東本願寺(真宗大谷派)が4月に出版した『「歎異抄」の世界』は、いわゆる「近代教学」の焼き直しだった。
明治初頭の学僧・清沢満之に始まる近代教学は、昭和31年、東本願寺の正式な「教学」として採用され、今日に至っている。
「清沢先生の教学こそ、重大な意義をもつものである」
(宗門白書)
と、当時の宗務総長が宣言しているように、大谷派で清沢の影響は計り知れない。
大教団を、親鸞聖人のみ教えに反する邪宗におとしめた清沢満之と、近代教学の内容を見てみよう。
清沢満之の生涯は、日本の激動の時代に重なる。生まれたのは文久3年(1863)、テレビドラマで話題の坂本龍馬に遅れること30年で、世上は300年続いた徳川幕府が終焉を迎え、倒幕側が新しい国作りを模索していたころである。
それまで幕府の保護のもと、安逸をむさぼっていた東西両本願寺は、
「この世でハッキリ救われる」平生業成の教えを説かなくなり、
「ただじゃ、そのままじゃ、無条件のお助けじゃ、この機に用事はないぞ、死にさえすれば、華ふる極楽じゃ」
という大風に灰をまいたような説教が大勢を占めていた。
一方、東西本願寺とも教学の研究は盛んで、精緻な体系化が進んでいた。
だが、重箱の隅をつつくような観念の遊戯に陥り、「求道」とか、「獲信」に直結し、人々が救われる生きた教学ではなかった。
そんな時、明治新政府が誕生し、幕府にべったりだった本願寺には大きな代償を伴った。
すでに「禁門の変」(1864)の兵火で、東本願寺は阿弥陀堂や御影堂など主要な伽藍を焼失し、かつての威光を失っていた。
僧俗ともに再建を願ったが、幕府と共倒れにならぬよう、政治的な工作に莫大な経費を使ったため、本山の台所は火の車だった。
さらに、仏教界を揺るがす嵐が巻き起こった。廃仏毀釈運動である。
1868年、幕府から政権を奪った明治政府は、日本神道を国教にするため、手始めにそれまで神社内に安置されていた仏像や寺院関係の物を分離する政令を相次いで出した。
これが行き過ぎて、一部民衆が仏教施設を破壊し、僧侶は強制的に還俗させられ、寺院の極端な統廃合が行われた。
浄土真宗が盛んな地方では、被害は比較的少なかったが、それでも、東西本願寺には大きな衝撃が走る。
日本神道の国教化は、仏教界全体の反対運動で何とか食い止められたが、続いて哲学や科学、キリスト教など、様々な西洋思想が怒濤のごとく流入してきた。
知識階級は、それらの新思想に強い影響を受け、日本の伝統教団にも批判の目を向けるようになった。
仏教界は新たな対応を迫られた。
若い人材に西洋の思想を学ばせねば、時代に取り残される・との危機感から、東本願寺では、本山の学僧に西洋哲学やキリスト教の教義を学ばせた。さらに末寺や門徒の子弟から秀才を集めて英才教育を施し、東京大学へ留学させる方針を取った。
名古屋の下級武士の家に生まれた清沢満之も、14歳で得度して、このエリートコースに乗った。生来、頭脳明晰で、18歳で留学組に選抜され、東大哲学科に入学。首席で卒業し、大学院で宗教哲学を研究した。
将来は大哲学者になるだろうという周囲の期待をよそに、25歳で突然京都に戻り、本山経営の京都府立中学の校長に就任。結婚して、愛知県三河の西方寺の養子になったのもこのころである。
■真実の弥陀や浄土を否定
信仰を求める真面目さは人一倍だったといわれるが、親鸞聖人の教えとは方向が全く違っていた。
明治23年(1890)、彼が真剣に取り組んだのは、聖道仏教を思わせる「自力修行」(禁欲生活)であった。
ハイカラな洋服をやめて法服を着用し、頭を丸める。煮炊きをやめ、塩も制限した粗末な食物のみを取る。どこに行くにも車に乗らず、下駄履きの徒歩にした。母が亡くなってからは拍車がかかり、そば粉を水で溶いたものだけを食し、松ヤニをなめるようになった。
この禁欲生活で清浄な心が得られると清沢は期待したが、得られたのは、30歳での不治の病・肺結核だった。転地療養した神戸で、余命いくばくもないと恐れ、日記に家族あての遺言を書きながら、毎朝『阿含経』を読誦した。そして自分の努力が不本意な結果に終わったことを深く悟った心境を、
「ほぼ自力の迷情を翻転し得たり」
と書いている。
「自力」とは、「後生の一大事助かりたい」という心であるから、弥陀の本願によって後生の一大事が解決された時に、一切の自力は浄尽する。
「自力の迷情、共発金剛心の一念に破れて」と覚如上人が言われているように、真に自力が廃った人からは、「ほぼ翻転した」という表現は出てきようがなかろう。
聖道門の発想の枠を出ることができない清沢は、親鸞聖人時代の、聖道諸宗の開祖たちと同じ轍を踏むことになる。
「(浄土とは)我等の心になぞらえて西方といったものである」
「地獄極楽の有無は、無用の論題である」
「如来あるがゆえに信じるにあらず、信じるがゆえに如来あるなり」
「来世の幸福のことは私はまだ実験しないことであるからここで述ぶることは出来ぬ」
清沢の著書や講演録に見られるこれらの言葉は、指方立相の弥陀や浄土を否定した「唯心の弥陀」「己心の浄土」という考え方である。
「唯心の弥陀」「己心の浄土」とは、
「我々の心が阿弥陀如来であり、浄土である。我々の心以外に弥陀も浄土もない」
という考え方で、これを親鸞聖人は邪義として徹底的に排斥なされている。
仏教では、
「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界を名けて安楽と曰う」
(大無量寿経)
「是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う。其の土に仏有す、阿弥陀と号す。今現に在して説法したまう」
(阿弥陀経)
と、西方浄土にまします阿弥陀如来が説かれているからだ。
迷った思考からは、おとぎ話としか思えないような、西方極楽浄土や、阿弥陀如来の実在こそが、仏説であり、真実なのである。
明治30年(1897)、東本願寺本山は、京都で改革運動をしていた清沢を異安心と断罪し、除名処分とした。33歳で浪人となった彼は、意気消沈して、三河の西方寺へ帰る。
まだ住職も副住職も健在で、もともと居場所がない所に、病弱な実父と一緒に世話になったため、余計に肩身が狭かった。
地獄・極楽の厳存を当然のごとく信じていた門徒に対し、それを否定して、「スペンサーの不可知論」などとやたら難しい話ばかりするので、寺でも孤立した。法要のために訪問しても、門前払いされたり、養子縁組を解消して追い出される寸前までいった。
これには清沢も精神的に相当参ってしまい、当時の日記に『臘扇記』と命名している。「臘扇」とは、12月の扇子のことで、”必要ないもの”という意味である。自分に存在価値が感じられなかったのだ。
そんな彼が感動したのは、ローマ帝国時代の奴隷が書いた『エピクテタスの語録』という哲学書であった。この世の中には意のままになることと、ならぬことがある。だが、自分の心の持ちようは自分で変えることができるから、自分の心を変え、現実を受け入れ、煩悶しないようにすれば、心の平安は保たれる。
清沢は尋常ならざる意志の力で心の持ちようを徹底的に変える努力をし、だんだんと世事や私事に惑わされない強固な「信念」を築くことができたという。これ以後、その境地を語るようになり、世の評論家には、これを清沢の「獲信」と呼ぶ者もある。しかし、もちろん自分の経験や学問で作り上げた文字どおり「自力の信心」である。
親鸞聖人が『正信偈』に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
と、本師本仏の弥陀のお名前を何度も叫ばれ、弥陀のことばかり教えておられるのとは対照的に、清沢は、阿弥陀仏の御名をほとんど語らない。「絶対無限者」に救われたと言っているので、弟子の中にさえ、「清沢の信じていたのは阿弥陀如来ではなく、西洋哲学のゴッドであった」と言う者がある。
もっともらしいことを言っても、親鸞聖人の出られた無碍の一道とは、全く異質なものであったのだ。
■「清沢教学」とその弟子たち
翌明治31年(1898)、本山の政治的な判断で除名が解かれ、東京にできた真宗大学(現・大谷大学)の初代学長に遇されるが、学生運動の責任を執って1年で辞任する。
「(清沢)先生の御生涯は悲惨の極みでした」
後に弟子が清沢の一生をこう語っているように、妻や長男の早死になど、不幸が次々とやってくる。しかし、「信念の確立」への思いはますます強くなり、たびたび喀血しながら、その時々の心境を熱心に語り、書き残していった。
この時期の活動の中心になったのが、明治33年(1900)に東京で開いた私塾「浩々洞」である。後年、近代教学を大成したといわれる金子大栄や曽我量深、暁烏敏も、ここを巣立っている。
学生時代から実験(清沢の好きな言葉で「体験」のこと)を重んじ、自らが経験したことしか信じない清沢の影響で、『御文章』など都合の悪いお聖教を軽視する姿勢は、これらの学者に一貫している。
彼らは後年、親鸞聖人や蓮如上人のお聖教ではなく、「私はああだった、こうなった」しか書かれていない清沢の絶筆「我が信念」を持って布教に回ったのである。
「予の三部経は、『歎異抄』と『阿含経』と『エピクテタスの語録』である」
と清沢は語った。『教行信証』の理解もなく、カミソリ聖教といわれる『歎異抄』を自己流に解釈し、聖道仏教と哲学をこね合わせてできたのが、「清沢教学」である。
哲学の衣をまとっていたために、浄土真宗が新生したかのように一般には映り、特に思想界に親鸞聖人のお名前を知らしめることにはなった。
内に対しては、江戸時代以来の重箱の隅をつつくような教学研究に明け暮れた宗門に風穴を開け、「求道」とか「獲信」が浄土真宗にある、と認識させたので、「今親鸞」とまで呼ばれた。
しかし、実際のところは、これまで述べてきたように、親鸞学徒の本道を大きく外れ、真実の弥陀や浄土を知らず、迷いの観念が生み出した「唯心の弥陀・己心の浄土」という邪義を天下に広めた大悪知識となったのである。
清沢満之の『我が信念』には、一高の哲学青年・藤村操と同様に「人生不可解」という意味のこ
とを書いており、この共通点について論じる学者もいる。
「私が如来を信ずるのは、私の智慧の究極であるのである。人生の事に真面目で
なかりし間は、措いて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の
意義に就いて研究せずには居られないことになり、其の研究が遂に人生の意義は
不可解であると云う所に到達して、茲に如来を信ずると云うことを惹起したので
あります」(『我が信念』)
多くの問題を残したまま、清沢満之は、39歳で夭逝した。
藤村操が、華厳の滝に身を投じた1カ月後だった。
体験談 ほかに売り物 さらになし
こうなった 仏法使って 自慢する
◆清沢満之の時代と本願寺
1864 禁門の変の兵火で、東本願寺は、阿弥陀堂、御影堂など諸堂を焼失
1868 江戸城明け渡し 東京遷都 神仏分離令 廃仏毀釈運動起こる
1873 政府、キリスト教を公認
1878 清沢満之の得度
1889 明治憲法発布
1890 清沢、『歎異抄』に親しむ
1894 日清戦争始まる
1897 本願寺が清沢を除名
1901 本願寺が清沢を真宗大学の学長に任命
1903 清沢、没する
■「唯心の弥陀」・「己心の浄土」という考え方をしている者達を歴史的にあげて、徹底的に破られた親鸞聖人のお言葉
○それおもんみれば、信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり。然るに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し。
(教行信証)
■親鸞聖人の教えに反する清沢満之の「近代教学」
・「唯心の弥陀」「己心の浄土」
(指方立相の弥陀や浄土の否定)
・後生を認めない
・自分の経験をもとに教えを解釈する
*宗務総長……本願寺の宗政上の最高責任者
*「禁門の変」……長州軍(尊王攘夷派)と会津・薩摩軍(公武合体派)の軍事衝突。「蛤御門の変」とも
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