2011/01/01

3カ月聞法はご褒美 親鸞会海外ニュース

親鸞会顕正新聞23年1月1日号より

3カ月聞法はご褒美
アメリカ 親鸞会会員Oさん

 昨年8月から親鸞会・報恩講まで親鸞会高岡会館に滞在し、聞法を重ねた。毎年夏に、夜勤の老人介護をひと月休んで来日してきたが、退職した昨年は、「頑張った自分へのご褒美よ」と3カ月。
 夜中に20回トイレに行ったり、徘回する老人の世話は、体力勝負である。
「25年勤めました。施設には認知症の日系人が多く、『若き時たしなめ』というお言葉が身にしみました」
 17年続けた訪日は、もうやめるつもりだ。今年には、実家のある日本に住む予定だからである。

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2011/01/01

「今年も〝故郷〟に帰ってきました」親鸞会海外ニュース

親鸞会顕正新聞23年1月1日号より
「今年も〝故郷〟に帰ってきました」アメリカ 親鸞会会員Oさん

 右目の視野が狭くなる異状に襲われたのは、親鸞会・報恩講参詣を控えた昨年10月だった。弥陀のお手回しか、富山県での手術がとんとん拍子に決まる。親鸞会・報恩講には術後の眼帯も取れ、療養を兼ねて1週間、親鸞会・同朋の里の滞在を満喫した。
 富山の家庭法話に参詣するかたわら、親鸞会F館で施設課の人たちを手伝い、たくさんの布団カバーの取り替えに奮闘する。新聞紙一枚も丁寧に扱い、無駄な照明を小まめに消す職員たちの徹底ぶりに仏法の香りを感じ、感激した。
 結婚と同時に渡米したのが40年前。アメリカ社会は居心地がよかったが、「肩肘張って生きていたんです。親鸞聖人の教えに出遇って初めて心に温かいものが流れました」。
 以来17年、親鸞会の会館参詣を欠かさない。今では生家のある浜松より富山が懐かしい。
「たぶん、私の故郷は、もうここなんですね」

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2010/12/15

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【17】《「追善供養」の迷信を破られた聖人のお言葉》親鸞会.NET

前回の、 
親鸞会.NET» » 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【16】《 「全く知らぬ」聖人の真意》親鸞会.NETに引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
 
   「追善供養」の迷信を破られた聖人のお言葉

(原文)
親鸞は父母の孝養のためとて念仏、一返にても申したることいまだ候わず。
そのゆえは、一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり。いずれもいずれも、この順次生に仏に成りて助け候べきなり。   (『歎異抄』第五章)


親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の意訳
 
 

私〈親鸞〉は、亡くなった父母への供養のために念仏したことは、いまだかつて一度もない。その理由は、いま現に生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在だからである。
どのような存在であろうとも、やがて仏の位に到ったときには、だれをも救済することができるのである。
   ↑
   ↓

高森顕徹先生著
『歎異抄をひらく』の意訳

親鸞は、亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことはない。
なぜならば、忘れ得ぬ父母を憶うとき、すべての生きとし生けるもの、無限に繰りかえす生死のなかで、いつの世か、父母兄弟であったであろうと、懐かしく偲ばれてくる。されば誰彼を問わず、次の生に、仏になって助けあわねばならないからである。


●「孝養」とは「追善供養」
 
 ここで聖人が「父母の孝養」と言われたのは追善供養であり、「念仏」には一切の仏事が含まれると、『歎異抄をひらく』には次のように解説されています。
「孝養」とは「追善供養」であり、死んだ人を幸福にすると信じられている行為のことである。
四歳で父を失い、八歳にして母を亡くされた聖人の、両親を憶う切なさは、いかばかりであったろうか。亡き父母は、最も忘れえぬ聖人の幻影だったであろう。
そんな聖人が、
「父母の追善供養のために念仏を称えたことなど、一度もない」
と言われる。無論これは、念仏だけのことではない。亡き人を幸せにしようとする読経や儀式、すべての仏事を「念仏」で総称されてのことである。
言い換えれば、
「親鸞は亡き父母を喜ばせるために、念仏を称えたり読経や法要、その他一切の仏事をしたことは、一度とてない」
の断言だから驚く。
「死者の一番のご馳走は読経だ」などと、平然と先祖供養を勧めている僧侶や、当然のようにそれを容認している世人には、いかにも不可解な聖人の発言であり、”なんと非情な”と冷たく感ずる人もあるだろう。
だが、誰よりも父母を慕われた聖人が、衝撃的な告白で根深い大衆の迷妄を打破し、真の追善供養のあり方を開示されているのが、この章なのである。

孝行を否定する反道徳的発言という批判も浴びせられてきたこの章で、何を聖人は否定され、どんな誤解を正されたのでしょうか。解説は、まちまちです。冒頭に引用した、

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』では、

「一切衆生が世々生々の父母兄弟だ」という見方は、人間の見方じゃない。如来の眼が見た世界ですね。(中略)そういう広大な視座が開かれた世界から見れば、自分の父母の供養のためだけに念仏することが、どれほど狭い世界なのかを教えられるのです。

と、「自分の父母」だけを供養するのは「狭い世界」であることを教えられたものと主張しています。
ですが聖人は、「父母」だけ供養すべきでないとか、「一切の有情」(すべての生きもの)のために念仏を称えるべきとか、そんなことを論じられているのではありません。ここで破られているのは、追善供養そのものなのです。


●「追善供養」を否定された釈迦

「追善供養」を否定する仏教を、『歎異抄をひらく』では、こう詳説されています。
葬式や年忌法要などの儀式が、死人を幸せにするという考えは、世の常識になっているようだ。
印度でも、釈迦の弟子が、「死人のまわりで有り難い経文を唱えると、善い所へ生まれ変わるというのは本当でしょうか」と尋ねている。
黙って小石を拾い近くの池に投げられた釈迦は、沈んでいった石を指さし、「あの池のまわりを、石よ浮かびあがれ、浮かびあがれ、と唱えながら回れば、石が浮いてくると思うか」と反問されている。
石は自身の重さで沈んでいったのである。そんなことで石が浮かぶはずがなかろう。
人は自身の行為(業力)によって死後の報いが定まるのだから、他人がどんな経文を読もうとも死人の果報が変わるわけがない、と説かれている。
読経で死者が救われるという考えは、本来、仏教になかったのである。釈迦八十年の生涯、教えを説かれたのは生きた人間であり、常に苦悩の心田を耕す教法だった。死者の為の葬式や仏事を執行されたことは一度もなかったといわれる。
むしろ、そのような世俗的、形式的な儀礼を避けて、真の転迷開悟(迷いから覚めて、さとりを開くこと)を教示されたのが仏教であった。
今日それが、仏教徒を自認している人でも、葬式や法事・読経などの儀式が、死人を幸せにすることだと当然視している。その迷信は金剛のごとしと言えよう。

釈迦の教えは歪曲され、「追善供養」が仏教だと、深く信じられてきました。


山崎龍明氏著『初めての歎異抄』は、

昔も今も変わりなく日本の仏教は「追善仏教」であるといったらいいすぎでしょうか。

と言葉を濁していますが、今の仏教はまさしく、葬式・法事の「追善仏教」。「追善供養」を否定された五章は、日本仏教の全否定といえましょう。ですが、この仏教界に反省を迫る深刻なメッセージを鮮明にする書がありません。


●念仏は「極楽へ往くため」か

聖人が「孝養のため」に念仏を称えたことはないと仰った理由を、

梅原猛氏著『誤解された歎異抄』は、

念仏はいつも二種廻向のためである。つまり、自分が極楽に行って、また極楽から帰ってくる。そのために念仏をするわけである。

と説明しています。ですが、極楽に行く「ため」に称えるのが念仏とは、どこにも親鸞聖人は仰っていません。浄土往生の可否は、信心一つで決するというのが、聖人90年のみ教えです。
『歎異抄』では一章に「ただ信心を要とす」と、「信心」一つの救いが明らかにされ、三章でも、

(原文)

自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり

|意訳|

本願を疑う自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得すれば、真実の浄土へ往生できるのである。

浄土往生は「信心」一つと明言されています。
蓮如上人の証文も多数にのぼるが数例、挙げてみましょう。

信心一つにて、極楽に往生すべし(二帖目七通)

|意訳|
信心一つで、極楽に往生するのだ。
 |意訳|
他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。
最も広く知られているのは、次の「聖人一流章」でしょう。

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候

|意訳|

親鸞聖人の教えは”信心一つで助かる”という教示である。

蓮如上人は断言されています。

では「念仏」とは何でしょう。同じく「聖人一流章」では、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり

|意訳|
弥陀に救われてからの念仏は、浄土往生が決定した大満足の心から、その御恩に報いる念仏である。

信心獲得してからの念仏は、必ず往生できると定めてくださった弥陀への「報謝の念仏」だと教示されています。しかもそれは六章で、
「ひとえに弥陀の御もよおしにあずかりて念仏申す」(まったく弥陀のお力によって称える念仏)
と教導されているように、すべて弥陀のお計らいで称えさせられる念仏だから、「他力の念仏」とか「他力廻向の念仏」といわれるのです。
「他力」とは弥陀のお力のみをいい、「廻向」とは「差し向ける」ことです。
『歎異抄』の「念仏」はすべて、弥陀の方から私たちに与えてくださる「他力廻向の念仏」なのです。
「念仏」は極楽へ往く”ため”に称えるなどという教説は、親鸞聖人、蓮如上人のどこにもありません。



●「自力廻向」を破邪(間違っていることをハッキリ教えて、邪を破ること)された聖人
 
 
弥陀から私たちに与えてくださる「他力廻向」に対し、自分の励んだ善を亡者に差し向け、助けようとするのを「自力廻向」といいます。この「自力廻向」を徹底して破られた方が、親鸞聖人でありました。それは五章の後半でも明らかです。
(原文)

わが力にて励む善にても候わばこそ、念仏を廻向して父母をも助け候わめ

|意訳|

念仏が自分で励む善根ならば、その功徳をさしむけて、父母を救えるかも知れないが、念仏は私の善根ではないからそれはできない。

世間では葬式や法事、読経の功徳を認めて、現世や来世の幸福を祈祷しますが、どれだけ盛大な儀式をしようと、念仏を称えようと、亡者は自らの業で行き先が決まるのですから、他人にはどうすることもできません。親鸞聖人は、それら一切、仏事を役立てようとする「自力廻向」を断固、破邪されたのです。
かつてしたことがないと聖人が言われる、葬式や法事を本分のように心得て、「追善仏教」に終始している僧侶の、いかに多いことでしょう。
僧俗ともに根深い「追善仏教」を破られた五章の真意が、全く伏せられています。いまにして聖人のご金言を噛み締めなければ、残るは死骸の仏教のみとなるでしょう。

 

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親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【2】《弥陀の本願まことにおわしまさば》

親鸞会.NET» » 比較対照『歎異抄をひらく』【3】「急ぎ仏になりて」

親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【4】歎異抄第一章の「往生」は「新しい生活」のこと?? (親鸞会.NET)

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 親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【12】《『歎異抄』解説本を比較する意義》
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【13】 《弥陀の本願まことにおわしまさば》

親鸞会.NET» » 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【14】《親鸞聖人の教えは「二益法門」》
親鸞会.NET» » 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【15】《九章に表れる懺悔と歓喜》親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【16】《 「全く知らぬ」聖人の真意》親鸞会.NET
 
 
★口開けば
 寝ても覚めても
 体験談

★売り込める
 バーゲン信心
 ほかになし

*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている
*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。武蔵野大学教授
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授
 

他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく往生すべきことの、更に何の疑いもなし(二帖目十四通)

 

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2010/12/01

親鸞会国際ニュース 海外との距離なくなった

 

親鸞会顕正新聞21年12月1日号より

親鸞会国際ニュース 海外との距離なくなった

親鸞会電話座談会による親鸞会・報恩講が、世界同時開催される中、それでも日本まで行ってお聞きしたい、と駆けつけた海外の親鸞会会員も多かった。親鸞会・報恩講翌日には親鸞会・同朋の里で研修会が開かれ、親鸞会電話座談会について学んだ。
新型インフルエンザの流行を、より多くの人が聞法できるご縁にと転じられた心を深く受け止めていた。来日した親鸞会会員と、海外での反響を以下に紹介する。

他力の世界
もっと知りたい

アメリカ親鸞会会員 Fさん

親鸞会ロサンゼルス会館で、何度も高森顕徹先生の親鸞会・講演会をビデオで聞かせていただき、親鸞聖人のお言葉に忠実に、注意深くお話しなさることに感動したんです」
 昨春、大学で声をかけられ、親鸞会で話を聞き始めたFさんはこう語る。
親鸞会・報恩講で念仏に三とおりあるとお聞きしました。他力の世界をますます知りたくなりました」
 将来は「仏教とのご縁が少ないアメリカ人との懸け橋となる小説を書きたい」と夢を抱く。
今年3度目の来日でした!

ブラジル 親鸞会会員Mさん

 親鸞会・50周年に参詣してより、高森顕徹先生からじかにお聞きしたいとの思いが強まり、親鸞会・報恩講を含め、今年3度の来日を果たした。
 最近、「一たび地獄に入りて長苦を受くる時、始めて人中の善知識を憶う」のお言葉が何度も心に浮かぶという。
「臨終に後悔したくない。ブラジルでも親鸞会電話座談会でお聞きできましたが、どうしても親鸞会の会館で聴聞したくて」と語る。日本滞在中、海外の親鸞会会員との交流を深め、国境を超えた法の絆を喜んだ。

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2010/11/30

歴史の視点・学徒の論点 異安心が次々復権 近代教学、真宗大谷派を牛耳る 金子大栄・曾我量深の邪説(後編) 親鸞会.NET

「金子、曾我両教授の追放反対!」
真宗大谷派の宗門校である大谷大学の学生たちが昭和5年、前代未聞のストライキを起こした。珍しい教えを好む若者と、時流に迎合する学者の後押しを受け、いったんは大学を追われた金子大栄、曾我量深の両名が、十数年で教授に返り咲いている。
また、昭和26年には、かつて異安心と断罪された男が大谷派(東)の最高権力者の座に就いた。
真宗破壊の歴史の真相に迫る。

金子大栄は「実在の浄土は信じられぬ」と本に書き、曾我量深は「法蔵菩薩は阿頼耶識である」と説いて、ともに異安心の烙印を押された。
大学を追放されたあと、金子大栄は宗教専門紙の『中外日報』の紙上で別の学僧と論争をしている。
相手となった多田鼎は、金子大栄と同じく清沢一派に属していたが、このころは、近代教学とは距離を置いていた人物である。彼は、こう批判を向ける。

多田鼎
「(金子大栄の説は)凡夫の智恵で分かる範囲内に真宗の教えを取り込もうとする無理があり、真宗を一種の哲学におとしめるもの、少なくとも真宗を聖道門の一部門たらしむるものである。決して凡愚往生の本義を全うするものではない。(中略)親鸞聖人の説かれた真実報土とは、阿弥陀如来の本願の真実が現成したまえる浄土のことであって、これをば単に凡智で有るとか無いとかいう観念の遊戯に畳み込もうとすることは、大いなる誤りである」

これに対して金子大栄は、次のように反論している。

金子大栄
「教法は飽くまでも尊重するのであるが、しかしそれには分からぬことが甚だ多いので、どうかしてそれを分かりたいということである。
しかし、どこまでも自分に理解できるようにしようとする私の態度を誤りとする者がある。それらの人の見解では、『教法の大部分は、我々の分かる分からぬを超えているものである。
それ故に、我々はそれが自分に理解できるかどうかを問わずに、ただ真宗の教法はこういうものであるということを知りさえすればよい。そしてそれが信の本となるのである。
それを強いて分かりたいとするから、自然、己心の見解が加わるようになる』というのである。
しかし、それは私が陥り易い誤りなのであって、私の学問が陥るのではない。
それ故に私の学説に対する批判はどうあっても、私は私の学問の理想に従って進まんと思うのである」

教えより自分の考えを上に置くのは、後生の一大事を解決し、浄土往生を果たすという仏教の究極の目的がスッポリ抜けているからであろう。
ただ、それをズバリ指摘できなかった伝統教学側も情けない。
当時をよく知る真宗大谷派幹部は、次のように発言している。

「(曾我量深の『法蔵菩薩は阿頼耶識である』という邪説について)どうも異安心臭いけれども、どこがどう正統安心と違うのか、だれも明確に指摘できなかった」

そんな伝統教学派が数に物を言わせて押し切っただけというのが、・金子大栄、曾我量深の異安心事件・の実情なので、本山から処分を受けたあとも、彼らには反省も転向もなかった。
京都に新たな私塾を開設し、青年や一般大衆を相手に近代教学の普及に努めた。元来、相当の学者である。
執筆や講演を精力的にこなし、金子大栄はラジオ番組にも出演する売れっ子ぶりだった。
昭和16年、かつて東京の真宗大学で清沢満之の腹心の部下だった男が大谷大学の学長になると、まず曾我量深を教授に復帰させ、翌17年には、金子を復帰させた。さらに両名には大谷派の学階最高の「講師」の位が贈られた。

時は太平洋戦争前夜。軍部が大学にも土足で乗り込み、出版界に検閲の嵐が吹く中、金子大栄も曾我量深も一層精力的に著作を発表し、真宗界にその名を不動のものとした。
一方、大谷大学では、まるで粛清のように、伝統教学の教授が次々に退職させられていった。

四百五十回忌に参詣者激減
近代教学が脚光浴びる

昭和24年、真宗大谷派は蓮如上人四百五十回忌法要を勤修する。戦後日本の復興を大谷派が引っ張る意気込みで、相当の資金をつぎ込んだが、参詣者は予想を大幅に下回り、後には多額の借金だけが残った。
この時、にわかに高まった宗門改革の声が、「時代の要請にこたえる教学の宣布」をスローガンに掲げる近代教学に追い風となった。
翌25年、それまで伝統教学派の独壇場だった宗議会に、近代教学派の議員が続々と当選した。
彼らは金子大栄や曾我を勉強会の講師に呼び、着々と・改革・の地慣らしを進めていったのである。

昭和26年、だれもが驚く事件が起きた。異安心事件を起こして弾劾された暁烏敏が、宗政トップの宗務総長になったのである。国政に例えれば首相である。

大谷派の空気がこれで一変した。
この後、清沢崇拝者が代々、宗務総長に就き、昭和31年、ついに近代教学が正式に真宗大谷派の教学として採択されるのである。
時の宗務総長が、「宗門各位に告ぐ」と発布した「宗門白書」には、こう明言している。
寺に青年の参詣が少なく、寺院経済が逼迫し、怪しげな新興宗教に門信徒を奪われている今の時代には、清沢先生の教学こそ、重大な意義をもつものである、と。
そして、伝統教学は「煩瑣な観念的学問となって閉息している真宗教学」であるとして、決別を宣言したのである。これを期に大谷派・東・は名実ともに近代教学一色となり、今日に至っている。
金子大栄と曾我量深の両名は、清沢満之が始めた近代教学を大成した功労者であるとして、昭和36年、大谷派から表彰されている。

◆     ◆

かくして明治以来わずか100年足らずで大教団が、指方立相の弥陀の浄土や後生を否定する集団になってしまった。今年出版した『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』も、まさに清沢満之以来の近代教学に毒された書である。

親鸞学徒はあくまで、親鸞・蓮如両聖人の聖語をもって真実を聞き、伝えねばならない。

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

昭和初期~中期
近代教学派の変遷

3年  金子大栄、大谷大学を辞任
5年  曾我量深、大谷大学を辞任
大谷大学の学生、総退学。責任
を執って教授23名が総辞職
(6年 満州事変)
16年  曾我量深、大谷大学に復帰し、
学階・講師を授与される
(太平洋戦争、始まる)
17年  金子大栄、大谷大学に復帰
19年  金子大栄、学階・講師を授与
される
24年  蓮如上人450回忌
26年  暁烏敏(当時74歳)、宗務総長に
31年  大谷派、近代教学を正式に採択
36年  親鸞聖人700回忌
金子大栄、曾我量深、教学の功労者として表彰される
曾我量深、大谷大学学長に
38年  金子大栄、宗務顧問に
解説

伝統教学はどこへ

伝統教学では、江戸時代以来、法主が信仰と教学の最高責任者として絶対的な権威を保っていた。
対する近代教学は、個々の自覚を重んじることから、封建性の打破と「民主化」を目指した。
宗派の運営をめぐる二派の対立は、昭和44年、権力闘争・財産争いとして表面化する。俗に「お東騒動」と呼ばれる。
永年、法廷での闘争を続けた揚げ句、伝統派は真宗大谷派を飛び出し、新たな団体を作ったため、大谷派は四つに分裂。財産をめぐる裁判は、今も続いている。
*『中外日報』……明治30年創刊の宗教専門の新聞。当時は日刊だった

*多田鼎……清沢満之の影響を受け、活動をともにする。後に真宗大学教授に。昭和16年、大谷派・講師

*清沢満之の腹心の部下だった男……関根仁応という者。昭和17年、大谷派・講師

*宗議会……宗派の予算や条令案を議決する最高機関。国政でいえば、国会にあたる

*暁烏敏の異安心事件については、こちらをお読みください。
          ↓↓↓
親鸞会.NET» » 歴史の視点・学徒の論点 「近代教学」VS「石川同行」 親鸞会.NET

*煩瑣……こまごまとして、煩わしいこと

 

親鸞会.NET» » 歴史の視点 学徒の論点 西方浄土はおとぎ話か 真宗破壊の「近代教学」 その元を作った清沢満之 親鸞会.NET

親鸞会.NET» » 歴史の視点・学徒の論点 「近代教学」VS「石川同行」 親鸞会.NET

親鸞会.NET» » 歴史の視点・学徒の論点 仏説を観念の遊戯にした近代教学の巨魁 金子大栄・曾我量深の邪説(前編) 親鸞会.NET

 親鸞会.NET» » 歴史の視点・学徒の論点 異安心が次々復権 近代教学、真宗大谷派を牛耳る 金子大栄・曾我量深の邪説(後編) 親鸞会.NET

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2010/11/24

歴史の視点・学徒の論点 仏説を観念の遊戯にした近代教学の巨魁 金子大栄・曾我量深の邪説(前編) 親鸞会.NET

昭和5年(1930)、京都で大規模な学生ストライキが起きる。
真宗大谷派の宗門校・大谷大学での出来事である。前期の授業は中止され、教授陣23名が総辞職する前代未聞の騒ぎとなった。
近代教学派と伝統教学派の対立が発端であった。

中心人物は、金子大栄と曾我量深。
事件の背景から、いわゆる“近代教学”が大教団をむしばんでいった歴史を2回にわたって見てみよう。

清沢満之が東京に開校した真宗大学は、わずか10年で廃校された。
近代教学の牙城とみなされ、宗派内から異安心を根絶しようとする本山側の処置であった。
(詳細はコチラ→親鸞会.NET» » 歴史の視点・学徒の論点 「近代教学」VS「石川同行」 親鸞会.NET)

在校生は明治44年(1911)、京都に新たにできた大谷大学へ移された。
近代教学もこれで終わりかと思われたが、事態は意外な展開を見せる。
京都に移った学生たちが、近代教学派の教授採用を強く要求したのである。

大正5年(1916)、学生の勢いに押される形で、大谷大学が教授に引き抜いたのが、今日、近代教学の大成者といわれる金子大栄であった。

新潟県出身で、東京の真宗大学で清沢満之の影響を受けた。
卒業後は自坊の住職をしながら、真宗学の研究を10年以上続けたのち、清沢満之の私塾・浩々洞に入り、彼らの雑誌の編集責任者を務めた。この間も著述や講演に努めていたことが評価された。

大学での金子大栄の講義は、いつも定員オーバーとなる盛況ぶりで、伝統教学の教授らは面白くない。
しかも、金子大栄は、その著書の中で、伝統派が親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を金科玉条のごとく、そのまま受け取ろうとすることを批判し、彼らの神経を逆なでするようなことを平気で書いた。
「これ(お聖教のご文)はどういう風に解釈すべきであるか。『解釈というようなことは許さない、そう書いてあるからそうだ。こう書いてあるからこの通りだ』というのですが、書いてある通りという事は実は非常に困るのでありまして、書いた通りに分るのは恐らくそれを書いた人に聞かなければ本当に分らん筈である」
             (『如来及び浄土の観念』)
仏教の究極の目的である「往生浄土」についても、金子大栄は、それまでだれも言わなかった曲解を公表した。

「実在の浄土は信ぜられぬ」
               (『浄土の観念』)
古来、西方十万億土に実在すると説かれてきた「浄土」を、「信じられぬ」とか、「観念の世界」だとする説である。

また、清沢門下の学僧・曾我量深も大正14年(1925)、大谷大学教授に迎えられた。彼も今日、近代教学の功労者として金子と並び称されている。

もともと東京の真宗大学の教授であったが、廃校に反対して辞職、新潟県の自坊で住職をしていたが、その博識を買われたのだろう。復帰するや、彼は学生相手に驚くべき珍説を講義する。

「法蔵菩薩は阿頼耶識である」

この説は出版もされたので、広く一般大衆の知るところとなる。
金子大栄と曾我量深のこれらの言動に伝統教学派の堪忍袋の緒が切れた。

金子も曾我も「唯心の弥陀・己心の浄土」にあたる異安心であるとして僧籍を剥奪し、大学から追放したのである。

人気教授の追放に学生は猛反発する。
昭和5年、前代未聞のストライキを起こし、授業は完全にストップ。責任を執って、23名の教授が総辞職する騒ぎに発展し、新聞・雑誌に多く取り上げられた。
悲しいことだが、親鸞学徒の本道を歩まぬ者たちは、強烈に観念の理論や体験談に引かれるのである。

(つづく)

………………………………………………………..
《解説》

清沢満之が始めた「近代教学」とは

いわゆる「近代教学」を始めたとされる清沢満之の言説も、「私はああだった、こうなった」という体験ばかりを語るものだった。
「自己とは他なし、絶対無限の妙用に乗託して任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり」
(救われた体験)
「地獄極楽の有無は無用の論題である」
「来世の幸福のことは私はまだ実験しないことであるからここに述ぶることはできぬ」
正統なる仏説と明らかに反することを説いている。

また、救われたとは言っても、阿弥陀仏や七高僧方のご恩徳を讃嘆することもなく、念仏もない。
親鸞・蓮如両聖人のお言葉を挙げて丁寧に解説することもない。

ただ「こうなった、ああなった」の自己の体験を声高に喧伝した。
教えよりも体験や実感をことさら強調するので、「清沢教学」とか「近代教学」と呼ばれる。

だが、西洋の新思想がどっと流入した明治以降、若者たちは、このような邪義に魅力を感じ、強烈に引き付けられていった。
*大谷大学……江戸時代に設立された、大谷派の中心的教育機関(当時はまだ伝統教学だった)が前身
《解説》

阿頼耶識とは
仏教の学問の一つである唯識学では、私たちの心を以下のように、八つに分けて教えられる。

●八識 (「識」とは「心」のこと)
(1)眼識
(2)耳識
(3)鼻識
(4)舌識
(5)身識
   この五つを前五識という

(6)意識…前五識を統制し、記憶・判断・思考・命令する心。
(7)末那識…執着する心。
(8)阿頼耶識…三世を貫く永遠の生命。すべての業力をおさめている処だから、蔵識ともいわれる。

「法蔵菩薩は阿頼耶識である」というのは、私たちの心が阿弥陀仏である、という「唯心の弥陀」の異安心であり、非難されるのは当然である。
歴史の”なぜ?”

「法蔵菩薩は阿頼耶識である」というとんでもない邪義を曾我量深は、
なぜ、唱えたのか。かつての大谷派教学研究所所長は、こう述べている。

「明治の、(曾我)先生の青年時代には法蔵菩薩はもはや『昔噺、神話』のように思われていて賢い人たちは法蔵菩薩の法の字も言わなくなっていたと言われている。
近代的理性に合わない事柄は前時代の迷妄として否定していく啓蒙の時代の到来の中で、真宗の根幹である阿弥陀仏・法蔵菩薩の〈実在〉が瀕死の状態にあった。
阿弥陀仏が〈実在〉しないならば阿弥陀仏の本願も架空のものとなる。
理性的なこれからは、そんな架空な『昔噺、神話』は誰も信じないであろう。
とすれば真宗は中心から腐蝕していく。
これを何とかしなければという強い危機感が曾我先生の中にあったものと想像される。その危機感の極点で『大無量寿経』の法蔵菩薩が阿頼耶識であるという直観的結合をもたらしたのである」

教えを軽視し、自分の考えを入れて曲げる。清沢満之以来の典型的な大谷派の思考法といっていいだろう。

 

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2010/11/20

いまの流転が永久の流転|親鸞会 顕正新聞

「ほどほどの幸せでいいじゃないか。足るを知れ」と人は言う。

なるほど一理あるようだが、「ほどほど」にできるかどうかが問題だ。

上に行くほど叩かれ、人相が変わるほど苦労せねばならぬのを眼前にしながら、一議員では満たされず、市長、県知事、首相と、権力の階段をもっともっとと上ってゆく。

早々に売ればよいのに「まだまだ上がる?」と持ち株を手放せず、バブルが弾けて大暴落。

未だに持ち続けている人もある。「ほどほどがよい」とわかっていても難しい。

わかっちゃいるけど止められない。有限の命で無限の欲を満たせるはずがない。

渇いては求め、求めてはなお渇き、ゴールのない円周を限りなく回って苦悶している。

現在の延長が未来だから、いまの流転は永久の流転、後生は一大事と知らされる。

これを『大無量寿経』に釈迦は

「従苦入苦 従冥入冥」

と説き、この世の苦から死後の苦しみへと堕ちていくと慈誨されているのである。

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2010/11/18

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【16】《 「全く知らぬ」聖人の真意》親鸞会.NET

前回の親鸞会.NET» » 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【15】《九章に表れる懺悔と歓喜》親鸞会.NET

に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。 
原文
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり
(『歎異抄』第二章)


・梅原猛著
『誤解された歎異抄』の意訳では、
私は、ただ念仏すれば、阿弥陀さまにたすけられて必ず極楽往生ができるという、あの法然聖人のおっしゃいましたお言葉を、ばか正直に信じている以外に、別の理由は何もないのであります。
念仏をすれば、本当に極楽浄土に生まれる種をまくということになるのでしょうか。それとも、それはうそ偽わりで、念仏すればかえって地獄におちるという結果になるのでしょうか。残念ながらそういうことは私はとんと知ってはいないのであります。

とある。


・高森顕徹先生著
『歎異抄をひらく』の意訳では、
親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。
念仏は浄土に生まれる因なのか、地獄に堕つる業なのか、まったくもって親鸞、知るところではない。

と書かれている。
 
●二章の典型的な誤解
「総じてもって存知せざるなり」を、文字どおり「全く知らぬ」と受け取って、「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞聖人も、まるで分かっておられなかったのだ」と誤解する者が少なくありません。
例えば、安良岡康作著
『歎異抄 全講読』の解説では、
「念仏」に対して、それが、真実に「浄土に生るる種子」なのか、「地獄に堕つべき業」なのかを自問自答した結果を、「惣じて以て存知せざるなり」とあるように、はっきりした断定・確信に達していないことを、説得や主張ではなくして、聞き手に向って告白しているのである。
と、聖人も「分かっていなかった」告白だと解説しています。
冒頭に引用した梅原猛著
『誤解された歎異抄』も、
親鸞は、念仏をすれば阿弥陀仏に助けられて往生することが出来るという法然の教えを聞いて、それを信じているだけだときっぱりと言い切るのである。
と解説しています。このような誤解が生じるのは、直後に聖人が、
たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候。
(意訳)
たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に堕ちても、親鸞なんの後悔もないのだ。
と仰っているからでしょう。「だまされて地獄に堕ちても後悔しない」という信じ方は、常識では考えられません。法然上人に絶対の信順をされていたことは、誰の目にも明らかです。
ですが、果たして聖人は、法然上人という
「人」だけを信じて、「念仏」については判然としておられなかったのでしょうか。
山崎龍明著『初めての歎異抄』は、
「よきひと」法然との邂逅は、念仏の法そのものとのであいであり、単なる「人」とのであいではなかったようです。
と疑問を投げかけるが、「ようです」の推測に終わっています。


●本願念仏こそ往生極楽の道
親鸞聖人が、「念仏まこと」に確信を持たれぬはずがありません。二章冒頭で、弥陀の本願念仏を「往生極楽の道」とまで明言され、他に道があると疑うのは、甚だしい誤りだと断定されているからです。
おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしましてはんべらば、大きなる誤りなり。
(意訳)
あなた方が十余カ国の山河を越え、はるばる関東から身命を顧みず、この親鸞を訪ねられたお気持ちは、極楽に生まれる道ただ一つ、問い糺すがためであろう。
だがもし親鸞が、弥陀の本願念仏のほかに、往生の方法や秘密の法文などを知っていながら、隠し立てでもしているのではなかろうかとお疑いなら、とんでもない誤りである。
関東で20年、親鸞聖人が弥陀の本願念仏一つ説かれたことは明白です。ではなぜ「念仏まことか、どうか」を尋ねた関東の同行に、「知らぬ」と言われたのでしょうか。
石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』は、
あまりにも見当違いな質問をした、
信仰未熟な人たちにはこうした方法も必要だったのであろう。いずれにせよ、この章はいろいろな想像をたくましくさせ、そのために誤った理解をも呼び起こした章として注目される。
と、単純に片付けています。


●聖人の鮮明不動の信念
「総じてもって存知せざるなり」は、「知らぬ」とは正反対の、知りすぎた「知らぬ」であることを、『歎異抄をひらく』では、聖人のお言葉で解明されています。
「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞も、まるで分かっていなかったのだ」「命がけで来た者に、答えないのは無責任ではないか」と、外道の者はムチを打つ。
それはだが、まったく逆である。
弥陀の本願念仏を「往生極楽の道」とまで明言し、浄土に往ける道は念仏のほかに術なしが、親鸞聖人の教導であったことは明白だが、二、三、分かりやすい根拠をあげておこう。
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ(浄土和讃)

念仏によって仏のさとりをひらく、これが真実の仏法である。それまで誘導する方便の教えが、他の仏教である。
南無阿弥陀仏をとなうれば
この世の利益きわもなし
流転輪廻の罪きえて
定業中夭のぞこりぬ(浄土和讃)
念仏を称えれば、長らく苦しめてきた罪消えて、当然受くべき大難や若死からも免れ、この世も幸せ一杯に暮らせるようになるのだ。
念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなく受くとぞ説きたまう(正像末和讃)

この最尊の念仏を謗る者の報いは怖ろしい。かならず阿鼻地獄(無間地獄)に堕ちて八万劫という永い間、ひまなく大苦悩を受けねばならぬと、経典に説かれている。
『教行信証』には、弥勒菩薩は五十六億七千万年後でなければ仏のさとりを得ることはできないが、
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す
(教行信証)
弥勒菩薩に対して念仏の人は、この世の命が終わると同時に、仏のさとりをひらくのである。
 と詳述されている。
関東で二十年、親鸞聖人は、この弥陀の本願念仏以外の布教はなかったのだ。
ところが聖人の帰京後、関東には同朋らの信仰を惑乱する、種々の事件が頻発。その一つが日蓮の「念仏無間」の大謗法である。「念仏称える者は無間地獄へ堕ちるぞ」と、関東一円を熱狂的に煽動した。
動揺した同朋たちが、直の聖人の言葉が聞きたいと、決死に来訪した心中を洞察し、「念仏が地獄に堕ちる業だとなぁ、いままでそなたたちは、何を聞いてこられたのか、情けないことよ……」
やり場のない、その心情を、
「そんなことは、親鸞知らぬ」
言い放たれた聖人の、やるせない心中が痛いほど伝わってくる。
あんなに長らく聖人の教えを聞いてきた人たちに、いまさら「念仏は極楽の因か地獄の業か」と聞かれて、これより適切な表現が、ほかにあったであろうか。
余りにも分かりきったことを聞かれると、もどかしい言葉を止めて世間でも、「知らんわい」と答えることがある。私たちにもあるだろう。言うに及ばぬことなのに、それをしつこく聞かれると、「そんなこと知らん」と突き放すことがあるではないか。
「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ”知らん”とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」
と嘯いているのとは、知らんは知らんでも、”知らん”の意味が、まるっきり反対なのだ。
「念仏のみぞまことにておわします」
有名な『歎異抄』の言葉もある。
「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念の最も簡明な表明だったと言えよう。
この聖人の大自信に接し、喜色満面、勇んで帰る関東の同朋たちが、彷彿とするではないか。
耳を疑う確言の続く二章は、聖人のお言葉を根拠に読まなければ、いくら想像をたくましくしようと、誤解が生まれるばかりです。

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*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授
*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
*石田瑞麿……元・東海大学教授。
浄土教の研究が専門。
著書多数
○浄土和讃─親鸞聖人が阿弥陀仏とその浄土を賛嘆された詩
○方便─真実まで導くために絶対必要な手段
○正像末和讃─弥陀の本願のみが救われる道と教えられた親鸞聖人の詩
○八万劫─気の遠くなるような長い期間
○弥勒菩薩─仏のさとりに最も近いさとりを開いている
有名な菩薩(仏のさとりに向かって修行中の人)
★おぞましや
仏法使って 自慢する
★勿体なや
名聞利養に する仏法
★教えなし
自己宣伝の ほかはなし

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2010/11/09

歴史の視点・学徒の論点 「近代教学」VS「石川同行」 親鸞会.NET

■無信仰を暴露した暁烏敏の邪義事件 明治43年(1910年)

弥陀や浄土の実在を否定した、いわゆる「近代教学」の元を打ち立てたのは、東本願寺(真宗大谷派)の学僧・清沢満之であったことを、以前、このサイトで紹介した。
 親鸞会.NET歴史の視点・学徒の論点

彼の没後、近代教学を標榜する改革派が地方へ広がり、一般門徒との対立が表面化する。その対立は、やがて本山へ飛び火し、親鸞聖人の教えを置き去りにしたまま、
〝改革か伝統か〟という大谷派のお家騒動へとつながっていく。今回は、今からちょうど100年前の明治43年、『歎異抄』を世に広めた張本人ともいえる暁烏敏と、「東本願寺の台所」といわれる石川県門徒の間に起きた激論を中心に、大谷派の迷走の歴史を振り返ってみる。

■金沢門徒の熱い聞法心

親鸞聖人650回忌を間近に控えた明治43年。
日露戦争(明治37・38年)後の好景気で、日本の資本主義が飛躍的に発展した時期である。農業構造の変化によって米価は下落、農村は収入の激減にさらされた。
石川県も例外ではなく、農家は経済的にひどく困窮していた。だが、そんな状況下でも、「東本願寺の台所」といわれるこの地の門徒の信仰は極めて厚かった。

時あたかも、明治維新の混乱で焼失した阿弥陀堂と御影堂の再建のためのお布施が大いに募られていた。愛山護法に燃える全国の門徒の中でも、石川門徒が最も多額のお布施をしたことを各種資料が示している。

熱心なお布施が農村経済を疲弊させ、ひいては県全体に影響が及ぶのではと心配した役人が、本願寺の募財猶予を中央政府へ要請したほどであった。
「能登は信ずる者多く、越中は聞く者多く、加賀は信じ聞き、かつ談ず、その安心問答を為すがごときは石川郡において最も甚だし」
と当時言われたように、石川県の門徒の聞法心と信心の沙汰の徹底ぶりはすごかった。

一例を挙げれば、明治34年1月に金沢で行われた法筵には六千数百名が参詣し、法話のあとは一念帰命の信相について門徒同士が論じ合い、一同法悦にあふれ、随喜の涙をぬぐったと報道されている。

■体験や思いばかりの暁烏

暁烏敏は、この石川郡(現・白山市と金沢市近辺)の東本願寺末寺の長男として生まれた。東京の真宗大学卒業後、清沢満之の私塾に入り、彼の影響で『歎異抄』に心酔、
「危ない聖教であればこそ、複雑な心の悩みを断つ。罪ある者の救いの息吹はここに在る」
と言い、雑誌に「『歎異鈔』を読む」を8年間、連載した。

清沢満之が亡くなった明治36年ごろから、活動の拠点を地元に移す。住職として門徒に『歎異抄』を語り、毎月6日の清沢の命日には、清沢の絶筆『我が信念』を語った。
その一方、中央の思想界で活躍した宗教家の顔を持ち、金沢にできた学生の信仰グループのリーダーとなり、会合では、やはり『歎異抄』と『我が信念』を語った。

『歎異抄』が親鸞聖人の生々しい肉声でつづられているのを形だけ真似しようとしたのか暁烏は、親鸞聖人や蓮如上人が何を教えられたかではなく、自分がどう感じたかを雄弁に語るのを常とした。座談会では活発な質疑応答が交わされ、青年たちは泣いたり叫んだりし、入信を希望する者も多かったという。

当時の信仰を暁烏は後年、こう書いている。
「罪悪の身がかかる生活をしていらるることが恩寵ではないか。地獄に堕ちていて丁度よい者が堕ちずしてこうやって安楽に生活させて頂けるのはこの間に不思議の力が加わっていなければならぬ。この力が如来である。救いである。これは疑うことのできぬ力であると自分も感じ、他にも感ぜしめられて泣き泣きしていたのであります」

罪悪と歓喜を強調する一方、
「『御文章』や『領解文』に書かれている信心をいくらもっともらしく人に語ろうとも、弥陀の救済には何の役にも立たない」
と言って、当時、一般門徒に広く浸透していた『御文章』や『領解文』を目の敵にした。
西洋思想の影響を受け、理性で理解することができない極楽浄土や、他力の信心の世界を教え語ることをいい加減と感じていたのだ、と暁烏信奉者の一人は書いている。
蓮如上人のお言葉を「弥陀の直説」と受け取っていた大多数の門徒の反発は強く、暁烏一派との間に一触即発の緊張感が漂い始めた。
■無学の門徒に論破される

暁烏が活動の範囲を広げた明治43年1月下旬、上金石町(現・金沢市)のある寺で座談会が催された。そこに強信な門徒衆と暁烏一派が同席し、激論が起きた。それはやがて、本山を巻き込む邪義事件へと発展していったのである。その様子が『組内異安心顛末』に収められているので、一部を再現してみよう。

同行A「信心一つで救われる教えとは、一体どういうことですか」

暁烏「別に信心がなくとも、十劫の昔より弥陀如来のお慈悲に丸められていることを善知識から聞いたうえは、他に別に信心とてあるのではない」

A「信心があってもなくても救われるということはあるまいと存じます。それはどなたの教えですか」

暁烏「親鸞聖人の教えである」

A「では、どのお聖教に書かれていますか」

暁烏「『歎異抄』の中にある」

A「『歎異抄』のどこに信心がなくても救われると書いてありますか」

暁烏「あんたの安心はけんか腰の安心だな!」

同行B「私は聴聞不足で一念のところがよく分かりません。どうぞ、一念を水際立ててお聞かせください」

暁烏「これ婆よ、それは学問沙汰なり。そんなことを覚えて助かろうと思うのか」

暁烏の弟子の僧「お聖教にどう書いてあるかなんか、聞くな」

同行C「私も至って愚かな者ですから、学問も元より望まず、覚えることも往生の要とは存じませんが、今度浄土へ参るについては一念帰命の信心をしかと決定せねばならぬと伺っております。しかし、この身は聴聞不足にて一念の信心が分かりません。どうぞ安らかにお聞かせくだされ」

暁烏「住所・姓名を名乗れ」

C「○○の□□です」

暁烏「おまえの平生の喜びようを述べよ」

C「善知識のご化導により、弥陀の本願の御いわれを聞かれたるうえは雑行雑善に目をかけず、一心に阿弥陀如来さまに後生助けたまえとたのみ奉り、そのたのむ一念の時に、私の往生を大悲の方より御定めくだされたことと落ち着いて、この御恩報謝のために寝ても覚めても念仏を称えるべしと聞いております」

暁烏「うそつきめ!」

C「私はうそはつかぬつもりですが、なぜさように仰せられるか」

暁烏「おまえは初めに聴聞不足で一念の信心も分からぬと言いながら、自分の喜びようを述べよと言うたらそんな立派なことを言うたではないか」

C「私は一応の聴聞は致しておりますが、
〝一応の聴聞〟では必ず誤りあるべきなりとあり、幾度も幾度も人に尋ねて信心の方を治定せよとあるではありませんか。なのにあなた方は、真宗の肝要である一念の水際を尋ねても、それは学問沙汰だなどと、二、三人の僧がかわるがわる叱りつけたり、頭からどなりつけたり、こんなのはご示談ではない。あまたの人々の心を惑わし、争論を企てること恐ろし恐ろし。この旨をば、ご本山へ申しつけるから覚悟していなさい」(満場の拍手)

暁烏「河北の同行よ、堪忍してくれ、この坊主が悪かった、許してくだされよ、これより改めて真のご示談をせまいか」

C「御僧に謝らせて私がよい気になりておる道理はない。最初に御坊さんが語を荒立てたから、私も言いにくいことを申したまで。ではここで互いに前非を改めて真のご示談をしようではないか」

B「本願に相応するとはどういうことか、どうぞ聞かせてくだされ」

暁烏「そんなことはこの坊主は知らぬ。学校で習うたこともあれども忘れた」

思想界の寵児ともてはやされた知識人でもある暁烏が、一般門徒に論破され、無信仰の醜態をさらしている。

 

■門徒と僧侶が本山へ直訴

親鸞聖人の教えよりも、自分の思いや体験を重んじる暁烏の脱線ぶりは、これだけにとどまらなかった。宗教界の新聞『中外日報』(明治44年8月29日)は、彼の邪義を次のように具体的に指摘している。

・宇宙の万物は皆他力なり、自力も他力の中なり、疑うも他力、謗るも他力なり、煩悩も罪悪も他力なりと勧める

・われらの往生は十劫の昔に済んでいる、今ごろ、一念発起、平生業成というような勧めをする者があるが、それは昔の僧侶のいう事で、今日言うべきことでないと言う

・『ご和讃』『御文』は3歳の童子の寝言であり、これらを讃題にして説教する僧侶も、これを聞く者もともに堕獄の罪人なりと言う

・唯心の弥陀、己心の浄土というような聖道門安心を隠し勧め、指方立相の教えを妨げる

こんな滅茶苦茶な言動を放置しておけぬと、上金石町の事件を契機に金沢別院の僧侶ら数名が本山の教学部に書面で訴え出た。
近在の門徒も3万人の連判を集めて本山に提出した。
親鸞聖人の正統な教えを護るため、邪義・異安心は厳しく取り締まるのが、真宗界の伝統であり、常識であったからだ。
また、本山の教学部には邪義・異安心を取り締まる絶対的権限が与えられていたのである。
■腑甲斐ない本願寺教学部

しかし、この時の本山の対応は金沢の僧俗を甚だ落胆させるものだった。出頭した暁烏敏を交え、茶を飲み菓子を食べながらの詮議のうえ、形だけの弁明書を提出させた。そして、「以後誤解を招かないよう注意されたし」との文書を出して幕引きを図った。
なぜこんな甘い対応で終わったのか。教学部の幹部が暁烏の旧知の者で占められていたという事実はあるが、かりにも一宗の教学の全権を握る部門にしてはあまりにもお粗末ではないか。親鸞学徒の本道に徹することが、いかに難しいかが知らされる。
邪義に断固とした態度を示さぬ本山に業を煮やした金沢の門徒は「護法会」という団体を結成し、近代教学の巣窟である真宗大学(東京)を廃校すべしという運動を始めた。

真宗大学は、清沢満之が東京に開校し、初代学長を務めた宗門校である。清沢満之は学生運動の責任を取って、わずか1年で辞任しているが、その後も清沢を崇拝する教員や学生が集まる牙城であった。後に〝近代教学の大成者〟と称される曽我量深もここで教鞭を執っていた。邪義を断つにはその元から、というわけである。

これを受けて明治44年8月27日、本山当局は、真宗大学の廃校案を宗議会に上提した。やはり「近代教学」を放置しておけないという漠然とした思いは、あったようだ。
ただ、そのころ本山内で増えていた「近代教学」の同調者がこれに猛反発し、議会は大荒れに紛糾した。しかし、当局側がなりふり構わぬ多数派工作に奔走した結果、わずか2票差で議案は可決。同年9月、真宗大学は開校からわずか10年で解散となったのである。
■『歎異抄』の普及

邪義の烙印を押されながら、反省のそぶりもなく暁烏は、全国を回って精力的に講演していた。
本山で取り調べを受けた翌年(明治44)4月18日から28日まで、東本願寺は親鸞聖人六百五十回忌の法要を厳修したが、何事もなかったかのように暁烏が何度も記念講演を行っている。雑誌連載の記事をまとめて、有名な『歎異鈔講話』を出版したのもこのころだ。
自坊では毎年夏に泊まりがけの講習会を開き、それを45年間、1度も欠かさず続けた。北陸を中心に一般門徒の中にも着実に〝暁烏派〟が増えていった。真実のない人間に、真実は聞き難く、邪義や安楽いすは、耳に心地よいがために、容易に受け入れられるようだ。
大正5年には『歎異抄』を題材にした倉田百三の戯曲『出家とその弟子』が空前のベストセラーになり青年子女が競って『歎異抄』を読んだ。
世は大正デモクラシーとなり、社会のいろいろな所で民主化が進められた。本願寺も改革すべしとの空気が強まる中、近代教学派が勢力を増していく。やがて、金子大栄や曽我量深たちへと近代教学は受け継がれ、東本願寺内の傍流から主流へと変わっていくのである。

 

明治(後期)~大正の真宗史と社会の動き

1895(明28) 大谷派、維新の混乱で焼失した本堂と御影堂を再建
1901(明34) 真宗大学、東京に開校 清沢満之、初代学長に就任
 大谷派の学僧、大乗非仏説を唱え、僧籍を剥奪される
1903 (明36) 清沢満之没する。 暁烏敏、「歎異鈔を読む」を雑誌に連載し始める
1904(明37) 日露戦争始まる
1910(明43) 暁烏の邪義事件
1911(明44) 暁烏敏、『歎異鈔講話』を発刊
            親鸞聖人650回忌法要
            真宗大学、廃校となる
1914(大3) 第一次世界大戦
1916(大5) 倉田百三『出家とその弟子』
1918(大7) 富山に米騒動起きる
1920(大9) このころ、親鸞聖人に関する小説、戯曲が多数発刊される
1923(大12) 関東大震災

 

■暁烏は人工信心も勧めた?

東本願寺元講師・柏原祐義が報告

暁烏は、聞法者の罪悪を責め立てることで、感情的な興奮状態に陥らせる・儀式・にも手を染めていたらしいことが伝えられている。

元東本願寺講師の故・柏原祐義も清沢門下の1人であり、暁烏と交流があった。暁烏の自坊・明達寺で行われた講習会に立ち会い、その様子を書き残している。

「三、四人の人々が来会者を一人ずつ取り巻いてその人が泣いて懺悔と歓喜に高声念仏するようになるまでつるし上げるといった熱狂的な雰囲気であった」

このような講習会で信仰を得た信徒の1人は、罪悪感に襲われ熱狂するあまり、「村の一軒一軒を謝って歩いた」という。
親鸞学徒の本道とはまるで違う邪道が、彼らの実態であった。

 

明治期の『歎異抄』解説書

15年 『歎異鈔講義』  稲葉道教
20年 『歎異鈔講録』  宮地義夫
36年 暁烏、「歎異鈔を読む」を雑誌に連載
37年 『歎異鈔講録』 豊満春洞
 『歎異鈔略述』  吉谷覚寿
38年 『歎異鈔提要説教』渥美契縁
40年 『歎異鈔講話』  南条文雄
42年 『歎異鈔講録』  蓮元慈広
 『歎異鈔講義』  近角常観
 『十回講話』   安藤州一
43年 『歎異鈔講話』  多田 鼎
 『歎異鈔真髄』  大須賀秀道
(暁烏の連載以後、解説書の出版が激増している)
まとめ

清沢満之の後継者
暁烏敏の邪義は、
・『御文章』や『領解文』を時代に合わないと言って否定し、専ら『歎異抄』を布教に使った。
・教学を軽んじ、自分の体験や思いばかりを熱烈に語った。
その邪義は、本山との間で対立と妥協を繰り返しながら、昭和初期には、大谷派の主流になっていく。

 

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2010/11/04

ロシアの方と南アフリカの方が共に参詣 世界の親鸞会

世界の親鸞会
ロシアの方が、南アフリカの友達をお誘いして
親鸞会館に参詣されました!

「近くに住んでいても、ご縁のない人があるのに、
 なぜ、南アフリカの友人とロシア人の私が二千畳に
 参詣できたのか。
 遠い遠い過去世からの仏縁を感謝せずにおれません。
 一座一座が、多生億劫にもありえない大変なことと
 改めて知らされます」

と喜びを語っていました。

 

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