2012/02/23

親鸞聖人の人間観とは? 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第24回

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第24回  親鸞会.NET

四海みな兄弟
──親鸞聖人の人間観

原文



親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいま だ候わず。
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。
いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。
(『歎異抄』第五章)

親鸞仏教センター著

『現代語 歎異抄』の意訳では、

私〈親鸞〉は、亡くなった父母への供養のために念仏したことは、
いまだかつて一度もない。その理由は、いま現に生きとし生ける
ものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような
存在だからである。
どのような存在であろうとも、やがて仏の位に到ったときには、
だれをも救済することができるのである。

とあります。

高森顕徹先生著

『歎異抄をひらく』では、

親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて
称えたことはない。


なぜならば、忘れ得ぬ父母を憶うとき、すべての生きとし生ける
もの、無限に繰りかえす生死のなかで、いつの世か、父母兄弟であったで
あろうと、懐かしく偲ばれてくる。




されば誰彼を問わず、次の生に、仏になって助けあわねばならないからである。

と意訳されています。

●弥陀の十方衆生(すべての人)観

葬式や読経、法事などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、
世の常識になっています。

それは人類始まって以来、古今東西共通の迷信です。

その根深い迷妄を破るために、親鸞聖人は

「親鸞は父母の追善供養のために念仏を称えたことなど、一度もない」

と『歎異抄』五章で衝撃的な告白をなされています。

四歳で父を失い、八歳にして母を亡くされた聖人の、両親を思うせつなさは、
いかばかりであったでしょう。

亡き父母は、聖人の最も忘れえぬ幻影だったに違いありません。
そんな聖人が、なぜ父母の孝養のために念仏一遍、称えたことがないと
仰ったのでしょうか。

その理由を

「そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり」

と五章で記されてあります。

ここは仏教の生命観を知らねば、正しく理解することはできません。

私たちの生命は始めなき始めから永遠に続いていくと、仏教では説かれています。
七、八十年で滅びる肉体は、その生命の大河の水面にポッと生じ、
やがて消える泡にすぎないのです。

次々と泡が生滅を繰り返しても、とうとうと流れる大河の水は減りも増えもしない。
一貫して変わらぬ大河のように、我々の生命は無始無終であると説かれています。

無始より今日まで、生死を繰り返してきた自己を知らされた中国の高僧・善導大師の告白が、『歎異抄』後序に引用されています。

(原文)

善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた、
常に沈み常に流転して、出離の縁あることなき身と知れ」という
金言に、少しも違わせおわしまさず。




(意訳)



善導大師の、「私はいまも罪悪を犯し続け、苦しみ迷っている人間。
はるかな過去から常に苦海に沈み、生死を繰り返し、迷界から離れる
縁あることなき身と知る」
というご金言と、少しもたがわぬことが知らされる。


久遠劫から苦悩の世界を流転してきたのは、善導大師お一人のことでは
ありません。

弥陀は、古今東西の万人(十方衆生)は、善のカケラも無い、
永久に助かる縁なき「悪人」であると見抜かれています。

「十方衆生は皆、悪人」と知り抜かれた弥陀が、その十方衆生を平等に救わんと誓われたのが弥陀の本願です。

十方衆生を平等に見られた弥陀の人間観は、そのまま親鸞聖人の人間観であり、それを
『歎異抄をひらく』では、こう詳説されています。

。。。。。。

聖人の「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではない。
極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させる。




いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし
(歎異抄)


どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ。

この告白は、ひとり聖人のみならず、古今東西万人の、偽らざる実相であることを、
『教行信証』や『歎異抄』には多く強く繰り返される。


一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、
虚仮諂偽にして真実の心無し




(教行信証)



すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、
そらごと、たわごとのみで、真実の
心は、まったくない。




悠久の先祖より無窮の子孫まで、すべての人は、邪悪に満ちて、
そらごとたわごとばかりで、まことの心は微塵もない。




しかも、それを他人にも自己にも恥じる心のない無慚無愧の鉄面皮。

永久に助かる縁なき者である。

『歎異抄』三章後半も、念を押す。

煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて
願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば……(歎異抄)


煩悩にまみれ、どのような修行を励んでも、到底、迷い苦しみから
離れ切れない我らを不憫に思い、建てられた本願だから、弥陀の
本意は悪人を救うて成仏させるためだったのである。


人間はみな煩悩の塊、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は、
知り抜かれたからこそ”必ず救う”と誓われたのだ。


これぞ、弥陀の本願の真骨頂なのである。







聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、
悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。



。。。。。。。


弥陀に「悪人」と見抜かれた全人類が、本願のお目当てであり、
弥陀の大悲を平等に受ける兄弟なのです。

●十方衆生は父母兄弟

遠い国に住む、自分と無関係だと思っている人でも、無限の生死の間には、
父であったこともあれば、母であったこともあり、兄弟だったこともあるに違いありません。

地球上70億の人も皆、かつては父母兄弟だった、縁の深い懐かしい人たち。

自覚があろうとなかろうと、赤の他人は一人もいないのです。

ひとしく弥陀の救いに値うまでのお育てにあっている兄弟だから、
親鸞聖人は「御同朋、御同行」と、全人類に手を差し伸べられたのです。

『歎異抄』六章で「親鸞は弟子一人ももたず候」と仰ったのも、
このような聖人の同朋愛であることを、『歎異抄をひらく』には次のように解説されています。

。。。。。。。
深い因縁で私たちは人界に生を受け、ひとしく弥陀に照育され、無上道を歩んでいる。
四海みな兄弟であり、上下などはまったくない。懐かしき御同朋・御同行であると
親近される。


あの階級制度の厳しい時代にあって、”良き友よ、同胞よ、共に無上道を進もうではないか”と全人類に呼びかける、燃える同朋愛の発露が、「親鸞は弟子一人ももたず候」なのである。

。。。。。。。

●氾濫する無責任な解説

親鸞聖人が「一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり」と仰ったのは、
すべて弥陀の本願を表されたお言葉です。

『歎異抄』には常に、この弥陀の本願が説かれているのだが、無責任な解説が世に横行しています。

安良岡康作氏著

『歎異抄 全講読』には、

「一切の有情」が、「皆もって、世々生々の父母・兄弟なり」という、
当時の社会の通念が語られた


と、弥陀の本願を「社会の通念」に引き下ろしています。


梅原猛氏著


『誤解された歎異抄』なども、

これは平安末から日本に定着した
『天台本覚論』の考え方であると思われる。それは仏性を、人間ばかりでなく一切の生きとし生けるものに見る思想である。


と、勝手な想像を語っています。

石田瑞麿氏著

『歎異抄──その批判的考察』などは、解釈に迷った揚げ句、「さ
して意味がない」と仏教に暗い浅智をさらけ出しています。

改めて問題になるのは、「ソノユヘハ」以下の、「仏ニナリテ、タ
スケサフラウヘキナリ」までの文章がさして意味がないように思わ
れることである。
(中略)「ソノユヘハ」以下の文章は、意味するところ極めて不鮮
明であって、適確さを欠き、いたずらに文章の簡潔さをおもんじた
あまり、文脈が乱れてしまっているとしか言いようがない。


釈迦は生涯、弥陀の本願一つを説いていかれました。
親鸞聖人もまた、弥陀の本願以外に、教えられたことはなかったのです。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」で始まる『歎異抄』。

当然、弥陀の誓願一つが説かれている『歎異抄』です。
その弥陀の本願を知らずして、空事たわごとの私見や想像で『歎異
抄』を解説していては、仏法にはならないのです。
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