2009/10/09

東条英機(2)歎異抄に魅せられた人々

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多くの人を魅了してやまない歎異抄。
『親鸞会』では、親鸞聖人の教えを正確にお届けするために
『教行信証』を通して『歎異抄』のこころを明らかにしています。
その歎異抄の魅力をこのコーナーでは紹介しています。
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tannisho 204x300 東条英機(2)歎異抄に魅せられた人々
「(花山)先生、いまは『正信偈』や『歎異鈔』を読ませてもらって
喜んでおる」(巣鴨の仏間にて・東条英機)

「(妻)勝子(かつこ)へは、精神的打撃だろうが、仏の大慈悲をいただいて
天寿をまっとうせよ。歎異抄の第一章は胸をつく

とは東条英機の言葉です。
有名な東条英機もまた、歎異抄に魅了された一人です。

東京裁判で死刑囚となった人々は巣鴨拘置所に入れられましたが、その九割が仏教徒だったことも
あり、浄土真宗の花山信勝(しんしょう)氏が、教誨師として法話をすることになりました。
死刑囚となった東条英機の聞法は、巣鴨拘置所で始まったのです。
東条英機について、花山信勝は次のように書いています。
「この日はじめて、東条元大将の姿が仏間に現れた。
 肩章と襟章をはずした丸腰の軍服姿だ。
 例の眼鏡が光っていた。

 東条元大将は、終わりまで緊張して、身動き一つせず、もっとも熱心に
 聴いていた。
 私は、この初めての因縁が、実を結ぶように、と念じたのであった。

 巣鴨の門をくぐって、この三年の間に、私はいろいろの人生を学んだ。
 最初は服装もまちまちで、中にはどてらを着た人もあった。
 下駄をがらがら引きずって、話しながら入ってきた人もあれば、寄席
 にでも出かける気持ちの人もあったように見うけられた。

 しかし、それが回数を重ねるとともに、しだいに緊張して、真剣に法話を
 聞こうという気持ちに進む人が多くなったのは、うれしいことであった。

 はじめの年の6月の終わりころであった。東京の温度は華氏90度(約
 摂氏32度)以上の暑さで、窓が一方だけしかない二階の仏間では、風
 も通らず、蒸し風呂にでも入っている熱苦のなかに、夏服をもちあわせ
 ていない老将軍たちは、冬の軍服やモーニングを着て、出て来られたので
 ある。
 房の中では、むろん、はだかで寝ころんでいたであろうに。
 そして、一時間の勤行と法話の間、身動き一つせず、謹厳(きんげん)その
 ものの姿で、真剣に聞いて
下さったことを、いまもなお忘れることができな
 い。

 顔からは汗がダラダラと流れ落ちるのが、よく見えた。
 しかし扇子もつかわず、ハンケチでぬぐおうともしなかった。
 人生一大事の「死」の前には、そんなことは問題でなくなっていたのである。


 私も、しぜん、その真剣さに引きずられて、ポタリポタリと顔から汗を流し
 ながら、ぬぐうこともせず、法話をつづけたのである。

 このごとでは、どの組もどの組も、みなひとしく、しぜんに、私の読む
 正信偈と和讃を、声高らかに、同唱するようになったし、法話の前には、
 一同起立して、

  人身受け難し、今すでに受く。
    仏法聞き難し、今すでに聞く。
               ・・・・・・・
 と、私がしずかに前文を読むと、一同は声をそろえて、
 三法帰依の文を心から、同唱するようになったのである。

 ついこの間までは、軍人や国民に、戦陣訓や国民の誓を同唱させた立場の
 人々が・・・、と考えると、万感胸にせまってくるのである」

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「仏法は聴聞に極まる」お釈迦さま親鸞聖人も教えられますが、
東条氏たちは、かくも真剣に聞法していたのです。

※関連記事:仏法は聴聞に極まる 大雪の日も火事の跡でも
http://www.shinrankai.or.jp/50th/watasi/02siga.htm
そして、それまでは、全く真宗の教えに疎かった東条も、獄中で『正信偈』をよく拝読し、
このような形で仏縁を深め、仏法についてこのようなことを語っています。

「ことに大無量寿経は偉いことですね。その中でも殊更に、(阿弥陀如来の)四十八願
を読むと、一々誠に有り難い」


「この『正信偈』の中には、信ずるということを、何べんも繰り返していわれている
ですね。初めには応信如来如実言、終りには唯可信斯高僧説、その他お話の中にも
あったように、信ということをくどくどいっておる。

有り難いですなぁ。私のような人間は愚物も愚物、罪人も罪人、ひどい罪人だ。
私の如きは、最も極重悪人ですよ。
本当の仏様の目から見れば実に極重悪人ですよ。


例えば肉を食うとか、米を食うとか、米にも生命がありますよ。
そういう食事のことからだけ考えても、それらを食わねば生きて行けない人間だ
ということは、全く極重悪人です。
それがよくわからないと、極重悪人がわからない。
ちっぽけな智慧、それが禍いしてくるのですね。だから、知識人は信仰に入れない
のですね。

……首切られる時はただ南無阿弥陀仏以外にない。
人間は、生死を超えなければいかんですね。
」(『巣鴨の生と死』花山信勝・著)
「人間は、宗教に入らなければ、人生は歩めない。
上っ面ばかりの生活では、とてもだめだ。
黒潮の流れの上だけをみているような生活では、真実の人生は味わえない。
しかし、なかなか、若い者は宗教には入らないですね」
                 (『巣鴨の生と死』花山信勝・著)
つづく

※参考:阿弥陀如来の本願とはどんなことなのか|浄土真宗 親鸞会公式サイト
http://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0401.htm

【浄土真宗の基礎知識】『正信偈』には何が書かれているのか
http://www.tulip-k.co.jp/yougo/41.htm

親鸞会.NET» » 歎異抄に魅せられた人々

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