2010/06/18

『歎異抄』解説書の比較対照【11】《弥陀の救いは平生の一念》

前回(《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●弥陀の救いは平生の一念

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり(『歎異抄』第一章)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳

阿弥陀如来の本願のはたらきによって大涅槃の真実に触れてたすけられたものは、自己の本来の世界である浄土(大涅槃の真実)へ往き生まれる道が決定されたと信じて、念仏申そうという心が湧き上がってくる。
その時、如来の大悲に迷いの身の全体が丸ごと摂め取られて、人生の全体がどう転んでも涅槃の真実に向かうのだと決定されて、退くことのない精神の大地を得るのである。





高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

『歎異抄』一章の冒頭では、「摂取不捨の利益」の弥陀の救いにあずかる時を、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」と言われています。
ここで親鸞聖人が「すなわち」と仰ったのは、弥陀に救われた「一念」を表す、限りなく重い「すなわち」です。
ですから「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」とは、「平生の一念」のことだと、『歎異抄をひらく』では次のように解説されています。


弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。 (『歎異抄をひらく』)


ところが、先に引用した延塚氏は、「すなわち」を「その時」と意訳しています。他の解説書も同様です。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の意訳では、

阿弥陀仏のお誓いの不思議なお力にお助けいただいて、極楽浄土に生まれることができるのだと信じて、念仏を称えようと思いたつ心がおこるとき、同時に、阿弥陀仏は、そのお光のなかにおさめとってお捨てにならない救いの恵みにゆだねさせになるのである。

と言い、

山崎龍明著『初めての歎異抄』では、

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

と意訳してあります。

「すなわち」を「その時」「同時に」「ただちに」とばかり意訳され、それ以上の解説は皆無です。
これでは、誰が、弥陀の救いは「一念」だと知りえるでしょうか。

弥陀の救いの「一念」を親鸞聖人は、分秒にかからぬ「時尅の極促」と説かれています。

「一念」とは、これ信楽開発の、時尅の極促をあらわす(『教行信証』)


「『一念』とは、弥陀に救われる、何億分の一秒よりも速い時をいう」


「一念の救い」は、弥陀にしかない救いであり、親鸞聖人が最も強調されることです。

覚如上人は「真宗の肝要、一念往生をもって、淵源とす」(口伝鈔)

とまで言われ、「一念往生」(一念の救い)こそが、仏教の「肝要」であり「淵源」だと喝破されているのです。
「肝要」も「淵源」も、仏教では唯一の大事であり、これ以上に重い言葉はありません。

ですから蓮如上人は『御文章』に60回以上も「一念」という言葉を記され、『御一代記聞書』には「たのむ一念の所肝要なり」と道破なされているのです。

親鸞聖人が、「一念」を「すなわち」と表現されているお言葉を挙げておきましょう。

本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり


(『愚禿鈔』)

これは、聖人が弥陀の本願を解説されたものです。
こんな短いお言葉に、2ヶ所も「即(すなわち)」と言われています。
「即の教え」と親鸞聖人の教えがいわれるのも、うなずけます。
「本願を信受する」とは、「阿弥陀仏の本願まことだった」とツユチリほどの疑いも無くなった「一念」ですから、「聞即信」といわれます。
その「一念」を聖人は、仮に「前念」と「後念」に分けられて、前の命の死と後の命の生とを説かれたのが、「前念命終 後念即生」です。

親鸞聖人は「即(すなわち)」を『唯信鈔文意』に

「『即』はすなわちという、『すなわち』というは時をへだてず日をへだてぬをいうなり」

と、一念のことだと明示されています。
「即得往生」とは、本願を信受した、聞即信の一念で救われた(往生を得る)ことです。
このように親鸞聖人は、平生の心の臨終と誕生の「一念」を、「即(すなわち)」で表されます。

親鸞聖人のこの「即(すなわち)」を知らないから、『歎異抄』の「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」を水際立った「平生の一念」と解説する書がないのです。

事実、親鸞仏教センター著『現代語歎異抄』でも

「本願に従おうというこころが湧き起こるとき」

と意訳し、

梅原猛著『誤解された歎異抄』では

「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき」と意訳しています。

「湧き起こる」「芽ばえ始める」では、「念仏申さんと思いたつ心」が「一念の弥陀の救い」とは、全く分かりません。

一念の「念仏申さんと思いたつ心」がどんな心かを表明されたのが、一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて」です。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とは、弥陀の誓願によって摂取不捨の利益に救い摂られ、誓願不思議を不思議と知らされたこと。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」とは、”必ず浄土へ往ける”と、往生がハッキリした後生明るい心です。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、
「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、
「念仏申さんと思いたつ心」
「摂取不捨の利益」も、
表現が違うだけで、同じ心です。

同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。


安良岡康作著『歎異抄 全講読』
は、

「浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この『念仏申さんと思ひ立つ心』が『起る』」


と解説しています。「往生をば遂ぐるなりと信じた」心に催されて、「念仏申さんと思いた

つ心」が起こるという主張です。

佐藤正英著『歎異抄論註』も、一章冒頭の言葉は、同じ「信心」を別の面から表したものではなかろうか、と推測するに止まります。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき」

という文へもう一度戻ってみよう。ここでは、信じてそれから念仏を称えようとか、信じてのちにその

あとで念仏を称えようといったような、両者の間になんらかの間隙が入りうるような、たるんだ関係が語られているのではない。(中略)〈信〉を持つ

ことを別の面から語ったものではなかろうか。(佐藤正英『歎異抄論註』)

「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」は「平生の一念」だと明言される『歎異抄をひらく』は、他の解説書とは、根底から異なる書だと知らされます。

。。。。。。。

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、
『歎異抄』。『本願寺新報』に教学の解説をしばし掲載している

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