2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(6) 親鸞会.NET

当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───

今日が第6回目です。

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新人太郎氏から459氏へ
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「仏法を伝えようとするなどの報恩の行体は、善でも悪でも、そのいずれにも入らないことになります」

との返信、目パチクリです。

「行体」という言葉の意味を理解されてのことですか。
苦渋の選択だったのでしょうが、そんなことを言われてもよいのでしょうか。

くどいようですが、あなたの発言を確認しておきたいと思います。

「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らぬ」
これでよろしゅうございますか。
お尋ねします。

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459氏から新人太郎氏へ
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??
私がいつそのように言いましたか?
勝手に人の発言を改ざんしないでください。
私の発言はそのまま引用してください。

私は報恩行は往生行諸善ではない、と言ったのです。
仏法上の善、悪について言ったのではありません。

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新人太郎氏から459氏へ
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「報恩行とは救われた後の感謝報謝の行です。
『助かりたい』等の参らせごころのある往生行とは別物です。
ですからここでは『そのいずれにも入らない』ということになります」

と、459さんが言われたので、

「救われた人の仏法を伝えるなどの、感謝報謝の報恩の行は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らない、と理解してもよろしいのでしょうか」

とお尋ねしたのです。

それに対して、

「私がいつそのように言いましたか?勝手に人の発言を改ざんしないでください。私の発言はそのまま引用してください」

と叱ったあと、

「私は、報恩行は往生行諸善ではない、と言ったのです」

と当然なことを言い、

「仏法上の善、悪について言ったのではありません」

と逃げられる。

報恩行の仏法上の善悪を聞いているのに、答えになっていると思われますか。

もう一度お尋ねします。

「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善悪の、いずれにも入らないのでしょうか」

よろしくお願いします。

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459氏から新人太郎氏へ
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あなたが論点をずらしているのがわかりませんか?
私は、報恩行は、あなたとの議論で扱ってきた往生行諸善とは別物だと言ったのです。
言葉のまま理解すればいいものを、それをなぜ『仏法上の善悪』という問題にすりかえるのですか?
私がここで言いたかったことは往生行と報恩行は別のものということだけです。
それは理解できたのですね?

あなたは、『くどいようですが、あなたの発言を確認しておきたいと思います。「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らぬ」
これでよろしゅうございますか。 お尋ねします』
だったのです。
『発言を確認しておきたいと思います』とあなたは言ってるのですから、私は『そのようなことは言ってない』と言ったまでです。

別の論題に進むのならばその段階を踏むべきです。
一体あなたは私と何をしたいのですか?
確認させてください。

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新人太郎氏から459氏へ
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「私がここで言いたかったことは往生行と報恩行は別のものということだけです」

と明言されているように、私の尋ねているのも、そのこと一つです。
論点をずらしているとは、とんでもない。
論点はピタッと定まり、微塵の狂いもありません。

「仏法を伝えるなどの往生行」と、
「仏法を伝えるなどの報恩行」の
行体は、別のものだと、あなたは言われる。
仏法を伝える行為のどこがどう違って、別のものと言われるのでしょうか。

「一体あなたは私と何をしたいのですか?
確認させてください」
と459さん、お望みですからもう一度言いましょう。
仏法を伝えるという同じ行為なのに、どこがどう違って、
「あれは往生行」
「これは報恩行」
と、分けられるのですか。
わかる言葉で、分かれ目を、わかるようにお聞きしたいだけなのです。
よろしくお願いします。

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459氏から新人太郎氏へ
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『論点をずらしているとは、とんでもない。
論点はピタッと定まり、微塵の狂いもありません』
とは。
あなたは天然ですね(笑)

「仏法を伝えるなどの往生行」と、
「仏法を伝えるなどの報恩行」の違いは、
真宗では信前・信後で変わります。

以前あなたが勘違いされていた「仏法上の善悪」についてはひとこともふれないのですね。

あなたは私との議論で一体何をしたいのか、と聞いたのです。

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(コメント)

ここです。
「仏法を伝えるなどの往生行」と、
「仏法を伝えるなどの報恩行」は、
「信前・信後で変わります」
と、459氏は明言されました。

「信前」とは、信心獲得する前(阿弥陀仏に救われる前)ということであり、
「信後」とは、信心獲得した後(阿弥陀仏に救われた後)ということです。

この「信前・信後」の変わり目こそが、浄土真宗の肝要と言われる、
「信の一念」
です。

蓮如上人は、『御一代記聞書』に、

「聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり」

と、これを仰っています。
すなわち、弥陀に救われる前と、救われた後とでは、何が、どう変わるのか。その変わり目の「一念」こそが、自力と他力の水際であり、地獄と極楽の分かれ目であり、弥陀の本願の至極であり、釈迦出世の本願の肝要ですから、
この「信前・信後」の変わり目を、徹底的に峻別されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』六巻であり、90年のご生涯であったのです。

その「信前・信後」という言葉を出して、459氏はようやく答えました。というよりも、そう答えざるを得ないようになった、といったほうが適切かも知れません。
いずれにせよ、この、
「真宗では信前・信後で変わります」
の一言が、議論を大きく前進させ、また459氏にとっては命取りになるのですが、少なくともこの時点では、気がついていないようです。
続く

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新人太郎氏から459氏へ
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「『仏法を伝えるなどの往生行』と、
『仏法を伝えるなどの報恩行』の
行体は、別のものだ」

と、あなたは言われる。

「仏法を伝える行為のどこがどう違って、別のものと言われるのでしょうか」

の問いに、

「真宗では信前・信後で変わります」

と返信頂きました。

「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、往生行ともなり、報恩行ともなる」
と、理解してよろしゅうございますか。

確認させて頂きます。

「私がいつそのようなことを言ったか」
と、またお逃げになるかな?
何しろ世話のやける天然ですから、お見放しなく、よろしくお願いします。

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459氏から新人太郎氏へ
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ですから私の言葉の通りに理解すればよいのです。
自分の都合のいいように改ざんする必要はないんです。

質問。

あなたはそれを知って(理解して)どうするのですか?
初期の議論の目的とはズレズレですよ。
目的は大事だと高森氏はくどいほど言ってるはずですが・・・。
ヒコーキとかタクシーとか・・・。

あなた一体何がしたいんですか?

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新人太郎氏から459氏へ
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「『仏法を伝えるなどの往生行』と、
『仏法を伝えるなどの報恩行』の
行体は、別のものだ

と、あなたは言われる。

「仏法を伝える行為のどこがどう違って、別のものと言われるのでしょうか」

の問いに、

「真宗では信前・信後で変わります」

と、あなたは答えられました。

そこで私は、

「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、往生行ともなり、報恩行ともなる」
と、理解してよろしゅうございますか」

と確認したのです。

それに対して、あなたの返事はこうでした。

「私の言葉の通りに理解すればよいのです。自分の都合のいいように改ざんする必要はないんです」

案の定というべきか459さん、また簡単な確認作業を拒まれた。よほど自己の発言の意味を確認されることが、お困りらしい。
なぜだろう。
確認すると、たちまち自己矛盾が浮き彫りになるからでしょうか。

今はただ、
「見放さずに、じっくりいきますからね」
の459さんのかつての言葉が、懐かしく思い出されるだけです。

私の理解が、あなたの言葉の通りかどうかの確認は、目的への始まりです。

「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、往生行ともなり、報恩行ともなる」

と、理解してよろしゅうございますか。
再度、確認させて頂きます。

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459氏から新人太郎氏へ
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どんな自己矛盾ですか?
教えてください。

私も同じく「親鸞会の教義がひとつでも親鸞聖人の教えと異なれば親鸞会を辞める」と言っていた頃のあなたが懐かしいです。
今は目的を見失い、ただ意地で書き込みつづけるあなたがかわいそうです。

あなたが本当に親鸞聖人の教えが知りたい人ならば、SA氏やその他の人の問いかけを無視するはずがありません。

私が書き込まなくなればあなたは法論に勝って安心ですか?
一体あなたは何がしたいのですか?

どんな目的?
「始まり」ということは以前の目的は果たされたので、次の目的を新たに設定したんですか?

『「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、
往生行ともなり、報恩行ともなる」
と、理解してよろしゅうございますか』

と言われますが、別物だと言ってます。

往生行諸善雑行の法施と、報恩行の法施とは全く別物です。
別物ですから「行体は同じ」ではありません。

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新人太郎氏から459氏へ
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『「仏法を伝えるなどの行体は同じだが、信前・信後で、
往生行ともなり、報恩行ともなる」
と、理解してよろしゅうございますか』

の重ねてのお尋ねに、漸く重い腰を上げられた459さん、

「仏法を伝えるなどの往生行諸善雑行と、報恩行とは、全く別物で、行体は同じではありません」

とお答え下さった。

それではお尋ねいたします。

「仏法を伝える」という行為そのものは、全く変わらないのに、459さんは、別物だと言われる。
仏法を伝えるという行為自体、信前・信後で、どう違うのか。どこが変わるのか。
「あれは、往生行」
「これは、報恩行」
と、何をもって分別するのか。

わかる言葉で分かれ目を、天然にもわかるように、答えて下さい。

「一体あなたは何がしたいのですか?」
の再度のお尋ねには、あなたがまだ気付いてはいられない自己矛盾を知って頂くため、とでもお答えしておきましょう。

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459氏から新人太郎氏へ
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『「あれは、往生行」
「これは、報恩行」
と、何をもって分別するのか。
わかる言葉で分かれ目を、天然にもわかるように、答え
て下さい』

に答えます。

信前、信後で分別します。

他力信心を獲たか、獲ないかをもって分別します。

『あなたがまだ気付いてはいられない自己矛盾を知って頂
くため』

といわれているが、
そうですか・・・。
私が私の自己矛盾を知るのが、あなたの議論の目的ですか・・・。
わかりました。
それがあなたの目的ならば私はこれでサヨナラです。

条件から逸脱しますからね。

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新人太郎氏から459氏へ
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「仏法を伝えるという行為自体、信前・信後で、どう違うのか。どこが変わるのか。
『あれは、往生行諸善雑行』
『これは、報恩行』
と、何をもって分別するのか」

という親鸞聖人の教えにとって、最も大事な問題を前にして、なんということでしょう。
「あなたの目的が、条件から逸脱しますから、私はこれでサヨナラです」
早々と459さん、敵前逃亡ならぬ、悲しいサヨナラ宣言をなされた。

信前・信後で、われわれの行為のどこが、どう変わるのか。
他力の信心を獲る前と獲た後と、仏法を伝えるなどの行為自体、変わるのか、変わらぬのか。
こんな肝要が、親鸞聖人の教えにありましょうか。
そんな肝心の信前・信後、自力・他力の違いに答えられない口実が、「条件逸脱」では、仏法を論ずる者として、あまりにも低次元過ぎるとは思われませんか。

信前・信後の水際さえ分かっていれば、誰でもキチンと答えられることです。
信前・信後の意味を知らずに言葉を使う悲劇をさけるため、サヨナラ宣言せざるをえなかった、と疑われても仕方ないでしょう。

昔、男女同権を、男女同県人の意味で使っていた老婆の話を思い出し、笑ってしまいます。
たとえ相手がどうであれ、自分に危険が迫っていても、決して真実開顕から逃げられなかった親鸞聖人を、仰がずにおれないのです。

以前の元気な459さんに、立ち返って、
「善を勧めない真宗」の教えを明らかにしてください。

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新人太郎氏から459氏へ
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459さん、お元気ですか。

同じ仏法を伝えるなどの行為なのに、
「あれは雑行だ」
「これは報恩行だ」
と、何をもって分別するのですか。

それに459さんは、

「信前・信後で、分別します」

と答えられました。

それでは信前・信後の違い目は何ですか。他力の信心を獲る前と、獲た後とで、どこが、どう変わるのですか。
変わらないのですか。
この信前・信後、自力・他力の水際こそが親鸞聖人の教えの至極ではありませんか。
その真宗の至極が、今、459さんに問われているのに、
「条件から逸脱するから、サヨナラします」では、
外野の声援も空しく果てるのかと、ガッカリするむきもあるのではないですか。
仏法者本来の姿に立ち返って、奮起して下さい。

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新人太郎氏から459氏へ
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459さん、新人太郎です。
お変わりありませんか。

仏法を伝えるなどの同じ行為でも、
「あれは雑行だ」
「これは報恩行だ」
と、何をもって分別するのかのお尋ねに、
「信前・信後で分別する」
と459さんは、お答えなさった。

では、その信前・信後の違い目は何でしょうか。どこが変わるのでしょうか。
この信前・信後の分かれ目こそが、「もろもろの雑行」が捨たるところでしょう。

以前に私が、

「諸善を捨てよ、やめよ」と言われた、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を聞いた折、
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」などの、蓮如上人や親鸞聖人のお言葉を14箇所もあなたは、ずらーっと出されたことは忘れません。

しかし、「雑行を捨てよ」の言葉をいくら並べても分かりませんが、実地に雑行の捨たった体験をすれば、雑行が捨たるとは、どんなことか、何が、どう捨たるのか、ハッキリするのではありませんか。

そこが、信前・信後の水際でしょう。
むろん、雑行が捨たった体験がなければ、逆立ちしても分からないし、言えないところでしょう。

親鸞聖人の教えの最要の、信前・信後の違い目が分からねば、雑行の行体も分からねば「捨てよ」の真意も分からない。
それでは「雑行を捨てよ」の多くの提示もナンセンスになりましょう。

「雑行を捨てよ」
とは、459さんの言うような、
「諸善を捨てよ、やめよ」
ということではなく、
「諸善を往生の役に立たせようとする心を捨てよ」
ということではありませんか。

それを、
「諸善をやめよ、するな」
と、聞き誤っている、真宗の道俗のいかに多いことか。
答えに窮される459さんも、そのお一人にすぎないと言えましょう。

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(コメント)

今から、親鸞聖人が、

「雑行を捨てよ」

と言われているのは、

「諸善を捨てよ、やめよ」

ということではなく、

「諸善を往生の役に立たせようとする心を捨てよ」

ということであることが、示されていきます。
ここが、みんな誤解しているところですから、ねんごろに、重ねて、
「雑行を捨てよ」の真意が、明らかにされていきます。

続く

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2010/07/16

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新人太郎氏から459氏へ
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こんにちは、459さん。お加減いかがでしょうか。

「あらおかし 世はさかさまに なりにけり
乗った人より 馬が丸顔」

で、叱っていた人が、いつの間にやら諭されているような、おかしなことになってしまいましたが、猛火が迫っているのですから、目を覚ました者から眠っている人を起こさねばならないでしょう。

「『雑行』とは、仏法上のすべての『諸善』のことであり、『雑行を捨てよ』とは、『一切の諸善を捨てよ、やめよ』ということである」
「諸善を勧める親鸞会は、いかにインチキかに気付いてもらうのが私の仕事」
とまで、459さんは言いなさっています。

「雑行を捨てよ」

ということを、

「諸善を捨てよ、やめよ」

と誤解しているのは、459さんだけではないことは、先にも述べたことですが、因果の道理を否定する輩ならともかく、因果の道理を深信する仏法者なら、

「諸善を捨てよ、やめよ」

と言えるはずがありません。
もしあれば、その人は、「諸善」を「雑行」と嫌われ捨てよと言われる真意を知らないだけでしょう。

ではなぜ、
「諸善」を「雑行」と嫌われ捨てよ、と言われるのか。
「諸善」を行う心がけが悪いからです。

その悪い心とは、

「往生の役に立てようとする心」

です。

「雑行」とは、その悪い心で行う諸善のことでしょう。

「諸善」が悪いはずはなく、それをやる心がけが悪いから、雑行とけなされ捨てよ、と言われるのであって、諸善そのものを捨てよ、やめよ、ということではないのです。

「往生の役に立てようとする自力の心を捨てよ」
と言われているのを、459さんはじめ多くの真宗の人は、
「諸善を捨てよ、やめよ」
と聞き誤っているのです。

往生の役に立てようとする心で行う「諸善」はすべて雑行といわれ、「念仏」ならば雑修と言われるのではありませんか。

重ねて言いましょう。

「雑行を捨てよ」
の教誨は、断じて、
「諸善を捨てよ、やめよ」
ということではなく、
「諸善を往生の役に立てようとする自力の心を捨てよ」
ということであることを。

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新人太郎氏から459氏へ
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459さん、その後いかがお過ごしですか。

459さんは、9月28日のカキコで、
「諸善を捨てよ、止めよ」と「雑行を捨てよ、止めよ」は同じことだと、まだ分かりませんか、と叱っておられます。

「諸善」と「雑行」の違いが分からず、
「雑行を捨てよ」は、イコール
「諸善を捨てよ、止めよ」の教えだという誤解は、真宗にとって極めて重大です。

「雑行」も「諸善」も、その行体は変わりませんが、
「往生の役に立てようとする自力の心でやる諸善」は「雑行」と嫌われ「捨てよ」
と言われます。

その自力の心が、他力の心に切り替えられて、広大な仏恩に感泣し動かされる諸善は、報恩行となるのでしょう。

同じ諸善が、自力の信心でやるか、他力の信心かで、雑行ともなり報恩行ともなるのではありませんか。

たとえば、同じ菓子箱が試験の前に持参すればワイロと悪くいわれますが、見事合格した後に持って行けば、誰にはばかることのないお礼の菓子箱になるようなもの。菓子箱そのものは少しも変わりませんが、持っていく心は大違いです。

救われていない信前は、雑行と嫌われ捨てよといわれていた諸善も、救われた信後は報謝の行となる。同じ「諸善」が、信前・信後で雑行ともなり、報恩行ともなるのでしょう。

「雑行」と「諸善」の違いは、行体にあるのではなく、それを行う心の違いではありませんか。
だから「雑行を捨てよ」は「諸善を捨てよ」ではなく、自力の心を捨てよということなのです。

諸善をすべて雑行だとすれば、「雑行を棄てて、本願に帰す」といわれてからの親鸞聖人の報恩行の活動は、一体なんだったのか。

諸善ではなかったのか。
「雑行」と「諸善」の分別がハッキリしていないと混乱し行き詰まってしまうのです。
「真宗では、諸善を勧めない」などと大衆に、悪人製造の教えのような誤解を与える罪は、決して軽いものではないでしょう。

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459氏から新人太郎氏へ
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あなたの「問い」はあなたがどうしても知りたいことですか?
どのぐらい知りたい気持ちがありますか?

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新人太郎氏から459氏へ
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「あなたの問いは、あなたが、どうしても知りたいことですか」

久しく、ご無沙汰の459さんの返信は、何をいまさらと思わせる、大変心外なものでした。
「親鸞聖人の教え」と「親鸞会の主張」の、どこがどう違うのか、どうしても知りたくて、問い続けてきたのではありませんか。
今までも今からも、このこと一つの為ですから、初期の目的を踏み外さずにお願いします。
なにしろ世話のやける天然ですから。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
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親鸞会と真宗の違いはすでに示しました。
それは「浄土真宗は諸善を勧めるか否か」という点です。
どうしてもあなたが知りたいというのならばSA氏が懇切丁寧に教えてくれてます。
そちらへどうぞ・・・。

私はあなたとこれ以上議論するつもりはありません。
あなたが本当に親鸞聖人の教えと親鸞会の主張のどこがどうちがうのか知りたいという気持ちがあるならばSA氏の問いかけに無視する理由はありません。
あなたは私以外の人の問いかけに徹底的に無視ダンマリを決め込んでいますが、それが求道者の姿勢とは思えません。

真摯な気持ちをお持ちならSA氏の問いかけに答えるべきです。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新人太郎氏から459氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

「新人太郎さん こちらで・・・・」
と、他人を招きながら、
「私はあなたとこれ以上議論するつもりはありません」
とは、おかしすぎます。
至極さん以上の方があるとは思いませんが、初期の目的を果たすためなら、どなたの指導を受けられても結構です。
己の発言には、己が責任を持って答えるのが当然でしょう。
「他人に聞いてくれ」では、
「これ以上議論するつもりはありません」
が、
「これ以上議論できなくなりました」
と、勘ぐられても仕方ないでしょう。

獅子は伴侶を求めず。
もっと、自信を持って懇切丁寧に対応されるのが、真摯な気持ちをお持ちの方と思われますがいかがでしょう。

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(コメント)

「459」というハンドル名は、「至極」という仏教の言葉からつけたのでしょう。

「至極」とは、仏教で最も重い言葉です。
これ以上大事なことはない、ことのみに用いられます。
そんな「至極」という最重要の言葉を、自分の名前に付けるくらいですから、よほど自信があったのでしょう。

「では仏教の素人(?)にもわかってもらえるようにカキコするつもりでいきます」
などと、最初に大見得を切ってしまったものですから、取り返しのつかないことになったのです。

ただ、
「雑行を棄てよ」
の真意が鮮明にされる、絶好の勝縁を与えてくれたのですから、そういう意味では感謝すべきかも知れません。

では、浄土真宗の至極とは何か。

これがまさに、「信前・信後の水際」の一念である、と親鸞聖人も蓮如上人も、
「聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり」(御一代記聞書)
と明らかにされています。
その「真宗の至極」が、459氏に問われているのです。

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(9) 親鸞会.NET

当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───

今日が第9回目です。

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459氏から新人太郎氏へ
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SA氏のスレ[発言]にレス[返信]してください。

私とSA氏では、真宗上の諸善についての解釈を同じくしていると思ってます。
(まあ親鸞会が異端なのですが・・・)

それともSA氏の問いかけに答えると何か都合が悪いのですか?

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新人太郎氏から459氏へ
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私の聞いているのは、ただ一つ。
9月28日のカキコであなたは、
「雑行と諸善は同じことだ」と言われていますが、そうですか。
簡単な、イエスかノーの一言なのです。
それに答えるのが、あなたの初期の目的ではなかったのですか。
仏法では、至極以上の重い言葉は無いそうですが、自分の言ったことにさえ責任とれず、「他人に聞いてくれ」では、459さんの名を汚すだけでしょう。
無責任な「逃げません」の誓いにならないようにして下さい。

「どこが異端ですか」と尋ねる者に、
「異端なのですから・・・」で答えになっていると思われますか。
「ダメなものはダメ」で、何の説得力もありません。
これ以上醜態をさらさないで下さい。

重ねてお聞きします。
「雑行」と「諸善」は、同じことでしょうか。

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459氏から新人太郎氏へ
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私の名前なんていくら汚れてもかまいません。
お尋ねの件に関してもSA氏がお答えくださると思います。

なぜあなたはそれほどまでにSA氏を無視し続けるのですか?
なにか理由があるのですか?
知りたい気持ちなんかまるでなく、ただ私が憎いだけですか(笑)?

それからあなたは「諸善」と「雑行」が違うとお考えのようですが、SA氏と議論する場合にはその聖教上の根拠を示してくださいね。
「聖教にない勝手なことを言っては仏法ではありません」(だったっけ?)とアニメで善恵房証空さんが言ってますよ(笑)。

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新人太郎氏から459氏へ
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「名前なんていくら汚れてもかまいません」と開き直られるのはかまいませんが、
「私が憎いだけ」などと被害妄想だけはしないで下さい。
そんな気持ちは少しもありませんから、ご安心の上、
「雑行」と「諸善」は、同じことですか、
分かっていられるのなら、イエスかノーでお聞かせください。

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459氏から新人太郎氏へ
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何度も言ってますが、私はあなたとこれ以上議論する気はありません。

もしあなたがお尋ねの件について知りたいならばSA氏のツリーに書き込めばいいだけです。
SA氏、茶畑氏、通行人Z氏などの問いかけになぜ頑なにダンマリを決めているのか理解に苦しみます。
なぜ答えぬ(笑)。。

今後あなたがSA氏他の問いかけに答えるまで私はレスしません。
楽しみにしてますよ。
さようなら。

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新人太郎氏から459氏へ
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「分かっていられるのなら、『雑行』と『諸善』は、同じことですか、イエスかノーでお聞かせください」

それに対して459さん、またまた、
「他人に聞いて下さい」
と無責任発言された。

459さんさえ、答えられぬことを誰が答えられるというのでしょう。至極以上はないのですから、ひとえに459さんに聞いているのです。
「私が憎いだけ」などと、ひがまないで下さい。憎まれるようなことをしてきた反省なら尊いのですが、ことは真宗の大問題ではありませんか。
個人的な、憎い、可愛い、というような次元のことではないでしょう。

真宗の諸善については、誰かさんの解釈と同じだといわれるのなら、その誰かさんのマネをして、答えられたらよいでしょう。
何か困ることがあるのでしょうか。
どんな他人をたのむより、弥陀をたのむのが一番でしょう。

再度のサヨナラ宣言、悲しいです。

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新人太郎氏から459氏へ
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一度サヨナラ宣言された459さんが、再度登場されて、他人に救いを求められたがうまくいかず、またサヨナラ宣言されました。

行き詰まられた問題は、
「諸善と雑行は同じことですか」
のイエスかノーの一言ですむことでした。

行き詰まられた原因は、
「諸善」と「雑行」の違いが分からず、
「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」と間違われたところにありました。

諸善とは、
「仏法上の諸善とは、布施(お金を寄付する、仏法の話をする)などの六度万行といわれるものです」
と、9月20日のカキコで459さんが言われている通りです。
因果の道理を根幹とする仏教が、諸善を捨てよと教えられるはずがありません。

では、「捨てよ」といわれている「雑行」とは何でしょう。
「往生の役に立たせようとする自力の心でする諸善」を「雑行」といわれます。
「雑行を捨てよ」とは、その「自力の心を捨てよ」ということです。
お聖教に「捨てよ」といわれている「諸善」もみな「往生の役に立たせようとする自力の心でやっている諸善」
のことであり、雑行と同じ意味です。

だから、「捨てよ」とは、
「往生の役に立たせようとする自力の心」
であって、決して、
「諸善を捨てよ、止めよ」ということではないのです。

それを459さんは、諸善と雑行の区別がハッキリしておられないから、
「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」
ということだと誤られたのでしょう。

悪いのは、心であって、行ではないのです。
459さんは、心と行を間違われたのでしょう。
「雑行を捨てよ」という教えはあっても、「諸善を捨てよ、止めよ」という教えは仏教のどこを探してもありません。
あれば仏教ではないでしょう。

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新人太郎氏から459氏へ
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459さんが、返答に窮された原因は、
「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」ということだと誤解されたところにあったのです。

もし、「雑行を捨てよ」が、「諸善を捨てよ、止めよ」ということならば、
「あれは仏法上の諸善だから捨てよ、してはならぬ」
「これは仏法上の諸善ではないから、してもよろしい」
と、仏法上の諸善と、そうでない善とを分別できなければなりませんが、どこで、どう、区別するのでしょうか。
誰もできる人はいないでしょう。
その分別ができなければ、捨てることも止めることもできません。

また、
親鸞聖人や蓮如上人は、弥陀に救われた一瞬に、「雑行」が捨たってなくなると教えられていますが、459さんのように、
「雑行」イコール「諸善」ならば、救われて雑行が捨たってなくなった後は、仏法上の諸善を一切やらなくなることになりましょう。
「諸善を捨てよ、止めよ」ですから、やってはならないことになります。
諸善を往生の役に立たせようとする「自力の心」は、弥陀に救われた瞬間になくなり、二度とあらわれることはありませんから、信後は一切、雑行ということはありません。

しかし、行が瞬時になくなったり、その後もあらわれないということは、ありません。

たとえば、今から煙草のむのをキッパリやめた、としても誘惑に負けてまたのむかも知れない。
親切するのは、もうやめたとしても、またすることもあるだろう。

念仏称えるのを止めた、捨てた、といっても、また称えることもあるでしょう。
雑行を捨てた後でも報謝の行はあふれてあらわれますが、二度とあらわれないのは、自力の心だけなのです。

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(コメント)

こうして、重ねて重ねて、何通にも渡って
「雑行を捨てよ」
の真意を明らかにされてきたのですが、

ここで、
「雑行を捨てよ」
ということが、もし、459氏の言うように、
「諸善を捨てよ、止めよ」
ということだとすると、おかしなことになる、二つのことが、示されています。
これが、新人太郎氏が明らかにしようとされた、
「459氏の自己矛盾」
といえるのでしょう。

一つは、こうです。

459氏の説によると、浄土真宗の教え(説法)では、
「あれは仏法上の諸善だから捨てよ、してはならぬ」
「これは仏法上の諸善ではないから、してもよろしい」
と説くことになります。

しかし、そのように教え勧めるためには、
「仏法上の諸善」と、
「そうでない善」
とを分別できなければなりませんが、そんなことのできる人は誰もいない、ということです。

 例えば、「お金を寄付する」という行為は、「被災者のために義援金を送る」とか「福祉施設に寄付する」とか、「経済的に困っている人にお金を与える」など、一般的にもなされている善です。
その「お金を寄付する行為」は、459氏は、
「仏法上の諸善だから捨てよ、止めよ」
と言われています。

 また、「仏法の話をする」行為も、459氏は、
「仏法上の諸善だから、してはならない」
と言われています。

 この459氏の主張に順えば、浄土真宗の教えは、こうなるのです。

「いいですか皆さん。困っている人にお金を寄付してはなりませんよ。仏法の話をする行為も『仏法上の諸善』ですから、絶対にしてはなりませんよ」

 果たしてこれが、「親鸞聖人の教え」なのか。
 極端に聞こえる人もあるかも知れませんが、459氏の主張では、そうなるのです。
 あるいは、
「被災者のために義援金を送るのは世間の善だからよいが、仏法のための寄付は仏法上の諸善だからいけませんよ」
と言われるのだろうか。

 ならば、「経済的に困窮しているために、遠方まで仏法を聞きにいけない人」に、
「仏法を聞いてもらいたいと思って、お宅を訪問し、少しでも生活費の足しにしてもらおうと、お金を与える行為」
は、「仏法上の善」なのか、それとも「仏法上の善ではない」のか。
 その際に、一言でも「仏法の話をした」ならば、その行為だけが「仏法上の善」ということになるのか。「お金を与えたこと自体」は、世間善であって「仏法上の善ではない」のか。
 どこからどこまでが、「仏法上の善」で、どこからが「仏法上の善ではない」のか。
 そんなことは、水際だつものではないでしょう。

 そもそも、「行」というのは、水際立てて、分別できるものではないのです。ですから、他人の行為を、
「あれは、仏法上の諸善だから、してはならなぬ」
「これは、仏法上の諸善ではないから、してもよろしい」
などと、教えられるはずがないのです。つまり、人間のやる行為の本質から言って、
「仏法上の諸善を捨てよ」
などという教えが、あり得るはずがない、ということです。

そして、もう一つが、
「行が瞬時になくなったり、その後もあらわれないということは、ない」
ということです。

親鸞聖人、蓮如上人のお聖教を拝読すれば、
「雑行」は「一念」という瞬時に捨たり、二度と現れないことは明らかです。
もし、その
「雑行を捨てよ」
の教えが、
「諸善を捨てよ」
だとすれば、「諸善」という行為は「一瞬でなくなり、二度としなくなるもの」ということになります。

しかし、「行」というものは、「瞬時になくなり、二度と現れない」というものではありえません。

ですから、親鸞聖人・蓮如上人が、
「雑行を棄てよ」
と言われているのが、
「諸善を捨てよ」
であるはずがないのです。
ここも、大いなる「矛盾」です。

では、なぜこの、
「行が瞬時になくなることはない」
という、極めて明らかな事実に気がつかないのか。

根本は、
「一念で捨たり、二度と現れない、『自力の心』」
が、分からないからです。

この「瞬時に捨たる心」が分からないから、
「だんだんとなくなるもの」「あとからまた現れるもの」が、「雑行」だと勘違いするのです。
すなわち、「雑行を棄てよ」を、「諸善を捨てよ」の教えと誤解するのです。

以上2つの点を、新人太郎氏は指摘されているのですが、これはまた、
「善の勧めを否定する者」の、共通した自己矛盾でもあります。

当然ながら、459氏は絶句するほかありません。
つづく

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2010/07/16

「雑行を捨てよ」の真意(10・最終回) 親鸞会.NET

当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───

今日が最終回です。

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新人太郎氏から459氏へ
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「雑行」イコール「諸善」と思い込んでいられる459さんが、
「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」
と誤解されるのも分からぬこともありませんが、真宗の「雑行」の本来の意味を知られないからです。

『教行信証』まで読まれなくても、蓮如上人の『御文章』を拝読すれば、弥陀の救いは、一念という瞬時で成就し、その一瞬に雑行が捨たって、永久に無くなると説かれているのがよく分かります。
これが親鸞聖人の教えの肝要でしょう。

親鸞聖人の教えでは、「雑行」とは、だんだんに捨たるものでもなければ、少しずつ無くなるものでもありません。
弥陀に救われた一瞬に捨たるものです。

459さんの言っていられるようなものが「雑行」ならば、一瞬に捨たったり、無くなってしまうということは毛頭あり得ないでしょう。お金を寄付するとか、仏法を話しするとかの行為ですから・・・・。

真宗で「雑行」といわれるものは、一念という瞬時に無くなるものです。
今まで言ってきた通り、
真宗で「雑行」とは、
「往生の役に立てようとする自力の心でする諸善」
を言うのですから、雑行が捨たったというのは、
「往生の役に立てようとする自力の心」
が捨たったことであり、無くなったことを言うのです。
「諸善を捨てる」ことでもなければ、
「諸善を止める」ことでもありません。
「雑行を捨てて本願に帰した」人ならば、明らかに体験することです。

実地に雑行の捨たった体験があれば、雑行が捨たるとはどんなことか、何が、どう捨たるのか、どんな天然でもバカでもハッキリ知らされることなのです。
それが分からねば、まだ雑行が捨たっていないのです。
これは机上の学問だけでは逆立ちしても分からないことですから、
「雑行を捨てる」とは、雑行の体は諸善だから「諸善を捨てる、止める」ことだと、ほとんどの人は思うのです。
そして「諸善を勧める親鸞会は間違いだ」
などと、とんでもない非難をするのです。

その結果、
「諸善を捨てよ、止めよ」という、親鸞聖人や蓮如上人の言葉をいくら尋ねられても、返答に窮することになるのです。
真宗の「雑行」の本義を知らないから、当然のことといえば当然でしょう。
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新人太郎氏から459氏へ
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459さんの主張が混乱し、行き詰まったのは、「雑行」と「諸善」の分別がハッキリしなかったからでしょう。

だから、

「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ」の教えと聞き誤られたのです。
体は同じ諸善ですが、
「往生の役に立てようとする自力の心」
でやれば、雑行といわれますが、それが他力の心に切り替えられ、広大無辺な仏恩に生かされ、努力せずにおれない諸善は、報恩感謝の行となるのでしょう。
同じ諸善ですが、信前・信後で雑行ともなり、報恩行ともなるのです。

「雑行を棄てて本願に帰す」
と宣言されてからの親鸞聖人が、何とか仏法を伝えようと弁円の剣の下をくぐり、石を枕に雪を褥に、日野左衛門に教えを説かれた不惜身命の活動は、雑行が捨たって、弥陀の本願に生かされた、やむにやまれぬ報恩行ではありませんか。

それを親鸞聖人は、“身を粉にしても、骨を砕きても報ずべし”と『恩徳讃』に言われているのでしょう。

459さんも、雑行を捨てて本願に帰したおつもりのようですが、9月24日のカキコで、「私の目的は、本当の仏教を説く為でもなく、念仏とは何かを説くことでもない、ましてあなたを他力信心の境地に導くことでもありません」
と言われています。

『恩徳讃』と対照的なのに驚きますが、それでも、恥ずべし傷むべしの懴悔も反省もなく、他の非難に明け暮れているとすれば、何といえばよいのでしょうか。
真に雑行が捨たり、弥陀に救われた人ならば、「条件逸脱」などの口実で、燃える『恩徳讃』が消えるとは考えられないことでしょう。
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新人太郎氏から459氏へ
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459さんの非難が破綻されたのは、「雑行」と「諸善」の違いがハッキリせず、
「雑行を捨てよ」の親鸞聖人の大事な教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」の教えと誤認されたところにあったことが、明らかになりました。

それにしてもその間、あまりにもひどい、その場しのぎの発言が多くありました。
その一、二を挙げますと、

9月22日のカキコで459さんは、
「大乗経典は、みなウソッパチなんです。あなたは、そんなウソッパチの書いた経典を信じるのか」
と言われています。

ところがその後、自分の主張の根拠に親鸞聖人や蓮如上人の言葉をずらーっと出されて、「これでもお前は分からんのか」と叱っておられます。
459さんが、ウソッパチの経典と罵倒されている『大無量寿経』を、親鸞聖人や蓮如上人は、真実の経とされているのに、です。

また、
9月25日のカキコでは、
「あなたの『わからん、わからん』の愚痴のひとことひとことが、阿弥陀仏の胸に五寸釘を打ち付けているということを、お忘れなく」
とまで戒めておられます。

『大無量寿経』をウソツキ経典と思っていられる人に、「阿弥陀仏を泣かせる云々」と嘆かれる心があったとは、まさに青天の霹靂で驚いたものでした。
いくら顔の見えないネット[インターネットの略]上といっても、こんな無責任放言がまかり通っている事実を知ると、他の多くの情報の信憑性を失う、代償の大きさを知らされるばかりでしょう。

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(コメント)

自説に行き詰まった459氏が最後、必死に救いを求めたSAと名乗る人物がいたことは、すでにご承知のはずです。
彼は、459氏の論調に力強い声援を送っていましたが、459氏の破綻を目前にして、彼の信念も崩壊したのでしょうか、次のような反省と出直しの弁を流して、姿を消しました。最も賢明な選択肢だったかも知れません。
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SA氏から
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通行人Zさん、茶畑さん、他の方がたへ。
ご挨拶せねばなりません。暫く(多分長く)来れなくなると思います。
一月より仕事が大層忙しくなりそうなのと多少環境も変わる為です。
あとじっくり一人で勉強をしたいと思うようになった事も一つの理由です。
最近、先師の本に他の人の安心や教えを批判するのは、自己の信心が確立できてからにせよという教えに触れまして、それに従おうと思った次第です。
ここに色々書いた関係でしばらく見ておりましたが、今日で最後になりそうです。
色々お世話になりました。
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10回にわたって「雑行を捨てよの真意」を連載してきました。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
浄土真宗で、『雑行を捨てよ』と教えられる真意とは」

という、浄土真宗の重要な教えについての論争がなされた
ことは極めて意義深いものです。

より詳しく知られたい方には、以下のサイトをお勧め致します。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

新人太郎氏と459氏とのやり取りの全記録

【マンガ解説】『雑行・雑修・自力の心』浄土真宗親鸞会 公式サイト

「親鸞会の本尊論を再考する」を読んで

後生の一大事について  親鸞会.NET仏教講座

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

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2010/07/06

多生億劫にもあり得ぬ事|親鸞会 顕正新聞

「噫、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし」(親鸞聖人)

〝ああ、なんたる不思議か、親鸞、多生にも遇い難いことに、いま遇えた。億劫にも獲難いことを今獲ることができたとは〟

阿弥陀仏に救い摂られた驚きと感動の親鸞聖人のお叫びである。

親鸞会の二千畳の存在する在所に住んでいても、どれだけこの正本堂に座られる人があろうか。同朋の里のある村の幾人が、F館で信心の沙汰をされるご縁があるだろう。

親鸞会の二千畳に群参し同朋の里・F館に溢れる人々も、地元に帰れば「国に一人、郡(こおり)に一人」の親鸞学徒であるにちがいない。

無上の妙法は聞けなくて当然、聞けたら不思議の中不思議である。どうして私が聞けたのか。小慈小悲もない私なのに「何とか伝えたい」の悩みが起きるのは、全く無上仏の起こさしめたまう悩みであり、お計らいにちがいない。

「あいつはどうして聞かんのか、謗るのか」と見下げる心も、怒りの心も霧散する。

多生にも億劫にもあり得ぬことが、どうして現にわが身に起きているのか。原因を知ることこそが、最も肝要ではなかろうか。

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2010/07/01

歴史の視点 学徒の論点 西方浄土はおとぎ話か 真宗破壊の「近代教学」 その元を作った清沢満之 親鸞会.NET

東本願寺(真宗大谷派)が4月に出版した『「歎異抄」の世界』は、いわゆる「近代教学」の焼き直しだった。
明治初頭の学僧・清沢満之に始まる近代教学は、昭和31年、東本願寺の正式な「教学」として採用され、今日に至っている。
「清沢先生の教学こそ、重大な意義をもつものである」
(宗門白書)
と、当時の宗務総長が宣言しているように、大谷派で清沢の影響は計り知れない。
大教団を、親鸞聖人のみ教えに反する邪宗におとしめた清沢満之と、近代教学の内容を見てみよう。

清沢満之の生涯は、日本の激動の時代に重なる。生まれたのは文久3年(1863)、テレビドラマで話題の坂本龍馬に遅れること30年で、世上は300年続いた徳川幕府が終焉を迎え、倒幕側が新しい国作りを模索していたころである。

それまで幕府の保護のもと、安逸をむさぼっていた東西両本願寺は、
「この世でハッキリ救われる」平生業成の教えを説かなくなり、
「ただじゃ、そのままじゃ、無条件のお助けじゃ、この機に用事はないぞ、死にさえすれば、華ふる極楽じゃ」
という大風に灰をまいたような説教が大勢を占めていた。

一方、東西本願寺とも教学の研究は盛んで、精緻な体系化が進んでいた。
だが、重箱の隅をつつくような観念の遊戯に陥り、「求道」とか、「獲信」に直結し、人々が救われる生きた教学ではなかった。

そんな時、明治新政府が誕生し、幕府にべったりだった本願寺には大きな代償を伴った。
すでに「禁門の変」(1864)の兵火で、東本願寺は阿弥陀堂や御影堂など主要な伽藍を焼失し、かつての威光を失っていた。
僧俗ともに再建を願ったが、幕府と共倒れにならぬよう、政治的な工作に莫大な経費を使ったため、本山の台所は火の車だった。
さらに、仏教界を揺るがす嵐が巻き起こった。廃仏毀釈運動である。

1868年、幕府から政権を奪った明治政府は、日本神道を国教にするため、手始めにそれまで神社内に安置されていた仏像や寺院関係の物を分離する政令を相次いで出した。
これが行き過ぎて、一部民衆が仏教施設を破壊し、僧侶は強制的に還俗させられ、寺院の極端な統廃合が行われた。
浄土真宗が盛んな地方では、被害は比較的少なかったが、それでも、東西本願寺には大きな衝撃が走る。
日本神道の国教化は、仏教界全体の反対運動で何とか食い止められたが、続いて哲学や科学、キリスト教など、様々な西洋思想が怒濤のごとく流入してきた。

知識階級は、それらの新思想に強い影響を受け、日本の伝統教団にも批判の目を向けるようになった。
仏教界は新たな対応を迫られた。
若い人材に西洋の思想を学ばせねば、時代に取り残される・との危機感から、東本願寺では、本山の学僧に西洋哲学やキリスト教の教義を学ばせた。さらに末寺や門徒の子弟から秀才を集めて英才教育を施し、東京大学へ留学させる方針を取った。

名古屋の下級武士の家に生まれた清沢満之も、14歳で得度して、このエリートコースに乗った。生来、頭脳明晰で、18歳で留学組に選抜され、東大哲学科に入学。首席で卒業し、大学院で宗教哲学を研究した。
将来は大哲学者になるだろうという周囲の期待をよそに、25歳で突然京都に戻り、本山経営の京都府立中学の校長に就任。結婚して、愛知県三河の西方寺の養子になったのもこのころである。

■真実の弥陀や浄土を否定

信仰を求める真面目さは人一倍だったといわれるが、親鸞聖人の教えとは方向が全く違っていた。
明治23年(1890)、彼が真剣に取り組んだのは、聖道仏教を思わせる「自力修行」(禁欲生活)であった。
ハイカラな洋服をやめて法服を着用し、頭を丸める。煮炊きをやめ、塩も制限した粗末な食物のみを取る。どこに行くにも車に乗らず、下駄履きの徒歩にした。母が亡くなってからは拍車がかかり、そば粉を水で溶いたものだけを食し、松ヤニをなめるようになった。
この禁欲生活で清浄な心が得られると清沢は期待したが、得られたのは、30歳での不治の病・肺結核だった。転地療養した神戸で、余命いくばくもないと恐れ、日記に家族あての遺言を書きながら、毎朝『阿含経』を読誦した。そして自分の努力が不本意な結果に終わったことを深く悟った心境を、
「ほぼ自力の迷情を翻転し得たり」
と書いている。
「自力」とは、「後生の一大事助かりたい」という心であるから、弥陀の本願によって後生の一大事が解決された時に、一切の自力は浄尽する。
「自力の迷情、共発金剛心の一念に破れて」と覚如上人が言われているように、真に自力が廃った人からは、「ほぼ翻転した」という表現は出てきようがなかろう。

聖道門の発想の枠を出ることができない清沢は、親鸞聖人時代の、聖道諸宗の開祖たちと同じ轍を踏むことになる。

「(浄土とは)我等の心になぞらえて西方といったものである」
「地獄極楽の有無は、無用の論題である」
「如来あるがゆえに信じるにあらず、信じるがゆえに如来あるなり」
「来世の幸福のことは私はまだ実験しないことであるからここで述ぶることは出来ぬ」

清沢の著書や講演録に見られるこれらの言葉は、指方立相の弥陀や浄土を否定した「唯心の弥陀」「己心の浄土」という考え方である。

「唯心の弥陀」「己心の浄土」とは、
「我々の心が阿弥陀如来であり、浄土である。我々の心以外に弥陀も浄土もない」
という考え方で、これを親鸞聖人は邪義として徹底的に排斥なされている。

仏教では、

「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界を名けて安楽と曰う」
(大無量寿経)

「是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、名けて極楽と曰う。其の土に仏有す、阿弥陀と号す。今現に在して説法したまう」
(阿弥陀経)

と、西方浄土にまします阿弥陀如来が説かれているからだ。

迷った思考からは、おとぎ話としか思えないような、西方極楽浄土や、阿弥陀如来の実在こそが、仏説であり、真実なのである。
明治30年(1897)、東本願寺本山は、京都で改革運動をしていた清沢を異安心と断罪し、除名処分とした。33歳で浪人となった彼は、意気消沈して、三河の西方寺へ帰る。
まだ住職も副住職も健在で、もともと居場所がない所に、病弱な実父と一緒に世話になったため、余計に肩身が狭かった。
地獄・極楽の厳存を当然のごとく信じていた門徒に対し、それを否定して、「スペンサーの不可知論」などとやたら難しい話ばかりするので、寺でも孤立した。法要のために訪問しても、門前払いされたり、養子縁組を解消して追い出される寸前までいった。
これには清沢も精神的に相当参ってしまい、当時の日記に『臘扇記』と命名している。「臘扇」とは、12月の扇子のことで、”必要ないもの”という意味である。自分に存在価値が感じられなかったのだ。

そんな彼が感動したのは、ローマ帝国時代の奴隷が書いた『エピクテタスの語録』という哲学書であった。この世の中には意のままになることと、ならぬことがある。だが、自分の心の持ちようは自分で変えることができるから、自分の心を変え、現実を受け入れ、煩悶しないようにすれば、心の平安は保たれる。
清沢は尋常ならざる意志の力で心の持ちようを徹底的に変える努力をし、だんだんと世事や私事に惑わされない強固な「信念」を築くことができたという。これ以後、その境地を語るようになり、世の評論家には、これを清沢の「獲信」と呼ぶ者もある。しかし、もちろん自分の経験や学問で作り上げた文字どおり「自力の信心」である。

親鸞聖人が『正信偈』に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
と、本師本仏の弥陀のお名前を何度も叫ばれ、弥陀のことばかり教えておられるのとは対照的に、清沢は、阿弥陀仏の御名をほとんど語らない。「絶対無限者」に救われたと言っているので、弟子の中にさえ、「清沢の信じていたのは阿弥陀如来ではなく、西洋哲学のゴッドであった」と言う者がある。

もっともらしいことを言っても、親鸞聖人の出られた無碍の一道とは、全く異質なものであったのだ。

■「清沢教学」とその弟子たち

翌明治31年(1898)、本山の政治的な判断で除名が解かれ、東京にできた真宗大学(現・大谷大学)の初代学長に遇されるが、学生運動の責任を執って1年で辞任する。
「(清沢)先生の御生涯は悲惨の極みでした」
後に弟子が清沢の一生をこう語っているように、妻や長男の早死になど、不幸が次々とやってくる。しかし、「信念の確立」への思いはますます強くなり、たびたび喀血しながら、その時々の心境を熱心に語り、書き残していった。
この時期の活動の中心になったのが、明治33年(1900)に東京で開いた私塾「浩々洞」である。後年、近代教学を大成したといわれる金子大栄や曽我量深、暁烏敏も、ここを巣立っている。
学生時代から実験(清沢の好きな言葉で「体験」のこと)を重んじ、自らが経験したことしか信じない清沢の影響で、『御文章』など都合の悪いお聖教を軽視する姿勢は、これらの学者に一貫している。

彼らは後年、親鸞聖人や蓮如上人のお聖教ではなく、「私はああだった、こうなった」しか書かれていない清沢の絶筆「我が信念」を持って布教に回ったのである。

「予の三部経は、『歎異抄』と『阿含経』と『エピクテタスの語録』である」
と清沢は語った。『教行信証』の理解もなく、カミソリ聖教といわれる『歎異抄』を自己流に解釈し、聖道仏教と哲学をこね合わせてできたのが、「清沢教学」である。
哲学の衣をまとっていたために、浄土真宗が新生したかのように一般には映り、特に思想界に親鸞聖人のお名前を知らしめることにはなった。
内に対しては、江戸時代以来の重箱の隅をつつくような教学研究に明け暮れた宗門に風穴を開け、「求道」とか「獲信」が浄土真宗にある、と認識させたので、「今親鸞」とまで呼ばれた。
しかし、実際のところは、これまで述べてきたように、親鸞学徒の本道を大きく外れ、真実の弥陀や浄土を知らず、迷いの観念が生み出した「唯心の弥陀・己心の浄土」という邪義を天下に広めた大悪知識となったのである。

清沢満之の『我が信念』には、一高の哲学青年・藤村操と同様に「人生不可解」という意味のこ
とを書いており、この共通点について論じる学者もいる。

「私が如来を信ずるのは、私の智慧の究極であるのである。人生の事に真面目で
なかりし間は、措いて云わず、少しく真面目になり来りてからは、どうも人生の
意義に就いて研究せずには居られないことになり、其の研究が遂に人生の意義は
不可解であると云う所に到達して、茲に如来を信ずると云うことを惹起したので
あります」(『我が信念』)

多くの問題を残したまま、清沢満之は、39歳で夭逝した。
藤村操が、華厳の滝に身を投じた1カ月後だった。

体験談 ほかに売り物 さらになし

こうなった 仏法使って 自慢する

◆清沢満之の時代と本願寺

1864 禁門の変の兵火で、東本願寺は、阿弥陀堂、御影堂など諸堂を焼失
1868 江戸城明け渡し 東京遷都 神仏分離令 廃仏毀釈運動起こる
1873 政府、キリスト教を公認
1878 清沢満之の得度
1889 明治憲法発布
1890 清沢、『歎異抄』に親しむ
1894 日清戦争始まる
1897 本願寺が清沢を除名
1901 本願寺が清沢を真宗大学の学長に任命
1903 清沢、没する
■「唯心の弥陀」・「己心の浄土」という考え方をしている者達を歴史的にあげて、徹底的に破られた親鸞聖人のお言葉

○それおもんみれば、信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す、真心を開闡することは大聖矜哀の善巧より顕彰せり。然るに末代の道俗・近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し。
(教行信証)

■親鸞聖人の教えに反する清沢満之の「近代教学」

・「唯心の弥陀」「己心の浄土」
(指方立相の弥陀や浄土の否定)
・後生を認めない
・自分の経験をもとに教えを解釈する

*宗務総長……本願寺の宗政上の最高責任者
*「禁門の変」……長州軍(尊王攘夷派)と会津・薩摩軍(公武合体派)の軍事衝突。「蛤御門の変」とも

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2010/06/30

浄土真宗親鸞会は、新宗教というより伝統仏教  親鸞会.NET

「宗教は危ない」と言う人のほとんどは「新興宗教」「新宗教」を指して言っているようです。

「宗教は危ない」と言いながら
「うちは先祖代々○○宗だから、おろそかにしてはならない」

との言葉をしばしば耳にするからです。

では、新宗教と伝統宗教の違いは何でしょう?

「それは、設立した日付で決まる」

と大自信で言う人もあるのですが、そうでしょうか?

たとえ歴史は古くても、その団体が

「本尊は伝統的なものから、別のものに替えます」と

言いだしたり、

「開祖は、○○をするなと言われたけれど、これからは大いに○○をしましょう」

と方針を変更したら、それはもはや《新宗教と化した》と言っていいのではないでしょうか。

逆に、宗教法人の登録年月日は、新しくても

「教えに忠実に。開祖が教えられたとおりにお伝えしていこう」

としている集まりならば、それは伝統的な宗教になるでしょう。

浄土真宗親鸞会は

「親鸞聖人の教えを正確にお伝えする」

ことを唯一の目的としています。

親鸞会50周年フィナーレには、次の言葉が流れました。

「まず親鸞聖人のお言葉を明示して、その正しい御心を徹底していく。
浄土真宗と全人類の輝ける未来は、この一点にかかっていると言っても、
決して過言ではないのです」

浄土真宗の《本道》を決して見失ってはならないからです。

■参考:

浄土真宗 親鸞会・現代に生きる仏説|親鸞学徒の本道をゆく

親鸞学徒の本道の要諦|浄土真宗親鸞会

「新宗教辞典」まで出している井上順孝(いのうえのぶたか)
という 国学院大学教授が『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』
という本を出しました。

この中で、新宗教の特徴をこう書いています。

教えの面では、新宗教は難しい教学や宗学と呼ばれるものを
深めることを、さほど重視しないのが一般的である。(中略)
また教祖による独自の教えも多くつけ加えられていく。

(『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』p39)

そして、様々な新宗教を挙げ、説明している中で、
浄土真宗親鸞会は、新宗教というより「教団改革運動ないし再生運動」
と評してありました。

以下、その文面です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

法華・日蓮系以外では密教系の教団もいくつかある。
それ以外の仏教系新宗教はきわめて少ない。

浄土系のうち、浄土真宗の系統では真田増丸(1877~1926)の
大日本仏教済世軍や、高森顕徹(1929生)による浄土真宗親鸞会
があり、これらを広い意味での新宗教と解釈することもできるが、
どちらかと言えば教団改革運動ないし再生運動として理解した方が
適切である。

(『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』p210)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

親鸞聖人は生涯、御名号を本尊となされ、
蓮如上人は

「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。
当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
(御一代記聞書)

と教えておられます。ゆえに、浄土真宗親鸞会は『名号』を本尊とし、
皆さんにもお勧めしています。

しかし、寺の現実は、木像本尊ばかり。
明らかに親鸞聖人の教えに背いています。
それどころか、名号本尊の親鸞会に反対しているのです。
浄土真宗の憲法にあたる宗制にも『本尊は南無阿弥陀仏』とあるにも
かかわらずです。
親鸞聖人の教えに反している現状を、今後、どうするつもりなのでしょうか。

■参考

浄土真宗 親鸞会|根本に尊ぶべき御本尊 ~親鸞聖人の仰せどおりに~

「『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』と云々。
これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわし
まします故なり。
これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止(ちょうじ)すべし」
(改邪鈔:がいじゃしょう)

「私が死ねば、屍を賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ」と、
しばしば親鸞聖人がおっしゃったのは、なぜか。
それはセミの抜け殻のような肉体の後始末よりも、永遠の魂の解決
(信心決定)こそが、最も急がなければならないからです。
要の抜けた葬式などを大事とすべきではないのです。

この親鸞聖人のお言葉を無視し、葬式仏教、法事仏教と成り下がって
久しい寺は、今こそ、親鸞聖人の教えに立ち返るべきではないでしょうか。。

■参考

親鸞会.NET≫ ≫ 『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』

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2010/06/30

家族に伝えたい|親鸞会 顕正新聞

四国の妙好人(みょうこうにん)・庄松(しょうま)同行が、深夜、寺の門を叩き、「大変だ!大変だ!」と叫んだ。

「どうした庄松」

起こされた住職が尋ねると、

「オラ、疑いが起きてきたんだ。地獄は本当にあるのか?」

「今更、お前、何を言う」

「本当に地獄があるのなら、まず妻子に伝えにゃならんだろう。他人に勧めるばかりで家族に伝えていないじゃないか。無いものをあるように教えているからでないかと、疑いが起きてきたのじゃ」

と、辛辣に切り込んでいる。

袖触れ合うも多生の縁といわれる。ましてや家族となれば、よほど深い因縁があってのことだ。久遠劫より流転を重ね、今生、巡り遇わせていただいた阿弥陀仏の本願、往生極楽の道を、自分だけ喜び、家族を放っておけるものでなかろう。
「わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬは浅ましき事なり」

蓮如上人の大喝である。

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2010/06/18

『歎異抄』解説書の比較対照【11】《弥陀の救いは平生の一念》

前回(《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●弥陀の救いは平生の一念

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり(『歎異抄』第一章)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳

阿弥陀如来の本願のはたらきによって大涅槃の真実に触れてたすけられたものは、自己の本来の世界である浄土(大涅槃の真実)へ往き生まれる道が決定されたと信じて、念仏申そうという心が湧き上がってくる。
その時、如来の大悲に迷いの身の全体が丸ごと摂め取られて、人生の全体がどう転んでも涅槃の真実に向かうのだと決定されて、退くことのない精神の大地を得るのである。


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

『歎異抄』一章の冒頭では、「摂取不捨の利益」の弥陀の救いにあずかる時を、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」と言われています。
ここで親鸞聖人が「すなわち」と仰ったのは、弥陀に救われた「一念」を表す、限りなく重い「すなわち」です。
ですから「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」とは、「平生の一念」のことだと、『歎異抄をひらく』では次のように解説されています。

弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。 (『歎異抄をひらく』)

ところが、先に引用した延塚氏は、「すなわち」を「その時」と意訳しています。他の解説書も同様です。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の意訳では、

阿弥陀仏のお誓いの不思議なお力にお助けいただいて、極楽浄土に生まれることができるのだと信じて、念仏を称えようと思いたつ心がおこるとき、同時に、阿弥陀仏は、そのお光のなかにおさめとってお捨てにならない救いの恵みにゆだねさせになるのである。

と言い、

山崎龍明著『初めての歎異抄』では、

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

と意訳してあります。

「すなわち」を「その時」「同時に」「ただちに」とばかり意訳され、それ以上の解説は皆無です。
これでは、誰が、弥陀の救いは「一念」だと知りえるでしょうか。

弥陀の救いの「一念」を親鸞聖人は、分秒にかからぬ「時尅の極促」と説かれています。

「一念」とは、これ信楽開発の、時尅の極促をあらわす(『教行信証』)

「『一念』とは、弥陀に救われる、何億分の一秒よりも速い時をいう」

「一念の救い」は、弥陀にしかない救いであり、親鸞聖人が最も強調されることです。

覚如上人は「真宗の肝要、一念往生をもって、淵源とす」(口伝鈔)

とまで言われ、「一念往生」(一念の救い)こそが、仏教の「肝要」であり「淵源」だと喝破されているのです。
「肝要」も「淵源」も、仏教では唯一の大事であり、これ以上に重い言葉はありません。

ですから蓮如上人は『御文章』に60回以上も「一念」という言葉を記され、『御一代記聞書』には「たのむ一念の所肝要なり」と道破なされているのです。

親鸞聖人が、「一念」を「すなわち」と表現されているお言葉を挙げておきましょう。

本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり

(『愚禿鈔』)

これは、聖人が弥陀の本願を解説されたものです。
こんな短いお言葉に、2ヶ所も「即(すなわち)」と言われています。
「即の教え」と親鸞聖人の教えがいわれるのも、うなずけます。
「本願を信受する」とは、「阿弥陀仏の本願まことだった」とツユチリほどの疑いも無くなった「一念」ですから、「聞即信」といわれます。
その「一念」を聖人は、仮に「前念」と「後念」に分けられて、前の命の死と後の命の生とを説かれたのが、「前念命終 後念即生」です。

親鸞聖人は「即(すなわち)」を『唯信鈔文意』に

「『即』はすなわちという、『すなわち』というは時をへだてず日をへだてぬをいうなり」

と、一念のことだと明示されています。
「即得往生」とは、本願を信受した、聞即信の一念で救われた(往生を得る)ことです。
このように親鸞聖人は、平生の心の臨終と誕生の「一念」を、「即(すなわち)」で表されます。

親鸞聖人のこの「即(すなわち)」を知らないから、『歎異抄』の「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」を水際立った「平生の一念」と解説する書がないのです。

事実、親鸞仏教センター著『現代語歎異抄』でも

「本願に従おうというこころが湧き起こるとき」

と意訳し、

梅原猛著『誤解された歎異抄』では

「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき」と意訳しています。

「湧き起こる」「芽ばえ始める」では、「念仏申さんと思いたつ心」が「一念の弥陀の救い」とは、全く分かりません。

一念の「念仏申さんと思いたつ心」がどんな心かを表明されたのが、一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて」です。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とは、弥陀の誓願によって摂取不捨の利益に救い摂られ、誓願不思議を不思議と知らされたこと。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」とは、”必ず浄土へ往ける”と、往生がハッキリした後生明るい心です。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、
「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、
「念仏申さんと思いたつ心」
「摂取不捨の利益」も、
表現が違うだけで、同じ心です。

同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』は、

「浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この『念仏申さんと思ひ立つ心』が『起る』」

と解説しています。「往生をば遂ぐるなりと信じた」心に催されて、「念仏申さんと思いた

つ心」が起こるという主張です。

佐藤正英著『歎異抄論註』も、一章冒頭の言葉は、同じ「信心」を別の面から表したものではなかろうか、と推測するに止まります。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき」

という文へもう一度戻ってみよう。ここでは、信じてそれから念仏を称えようとか、信じてのちにその

あとで念仏を称えようといったような、両者の間になんらかの間隙が入りうるような、たるんだ関係が語られているのではない。(中略)〈信〉を持つ

ことを別の面から語ったものではなかろうか。(佐藤正英『歎異抄論註』)

「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」は「平生の一念」だと明言される『歎異抄をひらく』は、他の解説書とは、根底から異なる書だと知らされます。

。。。。。。。

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、
『歎異抄』。『本願寺新報』に教学の解説をしばし掲載している

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