2010/10/21

歎異抄九章に表れる懺悔と歓喜  『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【15】

前回の(親鸞会.NET» » 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【14】《親鸞聖人の教えは「二益法門」》)に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
【原文】

「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」(『歎異抄』九章)

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の意訳

「念仏を称えていましても、かつてのようにおどり上がるような喜びが感じられないのはどうしてなのでしょうか?
また、喜び勇んで浄土へゆきたいというこころの起こらないのは、どうしてなのでしょうか?」と親鸞聖人にお尋ねしましたら、「私〈親鸞〉も、このことが疑問でありました。唯円房、あなたも同じ疑問をもたれていたのですね。
とある。





高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

「私は念仏を称えましても、天に踊り地に躍る歓喜の心が起きません。また、浄土へ早く往きたい心もありません。これはどういうわけでありましょう」と、率直にお尋ねしたところ、
「親鸞も同じ不審を懐いていたが、唯円房、そなたも同じことを思っていたのか」と仰せられた。


ここで唯円は二つのことを尋ねています。
「踊躍歓喜の心がない」ことと、「早く浄土へ往きたい心がない」ことです。
率直な問いに聖人は、「親鸞も同じ不審を懐いていた。そなたも同じ心であったのか」と、虚心坦懐に答えられています。
冒頭で引用した親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』では、親鸞聖人が唯円と同じ不審を持たれたのは、過去のことだと解説しています。

「かつて自分も唯円と同じ疑問にとらわれていたけれども、いまはその疑問が解けたのですよ」というニュアンスです(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』も同様です。

親鸞自身にもそうした思いが「不審」としてあったことを述べたのであろう。しかしその「不審」はかつてあったけれども、親鸞ではすぐ打ち消されるほどのものだったにちがいない。(石田瑞麿『歎異抄その批判的考察』)

唯円と同じ不審が、聖人の場合は「すぐ打ち消されるほどのものだった」という推測は、根拠なき私見です。

それは『教行信証』に、正定聚の身に救われても喜ぶ心は無く、急いで浄土へ参りたい心もないと親鸞聖人は懺悔されているからです。

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥ずべし、傷むべし(教行信証)

情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海に沈み切り、名誉欲と利益欲に振り回されて、仏になれる身(定聚)になったことを少しも喜ばず、日々、浄土(真証の証)へ近づいていながらちょっとも愉しまない。なんと恥ずかしいことか、痛ましいことよ。


ここで聖人は、「仏になれる身になった(定聚の数に入る)」「日々、浄土へ近づいている(真証の証に近づく)」と明言されて「恥ずべし、傷むべし」と懺悔されています。

弥陀の本願は、この世は弥勒菩薩と同格の「正定聚」に救われ、死ねば浄土に生まれさせられる、こんな無上の幸福に救われながら、少しも喜ばない、痺れきった自己を懺悔されているお言葉なのです。
ところが、佐藤正英著『歎異抄論註』は、
聖人が本願に合致した信心に「到達しえないことを歎いた文」と、解釈しています。

『教行信証』において親鸞は次のようにしるしている。
誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞(中略)恥づべし、傷むべし、と。
経典論釈に則して精細に辿ってきた〈信〉の在りように、己れが到達しえないことを歎いた文である。(佐藤正英『歎異抄論註』)


聖人が「喜べない」と仰ったのは、真実信心に到達されていないからというのです。
九章で親鸞聖人は、それは煩悩のせいだと、ちゃんと仰っているのに、です。

(原文)
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。(『歎異抄』第九章)


(意訳)
よくよく考えてみれば、助かる縁なき者が助けられた不可思議は、天に踊り地に躍るほど喜んで当然なのだ。それを喜ばぬ者だからこそ、〝往生間違いなし〟と明らかに知らされるではないか。喜んで当たり前のことを喜ばせないのは、煩悩のしわざ。

喜ぶべきことを喜ばぬ、煩悩の塊が我々だと、とうの昔に弥陀は見抜かれています。
喜ぶ心のない、自己が知らされるほど、そんな「煩悩具足の凡夫」を助けると誓われた本願が、いよいよ頼もしく思われるのだと、親鸞聖人は続けられるのです。

(原文)
しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。(同上)

(意訳)
弥陀は、とっくの昔から私たちを「煩悩の塊」とお見抜きになっている。弥陀の本願は、このような痺れきった私たちのためだったと知られて、いよいよ頼もしく思えるのだ。

ここで「いよいよ頼もしく覚ゆるなり」と、聖人が大歓喜されていることが読めないから、「親鸞さまでさえ、喜ぶ心がないと仰っている。喜べなくて当然だ」と広言し、〝喜ぶのはおかしい〟という者さえ出てきています。
喜ばぬ心が見えるほど、いよいよ喜ばずにおれないと歓喜されているところまで『歎異抄』を読み通す人がないのです。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』も、
「煩悩」を自覚すればするほど、「悲願」を仰ぐ心も深くなる
と述べるにとどまっています。

懺悔の裏には歓喜があることを、『歎異抄をひらく』では次のように詳説されています。
「後序」にも、聖人の歓声が轟く。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ(歎異抄)
弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ。こんな量りしれぬ悪業を持った親鸞を、助けんと奮い立って下された本願の、なんと有り難くかたじけないことなのか。


このような歓喜があればこそ、しぶとい呆れる根性を知らされて、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
の懺悔があるのである。
仏法の入り口にも立たない者が、針の穴から天を覗いて、「喜べないのが当然」と開き直っているのとは、全然次元が異なるのだ。弥陀の救いに値わない者には、懺悔もなければ歓喜もない。当然だろう。
また、急いで浄土へ往く気もなく、少し体調を崩すと「死ぬのではなかろうか」と、心細く思えてくるのも煩悩のしわざである。
果てしない過去から流転してきた、苦悩の絶えぬこの世ではあるけれど、なぜか故郷の如く懐かしく、安楽な浄土を恋い慕わず、急ぐ心のないのが私たちの実態だ。
暴風駛雨のような煩悩を見るにつけ、いよいよ弥陀の本願は、私一人を助けんがためであったと頼もしく、〝浄土往生間違いなし〟と、ますます明らかに知らされるのである。
「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候え」(『歎異抄』第九章後半)が、その告白だろう。
喜ぶべきことを喜ばぬ、麻痺しきった自性が見えるほど、救われた不思議を喜ばずにおれぬのだ。それをこんな喩えで、聖人は解説される。


罪障功徳の体となる
氷と水のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し(高僧和讃)


弥陀に救い摂られると、助けようのない煩悩(罪障)の氷が、幸せよろこぶ菩提(功徳)の水となる。大きい氷ほど、解けた水が多いように、極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者である。

九章で言えば、こうなろう。
「喜ぶべきことを喜ばぬ心(煩悩)」が「氷」であり、「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候えの喜び(菩提)」が「水」に当たろう。
無尽の煩悩が照らし出され、無限の懺悔と歓喜に転じる不思議さを、
「煩悩即菩提」(煩悩が、そのまま菩提となる)
とか
「転悪成善」(悪が、そのまま善となる)
と簡明に説かれる。
喜ばぬ心が見えるほど喜ばずにおれない、心も言葉も絶えた大信海に、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)なり」(教行信証)
ただ聖人は、讃仰されるばかりである。

この九章も、懺悔と歓喜に生かされる不可称不可説の真実信心を知らずに読むと大ケガをする、カミソリのような所なのです。

gj144 l 300x225 歎異抄九章に表れる懺悔と歓喜  『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【15】
東京学芸大学名誉教授

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