2010/06/14
教えと体験 親鸞会.NET
教えと体験
「論より証拠」という言葉に、人間は弱い。目の前で、説明のつかない不可解な現象を見せつけられると、ありもしない力の存在でも簡単に信じ込んでしまう。
難病で、どの医者からも見放された人が、苦しい時の神だのみ、藁にもすがる必死さで新興宗教を信じた途端に治ったら、本人はもちろん家族も、「論より証拠だ。この神様のお力に間違いない」となるのも無理はない。
千人のうち一人でもそんな例があれば、新興宗教などは大々的に宣伝するから、「病気が治った」「奇跡が起きた」といった体験談で、それらの発行する機関紙の紙面は埋め尽くされている。
普段は理論派で聞こえた人でも、案外ころりと引っかかってしまう。だが、これらのゴリヤクは実は神の力などでは毛頭なく、人間の暗示や催眠現象で、いくらでも説明がつくのである。
だから怪しい証拠は、「証拠より論」で真相を見極めなければならないのだ。
浄土真宗にも、体験を売り物にする者たちがいる。
「泣いた」「笑った」「心が明るくなった」「念仏が噴き上がった」「風呂の中で躍った」などの体験談が信心決定の証拠として紙面を堂々と飾り、周りの者たちも「よかったよかった」「私たち一味やね」と喜ぶから、いよいよその気になって、これでもう大丈夫、と腰を落ち着ける。
その体験が、親鸞聖人の本当のみ教えと合致しているかどうかは、彼らにはどうでもいいのである。「救われたのが証拠」と頭から思い込み、自分の体験をつかんで離さない。教えを聞いても、自分の体験に合わせて聞いているから、真実の教えを受け付けなくなってしまうのだ。
しかも大概はその後、聞法する気がなくなり、仏縁を遠ざける。ましてや御恩報謝の活動など、さらさら見られない。そもそも布教しようにも、親鸞聖人のみ教えをまともに聞かされていないから、布教できないのである。
だから彼らが話しできるのは、自分の体験談ばかりだ。自分が苦労して求めて、その結果「ああなった」「こうなった」という自慢話になる。
こうなった 自慢ばなしに 花が咲く
苦労した 体験談が 自慢種
まるで独りよがりな、聞くに堪えない話のオンパレードでも、本人さんたちは「ご示談」と称してやっている。だが、どんな体験も、親鸞聖人の教えと合わなければ、そらごとたわごとなのだ。「あの人は救われた」と聞いて、すぐ飛びつくような心が、迷いの根本であると知らねばならぬ。
体験の真偽は、正しい教えの定規で決するのである。
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