2010/11/09

歴史の視点・学徒の論点 「近代教学」VS「石川同行」 親鸞会.NET

■無信仰を暴露した暁烏敏の邪義事件 明治43年(1910年)

弥陀や浄土の実在を否定した、いわゆる「近代教学」の元を打ち立てたのは、東本願寺(真宗大谷派)の学僧・清沢満之であったことを、以前、このサイトで紹介した。
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彼の没後、近代教学を標榜する改革派が地方へ広がり、一般門徒との対立が表面化する。その対立は、やがて本山へ飛び火し、親鸞聖人の教えを置き去りにしたまま、
〝改革か伝統か〟という大谷派のお家騒動へとつながっていく。今回は、今からちょうど100年前の明治43年、『歎異抄』を世に広めた張本人ともいえる暁烏敏と、「東本願寺の台所」といわれる石川県門徒の間に起きた激論を中心に、大谷派の迷走の歴史を振り返ってみる。

■金沢門徒の熱い聞法心

親鸞聖人650回忌を間近に控えた明治43年。
日露戦争(明治37・38年)後の好景気で、日本の資本主義が飛躍的に発展した時期である。農業構造の変化によって米価は下落、農村は収入の激減にさらされた。
石川県も例外ではなく、農家は経済的にひどく困窮していた。だが、そんな状況下でも、「東本願寺の台所」といわれるこの地の門徒の信仰は極めて厚かった。

時あたかも、明治維新の混乱で焼失した阿弥陀堂と御影堂の再建のためのお布施が大いに募られていた。愛山護法に燃える全国の門徒の中でも、石川門徒が最も多額のお布施をしたことを各種資料が示している。

熱心なお布施が農村経済を疲弊させ、ひいては県全体に影響が及ぶのではと心配した役人が、本願寺の募財猶予を中央政府へ要請したほどであった。
「能登は信ずる者多く、越中は聞く者多く、加賀は信じ聞き、かつ談ず、その安心問答を為すがごときは石川郡において最も甚だし」
と当時言われたように、石川県の門徒の聞法心と信心の沙汰の徹底ぶりはすごかった。

一例を挙げれば、明治34年1月に金沢で行われた法筵には六千数百名が参詣し、法話のあとは一念帰命の信相について門徒同士が論じ合い、一同法悦にあふれ、随喜の涙をぬぐったと報道されている。

■体験や思いばかりの暁烏

暁烏敏は、この石川郡(現・白山市と金沢市近辺)の東本願寺末寺の長男として生まれた。東京の真宗大学卒業後、清沢満之の私塾に入り、彼の影響で『歎異抄』に心酔、
「危ない聖教であればこそ、複雑な心の悩みを断つ。罪ある者の救いの息吹はここに在る」
と言い、雑誌に「『歎異鈔』を読む」を8年間、連載した。

清沢満之が亡くなった明治36年ごろから、活動の拠点を地元に移す。住職として門徒に『歎異抄』を語り、毎月6日の清沢の命日には、清沢の絶筆『我が信念』を語った。
その一方、中央の思想界で活躍した宗教家の顔を持ち、金沢にできた学生の信仰グループのリーダーとなり、会合では、やはり『歎異抄』と『我が信念』を語った。

『歎異抄』が親鸞聖人の生々しい肉声でつづられているのを形だけ真似しようとしたのか暁烏は、親鸞聖人や蓮如上人が何を教えられたかではなく、自分がどう感じたかを雄弁に語るのを常とした。座談会では活発な質疑応答が交わされ、青年たちは泣いたり叫んだりし、入信を希望する者も多かったという。

当時の信仰を暁烏は後年、こう書いている。
「罪悪の身がかかる生活をしていらるることが恩寵ではないか。地獄に堕ちていて丁度よい者が堕ちずしてこうやって安楽に生活させて頂けるのはこの間に不思議の力が加わっていなければならぬ。この力が如来である。救いである。これは疑うことのできぬ力であると自分も感じ、他にも感ぜしめられて泣き泣きしていたのであります」

罪悪と歓喜を強調する一方、
「『御文章』や『領解文』に書かれている信心をいくらもっともらしく人に語ろうとも、弥陀の救済には何の役にも立たない」
と言って、当時、一般門徒に広く浸透していた『御文章』や『領解文』を目の敵にした。
西洋思想の影響を受け、理性で理解することができない極楽浄土や、他力の信心の世界を教え語ることをいい加減と感じていたのだ、と暁烏信奉者の一人は書いている。
蓮如上人のお言葉を「弥陀の直説」と受け取っていた大多数の門徒の反発は強く、暁烏一派との間に一触即発の緊張感が漂い始めた。
■無学の門徒に論破される

暁烏が活動の範囲を広げた明治43年1月下旬、上金石町(現・金沢市)のある寺で座談会が催された。そこに強信な門徒衆と暁烏一派が同席し、激論が起きた。それはやがて、本山を巻き込む邪義事件へと発展していったのである。その様子が『組内異安心顛末』に収められているので、一部を再現してみよう。

同行A「信心一つで救われる教えとは、一体どういうことですか」

暁烏「別に信心がなくとも、十劫の昔より弥陀如来のお慈悲に丸められていることを善知識から聞いたうえは、他に別に信心とてあるのではない」

A「信心があってもなくても救われるということはあるまいと存じます。それはどなたの教えですか」

暁烏「親鸞聖人の教えである」

A「では、どのお聖教に書かれていますか」

暁烏「『歎異抄』の中にある」

A「『歎異抄』のどこに信心がなくても救われると書いてありますか」

暁烏「あんたの安心はけんか腰の安心だな!」

同行B「私は聴聞不足で一念のところがよく分かりません。どうぞ、一念を水際立ててお聞かせください」

暁烏「これ婆よ、それは学問沙汰なり。そんなことを覚えて助かろうと思うのか」

暁烏の弟子の僧「お聖教にどう書いてあるかなんか、聞くな」

同行C「私も至って愚かな者ですから、学問も元より望まず、覚えることも往生の要とは存じませんが、今度浄土へ参るについては一念帰命の信心をしかと決定せねばならぬと伺っております。しかし、この身は聴聞不足にて一念の信心が分かりません。どうぞ安らかにお聞かせくだされ」

暁烏「住所・姓名を名乗れ」

C「○○の□□です」

暁烏「おまえの平生の喜びようを述べよ」

C「善知識のご化導により、弥陀の本願の御いわれを聞かれたるうえは雑行雑善に目をかけず、一心に阿弥陀如来さまに後生助けたまえとたのみ奉り、そのたのむ一念の時に、私の往生を大悲の方より御定めくだされたことと落ち着いて、この御恩報謝のために寝ても覚めても念仏を称えるべしと聞いております」

暁烏「うそつきめ!」

C「私はうそはつかぬつもりですが、なぜさように仰せられるか」

暁烏「おまえは初めに聴聞不足で一念の信心も分からぬと言いながら、自分の喜びようを述べよと言うたらそんな立派なことを言うたではないか」

C「私は一応の聴聞は致しておりますが、
〝一応の聴聞〟では必ず誤りあるべきなりとあり、幾度も幾度も人に尋ねて信心の方を治定せよとあるではありませんか。なのにあなた方は、真宗の肝要である一念の水際を尋ねても、それは学問沙汰だなどと、二、三人の僧がかわるがわる叱りつけたり、頭からどなりつけたり、こんなのはご示談ではない。あまたの人々の心を惑わし、争論を企てること恐ろし恐ろし。この旨をば、ご本山へ申しつけるから覚悟していなさい」(満場の拍手)


暁烏「河北の同行よ、堪忍してくれ、この坊主が悪かった、許してくだされよ、これより改めて真のご示談をせまいか」

C「御僧に謝らせて私がよい気になりておる道理はない。最初に御坊さんが語を荒立てたから、私も言いにくいことを申したまで。ではここで互いに前非を改めて真のご示談をしようではないか」

B「本願に相応するとはどういうことか、どうぞ聞かせてくだされ」

暁烏「そんなことはこの坊主は知らぬ。学校で習うたこともあれども忘れた」

思想界の寵児ともてはやされた知識人でもある暁烏が、一般門徒に論破され、無信仰の醜態をさらしている。

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■門徒と僧侶が本山へ直訴

親鸞聖人の教えよりも、自分の思いや体験を重んじる暁烏の脱線ぶりは、これだけにとどまらなかった。宗教界の新聞『中外日報』(明治44年8月29日)は、彼の邪義を次のように具体的に指摘している。

・宇宙の万物は皆他力なり、自力も他力の中なり、疑うも他力、謗るも他力なり、煩悩も罪悪も他力なりと勧める

・われらの往生は十劫の昔に済んでいる、今ごろ、一念発起、平生業成というような勧めをする者があるが、それは昔の僧侶のいう事で、今日言うべきことでないと言う

・『ご和讃』『御文』は3歳の童子の寝言であり、これらを讃題にして説教する僧侶も、これを聞く者もともに堕獄の罪人なりと言う

・唯心の弥陀、己心の浄土というような聖道門安心を隠し勧め、指方立相の教えを妨げる

こんな滅茶苦茶な言動を放置しておけぬと、上金石町の事件を契機に金沢別院の僧侶ら数名が本山の教学部に書面で訴え出た。
近在の門徒も3万人の連判を集めて本山に提出した。
親鸞聖人の正統な教えを護るため、邪義・異安心は厳しく取り締まるのが、真宗界の伝統であり、常識であったからだ。
また、本山の教学部には邪義・異安心を取り締まる絶対的権限が与えられていたのである。
■腑甲斐ない本願寺教学部

しかし、この時の本山の対応は金沢の僧俗を甚だ落胆させるものだった。出頭した暁烏敏を交え、茶を飲み菓子を食べながらの詮議のうえ、形だけの弁明書を提出させた。そして、「以後誤解を招かないよう注意されたし」との文書を出して幕引きを図った。
なぜこんな甘い対応で終わったのか。教学部の幹部が暁烏の旧知の者で占められていたという事実はあるが、かりにも一宗の教学の全権を握る部門にしてはあまりにもお粗末ではないか。親鸞学徒の本道に徹することが、いかに難しいかが知らされる。
邪義に断固とした態度を示さぬ本山に業を煮やした金沢の門徒は「護法会」という団体を結成し、近代教学の巣窟である真宗大学(東京)を廃校すべしという運動を始めた。

真宗大学は、清沢満之が東京に開校し、初代学長を務めた宗門校である。清沢満之は学生運動の責任を取って、わずか1年で辞任しているが、その後も清沢を崇拝する教員や学生が集まる牙城であった。後に〝近代教学の大成者〟と称される曽我量深もここで教鞭を執っていた。邪義を断つにはその元から、というわけである。

これを受けて明治44年8月27日、本山当局は、真宗大学の廃校案を宗議会に上提した。やはり「近代教学」を放置しておけないという漠然とした思いは、あったようだ。
ただ、そのころ本山内で増えていた「近代教学」の同調者がこれに猛反発し、議会は大荒れに紛糾した。しかし、当局側がなりふり構わぬ多数派工作に奔走した結果、わずか2票差で議案は可決。同年9月、真宗大学は開校からわずか10年で解散となったのである。
■『歎異抄』の普及

邪義の烙印を押されながら、反省のそぶりもなく暁烏は、全国を回って精力的に講演していた。
本山で取り調べを受けた翌年(明治44)4月18日から28日まで、東本願寺は親鸞聖人六百五十回忌の法要を厳修したが、何事もなかったかのように暁烏が何度も記念講演を行っている。雑誌連載の記事をまとめて、有名な『歎異鈔講話』を出版したのもこのころだ。
自坊では毎年夏に泊まりがけの講習会を開き、それを45年間、1度も欠かさず続けた。北陸を中心に一般門徒の中にも着実に〝暁烏派〟が増えていった。真実のない人間に、真実は聞き難く、邪義や安楽いすは、耳に心地よいがために、容易に受け入れられるようだ。
大正5年には『歎異抄』を題材にした倉田百三の戯曲『出家とその弟子』が空前のベストセラーになり青年子女が競って『歎異抄』を読んだ。
世は大正デモクラシーとなり、社会のいろいろな所で民主化が進められた。本願寺も改革すべしとの空気が強まる中、近代教学派が勢力を増していく。やがて、金子大栄や曽我量深たちへと近代教学は受け継がれ、東本願寺内の傍流から主流へと変わっていくのである。

明治(後期)~大正の真宗史と社会の動き

1895(明28) 大谷派、維新の混乱で焼失した本堂と御影堂を再建
1901(明34) 真宗大学、東京に開校 清沢満之、初代学長に就任
大谷派の学僧、大乗非仏説を唱え、僧籍を剥奪される
1903 (明36) 清沢満之没する。 暁烏敏、「歎異鈔を読む」を雑誌に連載し始める
1904(明37) 日露戦争始まる
1910(明43) 暁烏の邪義事件
1911(明44) 暁烏敏、『歎異鈔講話』を発刊
親鸞聖人650回忌法要
真宗大学、廃校となる
1914(大3) 第一次世界大戦
1916(大5) 倉田百三『出家とその弟子』
1918(大7) 富山に米騒動起きる
1920(大9) このころ、親鸞聖人に関する小説、戯曲が多数発刊される
1923(大12) 関東大震災

■暁烏は人工信心も勧めた?

東本願寺元講師・柏原祐義が報告

暁烏は、聞法者の罪悪を責め立てることで、感情的な興奮状態に陥らせる・儀式・にも手を染めていたらしいことが伝えられている。

元東本願寺講師の故・柏原祐義も清沢門下の1人であり、暁烏と交流があった。暁烏の自坊・明達寺で行われた講習会に立ち会い、その様子を書き残している。

「三、四人の人々が来会者を一人ずつ取り巻いてその人が泣いて懺悔と歓喜に高声念仏するようになるまでつるし上げるといった熱狂的な雰囲気であった」

このような講習会で信仰を得た信徒の1人は、罪悪感に襲われ熱狂するあまり、「村の一軒一軒を謝って歩いた」という。
親鸞学徒の本道とはまるで違う邪道が、彼らの実態であった。

明治期の『歎異抄』解説書

15年 『歎異鈔講義』  稲葉道教
20年 『歎異鈔講録』  宮地義夫
36年 暁烏、「歎異鈔を読む」を雑誌に連載
37年 『歎異鈔講録』 豊満春洞
『歎異鈔略述』  吉谷覚寿
38年 『歎異鈔提要説教』渥美契縁
40年 『歎異鈔講話』  南条文雄
42年 『歎異鈔講録』  蓮元慈広
『歎異鈔講義』  近角常観
『十回講話』   安藤州一
43年 『歎異鈔講話』  多田 鼎
『歎異鈔真髄』  大須賀秀道
(暁烏の連載以後、解説書の出版が激増している)
まとめ

清沢満之の後継者
暁烏敏の邪義は、
・『御文章』や『領解文』を時代に合わないと言って否定し、専ら『歎異抄』を布教に使った。
・教学を軽んじ、自分の体験や思いばかりを熱烈に語った。
その邪義は、本山との間で対立と妥協を繰り返しながら、昭和初期には、大谷派の主流になっていく。

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