2012/01/25

「衆生済度は死んでから」の誤解 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第23回

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第23回 親鸞会.NET

「衆生済度は死んでから」の誤解

原文

浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心を

もって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。(中略)

しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき

(『歎異抄』四章)

梅原猛氏著

『誤解された歎異抄』の意訳では、

浄土門の慈悲といいますのは、念仏をして早く仏さまになって、

仏の持っている大いなる愛の心、大いなるあわれみの心でもって、

思うように生きとし生けるものを救いとり、生きとし生けるものに

利益を与えることをいうのでありましょう。(中略)だから、

この世のことは業にまかせて、ひたすら念仏するのが、首尾一貫

した大きな慈悲でありましょう。

とあります。

高森顕徹先生著

『歎異抄をひらく』の意訳では、

浄土仏教で教える慈悲とは、はやく弥陀の本願に救われ念仏する

身となり、浄土で仏のさとりを開き、大慈悲心を持って思う存分

人々を救うことをいうのである。(中略)されば、弥陀の本願に

救われ念仏する身になることのみが、徹底した大慈悲心なのである。

と書かれています。

●人間の慈悲の限界

「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の違いを教えられた、この第四章も、大きく誤解されてき

ました。

仏教で「慈悲」とは、苦しみを抜き、楽しみを与える「抜苦与楽

(ばっくよらく)」のことでする。

「浄土の慈悲」とは、直後に「大慈大悲」と言い換えられています

ように、「阿弥陀如来の大慈悲」のことです。

それに対し「聖道の慈悲」とは、人間の慈悲をいいます。

政治も経済も科学も医学も、全て人間の営みは、いかに苦悩を無くし、

幸せにするか以外にありません。

ですが、薬や手術で病気の苦が抜けても、また別の病にかかるかもしれ

ません。

借金の肩代わりをして助けても、今度は子供が事故に遭ったり、災害に遭ったり、苦は色を変え

てやってきます。

金や物を与えても、それは一時の喜びであり、「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜を与えることはできない

のです。

人間の慈悲は、一時的な救いであり、本当の意味で助け切ることは

できないことを、四章では次のように教えられています。

聖道の慈悲というは、ものを憐れみ愛しみ育むなり。しかれども、思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし。

(意訳)

聖道仏教の慈悲とは、他人や一切のものを憐れみ、いとおしみ、

大切に守り育てることをいう。

しかしながら、どんなに努めても、思うように満足に助け切ること

はほとんどありえないのである。

●浄土の慈悲とは

それに対し「浄土の慈悲」とは、四章に

「仏になりて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益する」

とあるように、仏のさとりを開き、大慈悲心を持って思う存分人々

を救うことだと書かれています。

この世では仏には成れないから、これは死んで浄土へ往ってからのことです。

このお言葉を盾に取り、”衆生済度は死んでから”と座り込む者が多くあります。

しかも四章の結びには

「念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心」

とあります。

冒頭で引用した梅原氏のように

「この世のことは業にまかせて、ひたすら念仏するのが、首尾一貫した大きな慈悲」

と理解すれば、

“この世のことは成り行きまかせ。我々は念仏さえ称えていればよいのだ”という、消極的信仰にピタリと一致

します。

衆生済度は、あくまで将来(死後)のことであり、この世で浄土の大慈悲心が現れるといっても、それは念仏を称えることだけだと、

安良岡康作氏著

『歎異抄 全講読』も次のように解説してあります。

末尾の叙述は、「念仏申すのみぞ」とあって、往生浄土の道としての念仏を現世において行ずることだけが、現世における「末通りたる大慈悲心」の現れたることを、ここでは「候ふべき」という推量の助動詞によって、やや婉曲に言っているのも、それが、将来における往生や成仏や還相としての衆生済度に関っているからでしょう。

ですが、ただ念仏を称えることが、どうして浄土の慈悲の実践に

なるのかと、

石田瑞麿氏著

『歎異抄──その批判的考察』は、次のように首をかしげています。

最後に問題になるのは、「念仏申ス」ことが、そのまま現世の人々の救済のはたらきになるか、ということである。

人はそれと気付かなくても、それはそのままで世の人を救っているのだ、

というふうにでも、親鸞が考えたことがあれば、念仏は世のため人のための救いのはたらきとして、

いまこの世にあるとき、慈悲心を実践に移している姿となる。

しかし親鸞からそうした言葉を聞くことは不可能である。

●衆生済度に生き抜かれた聖人

四章には、大きな謎があります。

「浄土の慈悲」が死後、仏に成ってから衆生を済度することだとすれば、

あの親鸞聖人の有情利益の大活躍は、何だったのか。

親鸞聖

人の、たくましいご一生からは、

「衆生済度は死んでから」

「この世は念仏さえ称えておればよい」

という、消極的、退嬰的信仰は、微塵も見られないからです。

山崎龍明氏著

『初めての歎異抄』は、

自己を小慈小悲もなき身と規定したのが親鸞聖人でした。

しかし、他方、懸命に「衆生利益」を励んだのも聖人でした。

と矛盾点を指摘するだけで、その謎は一向に解かれていない。

思う存分、大慈大悲心をもって衆生を救うのは、浄土で仏のさとり

を開いてからだが、今生で弥陀に救われれば、

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし(恩徳讃)

(意訳)

阿弥陀如来の大恩と、その本願を伝えたもうた恩師の厚恩は、

身を粉に、骨砕きても済みませぬ。

微塵の報謝もできぬ懈怠なわが身に、ただ泣かされるばかりである。

やむにやまれぬ謝恩の熱火に燃やされて、「浄土の慈悲」の”真似ごと”でもせずにおれなくなってくるので

す。

“まことの浄土の慈悲は仏に成ってから”と仰る親鸞聖人が、

なぜ石を枕に雪を褥に日野左衛門を済度され、

剣をかざして殺しに来た弁円にも「御同朋」とかしずかれたのか。

それはひとえに、「阿弥陀仏の大慈悲心」に動かされてのことなの

だと、親鸞聖人は明言されています。

小慈小悲もなき身にて

有情利益はおもうまじ

如来の願船いまさずは

苦海をいかでか渡るべき

(愚禿悲歎述懐和讃)

(意訳)

微塵の慈悲も情けもない親鸞に、他人を導き救うなど、とんでも

ない。弥陀の大悲心あればこそ、人のすべてが救われるのである。

生死の苦海ほとりなし

ひさしく沈めるわれらをば

弥陀弘誓の船のみぞ

乗せて必ず渡しける(高僧和讃)

(意訳)

果てしない苦しみの海に、永らく沈んでいる私たちを、必ず

無量光明土へ渡してくださるのは、阿弥陀如来の大悲の願船のみ

である。

二十九歳、弥陀の大悲に救い摂られた聖人は、お亡くなりになる

九十歳までの六十一年間、目をみはる「恩徳讃」の大活躍をなされ

ました。

その源泉は、弥陀の本願力の躍動以外には、なかったのです。

「浄土の慈悲は仏に成ってから」と字面だけ追う解説書からは、全

く分かりません。

『歎異抄をひらく』で初めて、まこと浄土の慈悲の実践というべき、

聖人の衆生済度の本源が明かされたのです。

親鸞会では、生きている時の救いを明らかにされた、生きた親鸞聖人の教えをお届けしています。

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