場は、一事件に終わるのか、地殻変動の前兆か。日本思想界の根底にある『歎異抄』の潮流に、何が起きているのでしょうか。
今回、出された、大谷派の『「歎異抄」の世界』の内容も含めて見てみましょう。

●「無碍」は執着の無くなったことか

《原文》

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々(『歎異抄』第七章)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳

本願の名号を称える者は、すべての束縛から解放された自由な道に立つことができる。その理由はなぜかと言えば、本願を信じる者には天の神や地の神が敬いひれ伏すからである。反対に、悪魔や外道も何の障りにもならない。また自分が犯した罪の一切を他力の信心が引き受けてくれるから、悩む必要はないし、善も誇る必要はない。他力の信念には善悪を超えた自由な道が開かれるのである。




高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。

七章冒頭の「念仏者は無碍の一道なり」は、よく知られ、種々に論じられているところです。特に「無碍の一道」は、弥陀に救われた世界を表す、『歎異抄』でも最重要の語句ですが、各人の勝手な解釈がなされてきました。
例えば、先に引用した延塚氏は「無碍の一道」を、「すべての束縛から解放された自由な道」「善悪を超えた自由な道」と意訳しています。これが弥陀の救いだというのです。

では、善悪を超え、善悪から解放された境地とは、いかなるものでしょうか。延塚氏によれば、《「善悪、好き嫌い、勝ち負け」にこだわる「執着」から解放されたことである。弥陀に救われたとは、「勝ち負けとか優越感と劣等感の間で苦しむこと」のない、「身も心も柔らかになって、何事も喜んで負けていけるような生き方」に転じたことだ》と主張しています。

もし、勝ち負けにこだわる「執着」が無くなれば、負けて苦しむこともなくなり、一切の苦しみから解放されるでしょう。ですが、「執着」は煩悩ですから、それは「煩悩」が無くなることにほかなりません。一体どこに、そんな煩悩を断じた人間がいるというのでしょうか。

『歎異抄』で、すべての人を「煩悩具足の凡夫」「煩悩熾盛の衆生」と言われているように、仏教では煩悩の塊が人間であり、煩悩以外に何もないと説かれています。ですから煩悩は死ぬまで、減りも無くなりもしないし、断ち切ることは絶対にできないのです。それを親鸞聖人は、次のように教えられています。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず
(『一念多念証文』)


人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりです。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしません。もちろん、断ち切れるものでは絶対にありません。

延塚氏は、弥陀の救いは「すべての束縛から解放された自由な道」だと繰り返していますが、自分は煩悩執着が無くなったつもりなのでしょうか。「執着がいけない。自分は執着していない」と力んでいるとしたら、その「こだわり」こそが他ならぬ執着です。「何事も喜んで負けていける」ような、腹を立てない人間が実在するでしょうか。もしいたら、煩悩の無くなった、人間ではない存在です。


ですが、そんな非現実的な世界が弥陀の救いだと主張するのは、東本願寺だけではありません。西本願寺住職の、武蔵野大学教授・山崎龍明氏の解説も同質です。

崎龍明著『初めての歎異抄』の解説

苦しみは苦しみのままに、悲しみも悲しみのままに我が身にうけとめて生きていける世界が開かれます。そこから、これが私の人生であった、これでよかったという慶びの中に生きる自己の発見があります。
「無碍」を執着とか煩悩が無くなることだと理解すると、実現不可能な、観念の遊戯に終わってしまうのです。

《つづく》

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