2010/05/12

『歎異抄』解説書の比較対照【8】『歎異抄』と「二種深信」 親鸞会.NET

前回(なぜ東大教授も誤読したのか 親鸞会.NET)に引き続き
http://www.shinrankai.net/2010/04/tannisyo-19.htm
『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。


(原文)


「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。





高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳
“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。


第一章冒頭の「往生をば遂ぐるなりと信じて」の「信じて」を、ほとんどの解説書が、そのまま「信じて」と現代語訳しています。例えば梅原猛著『誤解された歎異抄』は「きっと極楽往生することができると信じて」と訳し、安良岡康作著『歎異抄 全講読』は「『浄土に往って生れることを果たすのだ』と信じて」と意訳しています。
だが『歎異抄をひらく』では「信じて」は使われず、「疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり」と明らかに一線を画する。それは、聖人の「信じて」は、常識的な「信じて」と根本的に異なるからです。

「信ずる」のは疑心があるから

世間では、「信ずる」とは「疑わないこと」だと思われています。この誤った常識を正さなければ、『歎異抄』は冒頭から読めません。
「信ずる」とは、「恐らく間違いないだろう」と思うことであり、そこには疑いが残っています。もし疑う余地の全くないことであれば、「信ずる」とは言わず、「知っている」と言うからです。
例えば、天気予報で「明日は晴れ」と聞いた人は、「明日は晴れると信じている」と言います。未来については、確実なことは知りようがないから、信ずるほかはありません。しかし、現に雨が降っているのを見れば、「今は雨だと信じている」とは言わず、「雨だと知っている」と言います。信ずる必要がないからです。
火に触れた体験がなければ、”皆が言うから、多分火は熱いものなのだろう”と信ずるしかありませんが、火傷をした人は「火は熱いものと知っている」と断言します。
「信ずる」のは疑心があるからで、全く疑いの無いことは「知っている」と言います。聖人の「信じて」は、「真に知んぬ」と言われ、微塵の疑いも無く”まことだった”と知らされたことです。これを「深信」といいます。

聖人の「信心」は「二種深信」


弥陀に救われると、「機」と「法」の二つに疑い晴れるから、「機法二種深信」といわれます。「機の深信」とは、「堕ちるに間違いなし」の真実の自己(機)がハッキリすることであり、「法の深信」とは、「助かるに間違いなし」と弥陀の本願(法)に疑い晴れたことです。この二つが同時に立って相続するから、「機法二種一具の深信」といわれます。
このように機と法に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではありません。この心が私たちにおきるのは、全く弥陀より賜るからです。なので、「他力の信心」と言われるのです。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいいます。
親鸞聖人の説かれる信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とは全く違い、”機と法に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、超世希有の「二種深信」です。
地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする、不可称不可説不可思議の「二種深信」一つ解説されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』です。

『歎異抄』を総括する第一章には、短い章にもかかわらず、「信」の文字が繰り返されています。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」
「しかれば本願を信ぜんには」
「ただ信心を要とすと知るべし」
他宗教や世間で言う「信心」と字は同じでも、親鸞聖人が肝要と仰る「信心」は、全く次元の異なる「二種深信」だから、「二種深信」を知らずして『歎異抄』は毛頭、読めないことが分かるでしょう。

氾濫する勝手な解釈


ですが、『歎異抄』の「信じて」を、『教行信証』に説かれる二種深信で解説する書が、どこにあるでしょうか。
石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』も、「『誓願不思議ニタスケラレ』た『信』も『念仏』も真実の信心であり、真実の念仏であろう」と推測するにとどまっています。
次に挙げる安良岡康作著『歎異抄 全講読』の解説では、他力より賜る信心なのか、自分で「信じるようになって」ということなのか、釈然としません。

「信じて」の語にこもる信心は、人間の努力・精進によって獲得されるのではなく、どこまでも、「弥陀の誓願の絶対性のお助けをこうむることによって、『往生を遂げるのだ』と信ずるようになって」という意味になるのである。
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

また、親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』は、「往生をば遂ぐるなりと信じて」を「新しい生活を獲得できると自覚して」と意訳しています。弥陀より賜る「二種深信」と、新しい生活が始まる「自覚」とでは、何の接点もありません。
佐藤正英著『歎異抄論註』は、「信」には「不信」(疑い)が含まれると、根拠なき自説を展開する。

〈信〉は〈不信〉を内包している。そしてそれは〈不信〉への絶えざる揺り戻しとして現れる。 (佐藤正英『歎異抄論註』)

『歎異抄』で最も大事な「信心」を、「二種深信」と似ても似つかぬ解説をする書ばかりです。『教行信証』と無縁な、私見を述べた『歎異抄』解説本に、親鸞学徒は用事はありません。
必要なのは、『教行信証』に立って『歎異抄』を解説した書です。
 

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