2011/09/24

「悪人」は人間の代名詞 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第21回

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第21回《「悪人」は人間の代名詞》 親鸞会.NET

原文

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣に背けり (『歎異抄』三章)

山崎龍明氏著 『初めての歎異抄』の意訳では、

善人(できのよい人)が阿弥陀仏の教えによって救われていくことができるのだから、まして、できの悪い(凡夫)私などが阿弥陀仏の教えによって救われていくのは当然といえます。ところが、世間の常識に従って生きていく人々は、「できの悪い者、煩悩深き者が阿弥陀仏の教えによって救われていくのだから、善い人間が救われていくのは当然のことである」と考えています。

なるほど、この考えは一応道理にあっているようですが、実は阿弥陀仏の根本精神に反しているといえます。

とあります。

高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の意訳では、

善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人は、なおさらだ。

それなのに世の人は、つねに言う。

悪人でさえ浄土へ往けるのだ、ましてや善人は、なおさら往ける。

このような考えは、一見もっともらしく思えるが、弥陀が本願を建立された趣旨に反するのである。

と書かれています。

●弥陀の御心を明かされた親鸞聖人

この三章は、『歎異抄』十八章の中で最も有名である。同時に、恐ろしい誤解が広まった、鋭いカミソリのところだから、注意して読まなければ大怪我をします。

まず親鸞聖人の「善人」「悪人」の認識を正しく知らねば、三章はもちろん、『歎異抄』をどれだけ熟読しても、論語読みの論語知らずに終わることでしょう。

常識的な見方では、人類は「善人」と「悪人」に二分され、悪人より善人が救われて当然と考えます。ですがそれは、「本願他力の意趣」(本願を建てられた弥陀の御心)に反していると、三章では明言されています。

親鸞聖人が説かれるのは、常に弥陀の御心であって、世人の常識でもなければ、独断でも新説でもありません。

では阿弥陀仏は、十方衆生(すべての人間)をどう見て取られているのでしょうか。

五劫に思惟され、我々を骨の髄まで徹底調査された弥陀は、すべての人間を”金輪際助かる縁なき極悪人”と見抜かれています。

ですから親鸞聖人は、弥陀の仰せのまま、「十方衆生」を「悪人」と仰っているのです。

聖人の言われる「悪人」とは、全人類のことであり、「人間」の代名詞にほかなりません。

聖人が常識を完全否定され、すべての人間を「悪人」と断定されたのは、弥陀の本願に根拠があったのです。

この原点から『歎異抄をひらく』では、三章の「悪人」を次のように詳説されています。




私たちは常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて、「善人」「悪人」を判断する。だが、聖人の「悪人」は、犯罪者や世にいう悪人だけではない。極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させる。




いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし (歎異抄)

どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ。




この告白は、ひとり聖人のみならず、古今東西万人の、偽らざる実相であることを、『教行信証』や『歎異抄』には多く強く繰り返される。




一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し

(教行信証)

すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、真実の心は、まったくない。




悠久の先祖より無窮の子孫まで、すべての人は、邪悪に満ちて、そらごとたわごとばかりで、まことの心は微塵もない。しかも、それを他人にも自己にも恥じる心のない無慚無愧の鉄面皮。永久に助かる縁なき者である。

『歎異抄』三章後半も、念を押す。




煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば…… (歎異抄)

煩悩にまみれ、どのような修行を励んでも、到底、迷い苦しみから離れ切れない我らを不憫に思い、建てられた本願だから、弥陀の本意は悪人を救うて成仏させるためだったのである。

人間はみな煩悩の塊、永遠に助かる縁なき「悪人」と阿弥陀仏は、知り抜かれたからこそ”必ず救う”と誓われたのだ。これぞ、弥陀の本願の真骨頂なのである。

聖人の言われる「悪人」は、このごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」にほかならない。




●「悪人」とは「煩悩具足の我ら」

冒頭に引用した山崎龍明氏著『初めての歎異抄』で、「悪人」を「できの悪い私」と意訳しているように、本願他力の意趣を無視した、勝手な解釈がまかり通っています。

延塚知道氏著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』では、

「悪人」を「本願の真実に照らされた自力無効の目覚め」と解説し、

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』も、

「宗教的な自己否定が自覚されているひと」「如来に背いている自分」などと臆測を連ねています。

弥陀の本願の生起の分かっていない人には、あらゆる人間が例外なく「悪人」とは、とても読めないのでしょう。

三章には「善人」という言葉が使われているから、人間を「善人」と「悪人」に分けるのは、無理もありません。

ですが聖人が「善人」と仰ったのは、十方衆生(すべての人)を「悪人」と徹見された弥陀の本願を疑って、自分は善人だとうぬぼれている人のことであり、仏眼からは「善人」など一人もいないのです。

本願他力に腰を据えれば、「悪人」とは我々すべての人間のことですから、三章では「悪人」を「煩悩具足の我ら」と言い換えられていることが分かります。

ところが、「煩悩具足の我ら」のすぐ後に、「他力をたのみたてまつる悪人」という言葉がありますから、これも「悪人」の説明だと思う人が多いのです。

「他力をたのみたてまつる」とは、弥陀に救われて信心獲得したこと。

「悪人」を「煩悩具足の我ら」と読めば全人類になるが、「他力をたのみたてまつる悪人」のことだとすると、他力の信心を獲た人に限定されてしまいます。ですが、これらはどれも同じ意味だと、

佐藤正英氏著『歎異抄論註』は無造作に、こう言ってのける。

唯円は〈悪人〉を「煩悩具足のわれら」といいかえています。

そして、「煩悩具足のわれら」をさらに「他力をたのみたてまつる悪人」と置き換えているのです。

阿弥陀仏の誓願への〈信〉を抱いているか否かでいえば、〈信〉を抱いているひとです。

石田瑞麿氏著『歎異抄──その批判的考察』も、同様です。




「悪人」は、そうした自力作善の人ではない。ここでは「自力ノココロヲヒルガヘシ」た、「他力ヲタノミタテマツ」る人ということであろう。みずからの罪業に目覚め、ひとえに本願他力に身をまかせたものである。




『歎異抄をひらく』では、「悪人」は全人類のことだと明快に解説されています。

ところが他の解説書では、「悪人」イコール「全人類」という認識が欠如したまま、「悪人」と「他力をたのみたてまつる(信を獲た)人」を混同して解釈するから、その説明は混乱を極めています。

冒頭に引用した『初めての歎異抄』のように、「善人」を「できのよい人」とすれば、大多数の凡人は「悪人」だろう。その大勢の「悪人」にも、信心を獲た人と、獲ていない人があるのだから、「他力をたのみたてまつる悪人」もいれば、そうでない悪人もいるはずだ。しかも三章では、「善人」でも「他力をたのみたてまつれば」真実報土に往生できると言われているのだから、他力をたのむ人、たのんでいない人、「善人」「悪人」、一体、何とおりの人間がいるのか、サッパリ分からなくなるのです。

三章は、最も多くの人が知りたい章だが、解説書を読むほど迷路にはまる理由の一つは、聖人の「悪人」の認識が正しくないからです。

次回では、多くの解説者が混乱している「他力をたのみたてまつる悪人」の真義を、『歎異抄をひらく』から学びたいと思います。

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