2010/11/30

歴史の視点・学徒の論点 異安心が次々復権 近代教学、真宗大谷派を牛耳る 金子大栄・曾我量深の邪説(後編) 親鸞会.NET

「金子、曾我両教授の追放反対!」
真宗大谷派の宗門校である大谷大学の学生たちが昭和5年、前代未聞のストライキを起こした。珍しい教えを好む若者と、時流に迎合する学者の後押しを受け、いったんは大学を追われた金子大栄、曾我量深の両名が、十数年で教授に返り咲いている。
また、昭和26年には、かつて異安心と断罪された男が大谷派(東)の最高権力者の座に就いた。
真宗破壊の歴史の真相に迫る。

金子大栄は「実在の浄土は信じられぬ」と本に書き、曾我量深は「法蔵菩薩は阿頼耶識である」と説いて、ともに異安心の烙印を押された。
大学を追放されたあと、金子大栄は宗教専門紙の『中外日報』の紙上で別の学僧と論争をしている。
相手となった多田鼎は、金子大栄と同じく清沢一派に属していたが、このころは、近代教学とは距離を置いていた人物である。彼は、こう批判を向ける。

多田鼎
「(金子大栄の説は)凡夫の智恵で分かる範囲内に真宗の教えを取り込もうとする無理があり、真宗を一種の哲学におとしめるもの、少なくとも真宗を聖道門の一部門たらしむるものである。決して凡愚往生の本義を全うするものではない。(中略)親鸞聖人の説かれた真実報土とは、阿弥陀如来の本願の真実が現成したまえる浄土のことであって、これをば単に凡智で有るとか無いとかいう観念の遊戯に畳み込もうとすることは、大いなる誤りである」

これに対して金子大栄は、次のように反論している。

金子大栄
「教法は飽くまでも尊重するのであるが、しかしそれには分からぬことが甚だ多いので、どうかしてそれを分かりたいということである。
しかし、どこまでも自分に理解できるようにしようとする私の態度を誤りとする者がある。それらの人の見解では、『教法の大部分は、我々の分かる分からぬを超えているものである。
それ故に、我々はそれが自分に理解できるかどうかを問わずに、ただ真宗の教法はこういうものであるということを知りさえすればよい。そしてそれが信の本となるのである。
それを強いて分かりたいとするから、自然、己心の見解が加わるようになる』というのである。
しかし、それは私が陥り易い誤りなのであって、私の学問が陥るのではない。
それ故に私の学説に対する批判はどうあっても、私は私の学問の理想に従って進まんと思うのである」

教えより自分の考えを上に置くのは、後生の一大事を解決し、浄土往生を果たすという仏教の究極の目的がスッポリ抜けているからであろう。
ただ、それをズバリ指摘できなかった伝統教学側も情けない。
当時をよく知る真宗大谷派幹部は、次のように発言している。

「(曾我量深の『法蔵菩薩は阿頼耶識である』という邪説について)どうも異安心臭いけれども、どこがどう正統安心と違うのか、だれも明確に指摘できなかった」

そんな伝統教学派が数に物を言わせて押し切っただけというのが、・金子大栄、曾我量深の異安心事件・の実情なので、本山から処分を受けたあとも、彼らには反省も転向もなかった。
京都に新たな私塾を開設し、青年や一般大衆を相手に近代教学の普及に努めた。元来、相当の学者である。
執筆や講演を精力的にこなし、金子大栄はラジオ番組にも出演する売れっ子ぶりだった。
昭和16年、かつて東京の真宗大学で清沢満之の腹心の部下だった男が大谷大学の学長になると、まず曾我量深を教授に復帰させ、翌17年には、金子を復帰させた。さらに両名には大谷派の学階最高の「講師」の位が贈られた。

時は太平洋戦争前夜。軍部が大学にも土足で乗り込み、出版界に検閲の嵐が吹く中、金子大栄も曾我量深も一層精力的に著作を発表し、真宗界にその名を不動のものとした。
一方、大谷大学では、まるで粛清のように、伝統教学の教授が次々に退職させられていった。

四百五十回忌に参詣者激減
近代教学が脚光浴びる

昭和24年、真宗大谷派は蓮如上人四百五十回忌法要を勤修する。戦後日本の復興を大谷派が引っ張る意気込みで、相当の資金をつぎ込んだが、参詣者は予想を大幅に下回り、後には多額の借金だけが残った。
この時、にわかに高まった宗門改革の声が、「時代の要請にこたえる教学の宣布」をスローガンに掲げる近代教学に追い風となった。
翌25年、それまで伝統教学派の独壇場だった宗議会に、近代教学派の議員が続々と当選した。
彼らは金子大栄や曾我を勉強会の講師に呼び、着々と・改革・の地慣らしを進めていったのである。

昭和26年、だれもが驚く事件が起きた。異安心事件を起こして弾劾された暁烏敏が、宗政トップの宗務総長になったのである。国政に例えれば首相である。

大谷派の空気がこれで一変した。
この後、清沢崇拝者が代々、宗務総長に就き、昭和31年、ついに近代教学が正式に真宗大谷派の教学として採択されるのである。
時の宗務総長が、「宗門各位に告ぐ」と発布した「宗門白書」には、こう明言している。
寺に青年の参詣が少なく、寺院経済が逼迫し、怪しげな新興宗教に門信徒を奪われている今の時代には、清沢先生の教学こそ、重大な意義をもつものである、と。
そして、伝統教学は「煩瑣な観念的学問となって閉息している真宗教学」であるとして、決別を宣言したのである。これを期に大谷派・東・は名実ともに近代教学一色となり、今日に至っている。
金子大栄と曾我量深の両名は、清沢満之が始めた近代教学を大成した功労者であるとして、昭和36年、大谷派から表彰されている。

◆     ◆

かくして明治以来わずか100年足らずで大教団が、指方立相の弥陀の浄土や後生を否定する集団になってしまった。今年出版した『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』も、まさに清沢満之以来の近代教学に毒された書である。

親鸞学徒はあくまで、親鸞・蓮如両聖人の聖語をもって真実を聞き、伝えねばならない。

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

昭和初期~中期
近代教学派の変遷

3年  金子大栄、大谷大学を辞任
5年  曾我量深、大谷大学を辞任
大谷大学の学生、総退学。責任
を執って教授23名が総辞職
(6年 満州事変)
16年  曾我量深、大谷大学に復帰し、
学階・講師を授与される
(太平洋戦争、始まる)
17年  金子大栄、大谷大学に復帰
19年  金子大栄、学階・講師を授与
される
24年  蓮如上人450回忌
26年  暁烏敏(当時74歳)、宗務総長に
31年  大谷派、近代教学を正式に採択
36年  親鸞聖人700回忌
金子大栄、曾我量深、教学の功労者として表彰される
曾我量深、大谷大学学長に
38年  金子大栄、宗務顧問に
解説

伝統教学はどこへ

伝統教学では、江戸時代以来、法主が信仰と教学の最高責任者として絶対的な権威を保っていた。
対する近代教学は、個々の自覚を重んじることから、封建性の打破と「民主化」を目指した。
宗派の運営をめぐる二派の対立は、昭和44年、権力闘争・財産争いとして表面化する。俗に「お東騒動」と呼ばれる。
永年、法廷での闘争を続けた揚げ句、伝統派は真宗大谷派を飛び出し、新たな団体を作ったため、大谷派は四つに分裂。財産をめぐる裁判は、今も続いている。
*『中外日報』……明治30年創刊の宗教専門の新聞。当時は日刊だった

*多田鼎……清沢満之の影響を受け、活動をともにする。後に真宗大学教授に。昭和16年、大谷派・講師

*清沢満之の腹心の部下だった男……関根仁応という者。昭和17年、大谷派・講師

*宗議会……宗派の予算や条令案を議決する最高機関。国政でいえば、国会にあたる

*暁烏敏の異安心事件については、こちらをお読みください。
          ↓↓↓
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*煩瑣……こまごまとして、煩わしいこと

 

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2010/11/24

歴史の視点・学徒の論点 仏説を観念の遊戯にした近代教学の巨魁 金子大栄・曾我量深の邪説(前編) 親鸞会.NET

昭和5年(1930)、京都で大規模な学生ストライキが起きる。
真宗大谷派の宗門校・大谷大学での出来事である。前期の授業は中止され、教授陣23名が総辞職する前代未聞の騒ぎとなった。
近代教学派と伝統教学派の対立が発端であった。

中心人物は、金子大栄と曾我量深。
事件の背景から、いわゆる“近代教学”が大教団をむしばんでいった歴史を2回にわたって見てみよう。

清沢満之が東京に開校した真宗大学は、わずか10年で廃校された。
近代教学の牙城とみなされ、宗派内から異安心を根絶しようとする本山側の処置であった。
(詳細はコチラ→親鸞会.NET» » 歴史の視点・学徒の論点 「近代教学」VS「石川同行」 親鸞会.NET)

在校生は明治44年(1911)、京都に新たにできた大谷大学へ移された。
近代教学もこれで終わりかと思われたが、事態は意外な展開を見せる。
京都に移った学生たちが、近代教学派の教授採用を強く要求したのである。

大正5年(1916)、学生の勢いに押される形で、大谷大学が教授に引き抜いたのが、今日、近代教学の大成者といわれる金子大栄であった。

新潟県出身で、東京の真宗大学で清沢満之の影響を受けた。
卒業後は自坊の住職をしながら、真宗学の研究を10年以上続けたのち、清沢満之の私塾・浩々洞に入り、彼らの雑誌の編集責任者を務めた。この間も著述や講演に努めていたことが評価された。

大学での金子大栄の講義は、いつも定員オーバーとなる盛況ぶりで、伝統教学の教授らは面白くない。
しかも、金子大栄は、その著書の中で、伝統派が親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を金科玉条のごとく、そのまま受け取ろうとすることを批判し、彼らの神経を逆なでするようなことを平気で書いた。
「これ(お聖教のご文)はどういう風に解釈すべきであるか。『解釈というようなことは許さない、そう書いてあるからそうだ。こう書いてあるからこの通りだ』というのですが、書いてある通りという事は実は非常に困るのでありまして、書いた通りに分るのは恐らくそれを書いた人に聞かなければ本当に分らん筈である」
             (『如来及び浄土の観念』)
仏教の究極の目的である「往生浄土」についても、金子大栄は、それまでだれも言わなかった曲解を公表した。

「実在の浄土は信ぜられぬ」
               (『浄土の観念』)
古来、西方十万億土に実在すると説かれてきた「浄土」を、「信じられぬ」とか、「観念の世界」だとする説である。

また、清沢門下の学僧・曾我量深も大正14年(1925)、大谷大学教授に迎えられた。彼も今日、近代教学の功労者として金子と並び称されている。

もともと東京の真宗大学の教授であったが、廃校に反対して辞職、新潟県の自坊で住職をしていたが、その博識を買われたのだろう。復帰するや、彼は学生相手に驚くべき珍説を講義する。

「法蔵菩薩は阿頼耶識である」

この説は出版もされたので、広く一般大衆の知るところとなる。
金子大栄と曾我量深のこれらの言動に伝統教学派の堪忍袋の緒が切れた。

金子も曾我も「唯心の弥陀・己心の浄土」にあたる異安心であるとして僧籍を剥奪し、大学から追放したのである。

人気教授の追放に学生は猛反発する。
昭和5年、前代未聞のストライキを起こし、授業は完全にストップ。責任を執って、23名の教授が総辞職する騒ぎに発展し、新聞・雑誌に多く取り上げられた。
悲しいことだが、親鸞学徒の本道を歩まぬ者たちは、強烈に観念の理論や体験談に引かれるのである。

(つづく)

………………………………………………………..
《解説》

清沢満之が始めた「近代教学」とは

いわゆる「近代教学」を始めたとされる清沢満之の言説も、「私はああだった、こうなった」という体験ばかりを語るものだった。
「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」
(救われた体験)
「地獄極楽の有無は無用の論題である」
「来世の幸福のことは私はまだ実験しないことであるからここに述ぶることはできぬ」
正統なる仏説と明らかに反することを説いている。

また、救われたとは言っても、阿弥陀仏や七高僧方のご恩徳を讃嘆することもなく、念仏もない。
親鸞・蓮如両聖人のお言葉を挙げて丁寧に解説することもない。

ただ「こうなった、ああなった」の自己の体験を声高に喧伝した。
教えよりも体験や実感をことさら強調するので、「清沢教学」とか「近代教学」と呼ばれる。

だが、西洋の新思想がどっと流入した明治以降、若者たちは、このような邪義に魅力を感じ、強烈に引き付けられていった。
*大谷大学……江戸時代に設立された、大谷派の中心的教育機関(当時はまだ伝統教学だった)が前身
《解説》

阿頼耶識とは
仏教の学問の一つである唯識学では、私たちの心を以下のように、八つに分けて教えられる。

●八識 (「識」とは「心」のこと)
(1)眼識
(2)耳識
(3)鼻識
(4)舌識
(5)身識
   この五つを前五識という

(6)意識…前五識を統制し、記憶・判断・思考・命令する心。
(7)末那識…執着する心。
(8)阿頼耶識…三世を貫く永遠の生命。すべての業力をおさめている処だから、蔵識ともいわれる。

「法蔵菩薩は阿頼耶識である」というのは、私たちの心が阿弥陀仏である、という「唯心の弥陀」の異安心であり、非難されるのは当然である。
歴史の”なぜ?”

「法蔵菩薩は阿頼耶識である」というとんでもない邪義を曾我量深は、
なぜ、唱えたのか。かつての大谷派教学研究所所長は、こう述べている。

「明治の、(曾我)先生の青年時代には法蔵菩薩はもはや『昔噺、神話』のように思われていて賢い人たちは法蔵菩薩の法の字も言わなくなっていたと言われている。
近代的理性に合わない事柄は前時代の迷妄として否定していく啓蒙の時代の到来の中で、真宗の根幹である阿弥陀仏・法蔵菩薩の〈実在〉が瀕死の状態にあった。
阿弥陀仏が〈実在〉しないならば阿弥陀仏の本願も架空のものとなる。
理性的なこれからは、そんな架空な『昔噺、神話』は誰も信じないであろう。
とすれば真宗は中心から腐蝕していく。
これを何とかしなければという強い危機感が曾我先生の中にあったものと想像される。その危機感の極点で『大無量寿経』の法蔵菩薩が阿頼耶識であるという直観的結合をもたらしたのである」

教えを軽視し、自分の考えを入れて曲げる。清沢満之以来の典型的な大谷派の思考法といっていいだろう。

 

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2010/11/09

歴史の視点・学徒の論点 「近代教学」VS「石川同行」 親鸞会.NET

■無信仰を暴露した暁烏敏の邪義事件 明治43年(1910年)

弥陀や浄土の実在を否定した、いわゆる「近代教学」の元を打ち立てたのは、東本願寺(真宗大谷派)の学僧・清沢満之であったことを、以前、このサイトで紹介した。
 親鸞会.NET歴史の視点・学徒の論点

彼の没後、近代教学を標榜する改革派が地方へ広がり、一般門徒との対立が表面化する。その対立は、やがて本山へ飛び火し、親鸞聖人の教えを置き去りにしたまま、
〝改革か伝統か〟という大谷派のお家騒動へとつながっていく。今回は、今からちょうど100年前の明治43年、『歎異抄』を世に広めた張本人ともいえる暁烏敏と、「東本願寺の台所」といわれる石川県門徒の間に起きた激論を中心に、大谷派の迷走の歴史を振り返ってみる。

■金沢門徒の熱い聞法心

親鸞聖人650回忌を間近に控えた明治43年。
日露戦争(明治37・38年)後の好景気で、日本の資本主義が飛躍的に発展した時期である。農業構造の変化によって米価は下落、農村は収入の激減にさらされた。
石川県も例外ではなく、農家は経済的にひどく困窮していた。だが、そんな状況下でも、「東本願寺の台所」といわれるこの地の門徒の信仰は極めて厚かった。

時あたかも、明治維新の混乱で焼失した阿弥陀堂と御影堂の再建のためのお布施が大いに募られていた。愛山護法に燃える全国の門徒の中でも、石川門徒が最も多額のお布施をしたことを各種資料が示している。

熱心なお布施が農村経済を疲弊させ、ひいては県全体に影響が及ぶのではと心配した役人が、本願寺の募財猶予を中央政府へ要請したほどであった。
「能登は信ずる者多く、越中は聞く者多く、加賀は信じ聞き、かつ談ず、その安心問答を為すがごときは石川郡において最も甚だし」
と当時言われたように、石川県の門徒の聞法心と信心の沙汰の徹底ぶりはすごかった。

一例を挙げれば、明治34年1月に金沢で行われた法筵には六千数百名が参詣し、法話のあとは一念帰命の信相について門徒同士が論じ合い、一同法悦にあふれ、随喜の涙をぬぐったと報道されている。

■体験や思いばかりの暁烏

暁烏敏は、この石川郡(現・白山市と金沢市近辺)の東本願寺末寺の長男として生まれた。東京の真宗大学卒業後、清沢満之の私塾に入り、彼の影響で『歎異抄』に心酔、
「危ない聖教であればこそ、複雑な心の悩みを断つ。罪ある者の救いの息吹はここに在る」
と言い、雑誌に「『歎異鈔』を読む」を8年間、連載した。

清沢満之が亡くなった明治36年ごろから、活動の拠点を地元に移す。住職として門徒に『歎異抄』を語り、毎月6日の清沢の命日には、清沢の絶筆『我が信念』を語った。
その一方、中央の思想界で活躍した宗教家の顔を持ち、金沢にできた学生の信仰グループのリーダーとなり、会合では、やはり『歎異抄』と『我が信念』を語った。

『歎異抄』が親鸞聖人の生々しい肉声でつづられているのを形だけ真似しようとしたのか暁烏は、親鸞聖人や蓮如上人が何を教えられたかではなく、自分がどう感じたかを雄弁に語るのを常とした。座談会では活発な質疑応答が交わされ、青年たちは泣いたり叫んだりし、入信を希望する者も多かったという。

当時の信仰を暁烏は後年、こう書いている。
「罪悪の身がかかる生活をしていらるることが恩寵ではないか。地獄に堕ちていて丁度よい者が堕ちずしてこうやって安楽に生活させて頂けるのはこの間に不思議の力が加わっていなければならぬ。この力が如来である。救いである。これは疑うことのできぬ力であると自分も感じ、他にも感ぜしめられて泣き泣きしていたのであります」

罪悪と歓喜を強調する一方、
「『御文章』や『領解文』に書かれている信心をいくらもっともらしく人に語ろうとも、弥陀の救済には何の役にも立たない」
と言って、当時、一般門徒に広く浸透していた『御文章』や『領解文』を目の敵にした。
西洋思想の影響を受け、理性で理解することができない極楽浄土や、他力の信心の世界を教え語ることをいい加減と感じていたのだ、と暁烏信奉者の一人は書いている。
蓮如上人のお言葉を「弥陀の直説」と受け取っていた大多数の門徒の反発は強く、暁烏一派との間に一触即発の緊張感が漂い始めた。
■無学の門徒に論破される

暁烏が活動の範囲を広げた明治43年1月下旬、上金石町(現・金沢市)のある寺で座談会が催された。そこに強信な門徒衆と暁烏一派が同席し、激論が起きた。それはやがて、本山を巻き込む邪義事件へと発展していったのである。その様子が『組内異安心顛末』に収められているので、一部を再現してみよう。

同行A「信心一つで救われる教えとは、一体どういうことですか」

暁烏「別に信心がなくとも、十劫の昔より弥陀如来のお慈悲に丸められていることを善知識から聞いたうえは、他に別に信心とてあるのではない」

A「信心があってもなくても救われるということはあるまいと存じます。それはどなたの教えですか」

暁烏「親鸞聖人の教えである」

A「では、どのお聖教に書かれていますか」

暁烏「『歎異抄』の中にある」

A「『歎異抄』のどこに信心がなくても救われると書いてありますか」

暁烏「あんたの安心はけんか腰の安心だな!」

同行B「私は聴聞不足で一念のところがよく分かりません。どうぞ、一念を水際立ててお聞かせください」

暁烏「これ婆よ、それは学問沙汰なり。そんなことを覚えて助かろうと思うのか」

暁烏の弟子の僧「お聖教にどう書いてあるかなんか、聞くな」

同行C「私も至って愚かな者ですから、学問も元より望まず、覚えることも往生の要とは存じませんが、今度浄土へ参るについては一念帰命の信心をしかと決定せねばならぬと伺っております。しかし、この身は聴聞不足にて一念の信心が分かりません。どうぞ安らかにお聞かせくだされ」

暁烏「住所・姓名を名乗れ」

C「○○の□□です」

暁烏「おまえの平生の喜びようを述べよ」

C「善知識のご化導により、弥陀の本願の御いわれを聞かれたるうえは雑行雑善に目をかけず、一心に阿弥陀如来さまに後生助けたまえとたのみ奉り、そのたのむ一念の時に、私の往生を大悲の方より御定めくだされたことと落ち着いて、この御恩報謝のために寝ても覚めても念仏を称えるべしと聞いております」

暁烏「うそつきめ!」

C「私はうそはつかぬつもりですが、なぜさように仰せられるか」

暁烏「おまえは初めに聴聞不足で一念の信心も分からぬと言いながら、自分の喜びようを述べよと言うたらそんな立派なことを言うたではないか」

C「私は一応の聴聞は致しておりますが、
〝一応の聴聞〟では必ず誤りあるべきなりとあり、幾度も幾度も人に尋ねて信心の方を治定せよとあるではありませんか。なのにあなた方は、真宗の肝要である一念の水際を尋ねても、それは学問沙汰だなどと、二、三人の僧がかわるがわる叱りつけたり、頭からどなりつけたり、こんなのはご示談ではない。あまたの人々の心を惑わし、争論を企てること恐ろし恐ろし。この旨をば、ご本山へ申しつけるから覚悟していなさい」(満場の拍手)

暁烏「河北の同行よ、堪忍してくれ、この坊主が悪かった、許してくだされよ、これより改めて真のご示談をせまいか」

C「御僧に謝らせて私がよい気になりておる道理はない。最初に御坊さんが語を荒立てたから、私も言いにくいことを申したまで。ではここで互いに前非を改めて真のご示談をしようではないか」

B「本願に相応するとはどういうことか、どうぞ聞かせてくだされ」

暁烏「そんなことはこの坊主は知らぬ。学校で習うたこともあれども忘れた」

思想界の寵児ともてはやされた知識人でもある暁烏が、一般門徒に論破され、無信仰の醜態をさらしている。

 

■門徒と僧侶が本山へ直訴

親鸞聖人の教えよりも、自分の思いや体験を重んじる暁烏の脱線ぶりは、これだけにとどまらなかった。宗教界の新聞『中外日報』(明治44年8月29日)は、彼の邪義を次のように具体的に指摘している。

・宇宙の万物は皆他力なり、自力も他力の中なり、疑うも他力、謗るも他力なり、煩悩も罪悪も他力なりと勧める

・われらの往生は十劫の昔に済んでいる、今ごろ、一念発起、平生業成というような勧めをする者があるが、それは昔の僧侶のいう事で、今日言うべきことでないと言う

・『ご和讃』『御文』は3歳の童子の寝言であり、これらを讃題にして説教する僧侶も、これを聞く者もともに堕獄の罪人なりと言う

・唯心の弥陀、己心の浄土というような聖道門安心を隠し勧め、指方立相の教えを妨げる

こんな滅茶苦茶な言動を放置しておけぬと、上金石町の事件を契機に金沢別院の僧侶ら数名が本山の教学部に書面で訴え出た。
近在の門徒も3万人の連判を集めて本山に提出した。
親鸞聖人の正統な教えを護るため、邪義・異安心は厳しく取り締まるのが、真宗界の伝統であり、常識であったからだ。
また、本山の教学部には邪義・異安心を取り締まる絶対的権限が与えられていたのである。
■腑甲斐ない本願寺教学部

しかし、この時の本山の対応は金沢の僧俗を甚だ落胆させるものだった。出頭した暁烏敏を交え、茶を飲み菓子を食べながらの詮議のうえ、形だけの弁明書を提出させた。そして、「以後誤解を招かないよう注意されたし」との文書を出して幕引きを図った。
なぜこんな甘い対応で終わったのか。教学部の幹部が暁烏の旧知の者で占められていたという事実はあるが、かりにも一宗の教学の全権を握る部門にしてはあまりにもお粗末ではないか。親鸞学徒の本道に徹することが、いかに難しいかが知らされる。
邪義に断固とした態度を示さぬ本山に業を煮やした金沢の門徒は「護法会」という団体を結成し、近代教学の巣窟である真宗大学(東京)を廃校すべしという運動を始めた。

真宗大学は、清沢満之が東京に開校し、初代学長を務めた宗門校である。清沢満之は学生運動の責任を取って、わずか1年で辞任しているが、その後も清沢を崇拝する教員や学生が集まる牙城であった。後に〝近代教学の大成者〟と称される曽我量深もここで教鞭を執っていた。邪義を断つにはその元から、というわけである。

これを受けて明治44年8月27日、本山当局は、真宗大学の廃校案を宗議会に上提した。やはり「近代教学」を放置しておけないという漠然とした思いは、あったようだ。
ただ、そのころ本山内で増えていた「近代教学」の同調者がこれに猛反発し、議会は大荒れに紛糾した。しかし、当局側がなりふり構わぬ多数派工作に奔走した結果、わずか2票差で議案は可決。同年9月、真宗大学は開校からわずか10年で解散となったのである。
■『歎異抄』の普及

邪義の烙印を押されながら、反省のそぶりもなく暁烏は、全国を回って精力的に講演していた。
本山で取り調べを受けた翌年(明治44)4月18日から28日まで、東本願寺は親鸞聖人六百五十回忌の法要を厳修したが、何事もなかったかのように暁烏が何度も記念講演を行っている。雑誌連載の記事をまとめて、有名な『歎異鈔講話』を出版したのもこのころだ。
自坊では毎年夏に泊まりがけの講習会を開き、それを45年間、1度も欠かさず続けた。北陸を中心に一般門徒の中にも着実に〝暁烏派〟が増えていった。真実のない人間に、真実は聞き難く、邪義や安楽いすは、耳に心地よいがために、容易に受け入れられるようだ。
大正5年には『歎異抄』を題材にした倉田百三の戯曲『出家とその弟子』が空前のベストセラーになり青年子女が競って『歎異抄』を読んだ。
世は大正デモクラシーとなり、社会のいろいろな所で民主化が進められた。本願寺も改革すべしとの空気が強まる中、近代教学派が勢力を増していく。やがて、金子大栄や曽我量深たちへと近代教学は受け継がれ、東本願寺内の傍流から主流へと変わっていくのである。

 

明治(後期)~大正の真宗史と社会の動き

1895(明28) 大谷派、維新の混乱で焼失した本堂と御影堂を再建
1901(明34) 真宗大学、東京に開校 清沢満之、初代学長に就任
 大谷派の学僧、大乗非仏説を唱え、僧籍を剥奪される
1903 (明36) 清沢満之没する。 暁烏敏、「歎異鈔を読む」を雑誌に連載し始める
1904(明37) 日露戦争始まる
1910(明43) 暁烏の邪義事件
1911(明44) 暁烏敏、『歎異鈔講話』を発刊
            親鸞聖人650回忌法要
            真宗大学、廃校となる
1914(大3) 第一次世界大戦
1916(大5) 倉田百三『出家とその弟子』
1918(大7) 富山に米騒動起きる
1920(大9) このころ、親鸞聖人に関する小説、戯曲が多数発刊される
1923(大12) 関東大震災

 

■暁烏は人工信心も勧めた?

東本願寺元講師・柏原祐義が報告

暁烏は、聞法者の罪悪を責め立てることで、感情的な興奮状態に陥らせる・儀式・にも手を染めていたらしいことが伝えられている。

元東本願寺講師の故・柏原祐義も清沢門下の1人であり、暁烏と交流があった。暁烏の自坊・明達寺で行われた講習会に立ち会い、その様子を書き残している。

「三、四人の人々が来会者を一人ずつ取り巻いてその人が泣いて懺悔と歓喜に高声念仏するようになるまでつるし上げるといった熱狂的な雰囲気であった」

このような講習会で信仰を得た信徒の1人は、罪悪感に襲われ熱狂するあまり、「村の一軒一軒を謝って歩いた」という。
親鸞学徒の本道とはまるで違う邪道が、彼らの実態であった。

 

明治期の『歎異抄』解説書

15年 『歎異鈔講義』  稲葉道教
20年 『歎異鈔講録』  宮地義夫
36年 暁烏、「歎異鈔を読む」を雑誌に連載
37年 『歎異鈔講録』 豊満春洞
 『歎異鈔略述』  吉谷覚寿
38年 『歎異鈔提要説教』渥美契縁
40年 『歎異鈔講話』  南条文雄
42年 『歎異鈔講録』  蓮元慈広
 『歎異鈔講義』  近角常観
 『十回講話』   安藤州一
43年 『歎異鈔講話』  多田 鼎
 『歎異鈔真髄』  大須賀秀道
(暁烏の連載以後、解説書の出版が激増している)
まとめ

清沢満之の後継者
暁烏敏の邪義は、
・『御文章』や『領解文』を時代に合わないと言って否定し、専ら『歎異抄』を布教に使った。
・教学を軽んじ、自分の体験や思いばかりを熱烈に語った。
その邪義は、本山との間で対立と妥協を繰り返しながら、昭和初期には、大谷派の主流になっていく。

 

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2010/07/01

歴史の視点 学徒の論点 西方浄土はおとぎ話か 真宗破壊の「近代教学」 その元を作った清沢満之 親鸞会.NET

東本願寺(真宗大谷派)が4月に出版した『「歎異抄」の世界』は、いわゆる「近代教学」の焼き直しだった。
明治初頭の学僧・清沢満之に始まる近代教学は、昭和31年、東本願寺の正式な「教学」として採用され、今日に至っている。
「清沢先生の教学こそ、重大な意義をもつものである」
(宗門白書)
と、当時の宗務総長が宣言しているように、大谷派で清沢の影響は計り知れない。
大教団を、親鸞聖人のみ教えに反する邪宗におとしめた清沢満之と、近代教学の内容を見てみよう。

清沢満之の生涯は、日本の激動の時代に重なる。生まれたのは文久3年(1863)、テレビドラマで話題の坂本龍馬に遅れること30年で、世上は300年続いた徳川幕府が終焉を迎え、倒幕側が新しい国作りを模索していたころである。

それまで幕府の保護のもと、安逸をむさぼっていた東西両本願寺は、
「この世でハッキリ救われる」平生業成の教えを説かなくなり、
「ただじゃ、そのままじゃ、無条件のお助けじゃ、この機に用事はないぞ、死にさえすれば、華ふる極楽じゃ」
という大風に灰をまいたような説教が大勢を占めていた。

一方、東西本願寺とも教学の研究は盛んで、精緻な体系化が進んでいた。
だが、重箱の隅をつつくような観念の遊戯に陥り、「求道」とか、「獲信」に直結し、人々が救われる生きた教学ではなかった。

そんな時、明治新政府が誕生し、幕府にべったりだった本願寺には大きな代償を伴った。
すでに「禁門の変」(1864)の兵火で、東本願寺は阿弥陀堂や御影堂など主要な伽藍を焼失し、かつての威光を失っていた。
僧俗ともに再建を願ったが、幕府と共倒れにならぬよう、政治的な工作に莫大な経費を使ったため、本山の台所は火の車だった。
さらに、仏教界を揺るがす嵐が巻き起こった。廃仏毀釈運動である。

1868年、幕府から政権を奪った明治政府は、日本神道を国教にするため、手始めにそれまで神社内に安置されていた仏像や寺院関係の物を分離する政令を相次いで出した。
これが行き過ぎて、一部民衆が仏教施設を破壊し、僧侶は強制的に還俗させられ、寺院の極端な統廃合が行われた。
浄土真宗が盛んな地方では、被害は比較的少なかったが、それでも、東西本願寺には大きな衝撃が走る。
日本神道の国教化は、仏教界全体の反対運動で何とか食い止められたが、続いて哲学や科学、キリスト教など、様々な西洋思想が怒濤のごとく流入してきた。

知識階級は、それらの新思想に強い影響を受け、日本の伝統教団にも批判の目を向けるようになった。
仏教界は新たな対応を迫られた。
若い人材に西洋の思想を学ばせねば、時代に取り残される・との危機感から、東本願寺では、本山の学僧に西洋哲学やキリスト教の教義を学ばせた。さらに末寺や門徒の子弟から秀才を集めて英才教育を施し、東京大学へ留学させる方針を取った。

名古屋の下級武士の家に生まれた清沢満之も、14歳で得度して、このエリートコースに乗った。生来、頭脳明晰で、18歳で留学組に選抜され、東大哲学科に入学。首席で卒業し、大学院で宗教哲学を研究した。
将来は大哲学者になるだろうという周囲の期待をよそに、25歳で突然京都に戻り、本山経営の京都府立中学の校長に就任。結婚して、愛知県三河の西方寺の養子になったのもこのころである。

■真実の弥陀や浄土を否定

信仰を求める真面目さは人一倍だったといわれるが、親鸞聖人の教えとは方向が全く違っていた。
明治23年(1890)、彼が真剣に取り組んだのは、聖道仏教を思わせる「自力修行」(禁欲生活)であった。
ハイカラな洋服をやめて法服を着用し、頭を丸める。煮炊きをやめ、塩も制限した粗末な食物のみを取る。どこに行くにも車に乗らず、下駄履きの徒歩にした。母が亡くなってからは拍車がかかり、そば粉を水で溶いたものだけを食し、松ヤニをなめるようになった。
この禁欲生活で清浄な心が得られると清沢は期待したが、得られたのは、30歳での不治の病・肺結核だった。転地療養した神戸で、余命いくばくもないと恐れ、日記に家族あての遺言を書きながら、毎朝『阿含経』を読誦した。そして自分の努力が不本意な結果に終わったことを深く悟った心境を、
「ほぼ自力の迷情を翻転し得たり」
と書いている。
「自力」とは、「後生の一大事助かりたい」という心であるから、弥陀の本願によって後生の一大事が解決された時に、一切の自力は浄尽する。
「自力の迷情、共発金剛心の一念に破れて」と覚如上人が言われているように、真に自力が廃った人からは、「ほぼ翻転した」という表現は出てきようがなかろう。

聖道門の発想の枠を出ることができない清沢は、親鸞聖人時代の、聖道諸宗の開祖たちと同じ轍を踏むことになる。

「(浄土とは)我等の心になぞらえて西方といったものである」
「地獄極楽の有無は、無用の論題である」
「如来あるがゆえに信じるにあらず、信じるがゆえに如来あるなり」
「来世の幸福のことは私はまだ実験しないことであるからここで述ぶることは出来ぬ」

清沢の著書や講演録に見られるこれらの言葉は、指方立相の弥陀や浄土を否定した「唯心の弥陀」「己心の浄土」という考え方である。

「唯心の弥陀」「己心の浄土」とは、
「我々の心が阿弥陀如来であり、浄土である。我々の心以外に弥陀も浄土もない」
という考え方で、これを親鸞聖人は邪義として徹底的に排斥なされている。

仏教では、

「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界を名けて安楽と曰う」
(大無量寿経)

「是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う。其の土に仏有す、阿弥陀と号す。今現に在して説法したまう」
(阿弥陀経)

と、西方浄土にまします阿弥陀如来が説かれているからだ。

迷った思考からは、おとぎ話としか思えないような、西方極楽浄土や、阿弥陀如来の実在こそが、仏説であり、真実なのである。
明治30年(1897)、東本願寺本山は、京都で改革運動をしていた清沢を異安心と断罪し、除名処分とした。33歳で浪人となった彼は、意気消沈して、三河の西方寺へ帰る。
まだ住職も副住職も健在で、もともと居場所がない所に、病弱な実父と一緒に世話になったため、余計に肩身が狭かった。
地獄・極楽の厳存を当然のごとく信じていた門徒に対し、それを否定して、「スペンサーの不可知論」などとやたら難しい話ばかりするので、寺でも孤立した。法要のために訪問しても、門前払いされたり、養子縁組を解消して追い出される寸前までいった。
これには清沢も精神的に相当参ってしまい、当時の日記に『臘扇記』と命名している。「臘扇」とは、12月の扇子のことで、”必要ないもの”という意味である。自分に存在価値が感じられなかったのだ。

そんな彼が感動したのは、ローマ帝国時代の奴隷が書いた『エピクテタスの語録』という哲学書であった。この世の中には意のままになることと、ならぬことがある。だが、自分の心の持ちようは自分で変えることができるから、自分の心を変え、現実を受け入れ、煩悶しないようにすれば、心の平安は保たれる。
清沢は尋常ならざる意志の力で心の持ちようを徹底的に変える努力をし、だんだんと世事や私事に惑わされない強固な「信念」を築くことができたという。これ以後、その境地を語るようになり、世の評論家には、これを清沢の「獲信」と呼ぶ者もある。しかし、もちろん自分の経験や学問で作り上げた文字どおり「自力の信心」である。

親鸞聖人が『正信偈』に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
と、本師本仏の弥陀のお名前を何度も叫ばれ、弥陀のことばかり教えておられるのとは対照的に、清沢は、阿弥陀仏の御名をほとんど語らない。「絶対無限者」に救われたと言っているので、弟子の中にさえ、「清沢の信じていたのは阿弥陀如来ではなく、西洋哲学のゴッドであった」と言う者がある。

もっともらしいことを言っても、親鸞聖人の出られた無碍の一道とは、全く異質なものであったのだ。

■「清沢教学」とその弟子たち

翌明治31年(1898)、本山の政治的な判断で除名が解かれ、東京にできた真宗大学(現・大谷大学)の初代学長に遇されるが、学生運動の責任を執って1年で辞任する。
「(清沢)先生の御生涯は悲惨の極みでした」
後に弟子が清沢の一生をこう語っているように、妻や長男の早死になど、不幸が次々とやってくる。しかし、「信念の確立」への思いはますます強くなり、たびたび喀血しながら、その時々の心境を熱心に語り、書き残していった。
この時期の活動の中心になったのが、明治33年(1900)に東京で開いた私塾「浩々洞」である。後年、近代教学を大成したといわれる金子大栄や曽我量深、暁烏敏も、ここを巣立っている。
学生時代から実験(清沢の好きな言葉で「体験」のこと)を重んじ、自らが経験したことしか信じない清沢の影響で、『御文章』など都合の悪いお聖教を軽視する姿勢は、これらの学者に一貫している。

彼らは後年、親鸞聖人や蓮如上人のお聖教ではなく、「私はああだった、こうなった」しか書かれていない清沢の絶筆「我が信念」を持って布教に回ったのである。

「予の三部経は、『歎異抄』と『阿含経』と『エピクテタスの語録』である」
と清沢は語った。『教行信証』の理解もなく、カミソリ聖教といわれる『歎異抄』を自己流に解釈し、聖道仏教と哲学をこね合わせてできたのが、「清沢教学」である。
哲学の衣をまとっていたために、浄土真宗が新生したかのように一般には映り、特に思想界に親鸞聖人のお名前を知らしめることにはなった。
内に対しては、江戸時代以来の重箱の隅をつつくような教学研究に明け暮れた宗門に風穴を開け、「求道」とか「獲信」が浄土真宗にある、と認識させたので、「今親鸞」とまで呼ばれた。
しかし、実際のところは、これまで述べてきたように、親鸞学徒の本道を大きく外れ、真実の弥陀や浄土を知らず、迷いの観念が生み出した「唯心の弥陀・己心の浄土」という邪義を天下に広めた大悪知識となったのである。

清沢満之の『我が信念』には、一高の哲学青年・藤村操と同様に「人生不可解」という意味のこ
とを書いており、この共通点について論じる学者もいる。

「私が如来を信ずるのは、私の智慧の究極であるのである。人生の事に真面目で
なかりし間は、措いて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の
意義に就いて研究せずには居られないことになり、其の研究が遂に人生の意義は
不可解であると云う所に到達して、茲に如来を信ずると云うことを惹起したので
あります」(『我が信念』)

多くの問題を残したまま、清沢満之は、39歳で夭逝した。
藤村操が、華厳の滝に身を投じた1カ月後だった。

体験談 ほかに売り物 さらになし

こうなった 仏法使って 自慢する

◆清沢満之の時代と本願寺

1864 禁門の変の兵火で、東本願寺は、阿弥陀堂、御影堂など諸堂を焼失
1868 江戸城明け渡し 東京遷都 神仏分離令 廃仏毀釈運動起こる
1873 政府、キリスト教を公認
1878 清沢満之の得度
1889 明治憲法発布
1890 清沢、『歎異抄』に親しむ
1894 日清戦争始まる
1897 本願寺が清沢を除名
1901 本願寺が清沢を真宗大学の学長に任命
1903 清沢、没する
■「唯心の弥陀」・「己心の浄土」という考え方をしている者達を歴史的にあげて、徹底的に破られた親鸞聖人のお言葉

○それおもんみれば、信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり。然るに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し。
(教行信証)

■親鸞聖人の教えに反する清沢満之の「近代教学」

・「唯心の弥陀」「己心の浄土」
(指方立相の弥陀や浄土の否定)
・後生を認めない
・自分の経験をもとに教えを解釈する

*宗務総長……本願寺の宗政上の最高責任者
*「禁門の変」……長州軍(尊王攘夷派)と会津・薩摩軍(公武合体派)の軍事衝突。「蛤御門の変」とも

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