2010/12/15

「追善供養」の迷信を破られた聖人のお言葉 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【17】生きた教えを伝える親鸞会

前回の、

親鸞会.NET» » 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【16】《 「全く知らぬ」聖人の真意》親鸞会.NETに引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
「追善供養」の迷信を破られた聖人のお言葉

(原文)
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。   (『歎異抄』第五章)


親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の意訳
私〈親鸞〉は、亡くなった父母への供養のために念仏したことは、いまだかつて一度もない。その理由は、いま現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在だからである。
どのような存在であろうとも、やがて仏の位に到ったときには、だれをも救済することができるのである。



高森顕徹先生著
『歎異抄をひらく』の意訳


親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことはない。
なぜならば、忘れ得ぬ父母を憶うとき、すべての生きとし生けるもの、無限に繰りかえす生死のなかで、いつの世か、父母兄弟であったであろうと、懐かしく偲ばれてくる。されば誰彼を問わず、次の生に、仏になって助けあわねばならないからである。


●「孝養」とは「追善供養」
ここで聖人が「父母の孝養」と言われたのは追善供養であり、「念仏」には一切の仏事が含まれると、『歎異抄をひらく』には次のように解説されています。
「孝養」とは「追善供養」であり、死んだ人を幸福にすると信じられている行為のことである。
四歳で父を失い、八歳にして母を亡くされた聖人の、両親を憶う切なさは、いかばかりであったろうか。亡き父母は、最も忘れえぬ聖人の幻影だったであろう。
そんな聖人が、
「父母の追善供養のために念仏を称えたことなど、一度もない」
と言われる。無論これは、念仏だけのことではない。亡き人を幸せにしようとする読経や儀式、すべての仏事を「念仏」で総称されてのことである。
言い換えれば、
「親鸞は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事をしたことは、一度とてない」
の断言だから驚く。
「死者の一番のご馳走は読経だ」などと、平然と先祖供養を勧めている僧侶や、当然のようにそれを容認している世人には、いかにも不可解な聖人の発言であり、”なんと非情な”と冷たく感ずる人もあるだろう。
だが、誰よりも父母を慕われた聖人が、衝撃的な告白で根深い大衆の迷妄を打破し、真の追善供養のあり方を開示されているのが、この章なのである。




孝行を否定する反道徳的発言という批判も浴びせられてきたこの章で、何を聖人は否定され、どんな誤解を正されたのでしょうか。解説は、まちまちです。冒頭に引用した、

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』では、

「一切衆生が世々生々の父母兄弟だ」という見方は、人間の見方じゃない。如来の眼が見た世界ですね。(中略)そういう広大な視座が開かれた世界から見れば、自分の父母の供養のためだけに念仏することが、どれほど狭い世界なのかを教えられるのです。

と、「自分の父母」だけを供養するのは「狭い世界」であることを教えられたものと主張しています。
ですが聖人は、「父母」だけ供養すべきでないとか、「一切の有情」(すべての生きもの)のために念仏を称えるべきとか、そんなことを論じられているのではありません。ここで破られているのは、追善供養そのものなのです。



●「追善供養」を否定された釈迦


「追善供養」を否定する仏教を、『歎異抄をひらく』では、こう詳説されています。
葬式や年忌法要などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、世の常識になっているようだ。
印度でも、釈迦の弟子が、「死人のまわりで有り難い経文を唱えると、善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか」と尋ねている。
黙って小石を拾い近くの池に投げられた釈迦は、沈んでいった石を指さし、「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか」と反問されている。
石は自身の重さで沈んでいったのである。そんなことで石が浮かぶはずがなかろう。
人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのだから、他人がどんな経文を読もうとも死人の果報が変わるわけがない、と説かれている。
読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのである。釈迦八十年の生涯、教えを説かれたのは生きた人間であり、常に苦悩の心田を耕す教法だった。死者の為の葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったといわれる。
むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、真の転迷開悟(迷いから覚めて、さとりを開くこと)を教示されたのが仏教であった。
今日それが、仏教徒を自認している人でも、葬式や法事・読経などの儀式が、死人を幸せにすることだと当然視している。その迷信は金剛のごとしと言えよう


釈迦の教えは歪曲され、「追善供養」が仏教だと、深く信じられてきました。


山崎龍明氏著『初めての歎異抄』は、


昔も今も変わりなく日本の仏教は「追善仏教」であるといったらいいすぎでしょうか。

と言葉を濁していますが、今の仏教はまさしく、葬式・法事の「追善仏教」。「追善供養」を否定された五章は、日本仏教の全否定といえましょう。ですが、この仏教界に反省を迫る深刻なメッセージを鮮明にする書がありません。


●念仏は「極楽へ往くため」か


聖人が「孝養のため」に念仏を称えたことはないと仰った理由を、

梅原猛氏著『誤解された歎異抄』は、

念仏はいつも二種廻向のためである。つまり、自分が極楽に行って、また極楽から帰ってくる。そのために念仏をするわけである。

と説明しています。ですが、極楽に行く「ため」に称えるのが念仏とは、どこにも親鸞聖人は仰っていません。浄土往生の可否は、信心一つで決するというのが、聖人90年のみ教えです。
『歎異抄』では一章に「ただ信心を要とす」と、「信心」一つの救いが明らかにされ、三章でも、

(原文)

自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり

|意訳|

本願を疑う自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得すれば、真実の浄土へ往生できるのである。

浄土往生は「信心」一つと明言されています。
蓮如上人の証文も多数にのぼるが数例、挙げてみましょう。

信心一つにて、極楽に往生すべし(二帖目七通)


|意訳|
信心一つで、極楽に往生するのだ。
|意訳|
他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。
最も広く知られているのは、次の「聖人一流章」でしょう。

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候

|意訳|

親鸞聖人の教えは”信心一つで助かる”という教示である。

蓮如上人は断言されています。

では「念仏」とは何でしょう。同じく「聖人一流章」では、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり

|意訳|
弥陀に救われてからの念仏は、浄土往生が決定した大満足の心から、その御恩に報いる念仏である。


信心獲得してからの念仏は、必ず往生できると定めてくださった弥陀への「報謝の念仏」だと教示されています。しかもそれは六章で、
「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏申す」(まったく弥陀のお力によって称える念仏)
と教導されているように、すべて弥陀のお計らいで称えさせられる念仏だから、「他力の念仏」とか「他力廻向の念仏」といわれるのです。
「他力」とは弥陀のお力のみをいい、「廻向」とは「差し向ける」ことです。
『歎異抄』の「念仏」はすべて、弥陀の方から私たちに与えてくださる「他力廻向の念仏」なのです。
「念仏」は極楽へ往く”ため”に称えるなどという教説は、親鸞聖人、蓮如上人のどこにもありません。

●「自力廻向」を破邪(間違っていることをハッキリ教えて、邪を破ること)された聖人
弥陀から私たちに与えてくださる「他力廻向」に対し、自分の励んだ善を亡者に差し向け、助けようとするのを「自力廻向」といいます。この「自力廻向」を徹底して破られた方が、親鸞聖人でありました。それは五章の後半でも明らかです。
(原文)

わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ

|意訳|

念仏が自分で励む善根ならば、その功徳をさしむけて、父母を救えるかも知れないが、念仏は私の善根ではないからそれはできない。

世間では葬式や法事、読経の功徳を認めて、現世や来世の幸福を祈祷しますが、どれだけ盛大な儀式をしようと、念仏を称えようと、亡者は自らの業で行き先が決まるのですから、他人にはどうすることもできません。親鸞聖人は、それら一切、仏事を役立てようとする「自力廻向」を断固、破邪されたのです。
かつてしたことがないと聖人が言われる、葬式や法事を本分のように心得て、「追善仏教」に終始している僧侶の、いかに多いことでしょう。
僧俗ともに根深い「追善仏教」を破られた五章の真意が、全く伏せられています。いまにして聖人のご金言を噛み締めなければ、残るは死骸の仏教のみとなるでしょう。



親鸞会は、生きている私たちが生きているときに幸せになれる、生きた親鸞聖人の教えを、これからもお伝えしていきます。

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*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている
*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。武蔵野大学教授
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授
他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく往生すべきことの、更に何の疑いもなし(二帖目十四通)

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