2010/10/21

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【15】《九章に表れる懺悔と歓喜》親鸞会.NET

 前回の(親鸞会.NET» » 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【14】《親鸞聖人の教えは「二益法門」》)に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
【原文】

「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」(『歎異抄』九章)

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の意訳

「念仏を称えていましても、かつてのようにおどり上がるような喜びが感じられないのはどうしてなのでしょうか?
また、喜び勇んで浄土へゆきたいというこころの起こらないのは、どうしてなのでしょうか?」と親鸞聖人にお尋ねしましたら、「私〈親鸞〉も、このことが疑問でありました。唯円房、あなたも同じ疑問をもたれていたのですね。
とある。


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

「私は念仏を称えましても、天に踊り地に躍る歓喜の心が起きません。また、浄土へ早く往きたい心もありません。これはどういうわけでありましょう」と、率直にお尋ねしたところ、
「親鸞も同じ不審を懐いていたが、唯円房、そなたも同じことを思っていたのか」と仰せられた。

ここで唯円は二つのことを尋ねています。
「踊躍歓喜の心がない」ことと、「早く浄土へ往きたい心がない」ことです。
率直な問いに聖人は、「親鸞も同じ不審を懐いていた。そなたも同じ心であったのか」と、虚心坦懐に答えられています。
冒頭で引用した親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』では、親鸞聖人が唯円と同じ不審を持たれたのは、過去のことだと解説しています。

「かつて自分も唯円と同じ疑問にとらわれていたけれども、いまはその疑問が解けたのですよ」というニュアンスです(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』も同様です。

親鸞自身にもそうした思いが「不審」としてあったことを述べたのであろう。しかしその「不審」はかつてあったけれども、親鸞ではすぐ打ち消されるほどのものだったにちがいない。(石田瑞麿『歎異抄その批判的考察』)

唯円と同じ不審が、聖人の場合は「すぐ打ち消されるほどのものだった」という推測は、根拠なき私見です。

それは『教行信証』に、正定聚の身に救われても喜ぶ心は無く、急いで浄土へ参りたい心もないと親鸞聖人は懺悔されているからです。

悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず。恥ずべし、傷むべし(教行信証)

情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海に沈み切り、名誉欲と利益欲に振り回されて、仏になれる身(定聚)になったことを少しも喜ばず、日々、浄土(真証の証)へ近づいていながらちょっとも愉しまない。なんと恥ずかしいことか、痛ましいことよ。

ここで聖人は、「仏になれる身になった(定聚の数に入る)」「日々、浄土へ近づいている(真証の証に近づく)」と明言されて「恥ずべし、傷むべし」と懺悔されています。

弥陀の本願は、この世は弥勒菩薩と同格の「正定聚」に救われ、死ねば浄土に生まれさせられる、こんな無上の幸福に救われながら、少しも喜ばない、痺れきった自己を懺悔されているお言葉なのです。
ところが、佐藤正英著『歎異抄論註』は、
聖人が本願に合致した信心に「到達しえないことを歎いた文」と、解釈しています。

『教行信証』において親鸞は次のようにしるしている。
誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞(中略)恥づべし、傷むべし、と。
経典論釈に則して精細に辿ってきた〈信〉の在りように、己れが到達しえないことを歎いた文である。(佐藤正英『歎異抄論註』)

聖人が「喜べない」と仰ったのは、真実信心に到達されていないからというのです。
九章で親鸞聖人は、それは煩悩のせいだと、ちゃんと仰っているのに、です。

(原文)
よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどに喜ぶべきことを喜ばぬにて、いよいよ往生は一定と思いたまうべきなり。喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり。(『歎異抄』第九章)

(意訳)
よくよく考えてみれば、助かる縁なき者が助けられた不可思議は、天に踊り地に躍るほど喜んで当然なのだ。それを喜ばぬ者だからこそ、〝往生間違いなし〟と明らかに知らされるではないか。喜んで当たり前のことを喜ばせないのは、煩悩のしわざ。

喜ぶべきことを喜ばぬ、煩悩の塊が我々だと、とうの昔に弥陀は見抜かれています。
喜ぶ心のない、自己が知らされるほど、そんな「煩悩具足の凡夫」を助けると誓われた本願が、いよいよ頼もしく思われるのだと、親鸞聖人は続けられるのです。

(原文)
しかるに仏かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく覚ゆるなり。(同上)

(意訳)
弥陀は、とっくの昔から私たちを「煩悩の塊」とお見抜きになっている。弥陀の本願は、このような痺れきった私たちのためだったと知られて、いよいよ頼もしく思えるのだ。

ここで「いよいよ頼もしく覚ゆるなり」と、聖人が大歓喜されていることが読めないから、「親鸞さまでさえ、喜ぶ心がないと仰っている。喜べなくて当然だ」と広言し、〝喜ぶのはおかしい〟という者さえ出てきています。
喜ばぬ心が見えるほど、いよいよ喜ばずにおれないと歓喜されているところまで『歎異抄』を読み通す人がないのです。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』も、
「煩悩」を自覚すればするほど、「悲願」を仰ぐ心も深くなる
と述べるにとどまっています。

懺悔の裏には歓喜があることを、『歎異抄をひらく』では次のように詳説されています。
「後序」にも、聖人の歓声が轟く。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ(歎異抄)
弥陀が五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ。こんな量りしれぬ悪業を持った親鸞を、助けんと奮い立って下された本願の、なんと有り難くかたじけないことなのか。

このような歓喜があればこそ、しぶとい呆れる根性を知らされて、
「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」
の懺悔があるのである。
仏法の入り口にも立たない者が、針の穴から天を覗いて、「喜べないのが当然」と開き直っているのとは、全然次元が異なるのだ。弥陀の救いに値わない者には、懺悔もなければ歓喜もない。当然だろう。
また、急いで浄土へ往く気もなく、少し体調を崩すと「死ぬのではなかろうか」と、心細く思えてくるのも煩悩のしわざである。
果てしない過去から流転してきた、苦悩の絶えぬこの世ではあるけれど、なぜか故郷の如く懐かしく、安楽な浄土を恋い慕わず、急ぐ心のないのが私たちの実態だ。
暴風駛雨のような煩悩を見るにつけ、いよいよ弥陀の本願は、私一人を助けんがためであったと頼もしく、〝浄土往生間違いなし〟と、ますます明らかに知らされるのである。
「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候え」(『歎異抄』第九章後半)が、その告白だろう。
喜ぶべきことを喜ばぬ、麻痺しきった自性が見えるほど、救われた不思議を喜ばずにおれぬのだ。それをこんな喩えで、聖人は解説される。

罪障功徳の体となる
氷と水のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し(高僧和讃)

弥陀に救い摂られると、助けようのない煩悩(罪障)の氷が、幸せよろこぶ菩提(功徳)の水となる。大きい氷ほど、解けた水が多いように、極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者である。

九章で言えば、こうなろう。
「喜ぶべきことを喜ばぬ心(煩悩)」が「氷」であり、「これにつけてこそ、いよいよ大悲大願は頼もしく、往生は決定と存じ候えの喜び(菩提)」が「水」に当たろう。
無尽の煩悩が照らし出され、無限の懺悔と歓喜に転じる不思議さを、
「煩悩即菩提」(煩悩が、そのまま菩提となる)
とか
「転悪成善」(悪が、そのまま善となる)
と簡明に説かれる。
喜ばぬ心が見えるほど喜ばずにおれない、心も言葉も絶えた大信海に、
「ただこれ、不可思議・不可称・不可説の信楽(信心)なり」(教行信証)
ただ聖人は、讃仰されるばかりである。
この九章も、懺悔と歓喜に生かされる不可称不可説の真実信心を知らずに読むと大ケガをする、カミソリのような所なのです。

 

東京学芸大学名誉教授

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2010/10/18

『歎異抄』の誤解が真宗を崩壊させている|親鸞会 顕正新聞

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(歎異抄)

これを、みな「本願を信ずるには」と誤読し、”弥陀に救われるには、善は不要、悪も恐れる必要はないのだ”と得手に理解する。

その結果は明らかだ。

放逸無慚(ほういつむざん)になり果てた浄土真宗は、外道からは悪人製造の教えと揶揄され、崩壊の一途を辿っている。

その原因が、『歎異抄』のこの誤解にあるといっても過言ではない。

もちろん、「弥陀に救われたならば」のことである。「弥陀の救い」は、百年や千年の問題ではない、幾億兆年の迷いの魂を解決し、浄土往生させることである。

平生に往生一定の大満足を獲たならば、当然ながら「往生のために善をしよう」など微塵もないから「他の善も要にあらず」と言われているのである。

往生の一段のことであって、それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解するから、

仏法を破壊し世の中に猛毒をまき散らして平気でいるのだ。

因果の道理は宇宙の真理、ゴロゴロ怠け放題では人生の落伍者となるだけ。

世界の光と仰がれる聖人のご活躍は、真実信心はもちろんのこと、ずば抜けた勉学努力なくしてはあり得ないのだ。

善知識から「弥陀の救い」を正しく聞かせて頂かねば、お聖教の一言半句もまともに読めぬと知らされるばかりである。

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2010/10/18

台湾 週3回家庭法話がエネルギー源~世界の親鸞会

世界の親鸞会
親鸞会館で高森顕徹先生から聞かせていただくと、最も意味のある時を過ごせた喜びで満ちあふれます」と台湾から毎月日本に参詣している親鸞会会員のTさんは目を輝かせます。

Tさんは、台湾のシリコンバレー(アメリカの先端技術ビジネスが集中する地域)といわれる新竹市の自宅に、親鸞会の講師を招き、週に3日家庭法話を開いています。
うち2日間は朝昼夜の連続で、残りの1日は朝昼の法話です。

最初は家族中心に週1回でしたが、近隣の親鸞会会員やその知人も参詣するようになり座数が増えたのです。
今では、「家庭法話こそ私の仕事です」と家庭法話を誇りに思っておられます。
ご法話のあとには、手料理をふるまい、信心の沙汰で盛り上がります。
親鸞会のIさんは、「Tさんは口を開くといつも仏法。会うたびに、また親鸞会館へ行こうと励まし合っています」と語ってくれました。

10年前に仏縁を結んで以来、実母や夫や娘さんに仏法を伝え、今はともに親鸞会の会員です。

「家族そろって親鸞会員に参詣する。これが私の夢です」と笑顔が光っていました。

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2010/10/09

恨みが喜びに~ブラジルから~   世界の親鸞会

世界の親鸞会
世界中で頑張っている親鸞会の人たちを紹介したいと思います。

今日はブラジルの首都・ブラジリアにお住まいのTさんです。

Tさんは、12歳で日本から家族とブラジルに渡りました。
しかし、コーヒー農園での労働は過酷でした。

やがて結婚し、5人の子供に恵まれましたが、大黒柱のご主人を若くして亡くしてしまったのです。
再婚したご主人も他界。
寂しい毎日を送ってこられました。

「どうしてブラジルに来たんだろう。早く死にたい」
とまで思っていたのです。

でも、このまま死んだら、苦労と恨みの人生で終わってしまうと思うと、悔しくて死ねなかったそうです。

そんな昨年2月、近所で親鸞会の話を聞いているYさん宅での勉強会を知り、欠かさず参詣するようになり、

「仏法に出遇って、恨みのろいの毎日が、喜びの人生に変わりました。これからは、人生の目的達成一つに向かいたい」

と、うれしそうに語られるようになったのです。
特に、因果の道理が心に響いたようで、

「運命はすべて、自分のまいたタネの結果だったのですね。私は縄を恨む泥棒でした」

といわれる笑顔がなんともいえず輝いておられました。

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2010/10/08

アメリカの少年「因果の道理」を学ぶ! 親鸞会.NET

世界の親鸞会
アメリカで頑張っている親鸞会のSくんからのレポートです☆

・・・・・

先日、アメリカ人の少年が、「仏法を聞かせてください」と親鸞会のロサンゼルス会館を訪れました。

見覚えのある端正な顔だちは、以前、出会ったJ君でした。

J君は、親鸞会ロス会館近くの学生で、昨年の夏、ご縁がありました。

その時J君は、おばあさんが日本人で、浄土真宗の門徒であること、そのおばあさんから、いつか親鸞聖人の教えを聞くように言われていたことなどを話してくれました。

その後も、彼とは、会館の芝生に水をやっているときなどに時々会い、そのたび挨拶を交わしていました。

そして学校が長期休暇に入り、再び彼は親鸞会ロス会館を訪れたのです。

その日は一緒に「因果の道理」について学びました。

因果の道理とは、自分のやった行為によって、自分の運命が決まる、

というお釈迦様の教えです。

※因果の道理についてもっと知られたい方は、コチラをごらんください。
↓↓
親鸞会ブログポータル(因果の道理)

J君は

「今日のお話は、とても心に残りました。

“火の車造る大工はなけれども己が造りて己が乗りゆく”

のお歌から、私の運命は神が造ったものではなく、自分で生み出していくことが分かったから」

と喜んでいました。

そして、今度は友達まで誘ってくるようになったのです。

アメリカにはキリスト教信者が多いのですが、仏教に関心がある人が増えてきていいます。

J君のようなに人ともっと会って話がしたいと思います。

※”火の車造る大工はなけれども己が造りて己が乗りゆく”のお歌について知られたい方は、この記事が参考になると思います。

↓↓↓
お釈迦様と親鸞聖人の教えられた「ただ一つのこと」がわかるブログ

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2010/10/07

見落とされている大事|親鸞会.NET

 

 剣道、茶道、華道、書道、または政治、経済、科学、医学、芸術など、これらの道には、これで究めた、求まったという完成がない。「死ぬまで求道」である。求めるのは、求まることを前提とする。百パーセント求まらぬものを求める人生は、悲劇あるのみだ。

「好きなことをやれたら満足。求まらずとも、求める過程が楽しいのだ」と言い張る人は重大なことを見落としている。

 泳ぐこと自体が好きなのだという人に、「それでは太平洋の真ん中で存分に泳ぎなさい」。空と水しか見えない。存分に泳げても、泳ぎ着かぬ海原である。やがて愕然と、自分の行く末に気づくだろう。これが「死ぬまで求道」礼賛のすがたではないだろうか。

 人生の目的には完成がある。それは未来のいつかではない。

「人身受け難し、今已に受く。仏法聞き難し、今已に聞く」(釈尊)

 不可思議な弥陀の本願力は、今、生命の大歓喜を与えてくだされるのである。

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2010/09/15

それが私の恩返し 親鸞会海外ニュース

それが私の恩返し

ロサンゼルス 親鸞会会員 Fさん

親鸞会顕正新聞22年9月15日号より

親鸞会・追悼法要で、恩という字は原因を知る心と書く、と教えていただきました。
 なぜアメリカ人の私が、真実の法に巡り遇えたのか。仏法を正しく伝えてくださった親鸞聖人、高森顕徹先生に心からお礼申し上げなければなりません。
 親鸞会・テレビ座談会で、仏法とのご縁は確実に深まり、これ以上ない素晴らしい教えを、家族や友人、大学の若者にも伝えようと努めています。
 米国海軍の報道員として”文章”を学んでいた経験を生かし、より簡潔で読みやすく、若い人を引き付ける資料を作るお手伝いができないか、と考えています。
 また、日本語を学ぶため、来年、他校への進学を計画しています。日本語の正しい意味を知り、仏教をより深く学んだら、もっと分かりやすく英語でお伝えできると思うからです。
 この世のすべては仮の物です。すべての希望を失っていた時、仏法に出遇いました。ある意味で、阿弥陀仏にすでに助けていただいたとさえ思います。だからこそ、真実を伝えるために力を尽くしたいのです。

 

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2010/09/13

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【14】《親鸞聖人の教えは「二益法門」》

前回(《弥陀の本願まことにおわしまさば》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

原文

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり (『歎異抄』第一章)

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。
高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
『歎異抄』一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」には、弥陀の二度の救いが明示されています。

「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは、平生の一念に「摂取不捨の利益」に救われたことであり、「往生をば遂ぐる」とは、死んで弥陀の浄土へ往生することです。

現在の救いを「現益(げんやく)」(現世の利益)、死後の救いを「当益(とうやく)」(当来の利益)といいます。
弥陀の救いは、今生と死後と二度あるので、「現当二益(げんとうにやく)」といわれます。
その根拠は枚挙にいとまがありませんが、聖人は二度の救いに疑い晴れた大慶喜を『教行信証』に、こう記されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。 (『教行信証』)

「本当にそうだったなぁ!あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。
しかもだ。弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に
浄土へ往って、仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか」

弥勒大士とは、仏のさとりにもっとも近い、51段目の「等覚」のさとりを得ている菩薩のことです。
弥陀に救われると、この世は弥勒と同等になり、死ぬと同時に「大般涅槃」(仏のさとり)を得ることができます。
これを『正信偈』には「成等覚証大涅槃」の一行で、この世は等覚に成り、死ねば大涅槃(仏のさとり)を証すると「現当二益」を明かされています。

蓮如上人も問答形式で、分かりやすく教えられています。

問うていわく、
「正定と滅度とは、一益と心得べきか、また二益と心得べきや」。
答えていわく、
「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり」 (『御文章』)

「弥陀の救いは一度でしょうか、二度でしょうか」

との問いに対して、

「弥陀の救いは平生の一念で、正定聚(等覚)になる。これは穢土(この世)の救いである。次に滅度(仏のさとり)は、死ぬと同時に浄土で得られる救いである。だから弥陀の救いは二度あるのだ」

と答えられています。

「現当二益」が親鸞聖人の教えだから、「二益」を説かなければ浄土真宗にはなりません。
ところが、どの『歎異抄』解説書を読んでも、二度の救いがハッキリしないのです。例えば先に引用した、

山崎龍明著『初めての歎異抄』は一章を要約して、

従来、浄土真宗の教えの三大特質は、次の三つにあると説かれています。
他力本願(本願他力)
悪人正機(悪人救済)
往生浄土(往生成仏)(中略)
第一条には、このような教えのすべてが凝縮されています。
と解説し、死後の往生浄土ばかりが強調されています。

それに対して
『歎異抄をひらく』では、平生の一念の救いが、次のように鮮明に教えられています。

まず、古今の人類が探求してやまぬ人生の目的を、「摂取不捨の利益にあずかる」弥陀の救いであると開示し、その達成は、「弥陀の誓願不思議に助けられ『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」であると説く。
しかも救いは万人平等で、一切の差別がないと道破する。
もっと詳細に弥陀の救いの、時と内容を、『歎異抄』一章に聞いてみよう。
まず弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。
ではその救いとは、いかなるものか。
「摂取不捨の利益を得る」
と言葉は簡明だが、その内容は極めて深くて重い。(中略)
「摂取不捨」とは文字通り、”摂め取って捨てぬ”ことであり、「利益」とは”幸福”のことである。
“ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福”を、「摂取不捨の利益」といわれる。「絶対の幸福」と言ってもよかろう。

「弥陀の誓願不思議に助けられ」た、「『念仏申さん』と思いたつ心のおこる」一念で、「摂取不捨の利益」に救われます。
これは現在の救い(現益)ですが、「往生をば遂ぐる」のは死んでから(当益)です。

誓願不思議に助けられた平生の一念に、死後の往生に疑い晴れたことを、「往生をば遂ぐるなりと信じて」と言われています。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、「念仏申さんと思いたつ心」「摂取不捨の利益」も、表現が異なるだけで、弥陀に救われた「一念」のことです。
同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。

ところが、

安良岡康作著『歎異抄 全講読』では、順序があるように解釈しています。

弥陀の誓願の絶対性のお助けをこうむることによって、「往生を遂げるのだ」と信ずるようになって(中略)浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この「念仏申さんと思ひ立つ心」が「起る」
他の解説書も、「絶対の幸福」に救い摂られる一念を明言しないので、「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは現在の救いか、死後の往生か、曖昧です。

例えば、

佐藤正英著『歎異抄論註』は、

不思議としての阿弥陀仏の誓願にたすけられて〈真にして実なる〉浄土に生れると信じ、進んで念仏を称えようとするとき、ただちに摂めとって捨てることのない阿弥陀仏の恵みにあずかる。
と意訳し、

梅原猛著『誤解された歎異抄』の意訳も、

阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。

となっています。
梅原氏の言うように、「阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて」いるだけなら、死んでみなければ、誓願に助けていただけるかどうか、ハッキリしないことになります。
きっと極楽往生できると信じて「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始める」とき、弥陀は「輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さない」と言うに至っては、「一念の救い」とかけ離れた、私釈と断ずるほかありません。

弥陀の本願を、釈迦が『大無量寿経』で解説された「願成就文」では「信心歓喜乃至一念」と、弥陀の救いは「一念」であると明言されています。
そのあとには「即得往生住不退転」と、平生の一念で正定聚不退転に救い摂られる「不体失往生」が教えられています。
現在ただ今、不体失往生できている人だけが、死んで浄土往生させていただけるのです。

このように弥陀の誓願には、現在救われる「不体失往生」と、死んで救われる、浄土に往生する「体失往生」の、二度の救いが誓われているのですが、「この世の往生」しか言わない『歎異抄』解説書もあります。

真宗大谷派(東本願寺)の教学研究所の所長・小川一乘氏が監修した、
延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、弥陀の救いは、この世だけのことだと主張しています。

第一章では、「弥陀の誓願不思議」の救いが、「往生をばとぐる」と言われ、「摂取不捨の利益」にあずかる、と説かれる。(中略)それらは二つのことが別々にあるのではなくて、本願成就の救いを別の角度から説いたものである。

東本願寺の立ち上げた「親鸞仏教センター」も、『現代語訳 歎異抄』で「弥陀の浄土へ生まれる」というのは「神話的な表現」だと冒涜し、一章の「往生をばとぐる」を、「新しい生活を獲得できる」と迷訳しています。

「現当二益」を説かねば、弥陀の救いにはならないし、聖人の教えにもなりません。
「二益」の教えで一貫し、一念の救いが詳説されている『歎異抄をひらく』が、いかに希有の書であるか、次回からも明らかにしたいと思います。

・・・・・・・・・・・

○龍華三会の暁─56億7000万年後に、弥勒が仏になって最初に説法する時
○横超の金剛心─阿弥陀仏より賜った金剛心
○本願成就文─阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を、釈尊が明らかになされたもの
○正定聚─正しく仏になることに定まった人たち。さとりの51段目をいう
○不退転─後戻りしない。崩れない絶対の幸福をいう

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*延塚知道……大谷大学教授

*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

・・・・・・・・・・・

東京学芸大学名誉教授

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★このような
悩み苦しみ オレはした
だから聞けたと
自慢体験

★依存症
体験談こそ いのち綱

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2010/08/13

『歎異抄』解説書の比較対照【13】 《弥陀の本願まことにおわしまさば》

前回(《『歎異抄』解説本を比較する意義》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意

原文

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。   (『歎異抄』二章)

梅原猛氏著『誤解された歎異抄』の意訳

もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことをあの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまの説法が間違っているはずはありません。もしもこのような『三部経』におけるお釈迦さまの説法が間違っていなかったならば、それを正しく解釈した善導大師の注釈書が間違っているはずがありません。


高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。

『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「もしも本願が、まことであるとするならば」と領解する人が多くあります。
ですが、この章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、決死の覚悟で訪ねた時に仰ったお言葉です。
弥陀の本願が「まことか、どうか」をお尋ねした同行に、聖人が「もし、まことであるならば」と仮定で語られたとすれば、何の解答にもなりません。なぜ、答えにならない答えをされたのか、解説者は説明に苦心してきました。
例えば

延塚知道氏著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、この一節は
『歎異抄』は、『観経』の伝統の中から生まれてきた書物であることを伝えようとしていると解説しています。

釈尊が『観無量寿経』で説かれた「弥陀の本願」を、善導大師が『観無量寿経疏』で注釈され、それをそのまま法然上人、親鸞聖人が伝えられているという「伝統」を示すものだと言うのです。「本願まことか、どうか」を命懸けで聞きに来た同行に、聖人がそんな「伝統」を語られるはずがないでしょう。

また、山崎龍明氏著『初めての歎異抄』は、
「親鸞聖人はやや遠慮がちにいっています」と解説していますが、聖人が「本願まこと」を「遠慮がち」に語られることなど、考えられません。

仮定で語られることすら「本来、親鸞にはありえない」のだと、
石田瑞麿氏著『歎異抄 その批判的考察』は、こう批判します。

「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視されたり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえないことがわかる。それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれなものだったことによる。

関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったから、『歎異抄』だけは、本来ありえない表現がなされたというのでは、取って付けたような説明です。

「仮定」で解釈する従来の説は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、
佐藤正英氏著『歎異抄論註』の解説は、

「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて解したのでは文意が死んでしまう。従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられているのだろう。親鸞は、阿弥陀仏の誓願が〈真にして実なる〉ものであることを己れの〈知〉において捉えているわけではない。〈信〉を抱いているにすぎない。いいかえれば己れの〈信〉においてのみ阿弥陀仏の誓願は〈真にして実なる〉ものとして現前している。その〈信〉の地平を明示せんがためであろう。

この説明は、「……であろう」という私見にすぎません。親鸞聖人は、「弥陀の本願まこと」を自分の知恵で“知っておられた”のではなく、「〈信〉を抱いているにすぎない」ことを明示されたのであろう、と推測するにとどまっています。肝心なのは、「弥陀の本願まこと」だと「〈信〉を抱いている」という、その「信」の意味です。これがご自分の心で信じ固めた「信念」にすぎないのか、阿弥陀仏から頂いた「他力の信心」なのか、最も大切なことが書かれていません。

安良岡康作氏著『歎異抄 全講読』も、この一節の「明言・確説は、話し手である親鸞の信念によって証得されたものである」と解説していますが、これでは聖人はご自分の心で信じ固めた「信念」を語られていることになります。

『歎異抄をひらく』では、「弥陀の本願まこと」と疑い晴れた心は、ひとえに弥陀から賜る「他力の信心」であると明言されています。

弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。
このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。

そして『ひらく』では、「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「まことならば」と「仮定」で語られたのではなく、「弥陀の本願まことだから」という「断定」であると、根拠を挙げて明快な解説がなされています。

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法  (教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします  (歎異抄)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。

「弥陀の本願まこと」と、いくら言っても言い足りないのが他力信心なのです。
各人各様の推測や私見をどれだけ読んでも、「弥陀の本願まことにおわしまさば」の理解はおぼつかない。

 
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*延塚知道……大谷大学教授

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

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2010/08/01

ロサンゼルスで続々と… 世界の親鸞会

親鸞会顕正新聞22年8月1日号より

ロサンゼルス 世界の親鸞会

親鸞会ロサンゼルス会館での6月の勉強会に7人のアメリカ人が参加しました。
 高校生のJは、祖母が浄土真宗で「親鸞聖人の教えを聞きなさい」と言われて育ったそうです。大富豪の家に育ち、東南アジアのある市の半分を祖父が所有していますが、お金や土地があっても苦は変わらないと痛感しています。
 アフリカ系のHは、人生の目的を知りたいと、親鸞会・テレビ座談会にも続けて参加。Eはこの世で救われるという教えに非常に感動し、親鸞会ロサンゼルス会館の掲示板を見て来たKは、両親が牧師ですが、自分の宗教を見つけたいと最近よく来るようになりました。
 次々と求める人が現れ、法雨を注ぐ秋は今と思わずにおれません。

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