2010/05/22
『歎異抄』解説書の比較対照【9】『霧に包まれる「摂取不捨の利益」 親鸞会.NET
前回(『歎異抄』解説書の比較対照《『歎異抄』と「二種深信」》)
http://www.shinrankai.net/2010/05/hikaku.htm
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
《原文》
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて
「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に
あずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)
梅原猛著『誤解された歎異抄』の意訳
阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。
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高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳
〝すべての衆生を救う〟という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
「弥陀の誓願」と聞くと、「死んだら極楽に生まれさせてくださるというお約束」程度に思っている人がほとんどです。万人のその誤解を正し、弥陀の救いは〝今〟であり、その救済は如何なるものかを明示し、人間の真の生きる道をひらかれたのが親鸞聖人です。
聖人の教えを漢字四字で「平生業成」といわれます。「平生」とは「現在」のこと。人生の目的を「業」という字であらわし、完成の「成」と合わせて「業成」といわれます。「平生業成」とは、人生の目的が現在に完成するということです。人は何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。なぜ苦しくとも、生きなければならないのか。
親鸞聖人は、人生の目的を次のように喝破されています。
生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
(『高僧和讃』)
「苦しみの波の果てしない海に、永らくさまよい続けてきた私たちを、弥陀の誓願の船だけが、必ず乗せて渡してくださるのだ」
微塵劫のあいだ生死を繰り返し、苦しみ続けてきた私たちが救われる道は、弥陀の誓願ただ一つです。真実の道は一本キリだから「弥陀弘誓の船のみぞ」と仰り、弥陀の救いにあうことこそ、真の生きる目的だと明示されているのです。
弥陀の救いの時と内容
『歎異抄』全十八章の収まる第一章は、親鸞聖人の教えの肝要を略説する極めて重要な内容を持ちます。一章ではまず、弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されています。
ではその救いとは、いかなるものか。
「摂取不捨の利益を得る」
と言葉は簡明ですが、その内容は極めて深くて重い。
「摂取不捨の利益」とは何か。最大の関心事なのですが、なぜか不明瞭なままで甘んじられているようです。
以下に挙げる解説書はいずれも、「摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」の意訳があるだけで、それ以上の解説はありません。
山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳
阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。
石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の意訳
阿弥陀仏は、そのお光のなかにおさめとってお捨てにならない救いの恵みにゆだねさせになるのである。
佐藤正英著『歎異抄論註』の意訳
摂めとって捨てることのない阿弥陀仏の恵みにあずかる。
私たちが最も知りたいのは、弥陀の光明に摂め取られたらどうなるのか、救いに恵まれる前と後とで、どこが変わるのかです。その肝心なことが、これらの意訳では一向に分かりません。次の安良岡康作著『歎異抄 全講読』の解説も、「摂取不捨」という仏語の出典に言及するにとどまっています。
「摂取」は、仏語で、仏が慈悲心によって、一切の衆生を受け入れて、救済し給うの意。「不捨」は、お捨てにならない。『観無量寿経』に、「一一光明、遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨」とあるのに由る。
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)
親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』に至っては、憶測と想像の羅列です。
B▼「阿弥陀の摂めとって捨てない利益」というのは、得られたあとに感ずるものでしょう。「こんなに素晴らしい世界だったんだ」という感覚です。(中略)
A▼「生活に揺るぎのない不動の精神が与えられる」はどうでしょうか?(中略)
C▼「摂取不捨」は、譬喩としては、向こうから守られてあるという感じかな。
(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)
「摂取不捨の利益」とは、「凄い弥陀の救い」のことですが、「凄い救い」とはいかなるものでしょうか。「救われる」前と後とは、どこが、どう変わるのでしょうか。
その違いが鮮明にならねば、依然として『歎異抄』は深い霧に包まれてしまうでしょう。
「摂取不捨の利益」とは
「摂取不捨」とは文字どおり、〝摂め取って捨てぬ〟ことであり、「利益」とは〝幸福〟のことです。
〝ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福〟を、「摂取不捨の利益」といわれます。「絶対の幸福」と言ってもいいでしょう。人生の目的は、時間をかけて徐々に完成するのではありません。人生の目的が果たされるのは「一念」です。一念で弥陀に救い摂られた、永遠の幸福とは、どんな世界でしょうか。
『歎異抄をひらく』では、いちばん聞きたい「摂取不捨の利益」を、次のように詳説されています。
生きる目的は幸福だとパスカルも言う。自殺するのも楽を願ってのことであり、すべて人の営みは、幸せの外にはありえない。
だが、私たちの追い求める喜びは、有為転変、やがては苦しみや悲しみに変質し、崩壊、烏有に帰することさえある。
結婚の喜びや、マイホームの満足は、どれだけ続くだろう。配偶者がいつ病や事故で倒れたり、惚れた腫れたは当座のうち、破鏡の憂き目にあうかも知れぬ。
夫を亡くして苦しむ妻、妻を失って悲しむ夫、子供に裏切られ激怒する親、最愛の人との離別や死別。世に愁嘆の声は満ちている。
生涯かけて築いた家も、一夜のうちに灰燼に帰し、昨日まで団欒の家庭も、交通事故や災害で、「まさか、こんなことになろうとは……」
天を仰いで茫然自失。辛い涙で溢れているのが現実だ。
瓢箪の川流れのように、今日あって明日なき幸福は、薄氷を踏む不安がつきまとう。たとえしばらく続いても、死刑前夜の晩餐会で、総くずれの終末は、悲しいけれども迫っている。
まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ (御文章)
病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか。
蓮如上人、乱打の警鐘である。
ふっと死の影が頭をよぎるとき、一切の喜びが空しさを深め、〝なぜ生きる〟と問わずにおれなくなる。
〝死の巌頭にも変わらぬ「摂取不捨の利益」こそが人生の目的〟
親鸞聖人のお言葉が、真実性をおびて響いてくるのではなかろうか。
風前の灯火のような幸せ求めて、今日も人はあくせく苦しんでいる。なんとか摂取不捨の利益の厳存を伝えなければならない。
(『歎異抄をひらく』)
日本の歴史上、最も成功した秀吉も、臨終には「難波のことも夢のまた夢」と寂しくこの世を去っています。死んでいく時に、何が光になるでしょうか。名誉が残るといっても、千年、万年後には影も形もありません。そんな儚い幸福で、「人間に生まれてよかった」の生命の歓喜が得られるでしょうか。
「摂取不捨の利益」に生かされ、人界受生の本懐を果たされた聖人の法悦を、『歎異抄をひらく』では次のように書かれています。
ひとたび弥陀より摂取不捨の利益を賜れば、何時でもどこでも満足一杯、喜び一杯、人生本懐の醍醐味が賞味できるのだ。
親鸞聖人の、その歓喜の証言を聞いてみよう。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法 (教行信証)
まことだった、まことだった! 摂取不捨の利益、本当だった! 弥陀の真言ウソではなかった!
永久の闇より救われて苦悩渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じた聖人の、驚きと慶喜の絶叫なのだ。この摂取不捨の妙法を詳説されたのが親鸞聖人なのである。
(『歎異抄をひらく』)
どの解説書も曖昧だった「摂取不捨の利益」こそ、古今の人類が探求してやまぬ「人生の目的」です。『歎異抄』の愛読者は多いですが、〝摂取不捨の利益にあずかること〟が人生の目的と知る人は少ないのではないでしょうか。
山に入って山が見えないのかもしれません。
梅原 猛
日本を代表する哲学者
京都市立芸術大学名誉教授
国際日本文化研究センター名誉教授
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数
山崎龍明
元・西本願寺教学本部講師
武蔵野大学教授
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している
石田瑞麿
元・東海大学教授
浄土教の研究に専心
著書多数
佐藤正英……東京大学名誉教授
日本倫理思想史、倫理学の研究者
安良岡康作
国文学者。
東京学芸大学名誉教授
親鸞仏教センター
真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている
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