2010/11/30

歴史の視点・学徒の論点 異安心が次々復権 近代教学、真宗大谷派を牛耳る 金子大栄・曾我量深の邪説(後編)

真宗破壊の歴史の真相がここに分かりやすく説明されています。独自の考えでお聖教を勝手に解釈すると、教えは曲がっていくばかりです。浄土往生を果たすという仏教究極の目的を見失ってはなりません。

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2010/06/14

教えと体験  親鸞会.NET

教えと体験

「論より証拠」という言葉に、人間は弱い。目の前で、説明のつかない不可解な現象を見せつけられると、ありもしない力の存在でも簡単に信じ込んでしまう。

難病で、どの医者からも見放された人が、苦しい時の神だのみ、藁にもすがる必死さで新興宗教を信じた途端に治ったら、本人はもちろん家族も、「論より証拠だ。この神様のお力に間違いない」となるのも無理はない。
千人のうち一人でもそんな例があれば、新興宗教などは大々的に宣伝するから、「病気が治った」「奇跡が起きた」といった体験談で、それらの発行する機関紙の紙面は埋め尽くされている。

普段は理論派で聞こえた人でも、案外ころりと引っかかってしまう。だが、これらのゴリヤクは実は神の力などでは毛頭なく、人間の暗示や催眠現象で、いくらでも説明がつくのである。

だから怪しい証拠は、「証拠より論」で真相を見極めなければならないのだ。

浄土真宗にも、体験を売り物にする者たちがいる。
「泣いた」「笑った」「心が明るくなった」「念仏が噴き上がった」「風呂の中で躍った」などの体験談が信心決定の証拠として紙面を堂々と飾り、周りの者たちも「よかったよかった」「私たち一味やね」と喜ぶから、いよいよその気になって、これでもう大丈夫、と腰を落ち着ける。
その体験が、親鸞聖人の本当のみ教えと合致しているかどうかは、彼らにはどうでもいいのである。「救われたのが証拠」と頭から思い込み、自分の体験をつかんで離さない。教えを聞いても、自分の体験に合わせて聞いているから、真実の教えを受け付けなくなってしまうのだ。

しかも大概はその後、聞法する気がなくなり、仏縁を遠ざける。ましてや御恩報謝の活動など、さらさら見られない。そもそも布教しようにも、親鸞聖人のみ教えをまともに聞かされていないから、布教できないのである。
だから彼らが話しできるのは、自分の体験談ばかりだ。自分が苦労して求めて、その結果「ああなった」「こうなった」という自慢話になる。

こうなった 自慢ばなしに 花が咲く

苦労した 体験談が 自慢種

まるで独りよがりな、聞くに堪えない話のオンパレードでも、本人さんたちは「ご示談」と称してやっている。だが、どんな体験も、親鸞聖人の教えと合わなければ、そらごとたわごとなのだ。「あの人は救われた」と聞いて、すぐ飛びつくような心が、迷いの根本であると知らねばならぬ。

体験の真偽は、正しい教えの定規で決するのである。

《関連記事》

擬似体験のコツ(体験記を読ませ、体験談を聞かすこと)親鸞会.net
自戒すべきこと 親鸞会.net

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2010/03/09

『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』  親鸞会.NET仏教講座

『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』と云々。
これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。
これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止(ちょうじ)すべし」(改邪鈔:がいじゃしょう)
親鸞聖人は、

「魂の解決のできた者には、死骸はセミの抜け殻じゃ。
 何の用事もない。

 肉体の葬式や墓に力を入れるよりも、
 魂の葬式こそ、急がねばならぬことなのじゃ」

とおっしゃっています。

寿命が延びたといっても、100年そこそこです。

“悠々たるかな天壌”(果てしない歴史を持つ大宇宙)と比べたら、瞬きする間もありません。

滔々(とうとう)と流れる大河に、ポッと現れすぐに壊れる泡のようなものが肉体です。

しかし、そんな泡(肉体)が私ではありません。

過去、現在、未来を貫いて流れる永遠の生命が私であり、

この魂の葬式が果たされたならば、肉体の葬式は問題にならなくなります。

永遠の生命あることを知らず、肉体こそ私そのものと思い込んで、

遺体や遺骨を大事にする迷いの深い私たちに、親鸞聖人は、

「葬式は一大事ではないぞ。

 仏法の信心獲得(しんじんぎゃくとく)こそ急げ」

と、大事なのは“心”の葬式であることを教えてくださっているのです。

 

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2009/06/15

菩薩とは

 

 

■親鸞会仏教講座■

「菩薩」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
“道端や、川べりで、見かける赤い前かけをした石の像”
と答える人は少なくないでしょう。。
雨に打たれ、風に吹かれ、雪が積もっても、
じっとそこに立ち尽くす。
寒くてかわいそうに、と冬には手作りの着物を着せ、
帽子をかぶせる人もありますね。
食事も取らず、トイレにも行かぬ、黙然と路傍にたたずむ
石像が“菩薩”と思っているようです。

しかし、そうではないのです。
まず言葉の意味から見てみましょう。

「菩薩」とは「菩提薩埵」の略です。

「菩提」とは、インドの古い言葉を漢字で表したもので、
「本当の幸せ」のこと。

「薩埵」は「求める人」のこと。

ですから「菩薩」とは、「菩提薩埵」“本当の幸せを求める人”という
意味なのです。

「いかなる人も己自身の幸運の建設者なり」
といったラテンの詩人もいましたが、
〝幸せになりたい〟と思わない人はいないでしょう。

ですが現実は、
「コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、
 それを発見しつつあった時である」
のドストエフスキーの言葉が象徴するように、
つかんだと思った瞬間、幸福はするすると逃げてしまいます。
一時的な安心、満足はあっても、心から
「人間に生まれてよかった」
の喜びを感得しているでしょうか。
老い、病、死という壁にぶち当たり、行く先しれない
人生のたそがれに呆然とするとき、
「一体、本当の幸福はどこに?」
と人知れずつぶやく、そんな未来が見えてはこないでしょうか?
幸せになりたくて、様々なものを追い求めます。

一体、何を得れば心からの満足が得られるのか。
すべての人が一番知りたい、まことの幸せを教えられたのが、
釈尊であります。

お釈迦さまは、

「人身受け難し、今已に受く」

と仰有り、仏教を聞き抜けば

「人間に生まれてきたのは、これ一つのためだった!」

と、生命の歓喜輝くと教えられました。
仏教に明示されている“まことの幸せ”を『菩提』といい、
求める人を薩埵というので、

菩提薩埵(菩薩)は、“本当の幸せを説く真実の仏教を聞き求める人”
のことなのです。

観音、勢至、弥勒や地蔵なども菩薩といわれますが、それら特別な方だけを
「菩薩」というのではないのです。
“幸せになりたい”と今、真実の仏教を求めているならば、あなたもまた
「菩薩」なのです。
うれしいことには喜ぶし、悲しいときは涙する。
食事も取れば、トイレにも行く、風呂にも入る。
老若男女を問わず、国籍も貧富も問わない。

本当の幸せに向かって進む人は、みな「菩薩」なのです。

 

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