2009/12/07
『歎異抄』解説書の比較対照【2】《弥陀の本願まことにおわしまさば》
前回(『歎異抄』解説書の比較対照《ただ念仏して》
http://www.shinrankai.net/2009/10/hikak.htm 親鸞会.NET)
に引き続き、『歎異抄』解説書の比較をしてみましょう。
◆「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解◆
〔原文〕
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
(『歎異抄』二章)
このお言葉をどう説明しているか、
『初めての歎異抄』山崎龍明著の意訳から見てみましょう。
あらゆる人間を救おうという、阿弥陀仏の誓いが本物であるならば、
この教えを説かれた釈尊の教えが、嘘であろうはずがありません。
釈尊の教えがほんとうならば、中国・浄土教の大成者といわれる
善導大師(613~81)の説いた阿弥陀仏の教えが嘘であるわけがありません。
↑
↓
『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳では、どう書かれているでしょう?
弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはず
はない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはず
がなかろう。
『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、
「本願が、まことであるとするならば」と領解する人が意外に多くあります。
山崎氏をはじめ、ほとんどの解説書がそのように解釈しています。
ですがこの章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、
「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、
決死の覚悟で訪ねた時におっしゃったお言葉である。
本願まことかどうかを聞きに来た人に、「まことであるとすれば」では何の解答にも
ならないから、倉田百三は「驚き入った非論理」と評している。
『法然と親鸞の信仰』倉田百三著の解説には、こう書かれています。
中学生にでも解るように、これは論理上には、証明にも何にもなっていない。
「弥陀の本願がまことにおわします」ことを証明しなければならない場合に、
「おわしまさば」という仮説を初めに持って来るとは驚き入った非論理である。
しかし此処が「信」の世界なのだ。
(倉田百三『法然と親鸞の信仰』)
「しかし此処が『信』の世界なのだ」と説明されても、はぐらかされた思いにしか
ならないでしょう。
ここは、なぜ聖人がこんな表現をされたのか、解説に苦心されてきた所です。
関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったために、「本来、親鸞にはありえない」
仮定的表現で語られただけ、と理由づけする人もいます。
例えば、
『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿著では、こう解説されています。
「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、
考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視され
たり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。
(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえない
ことがわかる。
それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれな
ものだったことによる。(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)
『歎異抄』だけは、相手に応じて、本来ありえない表現がなされたというのでは、
取ってつけたような解説です。
従来の解釈は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、その説明は
「……であろう」という私見にすぎず、しかも文章は哲学的で理解しがたいものに
なっているのです。
『歎異抄論註』佐藤正英著の解説は、以下のとおりです。
「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて
解したのでは文意が死んでしまう。
従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく
「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられ
ているのだろう。
親鸞は、阿弥陀仏の誓願が<真にして実なる>ものであることを己れの<知>において
捉えているわけではない。
<信>を抱いているにすぎない。
いいかえれば己れの<信>においてのみ阿弥陀仏の誓願は<真にして実なる>もの
として現前している。
その<信>の地平を明示せんがためであろう。
また、「草枕旅行く……」の歌と同様に、仮定的に語ることによって己れの<信>の
強固さを確かめ、詠いあげんがためであろう。
(佐藤正英『歎異抄論註』)
この『歎異抄論註』の著者は序文で、自分が試みたのは
「さまざまな読みかたのひとつ」と断っているから、自説の展開に躊躇はないのでしょう。
その序文では加えて、「『歎異抄』はわからないことが多い。異様なまでに多い」とも
告白しています。
そんな人から聞いて、何が分かるのでしょう。
解説者がこんな状態ならば、おびただしい研究書があっても、『歎異抄』は依然として
謎に包まれています。
その真意の解明は、聖人のお言葉によるしかありません。
第二章の「まことにおわしまさば」を「まことであるとするならば」と読むのは、
親鸞聖人の信心とかけ離れています。
「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点だったからです。
それを『歎異抄をひらく』では、聖人のお言葉を根拠に、次のように教えられています。
■『歎異抄をひらく』189~191ページ
だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。
の大歓声や、
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実ある
ことなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします
(歎異抄)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとで
あり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。
『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。
「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、
仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほか
ならない。
冒頭で引用した山崎龍明氏は、「仮定」と読んだ理由を、ここは親鸞聖人が
「やや遠慮がち」におっしゃった所だと、苦しい解説をしている。
だが聖人自作のお聖教によれば、「断定」であることは明らかだ。
「遠慮がち」どころか、「弥陀の本願まことだった」と、幾ら言っても言い足り
ないのが他力信心なのである。
※参考
「弥陀の本願まことにおわしまさば」
マンガ:『歎異抄をひらく』の衝撃度 浄土真宗親鸞会公式HP
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic05.htm
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