2011/04/27
「お先にどうぞ」
「いえ、私は大丈夫です」
大地震の直後、停電した秋田市内のホテルでは、非常食用としてうどん10杯が用意されたが、約50人の宿泊客らは先を争うことなく、互いを気遣った。
待ちに待った救援物資が届き、「我先に」となりがちな時でも、整列して粛々と自分の番を待つ光景が、避難所の至るところで見られたという。
このような協調性を保とうとする姿に、海外メディアは日本人の特質を見た。
この「和」を大事にする精神は、さかのぼれば聖徳太子の十七条憲法までたどり着くといえよう。
その第一条が有名な「和するを以て貴し」の条文である。
さらに太子は第二条に、
「篤く三宝を敬え。三宝は仏・法・僧なり」
と制定し、仏教を、国を治める基本理念に据えている。
聖徳太子は、日本を統一国家とし、仏教を根づかせた最大の功労者だった。
ゆえに親鸞聖人は、「和国の教主聖徳皇(聖徳太子は日本のお釈迦さまである)」と太子に深い尊敬の念を抱いておられるのである。
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2011/04/27
茨城県の早場米生産地から田植えの便りが届いた。ただし、原発事故の「風評」を心配しながらの作業という。被災地に、まだ確かな春はない。
もし親鸞聖人が彼の地を訪ねられたら、どのように法を説かれただろう。ふと、考えさせられる。
常陸国(現茨城県)にお住まいの頃。
「私もお仲間に入れてもらえんかな」
「えっ?坊さんが田植えできるんかい」――。
目を丸くする村人の前で、衣の裾をまくり泥田に入っていかれる親鸞聖人。
田園にやがて親鸞聖人の田植え歌が広がる。
「五劫思惟の苗代に
兆載永劫の、しろをして
雑行自力の草をとり
一念帰命の種おろし
念々相続の水ながし
往生の秋になりぬれば
実りを見るこそうれしけれ」
どう生きる、に精一杯の村人たちに寄り添い、生きる方角をはっきり示されている。
どんな苦難も乗り越え、生きねばならぬのはなぜかと。
青々とした早苗が風にそよぐ季節が、東北にもやってくる。
ともに〈弘誓の仏地〉に向かって、確かな歩みの春としたい。
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2010/11/20
「ほどほどの幸せでいいじゃないか。足るを知れ」と人は言う。
なるほど一理あるようだが、「ほどほど」にできるかどうかが問題だ。
上に行くほど叩かれ、人相が変わるほど苦労せねばならぬのを眼前にしながら、一議員では満たされず、市長、県知事、首相と、権力の階段をもっともっとと上ってゆく。
早々に売ればよいのに「まだまだ上がる?」と持ち株を手放せず、バブルが弾けて大暴落。
未だに持ち続けている人もある。「ほどほどがよい」とわかっていても難しい。
わかっちゃいるけど止められない。有限の命で無限の欲を満たせるはずがない。
渇いては求め、求めてはなお渇き、ゴールのない円周を限りなく回って苦悶している。
現在の延長が未来だから、いまの流転は永久の流転、後生は一大事と知らされる。
これを『大無量寿経』に釈迦は
「従苦入苦 従冥入冥」
と説き、この世の苦から死後の苦しみへと堕ちていくと慈誨されているのである。
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2010/10/18
「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(歎異抄)
これを、みな「本願を信ずるには」と誤読し、”弥陀に救われるには、善は不要、悪も恐れる必要はないのだ”と得手に理解する。
その結果は明らかだ。
放逸無慚(ほういつむざん)になり果てた浄土真宗は、外道からは悪人製造の教えと揶揄され、崩壊の一途を辿っている。
その原因が、『歎異抄』のこの誤解にあるといっても過言ではない。
もちろん、「弥陀に救われたならば」のことである。「弥陀の救い」は、百年や千年の問題ではない、幾億兆年の迷いの魂を解決し、浄土往生させることである。
平生に往生一定の大満足を獲たならば、当然ながら「往生のために善をしよう」など微塵もないから「他の善も要にあらず」と言われているのである。
往生の一段のことであって、それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解するから、
仏法を破壊し世の中に猛毒をまき散らして平気でいるのだ。
因果の道理は宇宙の真理、ゴロゴロ怠け放題では人生の落伍者となるだけ。
世界の光と仰がれる聖人のご活躍は、真実信心はもちろんのこと、ずば抜けた勉学努力なくしてはあり得ないのだ。
善知識から「弥陀の救い」を正しく聞かせて頂かねば、お聖教の一言半句もまともに読めぬと知らされるばかりである。
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2010/10/07
剣道、茶道、華道、書道、または政治、経済、科学、医学、芸術など、これらの道には、これで究めた、求まったという完成がない。「死ぬまで求道」である。求めるのは、求まることを前提とする。百パーセント求まらぬものを求める人生は、悲劇あるのみだ。
「好きなことをやれたら満足。求まらずとも、求める過程が楽しいのだ」と言い張る人は重大なことを見落としている。
泳ぐこと自体が好きなのだという人に、「それでは太平洋の真ん中で存分に泳ぎなさい」。空と水しか見えない。存分に泳げても、泳ぎ着かぬ海原である。やがて愕然と、自分の行く末に気づくだろう。これが「死ぬまで求道」礼賛のすがたではないだろうか。
人生の目的には完成がある。それは未来のいつかではない。
「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く」(釈尊)
不可思議な弥陀の本願力は、今、生命の大歓喜を与えてくだされるのである。
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2010/07/06
「噫、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし」(親鸞聖人)
〝ああ、なんたる不思議か、親鸞、多生にも遇い難いことに、いま遇えた。億劫にも獲難いことを今獲ることができたとは〟
阿弥陀仏に救い摂られた驚きと感動の親鸞聖人のお叫びである。
親鸞会の二千畳の存在する在所に住んでいても、どれだけこの正本堂に座られる人があろうか。同朋の里のある村の幾人が、F館で信心の沙汰をされるご縁があるだろう。
親鸞会の二千畳に群参し同朋の里・F館に溢れる人々も、地元に帰れば「国に一人、郡(こおり)に一人」の親鸞学徒であるにちがいない。
無上の妙法は聞けなくて当然、聞けたら不思議の中不思議である。どうして私が聞けたのか。小慈小悲もない私なのに「何とか伝えたい」の悩みが起きるのは、全く無上仏の起こさしめたまう悩みであり、お計らいにちがいない。
「あいつはどうして聞かんのか、謗るのか」と見下げる心も、怒りの心も霧散する。
多生にも億劫にもあり得ぬことが、どうして現にわが身に起きているのか。原因を知ることこそが、最も肝要ではなかろうか。
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2010/06/30
四国の妙好人(みょうこうにん)・庄松(しょうま)同行が、深夜、寺の門を叩き、「大変だ!大変だ!」と叫んだ。
「どうした庄松」
起こされた住職が尋ねると、
「オラ、疑いが起きてきたんだ。地獄は本当にあるのか?」
「今更、お前、何を言う」
「本当に地獄があるのなら、まず妻子に伝えにゃならんだろう。他人に勧めるばかりで家族に伝えていないじゃないか。無いものをあるように教えているからでないかと、疑いが起きてきたのじゃ」
と、辛辣に切り込んでいる。
袖触れ合うも多生の縁といわれる。ましてや家族となれば、よほど深い因縁があってのことだ。久遠劫より流転を重ね、今生、巡り遇わせていただいた阿弥陀仏の本願、往生極楽の道を、自分だけ喜び、家族を放っておけるものでなかろう。
「わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬは浅ましき事なり」
蓮如上人の大喝である。
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