2010/07/17

『歎異抄』解説書の比較対照【12】《『歎異抄』解説本を比較する意義》

前回(《弥陀の救いは平生の一念 親鸞会.NET》
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●『歎異抄』解説本を比較する意義

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す」
(『歎異抄』序)


意訳〕
決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない。このような願いから、かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記しておきたい。


『歎異抄』の著者は、後の人が断じて「自見」(自分の勝手な判断)によって教えを曲げることのないようにと、耳の底に残る親鸞聖人のお言葉を、泣く泣く書き記しました。
それから七百年たった今、聖人の願いもむなしく、『歎異抄』は「自見」や「私見」「主観」で奔放に解釈され、根拠のない無責任な解説がまかり通り、親鸞聖人の教えが大きく誤解されています。
異説を正すために書かれた『歎異抄』が、新たな異説・誤解を生んでいるのです。

親鸞聖人が直接、書かれたお言葉を示して、世間に流布した誤謬(あやまり)を正さねばなりません。

高森先生のご著書『歎異抄をひらく』が、聖人自作の『教行信証』や、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、古今の間違いや曖昧さをどのように正し、『歎異抄』の真意をひらいているか、比較してみたいと思います。

弥陀の救いは信心一つか、念仏か

『歎異抄をひらく』が世に出てから三カ月後、山崎龍明著『初めての歎異抄』という書が出ました。
これは平成18年のNHK番組「こころの時代 歎異抄を語る」のテキストをもとに出版した本です。
新たに書かれたものではありませんが、著者は武蔵野大学の教授で、現役の『歎異抄』研究者の中ではトップレベルと評されています。
その最新刊となれば、今の真宗界を代表する解説書といえるでしょう。

今日は、この本と『歎異抄をひらく』を比較しながら、『歎異抄』の特に誤解されやすい点を検討していきます。

●「ただ念仏して」の誤解

〔原文〕

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 (『歎異抄』二章)

〔意訳・山崎龍明『初めての歎異抄』〕
この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われて、広大な世界に生まれていくだけです」という法然聖人のお言葉を信じているだけで、ほかになにかの理由があるわけではありません。


〔意訳・高森先生『歎異抄をひらく』〕
親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。


『歎異抄』二章の「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の「ただ」の誤解が甚だしい。
「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と思っている人が非常に多くあります。

山崎氏もそう解説していますが、”ただ念仏を称えて救われる”という一般的な解釈だけでは心配なのか、念仏より信心を重んずる別の解釈もあると、次のように言葉を濁しています。

(『初めての歎異抄』)
この「ただ念仏」という語は、一般的には文字どおり「ただ念仏」するということで、ここの「ただ」とは「念仏し」にかかる副詞です。


しかし、この「ただ」はあとの「信ずるほかに別の子細なきなり」の「信ずる」にかかると指摘する人もいます(前掲、佐藤正英『歎異抄論註』)。
親鸞聖人は念仏を称えることよりも、「信」ずることを中心にしたという立場からの指摘のようです。

他人事のような書き方ですが、山崎氏本人は「親鸞聖人は念仏を称えることよりも、『信』ずることを中心にしたという立場」ではないようです。
ですが聖人の教えは、「『信』ずることを中心にした」どころではありません。
“信心一つで救われる”というのが、一貫した聖人の教えであり、これ以外に九十年の生涯、教えられたことはなかったのです。
これを間違えたら、「ただ念仏して」はおろか親鸞聖人の教えすべてを誤解することになってしまいます。
その最も大事な教説の根拠を、『歎異抄をひらく』では繰り返し提示されているのです。

以下はその一部です。

(『歎異抄をひらく』150ページ)

「涅槃の真因は唯信心を以てす」(教行信証)

浄土往生の真の因は、ただ信心一つである。

「正定の因は唯信心なり」(正信偈)

仏になれる身になる因は、信心一つだ。

(『歎異抄をひらく』173ページ)

聖人の教えは一貫して、信心一つの救いだから、「唯信独達の法門」といわれることは、既に詳述した(150ページ)。
『歎異抄』では「ただ信心を要とす」(第一章)と明示し、蓮如上人の証文も多数にのぼる。
ほんの数例、『御文章』から挙げてみよう。

「往生浄土の為にはただ他力の信心一つばかりなり」
(二帖目五通)

浄土へ往くには、他力の信心一つで、ほかは無用である。

「信心一つにて、極楽に往生すべし」(二帖目七通)

信心一つで、極楽に往生するのだ。

「他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく
往生すべきことの、更に何の疑いもなし」
(二帖目十四通)

他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。

最も人口に膾炙されるのは、次の『御文章』だろう。

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」(五帖目十通)

親鸞聖人の教えは”信心一つで助かる”という教示である。

蓮如上人は断言されている。

『歎異抄をひらく』では、”信心一つで助かる”という聖人のお言葉を根拠
に、「ただ念仏して」の「ただ」は、他力信心を表す「ただ」であると詳説

され、「ただ念仏さえ称えたら救われる」という世の迷妄を正されています。

そして次の「念仏して」は、救われた喜びから噴き上がる「報謝の念仏」になることも、根拠を挙げて説示されています。

「ただ」は一般的にはこういう意味、また別の指摘もあるという「私見」の羅列を、親鸞学徒は容認してはなりません。

モノサシとすべきは、親鸞聖人のお言葉なのです。

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