2011/12/02

「他力をたのむ」とは? 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第22回

「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり」を誤解すると、悪をしてもいい、善はするな、ととんでもない誤解をしてしまいます。親鸞会は、悪人の正しい意味を明らかにし、本当の親鸞聖人の教えをお伝えしています。

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2011/09/16

本願寺門主「50年後はどうなる?」不安を吐露 親鸞会との違いはどこに?

「“ただ”の“ただ”もいらぬ“ただ”じゃったと、無条件の救いに驚き呆れた“ただ”である」。ただ念仏の「ただ」がこんなに凄い「ただ」だとは誰も知りません。親鸞会の講演会で、本当の親鸞聖人に会えたと喜ぶ真宗難民の方々はあとをたちません。

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2011/09/12

「非業非善」の念仏の真意 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第20回 

「非業非善」の念仏とは、どういう意味でしょうか?浄土真宗で極めて大切な、「他力」「自力」の意味を明確にしっていただかなければ、本当の親鸞聖人の教えはわかりません。親鸞会は、他力、自力の意味を正しく、丁寧に、ひとりでも多くの方にお伝えしていきます。

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2009/12/07

『歎異抄』解説書の比較対照【2】《弥陀の本願まことにおわしまさば》

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《ただ念仏して》
http://www.shinrankai.net/2009/10/hikak.htm 親鸞会.NET)

に引き続き、『歎異抄』解説書の比較をしてみましょう。

◆「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解◆

〔原文〕

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
(『歎異抄』二章)

このお言葉をどう説明しているか、

『初めての歎異抄』山崎龍明著の意訳から見てみましょう。
あらゆる人間を救おうという、阿弥陀仏の誓いが本物であるならば、
この教えを説かれた釈尊の教えが、嘘であろうはずがありません。
釈尊の教えがほんとうならば、中国・浄土教の大成者といわれる
善導大師(613~81)の説いた阿弥陀仏の教えが嘘であるわけがありません。

『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳では、どう書かれているでしょう?

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはず
はない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはず
がなかろう。

『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、
「本願が、まことであるとするならば」と領解する人が意外に多くあります。
山崎氏をはじめ、ほとんどの解説書がそのように解釈しています。

ですがこの章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、
「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、
決死の覚悟で訪ねた時におっしゃったお言葉である。
本願まことかどうかを聞きに来た人に、「まことであるとすれば」では何の解答にも
ならないから、倉田百三は「驚き入った非論理」と評している。

『法然と親鸞の信仰』倉田百三著の解説には、こう書かれています。

中学生にでも解るように、これは論理上には、証明にも何にもなっていない。
「弥陀の本願がまことにおわします」ことを証明しなければならない場合に、
「おわしまさば」という仮説を初めに持って来るとは驚き入った非論理である。
しかし此処が「信」の世界なのだ。

(倉田百三『法然と親鸞の信仰』)

「しかし此処が『信』の世界なのだ」と説明されても、はぐらかされた思いにしか
ならないでしょう。
ここは、なぜ聖人がこんな表現をされたのか、解説に苦心されてきた所です。
関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったために、「本来、親鸞にはありえない」
仮定的表現で語られただけ、と理由づけする人もいます。

例えば、

『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿著では、こう解説されています。

「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、
考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視され
たり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。
(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえない
ことがわかる。
それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれな
ものだったことによる。(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)
『歎異抄』だけは、相手に応じて、本来ありえない表現がなされたというのでは、
取ってつけたような解説です。
従来の解釈は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、その説明は
「……であろう」という私見にすぎず、しかも文章は哲学的で理解しがたいものに
なっているのです。

『歎異抄論註』佐藤正英著の解説は、以下のとおりです。

「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて
解したのでは文意が死んでしまう。
従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく
「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられ
ているのだろう。
親鸞は、阿弥陀仏の誓願が<真にして実なる>ものであることを己れの<知>において
捉えているわけではない。
<信>を抱いているにすぎない。

いいかえれば己れの<信>においてのみ阿弥陀仏の誓願は<真にして実なる>もの
として現前している。
その<信>の地平を明示せんがためであろう。
また、「草枕旅行く……」の歌と同様に、仮定的に語ることによって己れの<信>の
強固さを確かめ、詠いあげんがためであろう。
(佐藤正英『歎異抄論註』)

この『歎異抄論註』の著者は序文で、自分が試みたのは
「さまざまな読みかたのひとつ」と断っているから、自説の展開に躊躇はないのでしょう。
その序文では加えて、「『歎異抄』はわからないことが多い。異様なまでに多い」とも
告白しています。
そんな人から聞いて、何が分かるのでしょう。
解説者がこんな状態ならば、おびただしい研究書があっても、『歎異抄』は依然として
謎に包まれています。
その真意の解明は、聖人のお言葉によるしかありません。
第二章の「まことにおわしまさば」を「まことであるとするならば」と読むのは、
親鸞聖人の信心とかけ離れています。
「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点だったからです。
それを『歎異抄をひらく』では、聖人のお言葉を根拠に、次のように教えられています。

■『歎異抄をひらく』189~191ページ

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実ある
ことなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします
(歎異抄)

火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとで
あり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。
「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、
仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほか
ならない。

冒頭で引用した山崎龍明氏は、「仮定」と読んだ理由を、ここは親鸞聖人が
「やや遠慮がち」におっしゃった所だと、苦しい解説をしている。
だが聖人自作のお聖教によれば、「断定」であることは明らかだ。
「遠慮がち」どころか、「弥陀の本願まことだった」と、幾ら言っても言い足り
ないのが他力信心なのである。
※参考

「弥陀の本願まことにおわしまさば」
マンガ:『歎異抄をひらく』の衝撃度 浄土真宗親鸞会公式HP
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic05.htm

親 鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【1】《ただ念仏して》
親 鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【2】《弥陀の本願まことにおわしまさば》
親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【3】「急ぎ仏になりて」
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2009/10/30

三國連太郎 歎異抄に魅了された人々

日本を代表する俳優、三國連太郎は、
「釣りバカ日誌」「マルサの女」「大病人」などの映画や、
テレビドラマなどで、おなじみです。

その三國氏を感動させたのが親鸞聖人の主著『教行信証』でした。
三國連太郎はこう言っています。

「私が一番感動するのは『教行信証』の冒頭の言葉です」

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2009/10/09

東条英機(2)歎異抄に魅せられた人々

それまでは、全く真宗の教えに疎かった東条も、獄中で『正信偈』をよく拝読し、
このような形で仏縁を深め、仏法についてこのようなことを語っています。

「ことに大無量寿経は偉いことですね。その中でも殊更に、(阿弥陀如来の)四十八願
を読むと、一々誠に有り難い」

「この『正信偈』の中には、信ずるということを、何べんも繰り返していわれている
ですね。初めには応信如来如実言、終りには唯可信斯高僧説、その他お話の中にも
あったように、信ということをくどくどいっておる。

有り難いですなぁ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。
私の如きは、最も極重悪人ですよ。
本当の仏様の目から見れば実に極重悪人ですよ。

例えば肉を食うとか、米を食うとか、米にも生命がありますよ。
そういう食事のことからだけ考えても、それらを食わねば生きて行けない人間だ
ということは、全く極重悪人です。
それがよくわからないと、極重悪人がわからない。
ちっぽけな智慧、それが禍いしてくるのですね。だから、知識人は信仰に入れない
のですね。

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2009/10/06

東条英機(1)歎異抄に魅せられた人々

有名な東条英機の晩年は、浄土真宗の信仰の深い、勝子(かつこ)夫人や巣鴨拘置所の
教誨師(きょうかいし)、花山信勝(はなやましんしょう)の影響で浄土真宗に帰依し
親鸞聖人の教え・歎異抄に魅了され、こんな言葉を残しています。

「(花山)先生、いまは『正信偈』や『歎異鈔』を読ませてもらって
喜んでおる」(巣鴨の仏間にて・東条英機)

「勝子へは、精神的打撃だろうが、仏の大慈悲をいただいて
天寿をまっとうせよ。歎異抄の第一章は胸をつく」

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2009/10/01

《至宝》(最高の宝物)とは、何だろう?

、親鸞聖人750回大遠忌記念 本願寺展 -世界遺産の歴史と至宝-
といわれるものが開かれています。

ここで気になる《至宝(しほう)》すなわち《至上(最高)の宝》とは何か?
ということです。

今回、展示されているものは、タイトルにも出ているように、
いわゆる《遺産》的なものが多いようです。

それらも大切なものではありましょうが、
仏法者ならば、まず何を《至宝(しほう)》とすべきでしょうか?

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2009/09/30

花岡大学(歎異抄に魅せられた人々)

花岡大学 (はなおかだいがく1909年 - 1988年)は、
童話作家・小説家・児童文学作家であり、京都女子大学名誉教授でもありました。

児童文学作家としては宮沢賢治、小川未明(みめい)と並び称されるほど。
その花岡大学が『歎異抄』についてこう語っています。

「すくなくとも『真実に生きる道』を求めようとする人なら、
 わたしはまず何をおいても『歎異抄』を読んでもらいたいと思う」

「河出人物読本・親鸞」

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2009/09/29

丹羽文雄(3)歎異抄に魅せられた人々

三重県四日市の寺に生まれた丹羽文雄。
父は不義を働き、生母は4歳の時に家出してしまいます。
それが縁となって、100年の生涯、人間の罪、業を問い続け、人間性探求一途の
作品を追い求め、500以上の書を著しました。
そんな丹羽文雄は『歎異抄』についてこう語っています。

「親鸞の『歎異抄』の文句を、私が読んでもぴんと胸にくるものがあるという
のは、親鸞の思想が今日私達とけっして時代が違っていない、新しいという
ことができると思います。

あのような昔に、どうして人間の正体というようなものを見事につかんで
いることができたのか、これは驚きです」
                 (親鸞の眼)

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