2010/11/20

いまの流転が永久の流転|親鸞会 顕正新聞

「ほどほどの幸せでいいじゃないか。足るを知れ」と人は言う。

なるほど一理あるようだが、「ほどほど」にできるかどうかが問題だ。

上に行くほど叩かれ、人相が変わるほど苦労せねばならぬのを眼前にしながら、一議員では満たされず、市長、県知事、首相と、権力の階段をもっともっとと上ってゆく。

早々に売ればよいのに「まだまだ上がる?」と持ち株を手放せず、バブルが弾けて大暴落。

未だに持ち続けている人もある。「ほどほどがよい」とわかっていても難しい。

わかっちゃいるけど止められない。有限の命で無限の欲を満たせるはずがない。

渇いては求め、求めてはなお渇き、ゴールのない円周を限りなく回って苦悶している。

現在の延長が未来だから、いまの流転は永久の流転、後生は一大事と知らされる。

これを『大無量寿経』に釈迦は

「従苦入苦 従冥入冥」

と説き、この世の苦から死後の苦しみへと堕ちていくと慈誨されているのである。

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2010/10/18

『歎異抄』の誤解が真宗を崩壊させている|親鸞会 顕正新聞

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(歎異抄)

これを、みな「本願を信ずるには」と誤読し、”弥陀に救われるには、善は不要、悪も恐れる必要はないのだ”と得手に理解する。

その結果は明らかだ。

放逸無慚(ほういつむざん)になり果てた浄土真宗は、外道からは悪人製造の教えと揶揄され、崩壊の一途を辿っている。

その原因が、『歎異抄』のこの誤解にあるといっても過言ではない。

もちろん、「弥陀に救われたならば」のことである。「弥陀の救い」は、百年や千年の問題ではない、幾億兆年の迷いの魂を解決し、浄土往生させることである。

平生に往生一定の大満足を獲たならば、当然ながら「往生のために善をしよう」など微塵もないから「他の善も要にあらず」と言われているのである。

往生の一段のことであって、それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解するから、

仏法を破壊し世の中に猛毒をまき散らして平気でいるのだ。

因果の道理は宇宙の真理、ゴロゴロ怠け放題では人生の落伍者となるだけ。

世界の光と仰がれる聖人のご活躍は、真実信心はもちろんのこと、ずば抜けた勉学努力なくしてはあり得ないのだ。

善知識から「弥陀の救い」を正しく聞かせて頂かねば、お聖教の一言半句もまともに読めぬと知らされるばかりである。

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2010/10/07

見落とされている大事|親鸞会.NET

 

 剣道、茶道、華道、書道、または政治、経済、科学、医学、芸術など、これらの道には、これで究めた、求まったという完成がない。「死ぬまで求道」である。求めるのは、求まることを前提とする。百パーセント求まらぬものを求める人生は、悲劇あるのみだ。

「好きなことをやれたら満足。求まらずとも、求める過程が楽しいのだ」と言い張る人は重大なことを見落としている。

 泳ぐこと自体が好きなのだという人に、「それでは太平洋の真ん中で存分に泳ぎなさい」。空と水しか見えない。存分に泳げても、泳ぎ着かぬ海原である。やがて愕然と、自分の行く末に気づくだろう。これが「死ぬまで求道」礼賛のすがたではないだろうか。

 人生の目的には完成がある。それは未来のいつかではない。

「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く」(釈尊)

 不可思議な弥陀の本願力は、今、生命の大歓喜を与えてくだされるのである。

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2010/07/06

多生億劫にもあり得ぬ事|親鸞会 顕正新聞

「噫、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし」(親鸞聖人)

〝ああ、なんたる不思議か、親鸞、多生にも遇い難いことに、いま遇えた。億劫にも獲難いことを今獲ることができたとは〟

阿弥陀仏に救い摂られた驚きと感動の親鸞聖人のお叫びである。

親鸞会の二千畳の存在する在所に住んでいても、どれだけこの正本堂に座られる人があろうか。同朋の里のある村の幾人が、F館で信心の沙汰をされるご縁があるだろう。

親鸞会の二千畳に群参し同朋の里・F館に溢れる人々も、地元に帰れば「国に一人、郡(こおり)に一人」の親鸞学徒であるにちがいない。

無上の妙法は聞けなくて当然、聞けたら不思議の中不思議である。どうして私が聞けたのか。小慈小悲もない私なのに「何とか伝えたい」の悩みが起きるのは、全く無上仏の起こさしめたまう悩みであり、お計らいにちがいない。

「あいつはどうして聞かんのか、謗るのか」と見下げる心も、怒りの心も霧散する。

多生にも億劫にもあり得ぬことが、どうして現にわが身に起きているのか。原因を知ることこそが、最も肝要ではなかろうか。

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2010/06/30

家族に伝えたい|親鸞会 顕正新聞

四国の妙好人(みょうこうにん)・庄松(しょうま)同行が、深夜、寺の門を叩き、「大変だ!大変だ!」と叫んだ。

「どうした庄松」

起こされた住職が尋ねると、

「オラ、疑いが起きてきたんだ。地獄は本当にあるのか?」

「今更、お前、何を言う」

「本当に地獄があるのなら、まず妻子に伝えにゃならんだろう。他人に勧めるばかりで家族に伝えていないじゃないか。無いものをあるように教えているからでないかと、疑いが起きてきたのじゃ」

と、辛辣に切り込んでいる。

袖触れ合うも多生の縁といわれる。ましてや家族となれば、よほど深い因縁があってのことだ。久遠劫より流転を重ね、今生、巡り遇わせていただいた阿弥陀仏の本願、往生極楽の道を、自分だけ喜び、家族を放っておけるものでなかろう。
「わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬは浅ましき事なり」

蓮如上人の大喝である。

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2010/06/14

教えと体験  親鸞会.NET

教えと体験

「論より証拠」という言葉に、人間は弱い。目の前で、説明のつかない不可解な現象を見せつけられると、ありもしない力の存在でも簡単に信じ込んでしまう。

難病で、どの医者からも見放された人が、苦しい時の神だのみ、藁にもすがる必死さで新興宗教を信じた途端に治ったら、本人はもちろん家族も、「論より証拠だ。この神様のお力に間違いない」となるのも無理はない。
千人のうち一人でもそんな例があれば、新興宗教などは大々的に宣伝するから、「病気が治った」「奇跡が起きた」といった体験談で、それらの発行する機関紙の紙面は埋め尽くされている。

普段は理論派で聞こえた人でも、案外ころりと引っかかってしまう。だが、これらのゴリヤクは実は神の力などでは毛頭なく、人間の暗示や催眠現象で、いくらでも説明がつくのである。

だから怪しい証拠は、「証拠より論」で真相を見極めなければならないのだ。

浄土真宗にも、体験を売り物にする者たちがいる。
「泣いた」「笑った」「心が明るくなった」「念仏が噴き上がった」「風呂の中で躍った」などの体験談が信心決定の証拠として紙面を堂々と飾り、周りの者たちも「よかったよかった」「私たち一味やね」と喜ぶから、いよいよその気になって、これでもう大丈夫、と腰を落ち着ける。
その体験が、親鸞聖人の本当のみ教えと合致しているかどうかは、彼らにはどうでもいいのである。「救われたのが証拠」と頭から思い込み、自分の体験をつかんで離さない。教えを聞いても、自分の体験に合わせて聞いているから、真実の教えを受け付けなくなってしまうのだ。

しかも大概はその後、聞法する気がなくなり、仏縁を遠ざける。ましてや御恩報謝の活動など、さらさら見られない。そもそも布教しようにも、親鸞聖人のみ教えをまともに聞かされていないから、布教できないのである。
だから彼らが話しできるのは、自分の体験談ばかりだ。自分が苦労して求めて、その結果「ああなった」「こうなった」という自慢話になる。

こうなった 自慢ばなしに 花が咲く

苦労した 体験談が 自慢種

まるで独りよがりな、聞くに堪えない話のオンパレードでも、本人さんたちは「ご示談」と称してやっている。だが、どんな体験も、親鸞聖人の教えと合わなければ、そらごとたわごとなのだ。「あの人は救われた」と聞いて、すぐ飛びつくような心が、迷いの根本であると知らねばならぬ。

体験の真偽は、正しい教えの定規で決するのである。

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擬似体験のコツ(体験記を読ませ、体験談を聞かすこと)親鸞会.net
自戒すべきこと 親鸞会.net

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2010/06/10

自戒すべきこと      親鸞会.net

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ」
(歎異抄・序)

〝決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない〟
親鸞聖人の教えを説かず、「オレはああなった」「こうなった」の体験談で人集めする邪義を、『歎異抄』は厳しく教誡する。
蓮師もまた五百年前、「珍しき法」に群がる体験乞食グループを『御文章』に重ねて指摘され、廻心懺悔を促された。だがいつの時代も、各別の体験談を自慢し、売り物にする輩が後を絶たない。原因は、何か。
〝オレがオレが〟と目立ちたい自己顕示欲、財施を得たい利益欲であろう。
聖人でさえ「名利の大山」と警戒されるのだから、自制できぬ者があるのもうなずける。
だが根本は、「真実信心が無い」からに違いない。まこと信心獲得した人に、
唯一救いたもうた弥陀の本願を、己の名利でネジ曲げることなど、あり得ぬだろう。
常に正しい聖人の教えを聞法し、自戒せねばなるまい。

みえみえの 自己宣伝の 体験談

体験談 自己宣伝の ほかはなし

 

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2010/06/10

生きる目的がハッキリすれば すべての行為が意味を持つ2

どうせ死ぬのに
だが、ほとんどの人はそんな凄い弥陀の救いを知らず、築くあとから崩れ去る、もろくもはかない幸せを人生の目的と信じている。

ある哲学者はその危うさを次のように書いている。
いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまう。他人のために尽くしても、その人も死んでしまう。日本のため、世界のため、地球のために尽力しても、やがて人類も地球もなくなるのに、なぜ「いま」生きなければならないのか。
私が死ぬと周りの人々が悲しむから?でも、それも相対的なものである。そういう人々もまたじきに死んでゆくのだ。そして、この理屈は、誰も私の死を悲しまないとき、私は死んでもかまわないという結論を導く。
(中略)
まもなく地上には人間は誰ひとりいなくなる。それからしばらく経つと、地球は巨大な太陽に呑み込まれ、太陽系も崩壊し、銀河系も飛び散り、一雫も人類の記憶は残らなくなる。これが、われわれを待ち構えている未来の姿である。
(中略)
世の中のことはすべて、私にとって究極的にはどうでもいいのだ。(中略)みんな、どうせ消滅してしまうのだから。成熟するとは「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか」という問いを忘れることであるのに。
(『狂人三歩手前』中島義道)

親鸞会 発行 顕正新聞 平成22年5月1日号)

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2010/06/10

生きる目的がハッキリすれば すべての行為が意味を持つ1

阿弥陀仏に救い摂られた喜びを親鸞聖人はこう叫ばれる。
「噫、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし。遇(たまたま)行信(ぎょうしん)を獲ば遠く宿縁を慶べ」(教行信証)

「噫!」という感嘆は、かつて体験したことのない驚きと喜びの、言葉にならぬ言葉である。「弘誓の強縁」とは、
〝何としても苦しみの根元を断ち切り、人生の目的を果たさせたい〟
という強烈な弥陀の誓願をいい、その誓いどおり、苦しみの根元が断ち切られ、人生の目的成就した歓喜の生命を、「真実の浄信」と言われている。

それはもう、100年や200年求めて得られる、ちっぽけな幸せではなかった、と知らされるから、「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことを獲た」と言われるのである。多生億劫の間求めても、得られぬものが得られたから、「噫!」と驚嘆されるのも当然であろう。

そして、しみじみ、どんな遠い過去からの弥陀のご配慮があったのやらと、「遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と感泣されている。

親鸞会 発行 顕正新聞 平成22年5月1日号)

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2010/05/14

後生の一大事について(3) 親鸞会.NET仏教講座

親鸞会.NET仏教講座「後生の一大事について(3)」

●真実の自己とは●

どん な人でも、ものを食べないで生きてゆくことは出来ません。
ところが、私たちの食べものは、かつては生命の通っていたものばかりです。
我々 が死にたくないように、生ある者は、どんなものでも死を嫌う本能をもっています。
されば、どんな生物でも死は苦しみであることは、我々人間と異な るはずがありません。
船の上に揚げられた魚がピチピチ跳ねるのも、首を絞められる鶏がバタバタするのも、みんな苦しいからでしょう。そんな苦しむ ものの生命をとらなければ、我々は生きてはゆけないのです。しかも、そのような生きものの屍を、私たちは、「うまい」
といって貪り食べているので す。
それどころか、そうした生きものの生命を少しでも多く貪ることを、私たちは「良い暮し」
といって喜びとしています。即ち、私たちは、 罪悪を犯しながらそれを、少しも罪悪とは思わず、むしろ、善いことのように考えているのです。

しかも、仏法で難化の三 機、難治の三病といわれる最も怖ろしい、五逆、謗法、闡提の大罪を、私たちは日夜造り続けているのです。
手にこそかけて殺さなくとも、心の中で親を邪魔者扱いにして、毎日毎時殺している五逆罪。
今日の説法は判らなかった、難しかっ た、長かった、短かったと善知識の頭上に登って批判している謗法罪。
これらは『末灯鈔』に、

「親をそし る者をば五逆の者と申すなり」
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば謗法の者と申すなり」

親鸞聖人が厳しく誡めてい られる重罪です。
それだけではありません。
地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、あの人が死んだかと驚いて一時は同情の涙が 出ても、自分は当分は死にはせぬと平気でいる心が闡提で、ドタ牛のように動かない。頭は承知しても肚が承知しない。道理は判っても納得出来ない。なんの不 足もないのに満足が出来ない。分かって分らず、知って知らず、急いで急がず、泣いて泣かず、なんともかんとも言いようのない奴が闡提で す。
これを親鸞聖人は、「逆謗の屍」とも言われています。

●親鸞聖人の一大事の警鐘●

照らし出されたこの人間の実相を、親鸞聖人は、次のように記されています。

「一切の群生海、無始よりこのかた、乃至、今日今 時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心なし」(教行信証信巻)

「無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流 転し、諸有輪に沈没し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なく、法爾として真実の信楽なし」(教行信証信巻)

「然るに、微塵界の有情、煩 悩海に流転し、生死海に漂没して真実の廻向心なく、清浄の廻向心なし」(教行信証信巻)

繰り返し繰り返し、地獄必定の一大 事を警鐘乱打されたものです。
これが単なる合点ではなく、自身の実相として照らし出された時、何人も一切の助かる望みが絶え果てて、必 ず火達磨になって必定地獄を実感させられるのです。
同時に、弥陀の呼び声を聞き破闇満願させて頂くのですが、悲しいかな、この厳然たる必定地獄 の実地の体験がないから、この一大事が分らないのです。

「後生の一大事」が分からなければ、これを「必ず救う」と誓われている 「弥陀の本願」も分からないし、その弥陀の本願一つを説かれた「仏教」も「浄土真宗」も、何にも分からないのも当然なのです。
ですから、もし「親鸞会は『後生の一大事』を説いて地獄の恐怖を植え付ける」という非難をする人があれば、その人は、実は、親鸞会を非難しているのではなく、お釈迦様を非難している人なのです。
知らないこととはいいながら、何と恐ろしいことでしょう。

「善知識にあうことも
教うることもまた難し
よく聞くことも難ければ
信ずること もなお難し」

(浄土和讃)

親鸞聖人のご述懐が、つくづく知らされるではありませんか。

親鸞会.NET» » 後生の一大事について(1)
親鸞会.NET» » 後生の一大事について(2)

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