2011/12/02
「他力をたのむ」とは? 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第22回
『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第22回 親鸞会.NET
第22回 三章の結論は「他力をたのむ」こと
原文
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり (『歎異抄』三章)
親鸞仏教センター著
『現代語 歎異抄』の意訳
自らの煩悩(欲望・不安・後悔等)に振り回されている私たちは、どれほど人間的な努力を尽くしてみても、そうした苦しみの生活から根本的に解放されることはありえない。このような私たちを深く悲しまれて、本願を起こしてくださったのである。その本願の御こころは、そのような悪人をこそ真に解放してくださるのである。だから、他力にすべてをおまかせする悪人の自覚こそ、真実の自己になる根本的要因なのである。
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高森顕徹先生著
『歎異抄をひらく』の意訳
煩悩にまみれ、どのような行を励むとも、到底、生死の迷いを
離れられぬ我々を不憫に思われ建立されたのが、弥陀の本願。
悪人を成仏させるのが弥陀の本意だから、”助かる縁なき者”と、
他力にうちまかせる悪人こそ、浄土へ生まれる正客なのだ。
●「悪人」とは「全人類」のこと
『歎異抄』三章に説かれる「悪人正機」は、多くの研究者が聖人のみ教えの”核心”と考え、盛んに論じています。
ですが肝心の「悪人」の意味を知らないので、解説書を読めば読むほど、底無し沼に沈んでいきます。
前回では、聖人の言われる「悪人」とは、「煩悩具足の我ら」全人類のことだと書きました。
その根拠は、阿弥陀仏の本願です。
弥陀の本願は、誰のために建てられたお約束でしょうか。
弥陀の正客(お目当て)を三章では、
「煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう」
(煩悩にまみれ、どのような行を励むとも、到底、生死の迷いを離れられぬ我々を不憫に思われ本願を建立された)
と説かれ、それを簡略に「悪人成仏のため」と言い換えられています。
弥陀は全人類を、煩悩にまみれた「悪人」と見抜かれ、必ず救うと誓われているのです。
●弥陀の救いは信心一つ
では、どうすれば弥陀に救われるのでしょうか。
『歎異抄をひらく』では、根拠を明示して、信心一つの救いであることを詳述されています。
「他力信心」以外、聖人の教えはないから、「信心為本」「唯信独達の法門」といわれるのだ。
簡潔な文証を二、三、あげてみよう。
涅槃の真因は唯信心を以てす (教行信証)
浄土往生の真の因は、ただ信心一つである。
正定の因は唯信心なり(正信偈)
仏になれる身になる因は、信心一つだ。
往生浄土の為にはただ他力の信心一つばかりなり (二帖目五通)
浄土へ往くには、他力の信心一つで、ほかは無用である。
信心一つにて、極楽に往生すべし
(二帖目七通)
信心一つで、極楽に往生するのだ。
●往生の正因は「信心」一つ
往生浄土の「正因」は「信心」一つであることは、先の文証から明らかです。
「悪をするほど助かる」「悪は往生の正因」など、聖人の教えからは出ようがありません。
ところが、そのように誤解する人が多いのは、三章に「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」とあるからです。
肝要の「他力をたのみたてまつる」が分からぬから読み飛ばして、「悪人」が「もっとも往生の正因」と誤読するから、「悪をするほど浄土へ往ける」という曲解が生じるのでしょう。
実際、”悪をするほど助かるのだ”と好んで悪を行う「造悪無碍」と呼ばれる輩が現れ、「悪人製造の教え」と非難された。それはまた、今もある『歎異抄』の根深い謬見でもあります。
「悪人こそ往生の正因」という解説は、枚挙に暇がありません。
例えば、
梅原猛氏著
『誤解された歎異抄』は、こう解説されています。
煩悩具足の我々は、他の行ではとても生死を離れることはできない。そんな我ら煩悩具足の人間を哀れんで、願を起こして極楽往生させようとするのが阿弥陀の本意、つまり念仏の教えなので、そういう悪人こそ往生の正因であるというのである。
延塚知道氏著
『親鸞の説法「歎異抄」の世界』も同様に、
阿弥陀如来の本願が救おうとする正因は、悪人であることを明らかにするのが第三章である。
と主張しています。
●三章の結論をひらく
『教行信証』はじめ聖人の全著述は、こんな者は善人、あんな者は悪人と分けるような見方はされていません。
すべての人間は悪人であり、金輪際、助かる縁無き罪悪生死の凡夫という人間観は、一貫しています。
三章で「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」と言われているのは、「他力をたのみたてまつる」一つが「往生の正因」ということです。
「善人」と「悪人」を比較し、善悪を問題にされているのではありません。
「他力をたのみたてまつる」か否か、他力信心を獲得したかどうかのみ、問題にされているのです。
安良岡康作氏著『歎異抄 全講読』は、三章を
「善人の往生よりまさる、悪人の往生の必然性」と要約しています。
たしかに「善人」と「悪人」が対照されていますから、「善人より悪人」が結論と思うのは自然でしょう。
ですが『歎異抄をひらく』では、他力信心一つが「往生の正因」であることを、次のように詳述されています。
善人であれ悪人であれ、要するに「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつる」他力の信心ひとつが強調されるのだ。
自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり
(『歎異抄』第三章)
本願を疑う自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得すれば、真実の浄土へ往生できるのである。
他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり (『歎異抄』第三章)
他力の信心を獲た悪人こそが、往生の正因を獲た人だ。
(中略)
すでに『歎異抄』一章には、「弥陀の救いには、善人も悪人も差別はない」と説き、「ただ信心を要とすと知るべし」と明言されている。
これによっても、善人悪人、一応、分けてはあるが、弥陀の救いの焦点は、他力信心一つに絞られていることが、明々白々である。
『歎異抄』では、特に指摘し喚起しておかなければならない要点だろう。
「善人より悪人」で始まる三章の結論が、「他力をたのむ」信心正因であることを、誰も明らかにできずにいます。
「善人」「悪人」にとらわれ、袋小路の解説書ばかりである。それはひとえに、「自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつる」他力の信心に昏いからでしょう。「他力をたのむ」の意味を、
山崎龍明氏著
『初めての歎異抄』は、こう解説しています。
「本願他力をたのむ」ということは、私自身の身、口、意の三業と、自己の能力、社会的地位、学歴などを、生きるうえでの根拠としないことです。これらの一切を人生のよりどころとせず、根拠とせずに、阿弥陀仏の教えを根拠として生きる者ということです。
冒頭で引用した、親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』に至っては、「他力」を「拡大解釈」して迷走しています。
「他力」を拡大解釈すれば、「関係性」という意味になります。ひとの生物環境や社会環境はすべて関係性で成り立っていますから。単純にいえば、みな「自分の力で生きている」と思っていますけど、本当はすべてが他力で動いているわけです。(中略)自由意志すらもじつは他力で与えられているというのが、親鸞の「他力」理解でしょう。
親鸞聖人は『教行信証』に、
「『他力』と言うは如来の本願力なり」
と明言され、阿弥陀如来の本願力だけを「他力」というのだと明言されています。
親鸞学徒は、氾濫する「拡大解釈」や「私釈」を斬り捨て、『教行信証』のご金言を根拠として、正しい親鸞聖人の教えを聞かせていただかなければなりません。
親鸞会は、『教行信証』を根拠に、親鸞聖人の教えをお伝えしています。
おぞましや
名聞利養に 体験談
�名聞利養とは、広く名を知られたいという名誉欲と、身を養うための利益欲。
略して、名利という。
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