2010/11/20
「ほどほどの幸せでいいじゃないか。足るを知れ」と人は言う。
なるほど一理あるようだが、「ほどほど」にできるかどうかが問題だ。
上に行くほど叩かれ、人相が変わるほど苦労せねばならぬのを眼前にしながら、一議員では満たされず、市長、県知事、首相と、権力の階段をもっともっとと上ってゆく。
早々に売ればよいのに「まだまだ上がる?」と持ち株を手放せず、バブルが弾けて大暴落。
未だに持ち続けている人もある。「ほどほどがよい」とわかっていても難しい。
わかっちゃいるけど止められない。有限の命で無限の欲を満たせるはずがない。
渇いては求め、求めてはなお渇き、ゴールのない円周を限りなく回って苦悶している。
現在の延長が未来だから、いまの流転は永久の流転、後生は一大事と知らされる。
これを『大無量寿経』に釈迦は
「従苦入苦 従冥入冥」
と説き、この世の苦から死後の苦しみへと堕ちていくと慈誨されているのである。
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2010/07/06
「噫、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし」(親鸞聖人)
〝ああ、なんたる不思議か、親鸞、多生にも遇い難いことに、いま遇えた。億劫にも獲難いことを今獲ることができたとは〟
阿弥陀仏に救い摂られた驚きと感動の親鸞聖人のお叫びである。
親鸞会の二千畳の存在する在所に住んでいても、どれだけこの正本堂に座られる人があろうか。同朋の里のある村の幾人が、F館で信心の沙汰をされるご縁があるだろう。
親鸞会の二千畳に群参し同朋の里・F館に溢れる人々も、地元に帰れば「国に一人、郡(こおり)に一人」の親鸞学徒であるにちがいない。
無上の妙法は聞けなくて当然、聞けたら不思議の中不思議である。どうして私が聞けたのか。小慈小悲もない私なのに「何とか伝えたい」の悩みが起きるのは、全く無上仏の起こさしめたまう悩みであり、お計らいにちがいない。
「あいつはどうして聞かんのか、謗るのか」と見下げる心も、怒りの心も霧散する。
多生にも億劫にもあり得ぬことが、どうして現にわが身に起きているのか。原因を知ることこそが、最も肝要ではなかろうか。
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