2010/06/30
浄土真宗親鸞会は、新宗教というより伝統仏教 親鸞会.NET
「宗教は危ない」と言う人のほとんどは「新興宗教」「新宗教」を指して言っているようです。
「宗教は危ない」と言いながら
「うちは先祖代々○○宗だから、おろそかにしてはならない」
との言葉をしばしば耳にするからです。
では、新宗教と伝統宗教の違いは何でしょう?
「それは、設立した日付で決まる」
と大自信で言う人もあるのですが、そうでしょうか?
たとえ歴史は古くても、その団体が
「本尊は伝統的なものから、別のものに替えます」と
言いだしたり、
「開祖は、○○をするなと言われたけれど、これからは大いに○○をしましょう」
と方針を変更したら、それはもはや《新宗教と化した》と言っていいのではないでしょうか。
逆に、宗教法人の登録年月日は、新しくても
「教えに忠実に。開祖が教えられたとおりにお伝えしていこう」
としている集まりならば、それは伝統的な宗教になるでしょう。
浄土真宗親鸞会は
「親鸞聖人の教えを正確にお伝えする」
ことを唯一の目的としています。
親鸞会50周年フィナーレには、次の言葉が流れました。
「まず親鸞聖人のお言葉を明示して、その正しい御心を徹底していく。
浄土真宗と全人類の輝ける未来は、この一点にかかっていると言っても、
決して過言ではないのです」
浄土真宗の《本道》を決して見失ってはならないからです。
■参考:
浄土真宗 親鸞会・現代に生きる仏説|親鸞学徒の本道をゆく
親鸞学徒の本道の要諦|浄土真宗親鸞会
「新宗教辞典」まで出している井上順孝(いのうえのぶたか)
という 国学院大学教授が『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』
という本を出しました。
この中で、新宗教の特徴をこう書いています。
教えの面では、新宗教は難しい教学や宗学と呼ばれるものを
深めることを、さほど重視しないのが一般的である。(中略)
また教祖による独自の教えも多くつけ加えられていく。
(『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』p39)
そして、様々な新宗教を挙げ、説明している中で、
浄土真宗親鸞会は、新宗教というより「教団改革運動ないし再生運動」
と評してありました。
以下、その文面です。
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法華・日蓮系以外では密教系の教団もいくつかある。
それ以外の仏教系新宗教はきわめて少ない。
浄土系のうち、浄土真宗の系統では真田増丸(1877~1926)の
大日本仏教済世軍や、高森顕徹(1929生)による浄土真宗親鸞会
があり、これらを広い意味での新宗教と解釈することもできるが、
どちらかと言えば教団改革運動ないし再生運動として理解した方が
適切である。
(『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』p210)
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親鸞聖人は生涯、御名号を本尊となされ、
蓮如上人は
「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。
当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
(御一代記聞書)
と教えておられます。ゆえに、浄土真宗親鸞会は『名号』を本尊とし、
皆さんにもお勧めしています。
しかし、寺の現実は、木像本尊ばかり。
明らかに親鸞聖人の教えに背いています。
それどころか、名号本尊の親鸞会に反対しているのです。
浄土真宗の憲法にあたる宗制にも『本尊は南無阿弥陀仏』とあるにも
かかわらずです。
親鸞聖人の教えに反している現状を、今後、どうするつもりなのでしょうか。
■参考
浄土真宗 親鸞会|根本に尊ぶべき御本尊 ~親鸞聖人の仰せどおりに~
「『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』と云々。
これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわし
まします故なり。
これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止(ちょうじ)すべし」
(改邪鈔:がいじゃしょう)
「私が死ねば、屍を賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ」と、
しばしば親鸞聖人がおっしゃったのは、なぜか。
それはセミの抜け殻のような肉体の後始末よりも、永遠の魂の解決
(信心決定)こそが、最も急がなければならないからです。
要の抜けた葬式などを大事とすべきではないのです。
この親鸞聖人のお言葉を無視し、葬式仏教、法事仏教と成り下がって
久しい寺は、今こそ、親鸞聖人の教えに立ち返るべきではないでしょうか。。
■参考
親鸞会.NET≫ ≫ 『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』
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