2009/10/28

『歎異抄』解説書の比較対照【1】《ただ念仏して》

tanni large 240x300 『歎異抄』解説書の比較対照【1】《ただ念仏して》

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。
よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す」
(『歎異抄』序)

〔意訳〕
決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない。
このような願いから、かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、
わずかながらも記しておきたい。




『歎異抄』の著者は、後の人が断じて「自見」(自分の勝手な判断)によって教えを曲げることのないようにと、耳の底に残る親鸞聖人のお言葉を、泣く泣く書き記した。
それから700年たった今、聖人の願いもむなしく、『歎異抄』は「自見」や「私見」「主観」で奔放に解釈され、根拠のない無責任な解説がまかり通っている。
異説を正すために書かれた『歎異抄』が、新たな異説・誤解を生んでいるのだ。
親鸞聖人が直接、書かれたお言葉を示して、世間に流布した誤謬を正すことが急務であろう。

高森顕徹先生『歎異抄をひらく』が、聖人自作の『教行信証』や、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、古今の間違いや曖昧さをどのように正され、『歎異抄』の真意をひらかれているか、比較してみたい。

昨年三月『歎異抄をひらく』が発刊されてから1年3ヵ月後、山崎龍明『初めての歎異抄』という書が出た。

これは平成18年のNHK番組「こころの時代歎異抄を語る」のテキストをもとに出版した本である。
新たに書かれたものではないが、著者は武蔵野大学の教授で、現役の『歎異抄』研究者の中ではトップレベルと評される。その最新刊となれば、今の真宗界を代表する解説書といえよう。

この本と『歎異抄をひらく』を比較しながら、『歎異抄』の特に誤解されやすい点を検討したい。
●「ただ念仏して」の誤解

〔原文〕
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、
よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。(『歎異抄』二章)





〔『初めての歎異抄』山崎龍明著の意訳〕


この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われて、広大な世界に生まれていくだけです」
という法然聖人のお言葉を信じているだけで、ほかになにかの理由があるわけではありません。


〔『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳〕

親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに
順い信ずるほかに、何もないのだ。


『歎異抄』二章の「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」「ただ」の誤解が甚だしい。

「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と思っている人が非常に多い。

山崎龍明氏もそう解説しているが、《ただ念仏を称えて救われる》という一般的な解釈だけでは心配なのか、
念仏より信心を重んずる別の解釈もあると、次のように言葉を濁している。
この「ただ念仏」という語は、一般的には文字どおり「ただ念仏」するということで、
ここの「ただ」とは「念仏し」にかかる副詞です。
しかし、この「ただ」はあとの「信ずるほかに別の子細なきなり」の「信ずる」にかかると指摘する人も
います(前掲、佐藤正英『歎異抄論註』)。
親鸞聖人は念仏を称えることよりも、「信」ずることを中心にしたという立場からの指摘のようです。
(山崎龍明『初めての歎異抄』)
他人事のような書き方だが、山崎龍明氏本人は「親鸞聖人は念仏を称えることよりも、
『信』ずることを中心にしたという立場」ではないらしい

だが聖人の教えは、「『信』ずることを中心にした」どころではない。

《信心一つで救われる》というのが、一貫した聖人の教えであり、これ以外に90年の生涯、
教えられたことはなかった。




これを間違えたら、「ただ念仏して」はおろか親鸞聖人の教えすべてを誤解することになる

その最も大事な教説の根拠を、『歎異抄をひらく』では繰り返し提示されている。

以下はその一部である。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

涅槃の真因は唯信心を以てす(教行信証)
浄土往生の真の因は、ただ信心一つである。






正定の因は唯信心なり(正信偈)
仏になれる身になる因は、信心一つだ。

(『歎異抄をひらく』150頁)








聖人の教えは一貫して、信心一つの救いだから、「唯信独達の法門」といわれることは、
既に詳述した(150ページ)。

『歎異抄』では「ただ信心を要とす」(第一章)と明示し、蓮如上人の証文も多数にのぼる。
ほんの数例、『御文章』から挙げてみよう。



往生浄土の為にはただ他力の信心一つばかりなり(二帖目五通)

浄土へ往くには、他力の信心一つで、ほかは無用である。



信心一つにて、極楽に往生すべし(二帖目七通)

信心一つで、極楽に往生するのだ。



他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく往生すべきことの、更に何の疑いもなし(二帖目十四通)


他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。


最も人口に膾炙されるのは、次の『御文章』だろう。


聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候(五帖目十通)

親鸞聖人の教えは《信心一つで助かる》という教示である。



蓮如上人は断言されている。


(『歎異抄をひらく』173頁)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『歎異抄をひらく』では、《信心一つで助かる》という聖人のお言葉を根拠に、
「ただ念仏して」の「ただ」は、他力信心を表す「ただ」であると詳説され、
「ただ念仏さえ称えたら救われる」という世の迷妄を正される。

そして次の「念仏して」は、救われた喜びから噴き上がる「報謝の念仏」になることも、
根拠を挙げて説示されている。


「ただ」は一般的にはこういう意味、また別の指摘もあるという「私見」の羅列を、
私たち親鸞学徒は容認してはならない。
真剣に聞かねばならないのは、親鸞聖人のお言葉である。


「ただ念仏して」の「ただ」の誤解|マンガ:『歎異抄をひらく』の衝撃度|浄土真宗親鸞会
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic03.htm

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コメント

  1. 浄土真宗親鸞会★朋ちゃんHappy diary♪ » Blog Archive » ★親鸞聖人の教え 漢字四字で「信心為本」!!★ より: 2010 年 2 月 13 日 8:55 PM

    [...]                     (『歎異抄をひらく』173・174ページ) [...]

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