2010/09/15

それが私の恩返し 親鸞会海外ニュース

それが私の恩返し

ロサンゼルス 親鸞会会員 Fさん

○親鸞会顕正新聞22年9月15日号より

親鸞会・追悼法要で、恩という字は原因を知る心と書く、と教えていただきました。
 なぜアメリカ人の私が、真実の法に巡り遇えたのか。仏法を正しく伝えてくださった親鸞聖人、高森顕徹先生に心からお礼申し上げなければなりません。
 親鸞会・テレビ座談会で、仏法とのご縁は確実に深まり、これ以上ない素晴らしい教えを、家族や友人、大学の若者にも伝えようと努めています。
 米国海軍の報道員として”文章”を学んでいた経験を生かし、より簡潔で読みやすく、若い人を引き付ける資料を作るお手伝いができないか、と考えています。
 また、日本語を学ぶため、来年、他校への進学を計画しています。日本語の正しい意味を知り、仏教をより深く学んだら、もっと分かりやすく英語でお伝えできると思うからです。
 この世のすべては仮の物です。すべての希望を失っていた時、仏法に出遇いました。ある意味で、阿弥陀仏にすでに助けていただいたとさえ思います。だからこそ、真実を伝えるために力を尽くしたいのです。

 

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2010/09/13

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【14】《親鸞聖人の教えは「二益法門」》

前回(《弥陀の本願まことにおわしまさば》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

原文

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり (『歎異抄』第一章)

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。
高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
『歎異抄』一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」には、弥陀の二度の救いが明示されています。

「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは、平生の一念に「摂取不捨の利益」に救われたことであり、「往生をば遂ぐる」とは、死んで弥陀の浄土へ往生することです。

現在の救いを「現益(げんやく)」(現世の利益)、死後の救いを「当益(とうやく)」(当来の利益)といいます。
弥陀の救いは、今生と死後と二度あるので、「現当二益(げんとうにやく)」といわれます。
その根拠は枚挙にいとまがありませんが、聖人は二度の救いに疑い晴れた大慶喜を『教行信証』に、こう記されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。 (『教行信証』)

「本当にそうだったなぁ!あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。
しかもだ。弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に
浄土へ往って、仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか」

弥勒大士とは、仏のさとりにもっとも近い、51段目の「等覚」のさとりを得ている菩薩のことです。
弥陀に救われると、この世は弥勒と同等になり、死ぬと同時に「大般涅槃」(仏のさとり)を得ることができます。
これを『正信偈』には「成等覚証大涅槃」の一行で、この世は等覚に成り、死ねば大涅槃(仏のさとり)を証すると「現当二益」を明かされています。

蓮如上人も問答形式で、分かりやすく教えられています。

問うていわく、
「正定と滅度とは、一益と心得べきか、また二益と心得べきや」。
答えていわく、
「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり」 (『御文章』)

「弥陀の救いは一度でしょうか、二度でしょうか」

との問いに対して、

「弥陀の救いは平生の一念で、正定聚(等覚)になる。これは穢土(この世)の救いである。次に滅度(仏のさとり)は、死ぬと同時に浄土で得られる救いである。だから弥陀の救いは二度あるのだ」

と答えられています。

「現当二益」が親鸞聖人の教えだから、「二益」を説かなければ浄土真宗にはなりません。
ところが、どの『歎異抄』解説書を読んでも、二度の救いがハッキリしないのです。例えば先に引用した、

山崎龍明著『初めての歎異抄』は一章を要約して、

従来、浄土真宗の教えの三大特質は、次の三つにあると説かれています。
他力本願(本願他力)
悪人正機(悪人救済)
往生浄土(往生成仏)(中略)
第一条には、このような教えのすべてが凝縮されています。
と解説し、死後の往生浄土ばかりが強調されています。

それに対して
『歎異抄をひらく』では、平生の一念の救いが、次のように鮮明に教えられています。

まず、古今の人類が探求してやまぬ人生の目的を、「摂取不捨の利益にあずかる」弥陀の救いであると開示し、その達成は、「弥陀の誓願不思議に助けられ『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」であると説く。
しかも救いは万人平等で、一切の差別がないと道破する。
もっと詳細に弥陀の救いの、時と内容を、『歎異抄』一章に聞いてみよう。
まず弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。
ではその救いとは、いかなるものか。
「摂取不捨の利益を得る」
と言葉は簡明だが、その内容は極めて深くて重い。(中略)
「摂取不捨」とは文字通り、”摂め取って捨てぬ”ことであり、「利益」とは”幸福”のことである。
“ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福”を、「摂取不捨の利益」といわれる。「絶対の幸福」と言ってもよかろう。

「弥陀の誓願不思議に助けられ」た、「『念仏申さん』と思いたつ心のおこる」一念で、「摂取不捨の利益」に救われます。
これは現在の救い(現益)ですが、「往生をば遂ぐる」のは死んでから(当益)です。

誓願不思議に助けられた平生の一念に、死後の往生に疑い晴れたことを、「往生をば遂ぐるなりと信じて」と言われています。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、「念仏申さんと思いたつ心」「摂取不捨の利益」も、表現が異なるだけで、弥陀に救われた「一念」のことです。
同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。

ところが、

安良岡康作著『歎異抄 全講読』では、順序があるように解釈しています。

弥陀の誓願の絶対性のお助けをこうむることによって、「往生を遂げるのだ」と信ずるようになって(中略)浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この「念仏申さんと思ひ立つ心」が「起る」
他の解説書も、「絶対の幸福」に救い摂られる一念を明言しないので、「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは現在の救いか、死後の往生か、曖昧です。

例えば、

佐藤正英著『歎異抄論註』は、

不思議としての阿弥陀仏の誓願にたすけられて〈真にして実なる〉浄土に生れると信じ、進んで念仏を称えようとするとき、ただちに摂めとって捨てることのない阿弥陀仏の恵みにあずかる。
と意訳し、

梅原猛著『誤解された歎異抄』の意訳も、

阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。

となっています。
梅原氏の言うように、「阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて」いるだけなら、死んでみなければ、誓願に助けていただけるかどうか、ハッキリしないことになります。
きっと極楽往生できると信じて「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始める」とき、弥陀は「輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さない」と言うに至っては、「一念の救い」とかけ離れた、私釈と断ずるほかありません。

弥陀の本願を、釈迦が『大無量寿経』で解説された「願成就文」では「信心歓喜乃至一念」と、弥陀の救いは「一念」であると明言されています。
そのあとには「即得往生住不退転」と、平生の一念で正定聚不退転に救い摂られる「不体失往生」が教えられています。
現在ただ今、不体失往生できている人だけが、死んで浄土往生させていただけるのです。

このように弥陀の誓願には、現在救われる「不体失往生」と、死んで救われる、浄土に往生する「体失往生」の、二度の救いが誓われているのですが、「この世の往生」しか言わない『歎異抄』解説書もあります。

真宗大谷派(東本願寺)の教学研究所の所長・小川一乘氏が監修した、
延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、弥陀の救いは、この世だけのことだと主張しています。

第一章では、「弥陀の誓願不思議」の救いが、「往生をばとぐる」と言われ、「摂取不捨の利益」にあずかる、と説かれる。(中略)それらは二つのことが別々にあるのではなくて、本願成就の救いを別の角度から説いたものである。

東本願寺の立ち上げた「親鸞仏教センター」も、『現代語訳 歎異抄』で「弥陀の浄土へ生まれる」というのは「神話的な表現」だと冒涜し、一章の「往生をばとぐる」を、「新しい生活を獲得できる」と迷訳しています。

「現当二益」を説かねば、弥陀の救いにはならないし、聖人の教えにもなりません。
「二益」の教えで一貫し、一念の救いが詳説されている『歎異抄をひらく』が、いかに希有の書であるか、次回からも明らかにしたいと思います。

・・・・・・・・・・・

○龍華三会の暁─56億7000万年後に、弥勒が仏になって最初に説法する時
○横超の金剛心─阿弥陀仏より賜った金剛心
○本願成就文─阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を、釈尊が明らかになされたもの
○正定聚─正しく仏になることに定まった人たち。さとりの51段目をいう
○不退転─後戻りしない。崩れない絶対の幸福をいう

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*延塚知道……大谷大学教授

*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

・・・・・・・・・・・

東京学芸大学名誉教授

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★このような
悩み苦しみ オレはした
だから聞けたと
自慢体験

★依存症
体験談こそ いのち綱

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2010/08/13

『歎異抄』解説書の比較対照【13】 《弥陀の本願まことにおわしまさば》

前回(《『歎異抄』解説本を比較する意義》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意

原文

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。   (『歎異抄』二章)

梅原猛氏著『誤解された歎異抄』の意訳

もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことをあの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまの説法が間違っているはずはありません。もしもこのような『三部経』におけるお釈迦さまの説法が間違っていなかったならば、それを正しく解釈した善導大師の注釈書が間違っているはずがありません。


高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。

『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「もしも本願が、まことであるとするならば」と領解する人が多くあります。
ですが、この章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、決死の覚悟で訪ねた時に仰ったお言葉です。
弥陀の本願が「まことか、どうか」をお尋ねした同行に、聖人が「もし、まことであるならば」と仮定で語られたとすれば、何の解答にもなりません。なぜ、答えにならない答えをされたのか、解説者は説明に苦心してきました。
例えば

延塚知道氏著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、この一節は
『歎異抄』は、『観経』の伝統の中から生まれてきた書物であることを伝えようとしていると解説しています。

釈尊が『観無量寿経』で説かれた「弥陀の本願」を、善導大師が『観無量寿経疏』で注釈され、それをそのまま法然上人、親鸞聖人が伝えられているという「伝統」を示すものだと言うのです。「本願まことか、どうか」を命懸けで聞きに来た同行に、聖人がそんな「伝統」を語られるはずがないでしょう。

また、山崎龍明氏著『初めての歎異抄』は、
「親鸞聖人はやや遠慮がちにいっています」と解説していますが、聖人が「本願まこと」を「遠慮がち」に語られることなど、考えられません。

仮定で語られることすら「本来、親鸞にはありえない」のだと、
石田瑞麿氏著『歎異抄 その批判的考察』は、こう批判します。

「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視されたり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえないことがわかる。それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれなものだったことによる。

関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったから、『歎異抄』だけは、本来ありえない表現がなされたというのでは、取って付けたような説明です。

「仮定」で解釈する従来の説は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、
佐藤正英氏著『歎異抄論註』の解説は、

「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて解したのでは文意が死んでしまう。従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられているのだろう。親鸞は、阿弥陀仏の誓願が〈真にして実なる〉ものであることを己れの〈知〉において捉えているわけではない。〈信〉を抱いているにすぎない。いいかえれば己れの〈信〉においてのみ阿弥陀仏の誓願は〈真にして実なる〉ものとして現前している。その〈信〉の地平を明示せんがためであろう。

この説明は、「……であろう」という私見にすぎません。親鸞聖人は、「弥陀の本願まこと」を自分の知恵で“知っておられた”のではなく、「〈信〉を抱いているにすぎない」ことを明示されたのであろう、と推測するにとどまっています。肝心なのは、「弥陀の本願まこと」だと「〈信〉を抱いている」という、その「信」の意味です。これがご自分の心で信じ固めた「信念」にすぎないのか、阿弥陀仏から頂いた「他力の信心」なのか、最も大切なことが書かれていません。

安良岡康作氏著『歎異抄 全講読』も、この一節の「明言・確説は、話し手である親鸞の信念によって証得されたものである」と解説していますが、これでは聖人はご自分の心で信じ固めた「信念」を語られていることになります。

『歎異抄をひらく』では、「弥陀の本願まこと」と疑い晴れた心は、ひとえに弥陀から賜る「他力の信心」であると明言されています。

弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。
このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。

そして『ひらく』では、「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「まことならば」と「仮定」で語られたのではなく、「弥陀の本願まことだから」という「断定」であると、根拠を挙げて明快な解説がなされています。

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法  (教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします  (歎異抄)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。

「弥陀の本願まこと」と、いくら言っても言い足りないのが他力信心なのです。
各人各様の推測や私見をどれだけ読んでも、「弥陀の本願まことにおわしまさば」の理解はおぼつかない。

 
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*延塚知道……大谷大学教授

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

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2010/08/01

ロサンゼルスで続々と… 世界の親鸞会

○親鸞会顕正新聞22年8月1日号より

ロサンゼルス 世界の親鸞会

親鸞会ロサンゼルス会館での6月の勉強会に7人のアメリカ人が参加しました。
 高校生のJは、祖母が浄土真宗で「親鸞聖人の教えを聞きなさい」と言われて育ったそうです。大富豪の家に育ち、東南アジアのある市の半分を祖父が所有していますが、お金や土地があっても苦は変わらないと痛感しています。
 アフリカ系のHは、人生の目的を知りたいと、親鸞会・テレビ座談会にも続けて参加。Eはこの世で救われるという教えに非常に感動し、親鸞会ロサンゼルス会館の掲示板を見て来たKは、両親が牧師ですが、自分の宗教を見つけたいと最近よく来るようになりました。
 次々と求める人が現れ、法雨を注ぐ秋は今と思わずにおれません。

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2010/07/17

『歎異抄』解説書の比較対照【12】《『歎異抄』解説本を比較する意義》

前回(《弥陀の救いは平生の一念 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●『歎異抄』解説本を比較する意義

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す」
(『歎異抄』序)

〔意訳〕
決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない。このような願いから、かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記しておきたい。

『歎異抄』の著者は、後の人が断じて「自見」(自分の勝手な判断)によって教えを曲げることのないようにと、耳の底に残る親鸞聖人のお言葉を、泣く泣く書き記しました。
それから七百年たった今、聖人の願いもむなしく、『歎異抄』は「自見」や「私見」「主観」で奔放に解釈され、根拠のない無責任な解説がまかり通り、親鸞聖人の教えが大きく誤解されています。
異説を正すために書かれた『歎異抄』が、新たな異説・誤解を生んでいるのです。

親鸞聖人が直接、書かれたお言葉を示して、世間に流布した誤謬(あやまり)を正さねばなりません。

高森先生のご著書『歎異抄をひらく』が、聖人自作の『教行信証』や、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、古今の間違いや曖昧さをどのように正し、『歎異抄』の真意をひらいているか、比較してみたいと思います。

●弥陀の救いは信心一つか、念仏か

『歎異抄をひらく』が世に出てから三カ月後、山崎龍明著『初めての歎異抄』という書が出ました。
これは平成18年のNHK番組「こころの時代 歎異抄を語る」のテキストをもとに出版した本です。
新たに書かれたものではありませんが、著者は武蔵野大学の教授で、現役の『歎異抄』研究者の中ではトップレベルと評されています。
その最新刊となれば、今の真宗界を代表する解説書といえるでしょう。

今日は、この本と『歎異抄をひらく』を比較しながら、『歎異抄』の特に誤解されやすい点を検討していきます。

●「ただ念仏して」の誤解

〔原文〕

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 (『歎異抄』二章)

〔意訳・山崎龍明『初めての歎異抄』〕
この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われて、広大な世界に生まれていくだけです」という法然聖人のお言葉を信じているだけで、ほかになにかの理由があるわけではありません。

〔意訳・高森先生『歎異抄をひらく』〕
親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。

『歎異抄』二章の「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の「ただ」の誤解が甚だしい。
「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と思っている人が非常に多くあります。

山崎氏もそう解説していますが、”ただ念仏を称えて救われる”という一般的な解釈だけでは心配なのか、念仏より信心を重んずる別の解釈もあると、次のように言葉を濁しています。

(『初めての歎異抄』)
この「ただ念仏」という語は、一般的には文字どおり「ただ念仏」するということで、ここの「ただ」とは「念仏し」にかかる副詞です。

しかし、この「ただ」はあとの「信ずるほかに別の子細なきなり」の「信ずる」にかかると指摘する人もいます(前掲、佐藤正英『歎異抄論註』)。
親鸞聖人は念仏を称えることよりも、「信」ずることを中心にしたという立場からの指摘のようです。

他人事のような書き方ですが、山崎氏本人は「親鸞聖人は念仏を称えることよりも、『信』ずることを中心にしたという立場」ではないようです。
ですが聖人の教えは、「『信』ずることを中心にした」どころではありません。
“信心一つで救われる”というのが、一貫した聖人の教えであり、これ以外に九十年の生涯、教えられたことはなかったのです。
これを間違えたら、「ただ念仏して」はおろか親鸞聖人の教えすべてを誤解することになってしまいます。
その最も大事な教説の根拠を、『歎異抄をひらく』では繰り返し提示されているのです。

以下はその一部です。

(『歎異抄をひらく』150ページ)

「涅槃の真因は唯信心を以てす」(教行信証)

浄土往生の真の因は、ただ信心一つである。

「正定の因は唯信心なり」(正信偈)

仏になれる身になる因は、信心一つだ。

(『歎異抄をひらく』173ページ)

聖人の教えは一貫して、信心一つの救いだから、「唯信独達の法門」といわれることは、既に詳述した(150ページ)。
『歎異抄』では「ただ信心を要とす」(第一章)と明示し、蓮如上人の証文も多数にのぼる。
ほんの数例、『御文章』から挙げてみよう。

「往生浄土の為にはただ他力の信心一つばかりなり」
(二帖目五通)

浄土へ往くには、他力の信心一つで、ほかは無用である。

「信心一つにて、極楽に往生すべし」(二帖目七通)

信心一つで、極楽に往生するのだ。

「他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく
往生すべきことの、更に何の疑いもなし」
(二帖目十四通)

他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。

最も人口に膾炙されるのは、次の『御文章』だろう。

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」(五帖目十通)

親鸞聖人の教えは”信心一つで助かる”という教示である。

蓮如上人は断言されている。

『歎異抄をひらく』では、”信心一つで助かる”という聖人のお言葉を根拠
に、「ただ念仏して」の「ただ」は、他力信心を表す「ただ」であると詳説
され、「ただ念仏さえ称えたら救われる」という世の迷妄を正されています。

そして次の「念仏して」は、救われた喜びから噴き上がる「報謝の念仏」になることも、根拠を挙げて説示されています。

「ただ」は一般的にはこういう意味、また別の指摘もあるという「私見」の羅列を、親鸞学徒は容認してはなりません。

モノサシとすべきは、親鸞聖人のお言葉なのです。

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(1) 親鸞会.NET

当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載したいと思います。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───

ネット上で、浄土真宗の重要な教えについての、論争がなされていました。

○論争の発端は、浄土真宗親鸞会で仏教を聞き始めたという「新人太郎」さんに対して、「459」と名乗る人物が、

「浄土真宗では善を勧めないのに、親鸞会は善を勧めているから間違いだ」

と発言したことです。

そして、

〝浄土真宗では善を勧めない〟根拠として、

「親鸞聖人は『雑行(ぞうぎょう)を捨てよ』と仰っている」

と主張しました。

「雑行を捨てよ」

とは、

「諸善をやめよ。善をするな」

ということだ、というのです。

(※雑行について、漫画で分かりやすくコチラで解説されています)
↓  ↓  ↓

【マンガ解説】『雑行・雑修・自力の心』浄土真宗親鸞会 公式サイト
http://www.shinrankai.or.jp/b/zougyou-zasshu-jiriki/index.htm

○争点は、
「雑行を捨てよ」とは、「諸善を捨てよ」ということなのか。
「雑行を捨てよ」と教えられた真意は何か、に絞られてきました。
親鸞聖人の教えを少しでも知る者にとって、「雑行」とは何か。
最重要の問題であり、誤解を放置しておれるものではありません。

果たして、親鸞聖人の教えに善の勧めはあるのか、ないのか。
正しい浄土真宗の教えを知って頂くご縁になればと、この「新人太郎氏」と「459氏」との論争をまとめてみました。

(全記録はこちらのサイトhttp://www.geocities.jp/shinran0826/index.htmにありますので、詳しく知りたい方はどうぞお読み下さい)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

●先に述べましたように、事の始まりは、459氏が、

「真宗では『諸善』を勧めていません。『極善』を勧めているんです」
と発言されたことです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

これに対して、新人太郎氏は、

折角のご返事でしたが、
「真宗では『諸善』を勧めていません。『極善』を勧めているんです」
とあるのには、少々とまどいました。
「諸善」と「極善」の違いを、仏教の素人にもわかるように教えてください。
お願いします。

と問われました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

459氏は、こう答えています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

では仏教の素人(?)にもわかってもらえるようにカキコするつもりでいきます。

『諸善』とは六度万行といえばわかりますか?

布施(お金を寄付する、仏法の話をする)、持戒(戒律を守る)などですね。他にもあります。

『極善』とは念仏です。南無阿弥陀仏です。

違いはわかりましたか?

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ここから、新人太郎氏は、

「『極善』「念仏」「南無阿弥陀仏」とはどんなことなのか」、
これが分からなければ、
「浄土真宗は諸善を勧めない、とはどういうことか。浄土真宗は何をどう勧められているのか」
が分かりませんから、重ねて『極善』の意味を尋ねます。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

早速の返信、ありがとうございました。
「これで諸善と極善の違いがわかりましたか」
とありましたが、失礼ですが、さっぱり分かりません。
仏教に素人の私には、諸善の説明はわかりましたが、
「極善とは念仏です。南無阿弥陀仏です」
の念仏とはなんですか。南無阿弥陀仏とはなんのことでしょうか。

逃げも見放したりもせず、仏教の素人にも分かるように説明すると言われている力強い言葉がうれしいです。
よろしくお願いします。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

ところがこの素朴な新人太郎氏の質問に、459氏はいっこうに答えません。

先に、大上段に構え、

「浄土真宗は極善を勧めているんです」

と主張していたのに、その意味を尋ねられると答えない。

何と無責任かと驚いたものでした。

同時に、言葉の意味を知らずに使うと悲惨な結果をまねく、典型例を見る思いがいたします。

さてこの後、459氏は、

「とにかく親鸞聖人は、『諸善』を勧められていないんだ」

という論調で、話を切り上げよう(逃げよう)としたのですが、

新人太郎氏から「待った」がかかりました。

続きは、次回に。

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(2) 親鸞会.NET

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
前回の続きです。

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459氏は、新人太郎氏に

「とにかく親鸞聖人は、『諸善』を勧められていないんだ」

という論調で、話を切り上げよう(逃げよう)としたのですが、

新人太郎氏から「待った」がかかりました。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「親鸞聖人が『諸善』を勧められなかったことは、これまでの説明で
分かったろう」

と言われていますが、失礼ながら全然分かりません。
一体、どんな根拠で、どんな説明をなされて、こんなことを高言されるのでしょうか。
理解に苦しみます。

(中略)

459さんは、

「親鸞会は諸善を勧める。真宗は諸善を勧めない。
違うじゃありませんか、全く」

と言われていますが、「真宗は諸善を勧めない」とは本気の話ですか、
驚きました。

道理で寺へ行っても人はまばらでお年寄りばかり。
悪を容認し善を排斥して、「念仏のみで助かる」「南無阿弥陀仏を心得る」
と、その意味も知らずに、なにやらの一つ覚えのように、言っているのが
真宗なら、現今の衰退のワケも頷けるような気がします。
それが真宗なら滅亡して当然でしょう。

悪を認め善を勧めないのが親鸞聖人の教えでしょうか。
なにかの誤解ではありませんか。

459さんも誤解されているのではと思われてなりませんが、
いかがでしょう。

それとも親鸞聖人の教えに、そのような根拠があるのなら一つでも教えてください。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この質問に、459氏が挙げてきた根拠が、

★「雑行を捨てよ」

だったのです。

ではここからは、やりとりをしばらく見てみましょう。
少々煩瑣に思われる人もあるかも知れませんが、ここが、

「親鸞聖人の教えに、善の勧めはない」

という、浄土真宗を衰滅させてきた恐ろしい聞き誤りですから
議論の流れを熟読理解し、正しい親鸞聖人の教えを学ばせて頂きましょう。
(途中でコメントをはさみます)
次回に続きます。

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(3) 親鸞会.NET

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
今日が第3回目です。
「親鸞聖人の教えに、善の勧めはない」
は、浄土真宗を衰滅させてきた恐ろしい聞き誤りですから、議論の流れを熟読理解し、正しい親鸞聖人の教えを学ばせて頂きましょう。(途中でコメントをはさみます)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新人太郎氏から459氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「雑行とは、諸善万行だ。その雑行を捨てよという根拠を、こんなに挙げているのに、お前はまだ分からんのか」
と、叱られそうですが、それくらいは、新人でも聞かされています。

お尋ねしているのは、そんなことではないのです。だから、そんな言葉は何千何万挙げられても、私の質問には無駄なのです。

459さんは、それにまだお気づきではないようですから、もう一度、お聞きします。
「真宗は、諸善を勧めない」とあなたが言われるから、
「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われている親鸞聖人の言葉を示して下さいと、お願いしているのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

親鸞聖人が『この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく』と教行信証にて書いているのです。

「諸善を捨てよ、止めよ」と「雑行を捨てよ、止めよ」は別の意味ですか?
同じ意味のことが書いてあるということがわかりませんか?

あなたはそんなに往生のために諸善がしたいのですか?
何か根拠があるのですか?
根拠があるならば「往生のために諸善をせよ」と言われた親鸞聖人の言葉を示してください。
蓮如上人の言葉でも結構です。
根拠がないなら「ない」とお答えください。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新人太郎氏から459氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「諸善を捨てよ、止めよ」と
「雑行を捨てよ、止めよ」は、
同じではないのですか、とのお尋ね、驚きました。
そんな違いさえ、分かられないのですか。
それぐらいは心得ての、今日までの発言だと思っていた私がバカだったのかも知れません。
机上の勉強だけでは、分からないことかも知れませんが、努力して明らかにして下さい。

それに、何も言っていないことを、あれこれ言われても困ります。
「諸善は往生の助けにならない」ことは、親鸞会発行の『なぜ答えぬ』にも強調されていますので、私も「諸善が往生のためになる」と言ったことはないはずです。証拠があれば教えてください。
私の言っていないことを責められても無茶です。
まして親鸞聖人の言葉などとは、とんでもないこと。
くどいようですが、私の尋ねていることをもう一度確認させていただきます。
「真宗は、諸善を勧めない」とあなたが言われるから、
「諸善を捨てよ、止めよ」と言われている親鸞聖人の言葉をお尋ねしているのです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「諸善を捨てよ、止めよ」と
「雑行を捨てよ、止めよ」は、
ここでは同じ意味です。
少なくとも私はそう思います。

思うにあなたは諸善を考え違いしています。
それはSAさん[両氏の議論に、割り込もうとしている第三者]も説明していることです。
世間道徳倫理上の善と、仏法の往生のための善のふたつです。それをごちゃまぜにしているのではないですか?

私が今まで説明していた『諸善』とは仏法上の諸善のことです。
諸善を勧めないから、世間でいう善をしないという理由にはなりません。

『「諸善は往生の助けにならない」ことは、親鸞会発行の
『なぜ答えぬ』にも強調されていますので、私も「諸善
が往生のためになる」と言ったことはないはずです。証
拠があれば教えてください』

とありますが、では往生の何の役にも立たない諸善をなぜ親鸞会はするのですか?
根拠を示してください。

「真宗は、諸善を勧めない」
「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われている親鸞聖人の言葉は、私が今まであげてきた根拠がそれです。
それがご不満ならばなぜ不満なのか、親鸞聖人の根拠を示してください。

私はあなたから親鸞聖人のお言葉をお聞きしたことがありません。
それからSA氏があなたの質問に答えてくれるそうです。そちらにもどうぞ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(コメント)

ここで459氏は、

「『諸善を捨てよ、止めよ』と
『雑行を捨てよ、止めよ』は、
ここでは同じ意味です。」

と、重大なことを断定されています。
ところがなにかを察知したのか、直後に、

「少なくとも私はそう思います」

とも述べています。

しかし、今問題になっているのは、両氏の「思い」や「考え」ではありません。「親鸞聖人の教え」です。

「親鸞聖人の教えに、善の勧めは、あるのか、ないのか」

を論じているのに、
「私はそう思います」
などと発言すること自体、459氏の立ち位置が、「常に断言で説かれている」親鸞聖人の教えからは逸脱していることが分かります。

続く

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「雑行を捨てよ」の真意(4) 親鸞会.NET

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
今日が第4回目です。

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新人太郎氏から459氏へ
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「諸善にふたつある。
倫理道徳でいう善と、仏法の往生のための善である。
私の今まで言っている『諸善』とは、仏法上の善である。世間でいう善ではない。
それをごちゃまぜにしている」

と、今度は叱られました。
だいぶ混乱しておられるようですが、ふたつの諸善の違いをお聞かせ下さい。

そして前にあなたが、

「『諸善』といえば、六度万行のこと。
布施(お金を寄付する、仏法の話をする)、持戒(戒律を守る)などですね。他にもあります」
と言われている『諸善』は、どちらの善でしょうか。お尋ねします。

また、

「往生の何の役にも立たない諸善を、なぜ親鸞会は勧めるのか」
と信じられないようなことを仰っている。
たとえばの話ですが、難民のような、肉体的にも精神的にも苦しんでいる人々を見ても、
「諸善は往生のためにならぬのだから、捨てよ、止めよ」
と、支援を勧めないのが、親鸞聖人の教えですか。
どこかおかしいところがあるのではありませんか。

ますます、はっきりお聞きしなければなりません。
「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われている親鸞聖人の言葉をお尋ねします。

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459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
混乱しているのはあなたです。
仏法上の諸善とは、往生のための諸善、出世間の諸善のことです。
世間でいう諸善は、倫理、道徳上の諸善のことです。
私はあなたとずっと仏法の話をしていました。
ですから当然私のいう諸善は仏法・出世間の諸善のことです。

『「往生の何の役にも立たない諸善を、なぜ親鸞会は勧め
るのか」と信じられないようなことを仰っている。
たとえばの話ですが、難民のような、肉体的にも精神
的にも苦しんでいる人々を見ても、
「諸善は往生のためにならぬのだから、捨てよ、止めよ」
と、支援を勧めないのが、親鸞聖人の教えなのですか。
どこかおかしいところがあるのではありませんか』

といわれていますが、その考えが世間善と出世間善とをごちゃまぜにしている証拠です。
往生のための諸善は、往生には何の役にも立たないから捨てよと聖人は言ってるのです。
ボランティアや募金、献血などは往生のための諸善とは違います。それは世間・道徳・倫理の善です。
親鸞聖人は、『世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ』と仰せです。
決して世間善を否定された方ではありません。
以上のことを踏まえた上で以前の私が挙げた根拠をお読みください。

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新人太郎氏から459氏へ
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「私がずっと話ししてきたのは、ボランティアや募金、献血などの、世間でいう善ではありません。当然、仏法上の諸善です。
仏法上の『諸善』といえば、六度万行のこと。布施(お金を寄付する、仏法の話をする)持戒(戒律を守る)などですね。他にもあります」
と、明快に答えて頂きました。
その仏法上の『諸善』を、すべて『雑行』と言われるのならば、弥陀に救われた親鸞聖人が、日野左衛門や弁円などに、懸命に仏法を話し、伝えようとされたことも、『雑行』と言われるのでしょうか。
あのように仏法を伝えることは、仏法上の諸善に入らないのですか。

いよいよ、「諸善を捨てよ、止めよ」と言われている親鸞聖人の言葉が聞きたくなりました。
よろしくお願いします。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

(コメント)

親鸞聖人は、『教行信証』に、
「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す」
(親鸞は、二十九歳の時、雑行を棄てて、阿弥陀仏に救い摂られたのだ)
と告白されています。

もし、459氏の言うように、「仏法の話をする」などの仏法上の諸善が、すべて「雑行」ならば、
「雑行を棄てて、弥陀に救い摂られた」後の、親鸞聖人の「仏法を伝えられた」行為は、どうなるのか。「雑行」と言われるのか。

それが「雑行」ならば、
「雑行を棄てて」
の聖人のお言葉はどうなるのか、と追及されています。
続く

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「雑行を捨てよ」の真意(5) 親鸞会.NET

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「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
今日が第5回目です。

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459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

『その仏法上の〝諸善〟を、すべて〝雑行〟と言われる
のならば、弥陀に救われた親鸞聖人が、日野左衛門や弁
円などに、懸命に仏法を話し、伝えようとされたことも、
〝雑行〟と言われるのでしょうか』

といわれてますが、『弥陀に救われた後』ということはご存知のようですね。
それらは仏恩報謝の行です。
往生のための行ではありません。

『ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す』(教行信証)

『この一念を他力より発得しぬるのちは、生死の苦海をうしろになして涅槃の彼岸に到りぬる条、勿論なり。この機のうへは、他力の安心よりもよほされて仏恩報謝の起行・作業はせらるべきによりて行住坐臥を論ぜず、長時不退に到彼岸の謂あり』
(改邪鈔)

以上を踏まえた上で今までに挙げた根拠を読み返してみてください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新人太郎氏から459氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「親鸞聖人の仏法を伝えようとなされた行為は、仏法上の善に入らないのですか」
とお聞きした答えが、
「あれは、仏恩報謝の行です」
でした。

仏法伝えようとするのは、諸善の一つだと言われたのはあなたでした。
「諸善が往生の助けになる」とは、誰も一度も言ってはいません。もう忘れてもらっては困ります。

お聞きしているのは、この場合の仏恩報謝の行体は何ですか。仏法上の諸善ではないのですか。それとも諸悪ですか。また、そのいずれにも入らないことですか、ということです。

「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われた親鸞聖人の言葉を聞かせて下さい。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

あなたとの議論のなかで扱ってきた「諸善」は往生行です。
報恩行ではありません。
報恩行とは救われた後の感謝報謝の行です。
「助かりたい」等の参らせごころのある往生行とは別物です。ですからここでは「そのいずれにも入らない」ということになります。

『しかれば最勝の弘誓を受行して、穢を捨て浄を欣へ。如来の教勅を奉持して、恩を報じ徳を謝せよ。ここに片州の愚禿(親鸞)、印度・西蕃の論説に帰し、華漢(中国)・日域(日本)の師釈を仰いで、真宗の教行証を敬信す。ことに知んぬ、仏恩窮尽しがたければ、あきらかに浄土文類聚を用ゐるなり』(浄土文類聚鈔)

『平生に善知識のをしへをうけて信心開発するきざみ、正定聚の位に住すとたのみなん機は、ふたたび臨終の時分に往益をまつべきにあらず。そののちの称名は、仏恩報謝の他力催促の大行たるべき条、文にありて顕然なり』(口伝鈔)

『されば弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ』(御文章)

いずれにしても、『弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ』ですからあなたにはまだ時期尚早のことですね。

以上を踏まえた上で以前挙げた根拠を読んでください。
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新人太郎氏から459氏へ
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「仏法を伝えようとするなどの報恩の行体は、善でも悪でも、そのいずれにも入らないことになります」

との返信、目パチクリです。

「行体」という言葉の意味を理解されてのことですか。
苦渋の選択だったのでしょうが、そんなことを言われてもよいのでしょうか。

くどいようですが、あなたの発言を確認しておきたいと思います。

「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らぬ」
これでよろしゅうございますか。
お尋ねします。

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(コメント)

「行体」とは、あとで「行為自体」と言い換えられているように、「行いそのもの」と理解すればよいでしょう。
その、「報恩行」という「行いそのもの」の、仏法上の善悪を尋ねられているのに、459氏の意外な答えが……。

続く

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