2010/07/16
「雑行を捨てよ」の真意(9) 親鸞会.NET
当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。
「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
今日が第9回目です。
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459氏から新人太郎氏へ
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SA氏のスレ[発言]にレス[返信]してください。
私とSA氏では、真宗上の諸善についての解釈を同じくしていると思ってます。
(まあ親鸞会が異端なのですが・・・)
それともSA氏の問いかけに答えると何か都合が悪いのですか?
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新人太郎氏から459氏へ
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私の聞いているのは、ただ一つ。
9月28日のカキコであなたは、
「雑行と諸善は同じことだ」と言われていますが、そうですか。
簡単な、イエスかノーの一言なのです。
それに答えるのが、あなたの初期の目的ではなかったのですか。
仏法では、至極以上の重い言葉は無いそうですが、自分の言ったことにさえ責任とれず、「他人に聞いてくれ」では、459さんの名を汚すだけでしょう。
無責任な「逃げません」の誓いにならないようにして下さい。
「どこが異端ですか」と尋ねる者に、
「異端なのですから・・・」で答えになっていると思われますか。
「ダメなものはダメ」で、何の説得力もありません。
これ以上醜態をさらさないで下さい。
重ねてお聞きします。
「雑行」と「諸善」は、同じことでしょうか。
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459氏から新人太郎氏へ
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私の名前なんていくら汚れてもかまいません。
お尋ねの件に関してもSA氏がお答えくださると思います。
なぜあなたはそれほどまでにSA氏を無視し続けるのですか?
なにか理由があるのですか?
知りたい気持ちなんかまるでなく、ただ私が憎いだけですか(笑)?
それからあなたは「諸善」と「雑行」が違うとお考えのようですが、SA氏と議論する場合にはその聖教上の根拠を示してくださいね。
「聖教にない勝手なことを言っては仏法ではありません」(だったっけ?)とアニメで善恵房証空さんが言ってますよ(笑)。
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新人太郎氏から459氏へ
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「名前なんていくら汚れてもかまいません」と開き直られるのはかまいませんが、
「私が憎いだけ」などと被害妄想だけはしないで下さい。
そんな気持ちは少しもありませんから、ご安心の上、
「雑行」と「諸善」は、同じことですか、
分かっていられるのなら、イエスかノーでお聞かせください。
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459氏から新人太郎氏へ
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何度も言ってますが、私はあなたとこれ以上議論する気はありません。
もしあなたがお尋ねの件について知りたいならばSA氏のツリーに書き込めばいいだけです。
SA氏、茶畑氏、通行人Z氏などの問いかけになぜ頑なにダンマリを決めているのか理解に苦しみます。
なぜ答えぬ(笑)。。
今後あなたがSA氏他の問いかけに答えるまで私はレスしません。
楽しみにしてますよ。
さようなら。
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新人太郎氏から459氏へ
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「分かっていられるのなら、『雑行』と『諸善』は、同じことですか、イエスかノーでお聞かせください」
それに対して459さん、またまた、
「他人に聞いて下さい」
と無責任発言された。
459さんさえ、答えられぬことを誰が答えられるというのでしょう。至極以上はないのですから、ひとえに459さんに聞いているのです。
「私が憎いだけ」などと、ひがまないで下さい。憎まれるようなことをしてきた反省なら尊いのですが、ことは真宗の大問題ではありませんか。
個人的な、憎い、可愛い、というような次元のことではないでしょう。
真宗の諸善については、誰かさんの解釈と同じだといわれるのなら、その誰かさんのマネをして、答えられたらよいでしょう。
何か困ることがあるのでしょうか。
どんな他人をたのむより、弥陀をたのむのが一番でしょう。
再度のサヨナラ宣言、悲しいです。
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新人太郎氏から459氏へ
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一度サヨナラ宣言された459さんが、再度登場されて、他人に救いを求められたがうまくいかず、またサヨナラ宣言されました。
行き詰まられた問題は、
「諸善と雑行は同じことですか」
のイエスかノーの一言ですむことでした。
行き詰まられた原因は、
「諸善」と「雑行」の違いが分からず、
「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」と間違われたところにありました。
諸善とは、
「仏法上の諸善とは、布施(お金を寄付する、仏法の話をする)などの六度万行といわれるものです」
と、9月20日のカキコで459さんが言われている通りです。
因果の道理を根幹とする仏教が、諸善を捨てよと教えられるはずがありません。
では、「捨てよ」といわれている「雑行」とは何でしょう。
「往生の役に立たせようとする自力の心でする諸善」を「雑行」といわれます。
「雑行を捨てよ」とは、その「自力の心を捨てよ」ということです。
お聖教に「捨てよ」といわれている「諸善」もみな「往生の役に立たせようとする自力の心でやっている諸善」
のことであり、雑行と同じ意味です。
だから、「捨てよ」とは、
「往生の役に立たせようとする自力の心」
であって、決して、
「諸善を捨てよ、止めよ」ということではないのです。
それを459さんは、諸善と雑行の区別がハッキリしておられないから、
「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」
ということだと誤られたのでしょう。
悪いのは、心であって、行ではないのです。
459さんは、心と行を間違われたのでしょう。
「雑行を捨てよ」という教えはあっても、「諸善を捨てよ、止めよ」という教えは仏教のどこを探してもありません。
あれば仏教ではないでしょう。
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新人太郎氏から459氏へ
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459さんが、返答に窮された原因は、
「雑行を捨てよ」の教えを、
「諸善を捨てよ、止めよ」ということだと誤解されたところにあったのです。
もし、「雑行を捨てよ」が、「諸善を捨てよ、止めよ」ということならば、
「あれは仏法上の諸善だから捨てよ、してはならぬ」
「これは仏法上の諸善ではないから、してもよろしい」
と、仏法上の諸善と、そうでない善とを分別できなければなりませんが、どこで、どう、区別するのでしょうか。
誰もできる人はいないでしょう。
その分別ができなければ、捨てることも止めることもできません。
また、
親鸞聖人や蓮如上人は、弥陀に救われた一瞬に、「雑行」が捨たってなくなると教えられていますが、459さんのように、
「雑行」イコール「諸善」ならば、救われて雑行が捨たってなくなった後は、仏法上の諸善を一切やらなくなることになりましょう。
「諸善を捨てよ、止めよ」ですから、やってはならないことになります。
諸善を往生の役に立たせようとする「自力の心」は、弥陀に救われた瞬間になくなり、二度とあらわれることはありませんから、信後は一切、雑行ということはありません。
しかし、行が瞬時になくなったり、その後もあらわれないということは、ありません。
たとえば、今から煙草のむのをキッパリやめた、としても誘惑に負けてまたのむかも知れない。
親切するのは、もうやめたとしても、またすることもあるだろう。
念仏称えるのを止めた、捨てた、といっても、また称えることもあるでしょう。
雑行を捨てた後でも報謝の行はあふれてあらわれますが、二度とあらわれないのは、自力の心だけなのです。
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(コメント) こうして、重ねて重ねて、何通にも渡って 「雑行を捨てよ」 の真意を明らかにされてきたのですが、 ここで、 「雑行を捨てよ」 ということが、もし、459氏の言うように、 「諸善を捨てよ、止めよ」 ということだとすると、おかしなことになる、二つのことが、示されています。 これが、新人太郎氏が明らかにしようとされた、 「459氏の自己矛盾」 といえるのでしょう。 一つは、こうです。 459氏の説によると、浄土真宗の教え(説法)では、 「あれは仏法上の諸善だから捨てよ、してはならぬ」 「これは仏法上の諸善ではないから、してもよろしい」 と説くことになります。 しかし、そのように教え勧めるためには、 「仏法上の諸善」と、 「そうでない善」 とを分別できなければなりませんが、そんなことのできる人は誰もいない、ということです。 例えば、「お金を寄付する」という行為は、「被災者のために義援金を送る」とか「福祉施設に寄付する」とか、「経済的に困っている人にお金を与える」など、一般的にもなされている善です。 その「お金を寄付する行為」は、459氏は、 「仏法上の諸善だから捨てよ、止めよ」 と言われています。 また、「仏法の話をする」行為も、459氏は、 「仏法上の諸善だから、してはならない」 と言われています。 この459氏の主張に順えば、浄土真宗の教えは、こうなるのです。 「いいですか皆さん。困っている人にお金を寄付してはなりませんよ。仏法の話をする行為も『仏法上の諸善』ですから、絶対にしてはなりませんよ」 果たしてこれが、「親鸞聖人の教え」なのか。 極端に聞こえる人もあるかも知れませんが、459氏の主張では、そうなるのです。 あるいは、 「被災者のために義援金を送るのは世間の善だからよいが、仏法のための寄付は仏法上の諸善だからいけませんよ」 と言われるのだろうか。 ならば、「経済的に困窮しているために、遠方まで仏法を聞きにいけない人」に、 「仏法を聞いてもらいたいと思って、お宅を訪問し、少しでも生活費の足しにしてもらおうと、お金を与える行為」 は、「仏法上の善」なのか、それとも「仏法上の善ではない」のか。 その際に、一言でも「仏法の話をした」ならば、その行為だけが「仏法上の善」ということになるのか。「お金を与えたこと自体」は、世間善であって「仏法上の善ではない」のか。 どこからどこまでが、「仏法上の善」で、どこからが「仏法上の善ではない」のか。 そんなことは、水際だつものではないでしょう。 そもそも、「行」というのは、水際立てて、分別できるものではないのです。ですから、他人の行為を、 「あれは、仏法上の諸善だから、してはならなぬ」 「これは、仏法上の諸善ではないから、してもよろしい」 などと、教えられるはずがないのです。つまり、人間のやる行為の本質から言って、 「仏法上の諸善を捨てよ」 などという教えが、あり得るはずがない、ということです。 そして、もう一つが、 「行が瞬時になくなったり、その後もあらわれないということは、ない」 ということです。 親鸞聖人、蓮如上人のお聖教を拝読すれば、 「雑行」は「一念」という瞬時に捨たり、二度と現れないことは明らかです。 もし、その 「雑行を捨てよ」 の教えが、 「諸善を捨てよ」 だとすれば、「諸善」という行為は「一瞬でなくなり、二度としなくなるもの」ということになります。 しかし、「行」というものは、「瞬時になくなり、二度と現れない」というものではありえません。 ですから、親鸞聖人・蓮如上人が、 「雑行を棄てよ」 と言われているのが、 「諸善を捨てよ」 であるはずがないのです。 ここも、大いなる「矛盾」です。 では、なぜこの、 「行が瞬時になくなることはない」 という、極めて明らかな事実に気がつかないのか。 根本は、 「一念で捨たり、二度と現れない、『自力の心』」 が、分からないからです。 この「瞬時に捨たる心」が分からないから、 「だんだんとなくなるもの」「あとからまた現れるもの」が、「雑行」だと勘違いするのです。 すなわち、「雑行を棄てよ」を、「諸善を捨てよ」の教えと誤解するのです。 以上2つの点を、新人太郎氏は指摘されているのですが、これはまた、 「善の勧めを否定する者」の、共通した自己矛盾でもあります。 当然ながら、459氏は絶句するほかありません。つづく
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