2011/09/16

本願寺門主「50年後はどうなる?」不安を吐露 親鸞会との違いはどこに?

9月1日の全国紙に、「750回大遠忌法要」という西本願寺の全面広告が載った。参拝を呼びかけるものの、人は減る一方で、憂慮の声は内部からも聞こえてくる。

「親鸞聖人のみ教えを喜ぶ人が少なくなりつつあるのは深刻な課題」

西本願寺の学僧幹部を前にした大谷光真門主の発言(中外日報7月21日号)である。

「50年後はどうなるであろうか」とも危惧の念を語る。

一方、出版から3年半となる『歎異抄をひらく』(高森顕徹先生著)は20万部突破のロングセラーを記録中だ。

多くの人が親鸞聖人のお言葉に触れ、喜んでいることがうかがえる。

親鸞聖人のみ教えと出遇えた村野美雪さんの感動を紹介しよう。
なぜ善人より悪人なの?“謎”にひかれ『歎異抄をひらく』と出遇う

夕食の買い物を考えながら、書店のレジの列に並んだ。手には2冊の本。
財布を見ると、「お刺し身を買うと、少し足りなくなるかな?」。

仏教書コーナーに戻って、1冊を棚に戻した。
手元に残ったのが、赤い表紙の『歎異抄をひらく』だった。昨年9月。
店を出ると、夕暮れのショッピングモールは、いつものにぎわいを見せ始めていた。

村野美雪さん(47歳)は、両親の実家が真宗王国、石川県能登。
親鸞聖人には親しみがあった。

大学も西本願寺系列の武蔵野女子大(東京、現・武蔵野大)を卒業。親鸞聖人の教えはほとんど聞けなかったが、ずっと気になる言葉はあった。

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(歎異抄第3章)

「どうして善人より、悪人なんだろう?」。いつか誰かに聞いてみたかった。『歎異抄をひらく』の意訳を読んで、息をのんだ。
「すべての人は、『煩悩の塊』であり、助かる縁なき極悪人」(『歎異抄をひらく』P.53)とある。

「えっ!私も『極悪人』なの。大学で煩悩の話も聞いたけど、全てが煩悩だとは――?」

もう一つ、意味を知りたい言葉があった。

「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」(歎異抄第2章)

能登の祖母は、いつも念仏を称えながらお仏飯を供えていた。

「ねえ、何で称えているの?」
「昔からそういうものよ」

「念仏を称えて、何か変わるのかしら?」。子供の頃からのナゾだった。

浄土真宗の葬儀に参列すると、僧侶からは「死んだら皆、極楽に往ける」と聞かされる。ただ念仏さえ称えていれば極楽なのか、と思ったが、『歎異抄をひらく』には、こうあった。

「“ただ”の“ただ”もいらぬ“ただ”じゃったと、無条件の救いに驚き呆れた“ただ”である」(『歎異抄をひらく』P.175)と。

「救いに、驚き呆れる、そんな念仏があるのか?」

大学でもらった『歎異抄』の解説書を出して読んだが、そこには「ひとすじにお念仏をよろこんで……」とあるばかりで、それ以上の解説はない。

「極悪人……ただ念仏……、どういうこと?もどかしくてモヤモヤしていましたね」

当時の心境を、村野さんは振り返る。

程なく自宅に、親鸞会の講演会案内チラシが舞い込んだ。足を運ぶと、ビデオでのご法話で、親鸞会の講師が、『歎異抄をひらく』の著者・高森顕徹先生だったことに驚いた。「三世因果の道理」「真実の自己」のご説法を重ねて聞くうち、「極悪人」の意味が知らされ、次第に後生が気になってきた。

優しい夫は、「なぜ富山まで?」と聞いてきたが、「どうしても直接お聞きしたいのです」と頭を下げた。

村野さんは夫と子供2人の家族。ともに親鸞会の二千畳で聞法したいから、帰宅すると、聞いた話をそのまま話している。

「後生の一大事を、学生の時に聞いていたら、と思います。私のような普通の主婦でも仏教はよく分かるのに、浄土真宗の学者は、親鸞聖人の教えを本当に知っているのでしょうか」

あの書店の前を通ると思い出す。
「もしあの時、『歎異抄をひらく』を書棚に戻してしまっていたら……」

阿弥陀仏のお導きを思わずにおれない。
浄土真宗の未来を変える『歎異抄をひらく』
浄土真宗の僧侶が、『歎異抄をひらく』のとおり布教すれば、教えを喜ぶ人が少ない「深刻な課題」も解消することだろう。

『歎異抄をひらく』の発刊まで毎年10冊以上は出版されていた歎異抄の解説書はその後、3年半を超える「沈黙」を続けている。

大衆は見守っている。

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2011/04/27

和の精神と十七条憲法|親鸞会.net

「お先にどうぞ」

「いえ、私は大丈夫です」

大地震の直後、停電した秋田市内のホテルでは、非常食用としてうどん10杯が用意されたが、約50人の宿泊客らは先を争うことなく、互いを気遣った。

待ちに待った救援物資が届き、「我先に」となりがちな時でも、整列して粛々と自分の番を待つ光景が、避難所の至るところで見られたという。

このような協調性を保とうとする姿に、海外メディアは日本人の特質を見た。

この「和」を大事にする精神は、さかのぼれば聖徳太子の十七条憲法までたどり着くといえよう。

その第一条が有名な「和するを以て貴し」の条文である。

さらに太子は第二条に、

「篤く三宝を敬え。三宝は仏・法・僧なり」

と制定し、仏教を、国を治める基本理念に据えている。

聖徳太子は、日本を統一国家とし、仏教を根づかせた最大の功労者だった。

ゆえに親鸞聖人は、「和国の教主聖徳皇(聖徳太子は日本のお釈迦さまである)」と太子に深い尊敬の念を抱いておられるのである。

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2011/04/27

どんな苦難も乗り越え、生きねばならぬのはなぜか|親鸞会.net

茨城県の早場米生産地から田植えの便りが届いた。ただし、原発事故の「風評」を心配しながらの作業という。被災地に、まだ確かな春はない。

もし親鸞聖人が彼の地を訪ねられたら、どのように法を説かれただろう。ふと、考えさせられる。

常陸国(現茨城県)にお住まいの頃。

「私もお仲間に入れてもらえんかな」

「えっ?坊さんが田植えできるんかい」――。

目を丸くする村人の前で、衣の裾をまくり泥田に入っていかれる親鸞聖人。

田園にやがて親鸞聖人の田植え歌が広がる。

「五劫思惟の苗代に

兆載永劫の、しろをして

雑行自力の草をとり

一念帰命の種おろし

念々相続の水ながし

往生の秋になりぬれば

実りを見るこそうれしけれ」

どう生きる、に精一杯の村人たちに寄り添い、生きる方角をはっきり示されている。

どんな苦難も乗り越え、生きねばならぬのはなぜかと。

青々とした早苗が風にそよぐ季節が、東北にもやってくる。

ともに〈弘誓の仏地〉に向かって、確かな歩みの春としたい。

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2010/11/20

いまの流転が永久の流転|親鸞会 顕正新聞

「ほどほどの幸せでいいじゃないか。足るを知れ」と人は言う。

なるほど一理あるようだが、「ほどほど」にできるかどうかが問題だ。

上に行くほど叩かれ、人相が変わるほど苦労せねばならぬのを眼前にしながら、一議員では満たされず、市長、県知事、首相と、権力の階段をもっともっとと上ってゆく。

早々に売ればよいのに「まだまだ上がる?」と持ち株を手放せず、バブルが弾けて大暴落。

未だに持ち続けている人もある。「ほどほどがよい」とわかっていても難しい。

わかっちゃいるけど止められない。有限の命で無限の欲を満たせるはずがない。

渇いては求め、求めてはなお渇き、ゴールのない円周を限りなく回って苦悶している。

現在の延長が未来だから、いまの流転は永久の流転、後生は一大事と知らされる。

これを『大無量寿経』に釈迦は

「従苦入苦 従冥入冥」

と説き、この世の苦から死後の苦しみへと堕ちていくと慈誨されているのである。

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2010/10/18

『歎異抄』の誤解が真宗を崩壊させている|親鸞会 顕正新聞

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(歎異抄)

これを、みな「本願を信ずるには」と誤読し、”弥陀に救われるには、善は不要、悪も恐れる必要はないのだ”と得手に理解する。

その結果は明らかだ。

放逸無慚(ほういつむざん)になり果てた浄土真宗は、外道からは悪人製造の教えと揶揄され、崩壊の一途を辿っている。

その原因が、『歎異抄』のこの誤解にあるといっても過言ではない。

もちろん、「弥陀に救われたならば」のことである。「弥陀の救い」は、百年や千年の問題ではない、幾億兆年の迷いの魂を解決し、浄土往生させることである。

平生に往生一定の大満足を獲たならば、当然ながら「往生のために善をしよう」など微塵もないから「他の善も要にあらず」と言われているのである。

往生の一段のことであって、それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解するから、

仏法を破壊し世の中に猛毒をまき散らして平気でいるのだ。

因果の道理は宇宙の真理、ゴロゴロ怠け放題では人生の落伍者となるだけ。

世界の光と仰がれる聖人のご活躍は、真実信心はもちろんのこと、ずば抜けた勉学努力なくしてはあり得ないのだ。

善知識から「弥陀の救い」を正しく聞かせて頂かねば、お聖教の一言半句もまともに読めぬと知らされるばかりである。

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2010/10/07

見落とされている大事|親鸞会.NET

 

 剣道、茶道、華道、書道、または政治、経済、科学、医学、芸術など、これらの道には、これで究めた、求まったという完成がない。「死ぬまで求道」である。求めるのは、求まることを前提とする。百パーセント求まらぬものを求める人生は、悲劇あるのみだ。

「好きなことをやれたら満足。求まらずとも、求める過程が楽しいのだ」と言い張る人は重大なことを見落としている。

 泳ぐこと自体が好きなのだという人に、「それでは太平洋の真ん中で存分に泳ぎなさい」。空と水しか見えない。存分に泳げても、泳ぎ着かぬ海原である。やがて愕然と、自分の行く末に気づくだろう。これが「死ぬまで求道」礼賛のすがたではないだろうか。

 人生の目的には完成がある。それは未来のいつかではない。

「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く」(釈尊)

 不可思議な弥陀の本願力は、今、生命の大歓喜を与えてくだされるのである。

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2010/07/06

多生億劫にもあり得ぬ事|親鸞会 顕正新聞

「噫、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし」(親鸞聖人)

〝ああ、なんたる不思議か、親鸞、多生にも遇い難いことに、いま遇えた。億劫にも獲難いことを今獲ることができたとは〟

阿弥陀仏に救い摂られた驚きと感動の親鸞聖人のお叫びである。

親鸞会の二千畳の存在する在所に住んでいても、どれだけこの正本堂に座られる人があろうか。同朋の里のある村の幾人が、F館で信心の沙汰をされるご縁があるだろう。

親鸞会の二千畳に群参し同朋の里・F館に溢れる人々も、地元に帰れば「国に一人、郡(こおり)に一人」の親鸞学徒であるにちがいない。

無上の妙法は聞けなくて当然、聞けたら不思議の中不思議である。どうして私が聞けたのか。小慈小悲もない私なのに「何とか伝えたい」の悩みが起きるのは、全く無上仏の起こさしめたまう悩みであり、お計らいにちがいない。

「あいつはどうして聞かんのか、謗るのか」と見下げる心も、怒りの心も霧散する。

多生にも億劫にもあり得ぬことが、どうして現にわが身に起きているのか。原因を知ることこそが、最も肝要ではなかろうか。

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2010/07/01

歴史の視点 学徒の論点 西方浄土はおとぎ話か 真宗破壊の「近代教学」 その元を作った清沢満之 親鸞会.NET

東本願寺(真宗大谷派)が4月に出版した『「歎異抄」の世界』は、いわゆる「近代教学」の焼き直しだった。
明治初頭の学僧・清沢満之に始まる近代教学は、昭和31年、東本願寺の正式な「教学」として採用され、今日に至っている。
「清沢先生の教学こそ、重大な意義をもつものである」
(宗門白書)
と、当時の宗務総長が宣言しているように、大谷派で清沢の影響は計り知れない。
大教団を、親鸞聖人のみ教えに反する邪宗におとしめた清沢満之と、近代教学の内容を見てみよう。

清沢満之の生涯は、日本の激動の時代に重なる。生まれたのは文久3年(1863)、テレビドラマで話題の坂本龍馬に遅れること30年で、世上は300年続いた徳川幕府が終焉を迎え、倒幕側が新しい国作りを模索していたころである。

それまで幕府の保護のもと、安逸をむさぼっていた東西両本願寺は、
「この世でハッキリ救われる」平生業成の教えを説かなくなり、
「ただじゃ、そのままじゃ、無条件のお助けじゃ、この機に用事はないぞ、死にさえすれば、華ふる極楽じゃ」
という大風に灰をまいたような説教が大勢を占めていた。

一方、東西本願寺とも教学の研究は盛んで、精緻な体系化が進んでいた。
だが、重箱の隅をつつくような観念の遊戯に陥り、「求道」とか、「獲信」に直結し、人々が救われる生きた教学ではなかった。

そんな時、明治新政府が誕生し、幕府にべったりだった本願寺には大きな代償を伴った。
すでに「禁門の変」(1864)の兵火で、東本願寺は阿弥陀堂や御影堂など主要な伽藍を焼失し、かつての威光を失っていた。
僧俗ともに再建を願ったが、幕府と共倒れにならぬよう、政治的な工作に莫大な経費を使ったため、本山の台所は火の車だった。
さらに、仏教界を揺るがす嵐が巻き起こった。廃仏毀釈運動である。

1868年、幕府から政権を奪った明治政府は、日本神道を国教にするため、手始めにそれまで神社内に安置されていた仏像や寺院関係の物を分離する政令を相次いで出した。
これが行き過ぎて、一部民衆が仏教施設を破壊し、僧侶は強制的に還俗させられ、寺院の極端な統廃合が行われた。
浄土真宗が盛んな地方では、被害は比較的少なかったが、それでも、東西本願寺には大きな衝撃が走る。
日本神道の国教化は、仏教界全体の反対運動で何とか食い止められたが、続いて哲学や科学、キリスト教など、様々な西洋思想が怒濤のごとく流入してきた。

知識階級は、それらの新思想に強い影響を受け、日本の伝統教団にも批判の目を向けるようになった。
仏教界は新たな対応を迫られた。
若い人材に西洋の思想を学ばせねば、時代に取り残される・との危機感から、東本願寺では、本山の学僧に西洋哲学やキリスト教の教義を学ばせた。さらに末寺や門徒の子弟から秀才を集めて英才教育を施し、東京大学へ留学させる方針を取った。

名古屋の下級武士の家に生まれた清沢満之も、14歳で得度して、このエリートコースに乗った。生来、頭脳明晰で、18歳で留学組に選抜され、東大哲学科に入学。首席で卒業し、大学院で宗教哲学を研究した。
将来は大哲学者になるだろうという周囲の期待をよそに、25歳で突然京都に戻り、本山経営の京都府立中学の校長に就任。結婚して、愛知県三河の西方寺の養子になったのもこのころである。

■真実の弥陀や浄土を否定

信仰を求める真面目さは人一倍だったといわれるが、親鸞聖人の教えとは方向が全く違っていた。
明治23年(1890)、彼が真剣に取り組んだのは、聖道仏教を思わせる「自力修行」(禁欲生活)であった。
ハイカラな洋服をやめて法服を着用し、頭を丸める。煮炊きをやめ、塩も制限した粗末な食物のみを取る。どこに行くにも車に乗らず、下駄履きの徒歩にした。母が亡くなってからは拍車がかかり、そば粉を水で溶いたものだけを食し、松ヤニをなめるようになった。
この禁欲生活で清浄な心が得られると清沢は期待したが、得られたのは、30歳での不治の病・肺結核だった。転地療養した神戸で、余命いくばくもないと恐れ、日記に家族あての遺言を書きながら、毎朝『阿含経』を読誦した。そして自分の努力が不本意な結果に終わったことを深く悟った心境を、
「ほぼ自力の迷情を翻転し得たり」
と書いている。
「自力」とは、「後生の一大事助かりたい」という心であるから、弥陀の本願によって後生の一大事が解決された時に、一切の自力は浄尽する。
「自力の迷情、共発金剛心の一念に破れて」と覚如上人が言われているように、真に自力が廃った人からは、「ほぼ翻転した」という表現は出てきようがなかろう。

聖道門の発想の枠を出ることができない清沢は、親鸞聖人時代の、聖道諸宗の開祖たちと同じ轍を踏むことになる。

「(浄土とは)我等の心になぞらえて西方といったものである」
「地獄極楽の有無は、無用の論題である」
「如来あるがゆえに信じるにあらず、信じるがゆえに如来あるなり」
「来世の幸福のことは私はまだ実験しないことであるからここで述ぶることは出来ぬ」

清沢の著書や講演録に見られるこれらの言葉は、指方立相の弥陀や浄土を否定した「唯心の弥陀」「己心の浄土」という考え方である。

「唯心の弥陀」「己心の浄土」とは、
「我々の心が阿弥陀如来であり、浄土である。我々の心以外に弥陀も浄土もない」
という考え方で、これを親鸞聖人は邪義として徹底的に排斥なされている。

仏教では、

「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界を名けて安楽と曰う」
(大無量寿経)

「是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う。其の土に仏有す、阿弥陀と号す。今現に在して説法したまう」
(阿弥陀経)

と、西方浄土にまします阿弥陀如来が説かれているからだ。

迷った思考からは、おとぎ話としか思えないような、西方極楽浄土や、阿弥陀如来の実在こそが、仏説であり、真実なのである。
明治30年(1897)、東本願寺本山は、京都で改革運動をしていた清沢を異安心と断罪し、除名処分とした。33歳で浪人となった彼は、意気消沈して、三河の西方寺へ帰る。
まだ住職も副住職も健在で、もともと居場所がない所に、病弱な実父と一緒に世話になったため、余計に肩身が狭かった。
地獄・極楽の厳存を当然のごとく信じていた門徒に対し、それを否定して、「スペンサーの不可知論」などとやたら難しい話ばかりするので、寺でも孤立した。法要のために訪問しても、門前払いされたり、養子縁組を解消して追い出される寸前までいった。
これには清沢も精神的に相当参ってしまい、当時の日記に『臘扇記』と命名している。「臘扇」とは、12月の扇子のことで、”必要ないもの”という意味である。自分に存在価値が感じられなかったのだ。

そんな彼が感動したのは、ローマ帝国時代の奴隷が書いた『エピクテタスの語録』という哲学書であった。この世の中には意のままになることと、ならぬことがある。だが、自分の心の持ちようは自分で変えることができるから、自分の心を変え、現実を受け入れ、煩悶しないようにすれば、心の平安は保たれる。
清沢は尋常ならざる意志の力で心の持ちようを徹底的に変える努力をし、だんだんと世事や私事に惑わされない強固な「信念」を築くことができたという。これ以後、その境地を語るようになり、世の評論家には、これを清沢の「獲信」と呼ぶ者もある。しかし、もちろん自分の経験や学問で作り上げた文字どおり「自力の信心」である。

親鸞聖人が『正信偈』に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
と、本師本仏の弥陀のお名前を何度も叫ばれ、弥陀のことばかり教えておられるのとは対照的に、清沢は、阿弥陀仏の御名をほとんど語らない。「絶対無限者」に救われたと言っているので、弟子の中にさえ、「清沢の信じていたのは阿弥陀如来ではなく、西洋哲学のゴッドであった」と言う者がある。

もっともらしいことを言っても、親鸞聖人の出られた無碍の一道とは、全く異質なものであったのだ。

■「清沢教学」とその弟子たち

翌明治31年(1898)、本山の政治的な判断で除名が解かれ、東京にできた真宗大学(現・大谷大学)の初代学長に遇されるが、学生運動の責任を執って1年で辞任する。
「(清沢)先生の御生涯は悲惨の極みでした」
後に弟子が清沢の一生をこう語っているように、妻や長男の早死になど、不幸が次々とやってくる。しかし、「信念の確立」への思いはますます強くなり、たびたび喀血しながら、その時々の心境を熱心に語り、書き残していった。
この時期の活動の中心になったのが、明治33年(1900)に東京で開いた私塾「浩々洞」である。後年、近代教学を大成したといわれる金子大栄や曽我量深、暁烏敏も、ここを巣立っている。
学生時代から実験(清沢の好きな言葉で「体験」のこと)を重んじ、自らが経験したことしか信じない清沢の影響で、『御文章』など都合の悪いお聖教を軽視する姿勢は、これらの学者に一貫している。

彼らは後年、親鸞聖人や蓮如上人のお聖教ではなく、「私はああだった、こうなった」しか書かれていない清沢の絶筆「我が信念」を持って布教に回ったのである。

「予の三部経は、『歎異抄』と『阿含経』と『エピクテタスの語録』である」
と清沢は語った。『教行信証』の理解もなく、カミソリ聖教といわれる『歎異抄』を自己流に解釈し、聖道仏教と哲学をこね合わせてできたのが、「清沢教学」である。
哲学の衣をまとっていたために、浄土真宗が新生したかのように一般には映り、特に思想界に親鸞聖人のお名前を知らしめることにはなった。
内に対しては、江戸時代以来の重箱の隅をつつくような教学研究に明け暮れた宗門に風穴を開け、「求道」とか「獲信」が浄土真宗にある、と認識させたので、「今親鸞」とまで呼ばれた。
しかし、実際のところは、これまで述べてきたように、親鸞学徒の本道を大きく外れ、真実の弥陀や浄土を知らず、迷いの観念が生み出した「唯心の弥陀・己心の浄土」という邪義を天下に広めた大悪知識となったのである。

清沢満之の『我が信念』には、一高の哲学青年・藤村操と同様に「人生不可解」という意味のこ
とを書いており、この共通点について論じる学者もいる。

「私が如来を信ずるのは、私の智慧の究極であるのである。人生の事に真面目で
なかりし間は、措いて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の
意義に就いて研究せずには居られないことになり、其の研究が遂に人生の意義は
不可解であると云う所に到達して、茲に如来を信ずると云うことを惹起したので
あります」(『我が信念』)

多くの問題を残したまま、清沢満之は、39歳で夭逝した。
藤村操が、華厳の滝に身を投じた1カ月後だった。

体験談 ほかに売り物 さらになし

こうなった 仏法使って 自慢する

◆清沢満之の時代と本願寺

1864 禁門の変の兵火で、東本願寺は、阿弥陀堂、御影堂など諸堂を焼失
1868 江戸城明け渡し 東京遷都 神仏分離令 廃仏毀釈運動起こる
1873 政府、キリスト教を公認
1878 清沢満之の得度
1889 明治憲法発布
1890 清沢、『歎異抄』に親しむ
1894 日清戦争始まる
1897 本願寺が清沢を除名
1901 本願寺が清沢を真宗大学の学長に任命
1903 清沢、没する
■「唯心の弥陀」・「己心の浄土」という考え方をしている者達を歴史的にあげて、徹底的に破られた親鸞聖人のお言葉

○それおもんみれば、信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり。然るに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し。
(教行信証)

■親鸞聖人の教えに反する清沢満之の「近代教学」

・「唯心の弥陀」「己心の浄土」
(指方立相の弥陀や浄土の否定)
・後生を認めない
・自分の経験をもとに教えを解釈する

*宗務総長……本願寺の宗政上の最高責任者
*「禁門の変」……長州軍(尊王攘夷派)と会津・薩摩軍(公武合体派)の軍事衝突。「蛤御門の変」とも

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2010/06/30

家族に伝えたい|親鸞会 顕正新聞

四国の妙好人(みょうこうにん)・庄松(しょうま)同行が、深夜、寺の門を叩き、「大変だ!大変だ!」と叫んだ。

「どうした庄松」

起こされた住職が尋ねると、

「オラ、疑いが起きてきたんだ。地獄は本当にあるのか?」

「今更、お前、何を言う」

「本当に地獄があるのなら、まず妻子に伝えにゃならんだろう。他人に勧めるばかりで家族に伝えていないじゃないか。無いものをあるように教えているからでないかと、疑いが起きてきたのじゃ」

と、辛辣に切り込んでいる。

袖触れ合うも多生の縁といわれる。ましてや家族となれば、よほど深い因縁があってのことだ。久遠劫より流転を重ね、今生、巡り遇わせていただいた阿弥陀仏の本願、往生極楽の道を、自分だけ喜び、家族を放っておけるものでなかろう。
「わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬは浅ましき事なり」

蓮如上人の大喝である。

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2010/05/11

私も親鸞学徒|オーストラリアから日本へ

オーストラリア オリヴィアさん

「人生の目的と、目標の違いを知らされたことです」

仏教のどこに引かれたかを尋ねると、きれいな日本語で端的な答えが返ってきた。

聞法してまだ半年のオーストラリアの親鸞学徒である。

「私は目標を幾つも達成してきました。

でも達成した瞬間から、次は?その次は?と問われるのです。

高森顕徹先生から『目的を知らぬ人生は、ゴールのないトラックを回り続けるようなもの』と聞かされた時、自分の人生がまさにそれだと感じたのです」

南半球で最良の大学といわれるオーストラリア国立大学を、オールA以上の成績で卒業。学士号を2つも取得し、日本留学も2回果たした。

傍(はた)からはうらやまれる学生生活も、心からやすらぎを感じられなかった。

「何かが足りない」

そう思い悩んでいた時、東京の大学で親鸞会と出遇った。

昨年9月、初めて二千畳(富山県射水市の親鸞会館)に。

「一念発起」など難しい仏語に戸惑ったが、

「これは大事な話。理解できるようになりたい」

と思った。以来、毎月欠かさず親鸞会館に参詣している。

4月からは二千畳のある富山に移り、塾で英語を教えながら聞法に励んでいる。趣味は茶道に料理。

「このまま日本に住み、国際交流をサポートする仕事をしたい」

と夢を語る。

(プライバシー保護のため、個人名は仮名にしてあります)

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