2010/07/06
多生億劫にもあり得ぬ事|親鸞会 顕正新聞
「噫、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし」(親鸞聖人)
〝ああ、なんたる不思議か、親鸞、多生にも遇い難いことに、いま遇えた。億劫にも獲難いことを今獲ることができたとは〟
阿弥陀仏に救い摂られた驚きと感動の親鸞聖人のお叫びである。
親鸞会の二千畳の存在する在所に住んでいても、どれだけこの正本堂に座られる人があろうか。同朋の里のある村の幾人が、F館で信心の沙汰をされるご縁があるだろう。
親鸞会の二千畳に群参し同朋の里・F館に溢れる人々も、地元に帰れば「国に一人、郡(こおり)に一人」の親鸞学徒であるにちがいない。
無上の妙法は聞けなくて当然、聞けたら不思議の中不思議である。どうして私が聞けたのか。小慈小悲もない私なのに「何とか伝えたい」の悩みが起きるのは、全く無上仏の起こさしめたまう悩みであり、お計らいにちがいない。
「あいつはどうして聞かんのか、謗るのか」と見下げる心も、怒りの心も霧散する。
多生にも億劫にもあり得ぬことが、どうして現にわが身に起きているのか。原因を知ることこそが、最も肝要ではなかろうか。
関連記事:
- None Found