2010/10/18
『歎異抄』の誤解が真宗を崩壊させている|親鸞会 顕正新聞
「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(歎異抄)
これを、みな「本願を信ずるには」と誤読し、”弥陀に救われるには、善は不要、悪も恐れる必要はないのだ”と得手に理解する。
その結果は明らかだ。
放逸無慚(ほういつむざん)になり果てた浄土真宗は、外道からは悪人製造の教えと揶揄され、崩壊の一途を辿っている。
その原因が、『歎異抄』のこの誤解にあるといっても過言ではない。
もちろん、「弥陀に救われたならば」のことである。「弥陀の救い」は、百年や千年の問題ではない、幾億兆年の迷いの魂を解決し、浄土往生させることである。
平生に往生一定の大満足を獲たならば、当然ながら「往生のために善をしよう」など微塵もないから「他の善も要にあらず」と言われているのである。
往生の一段のことであって、それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解するから、
仏法を破壊し世の中に猛毒をまき散らして平気でいるのだ。
因果の道理は宇宙の真理、ゴロゴロ怠け放題では人生の落伍者となるだけ。
世界の光と仰がれる聖人のご活躍は、真実信心はもちろんのこと、ずば抜けた勉学努力なくしてはあり得ないのだ。
善知識から「弥陀の救い」を正しく聞かせて頂かねば、お聖教の一言半句もまともに読めぬと知らされるばかりである。
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