2010/05/14

後生の一大事について(3) 親鸞会.NET仏教講座

親鸞会.NET仏教講座「後生の一大事について(3)」

●真実の自己とは●

どん な人でも、ものを食べないで生きてゆくことは出来ません。
ところが、私たちの食べものは、かつては生命の通っていたものばかりです。
我々 が死にたくないように、生ある者は、どんなものでも死を嫌う本能をもっています。
されば、どんな生物でも死は苦しみであることは、我々人間と異な るはずがありません。
船の上に揚げられた魚がピチピチ跳ねるのも、首を絞められる鶏がバタバタするのも、みんな苦しいからでしょう。そんな苦しむ ものの生命をとらなければ、我々は生きてはゆけないのです。しかも、そのような生きものの屍を、私たちは、「うまい」
といって貪り食べているので す。
それどころか、そうした生きものの生命を少しでも多く貪ることを、私たちは「良い暮し」
といって喜びとしています。即ち、私たちは、 罪悪を犯しながらそれを、少しも罪悪とは思わず、むしろ、善いことのように考えているのです。

しかも、仏法で難化の三 機、難治の三病といわれる最も怖ろしい、五逆、謗法、闡提の大罪を、私たちは日夜造り続けているのです。
手にこそかけて殺さなくとも、心の中で親を邪魔者扱いにして、毎日毎時殺している五逆罪。
今日の説法は判らなかった、難しかっ た、長かった、短かったと善知識の頭上に登って批判している謗法罪。
これらは『末灯鈔』に、

「親をそし る者をば五逆の者と申すなり」
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば謗法の者と申すなり」

親鸞聖人が厳しく誡めてい られる重罪です。
それだけではありません。
地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、あの人が死んだかと驚いて一時は同情の涙が 出ても、自分は当分は死にはせぬと平気でいる心が闡提で、ドタ牛のように動かない。頭は承知しても肚が承知しない。道理は判っても納得出来ない。なんの不 足もないのに満足が出来ない。分かって分らず、知って知らず、急いで急がず、泣いて泣かず、なんともかんとも言いようのない奴が闡提で す。
これを親鸞聖人は、「逆謗の屍」とも言われています。

●親鸞聖人の一大事の警鐘●

照らし出されたこの人間の実相を、親鸞聖人は、次のように記されています。

「一切の群生海、無始よりこのかた、乃至、今日今 時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心なし」(教行信証信巻)

「無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流 転し、諸有輪に沈没し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なく、法爾として真実の信楽なし」(教行信証信巻)

「然るに、微塵界の有情、煩 悩海に流転し、生死海に漂没して真実の廻向心なく、清浄の廻向心なし」(教行信証信巻)

繰り返し繰り返し、地獄必定の一大 事を警鐘乱打されたものです。
これが単なる合点ではなく、自身の実相として照らし出された時、何人も一切の助かる望みが絶え果てて、必 ず火達磨になって必定地獄を実感させられるのです。
同時に、弥陀の呼び声を聞き破闇満願させて頂くのですが、悲しいかな、この厳然たる必定地獄 の実地の体験がないから、この一大事が分らないのです。

「後生の一大事」が分からなければ、これを「必ず救う」と誓われている 「弥陀の本願」も分からないし、その弥陀の本願一つを説かれた「仏教」も「浄土真宗」も、何にも分からないのも当然なのです。
ですから、もし「親鸞会は『後生の一大事』を説いて地獄の恐怖を植え付ける」という非難をする人があれば、その人は、実は、親鸞会を非難しているのではなく、お釈迦様を非難している人なのです。
知らないこととはいいながら、何と恐ろしいことでしょう。

「善知識にあうことも
教うることもまた難し
よく聞くことも難ければ
信ずること もなお難し」

(浄土和讃)

親鸞聖人のご述懐が、つくづく知らされるではありませんか。

親鸞会.NET» » 後生の一大事について(1)
親鸞会.NET» » 後生の一大事について(2)

続きを読む »

親鸞会講座

最新の情報


Go Top