2010/06/17

『歎異抄』解説書の比較対照【10-2】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

前回(『歎異抄』解説書の比較対照【10-1】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●「無碍の一道」は「念仏」だという誤解

煩悩にまみれた人間の生活は、常に碍りだらけで、「無碍」になることなど、想像もできません。そこで多くの論者が、「無碍」というのは、「弥陀に救われた人(念仏者)」のことではなく、「称える念仏」のことだと理解します。
彼らは「念仏者は無碍の一道なり」を、「”念仏は”無碍の一道なり」と読んで、次のように意訳します。

佐藤正英著『歎異抄論註』の意訳

念仏はなにものにも妨げられない絶対的な手だてである。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』の意訳

念仏を申すことは、何ものもさまたげることのない、ただ一つの通路である。

「念仏」は何ものにも妨げられないと聞いても、理解できる人はないでしょう。

『歎異抄』七章では「念仏者」を、すぐ後で「信心の行者」と言い換えられているのですから、「念仏者」は当然、「弥陀に救われ念仏する者」の意味であることは明々白々です。

●救われて無くなる「碍り」とは

そこで問題は、弥陀に救われた人は、どんな「碍り」が無くなるのか、ということです。

『歎異抄』七章の終わりに「罪悪も業報を感ずることあたわず」とありますから、「念仏者は、罪悪感から解放される」「念仏すれば、悪の報いを受けずに済むのだろう」と思う人さえあるようです。

しかし、罪悪感から解放され、罪を犯しても平気な不道徳人間になったら、社会ではとても生きられません。まして、弥陀に救われたら、悪の報いを受けなくなると主張すれば、悪因悪果・自因自果の「因果の道理」を破壊することになります。

そこで、罪悪感が無くなるのでも、悪の報いが消えるのでもありませんが、業の報いを恐れなくなることが「無碍の一道」だという、苦渋の説明がなされるのです。

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の解説

念仏を信ずれば業の報いを恐れなくてよいといいたいのでしょう。罪悪感が不必要だと主張すると、倫理否定になるからね。(中略)倫理に苦しむこころからの解放を得るということでしょう。

「倫理」の「否定」ではなく「解放」だと言われても、意味不明でしょう。

梅原猛氏は全く別の解釈をし、「無碍の一道」とは、この世とあの世を自由に往復することだと言うのですが、これも根拠なき私見に過ぎません。

梅原猛著『誤解された歎異抄』の解説

念仏行者は、自由にこの世とあの世の間を往復する人間である。だからそれは、絶対自由の行者であり、天神・地祇も敬服し、魔界、外道も障礙することはない。

意味不明な解釈や想像があふれる根本原因は、仏教の究極の目的が分からないところにあります。

●仏教の究極の目的は「浄土往生」

「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、”浄土往生”であることを確認しておかなければなりません。

仏教は後生の一大事に始まり、その解決に終わる。後生の一大事を解決して、弥陀の浄土へ往生することが、仏法の究極の目的なのです。
(※後生の一大事について詳しく知られたい方は、コチラをお読みください。» » 後生の一大事について(1)  親鸞会.NET仏教講座)

弥陀に救われたとは、”いつ死んでも浄土往生間違いなし”の身に救い摂られたことです。この大安心を「無碍の一道」というのですから、「無碍」の「碍」とは、浄土往生のさわりです。

弥陀に救われた往生一定の大満足は、何ものも妨げることができないから「無碍の一道」と言われるのです。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』では、「無碍」とは、悪業煩悩が往生の障りとならないことだと示唆しているものの、信心の行者は「過去の悪業の報いから解放される」と、誤解を招く表現をしています。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の解説

「罪悪モ業報ヲ感スルコトアタハス」ということは、「信心ノ行者」の「無碍ノ一道」を行く、そのすがたということができる。「信心ノ行者」はみずからかつて犯してきた過去の悪業の報いから解放されることができるわけである。

『歎異抄をひらく』では、「無碍の一道」を、次のように明解されている。

「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、”浄土往生”であることを確認しておかなければならないだろう。

ゆえに「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、”浄土往生の障り”のことである。

弥陀に救い摂られれば、たとえ如何なることで、どんな罪悪を犯しても、”必ず浄土へ往ける金剛心”には、まったく影響しないから、

罪悪も業報を感ずることあたわず(『歎異抄』第七章)

いかなる罪悪も、「必ず浄土へ往ける身になった」弥陀の救いの障りとはならない。

と言明し、「念仏者は無碍の一道なり」と公言されるのである。

ではなぜ、悪を犯しても往生の障りにならぬのか。

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに(『歎異抄』第一章)

ひとたび弥陀の救いに値えば、どんな罪悪を犯しても、自分の罪の深さに怖れおののき、
浄土往生を危ぶむ不安や恐れは皆無となる。弥陀の本願に救われた往生一定の決定心を、
乱せるほどの悪はないからである。

何ものも崩せぬ、邪魔だてできぬ、不可称・不可説・不可思議の世界が信楽(信心)だから、「無碍の一道」と聖人は喝破されたのだ。

同時に「無碍の一道」の素晴らしさは、いかなる善行を、どんなに励んだ結果も及ばぬ、十方法界最第一の果報であるから、

「諸善も及ぶことなし」(第七章)
「念仏にまさるべき善なし」(第一章)
『歎異抄』の中でも特に知られる「無碍の一道」ですが、仏教の究極の目的は「浄土往生」という出発点を誤れば、正しい理解は望むべくもないでしょう。

と、『歎異抄』は宣言するのである。

。。。。。。

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山崎龍明

元・西本願寺教学本部講師
武蔵野大学教授
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

佐藤正英

東京大学名誉教授
日本倫理思想史、倫理学の研究者

安良岡康作

国文学者
東京学芸大学名誉教授

親鸞仏教センター

真宗大谷派の学者の集まり
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

梅原 猛

日本を代表する哲学者
京都市立芸術大学名誉教授
国際日本文化研究センター名誉教授
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数

石田瑞麿

元・東海大学教授
浄土教の研究に専心
著書多数

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2010/06/14

『歎異抄』解説書の比較対照【10-1】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《『霧に包まれる「摂取不捨の利益」  親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

『歎異抄』に新たな異変

『歎異抄をひらく』(平成20年3月発刊)が世に出て2年以上たちます。
日本の三大古文に数えられる『歎異抄』の解説書は、年に10冊は新刊が出ていたのに、『ひらく』が世に出て以来、その流れがパッタリ止まってしまいました。

それまで自由奔放に解釈されてきた『歎異抄』でしたが、『歎異抄をひらく』は従来の書とは一線を画します。『教行信証』など親鸞聖人のお聖教を根拠に、聖人のお言葉で『歎異抄』の真意を解説されているからです。そこには私見は一切、混じっていません。

真宗十派が、かつてしたことのない解釈が『歎異抄をひらく』なのです。正統を自負する者は当然、『教行信証』を土俵に反論しなければなりません。それがどうしたことか、2年たっても何の反論もないのです。

真宗十派の沈黙と対照的に、『歎異抄ひらく』は仏教書の常識を破る、17万部のベストセラーになっています。真の正統はどちらか、大衆に日々夜々、浸透しつつあります。これを自称「正統派」が黙視できるはずがありません。必ずや反論、批判に出るでしょう。

案の定、真宗大谷派(東本願寺)が、新たな動きを見せました。「聖人七百五十回御遠忌記念出版」として、シリーズ『親鸞』全十巻を、4月から毎月1冊ずつ刊行するというのです。監修は、真宗大谷派・教学研究所の所長を務める小川一乘氏(前・大谷大学学長、74歳)。大谷派の教学のトップです。

このたび、第1回として『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』が発売されました。著者は大谷大学教授の延塚知道氏、62歳。紹介には「『教行信証』を正確に読むために、『浄土論註』を当面の研究課題としている」とあります。

『歎異抄』解説は、「これは私の一解釈」と前置きした無責任なものばかりですが、今回の解説書は冒頭から『歎異抄』と『教行信証』は「まったく同質」と言い切り、しかも聖人のお言葉を多数、引用しています。『歎異抄をひらく』をかなり意識しているのでしょう。
従来なかったスタイルの解説書の登場は、一事件に終わるのか、地殻変動の前兆か。日本思想界の根底にある『歎異抄』の潮流に、何が起きているのでしょうか。
今回、出された、大谷派の『「歎異抄」の世界』の内容も含めて見てみましょう。

●「無碍」は執着の無くなったことか

《原文》

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々(『歎異抄』第七章)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳

本願の名号を称える者は、すべての束縛から解放された自由な道に立つことができる。その理由はなぜかと言えば、本願を信じる者には天の神や地の神が敬いひれ伏すからである。反対に、悪魔や外道も何の障りにもならない。また自分が犯した罪の一切を他力の信心が引き受けてくれるから、悩む必要はないし、善も誇る必要はない。他力の信念には善悪を超えた自由な道が開かれるのである。


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。

七章冒頭の「念仏者は無碍の一道なり」は、よく知られ、種々に論じられているところです。特に「無碍の一道」は、弥陀に救われた世界を表す、『歎異抄』でも最重要の語句ですが、各人の勝手な解釈がなされてきました。
例えば、先に引用した延塚氏は「無碍の一道」を、「すべての束縛から解放された自由な道」「善悪を超えた自由な道」と意訳しています。これが弥陀の救いだというのです。

では、善悪を超え、善悪から解放された境地とは、いかなるものでしょうか。延塚氏によれば、《「善悪、好き嫌い、勝ち負け」にこだわる「執着」から解放されたことである。弥陀に救われたとは、「勝ち負けとか優越感と劣等感の間で苦しむこと」のない、「身も心も柔らかになって、何事も喜んで負けていけるような生き方」に転じたことだ》と主張しています。

もし、勝ち負けにこだわる「執着」が無くなれば、負けて苦しむこともなくなり、一切の苦しみから解放されるでしょう。ですが、「執着」は煩悩ですから、それは「煩悩」が無くなることにほかなりません。一体どこに、そんな煩悩を断じた人間がいるというのでしょうか。

『歎異抄』で、すべての人を「煩悩具足の凡夫」「煩悩熾盛の衆生」と言われているように、仏教では煩悩の塊が人間であり、煩悩以外に何もないと説かれています。ですから煩悩は死ぬまで、減りも無くなりもしないし、断ち切ることは絶対にできないのです。それを親鸞聖人は、次のように教えられています。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず
(『一念多念証文』)

人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりです。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしません。もちろん、断ち切れるものでは絶対にありません。

延塚氏は、弥陀の救いは「すべての束縛から解放された自由な道」だと繰り返していますが、自分は煩悩執着が無くなったつもりなのでしょうか。「執着がいけない。自分は執着していない」と力んでいるとしたら、その「こだわり」こそが他ならぬ執着です。「何事も喜んで負けていける」ような、腹を立てない人間が実在するでしょうか。もしいたら、煩悩の無くなった、人間ではない存在です。

ですが、そんな非現実的な世界が弥陀の救いだと主張するのは、東本願寺だけではありません。西本願寺住職の、武蔵野大学教授・山崎龍明氏の解説も同質です。

山崎龍明著『初めての歎異抄』の解説

苦しみは苦しみのままに、悲しみも悲しみのままに我が身にうけとめて生きていける世界が開かれます。そこから、これが私の人生であった、これでよかったという慶びの中に生きる自己の発見があります。
「無碍」を執着とか煩悩が無くなることだと理解すると、実現不可能な、観念の遊戯に終わってしまうのです。

《つづく》

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2010/06/14

教えと体験  親鸞会.NET

教えと体験

「論より証拠」という言葉に、人間は弱い。目の前で、説明のつかない不可解な現象を見せつけられると、ありもしない力の存在でも簡単に信じ込んでしまう。

難病で、どの医者からも見放された人が、苦しい時の神だのみ、藁にもすがる必死さで新興宗教を信じた途端に治ったら、本人はもちろん家族も、「論より証拠だ。この神様のお力に間違いない」となるのも無理はない。
千人のうち一人でもそんな例があれば、新興宗教などは大々的に宣伝するから、「病気が治った」「奇跡が起きた」といった体験談で、それらの発行する機関紙の紙面は埋め尽くされている。

普段は理論派で聞こえた人でも、案外ころりと引っかかってしまう。だが、これらのゴリヤクは実は神の力などでは毛頭なく、人間の暗示や催眠現象で、いくらでも説明がつくのである。

だから怪しい証拠は、「証拠より論」で真相を見極めなければならないのだ。

浄土真宗にも、体験を売り物にする者たちがいる。
「泣いた」「笑った」「心が明るくなった」「念仏が噴き上がった」「風呂の中で躍った」などの体験談が信心決定の証拠として紙面を堂々と飾り、周りの者たちも「よかったよかった」「私たち一味やね」と喜ぶから、いよいよその気になって、これでもう大丈夫、と腰を落ち着ける。
その体験が、親鸞聖人の本当のみ教えと合致しているかどうかは、彼らにはどうでもいいのである。「救われたのが証拠」と頭から思い込み、自分の体験をつかんで離さない。教えを聞いても、自分の体験に合わせて聞いているから、真実の教えを受け付けなくなってしまうのだ。

しかも大概はその後、聞法する気がなくなり、仏縁を遠ざける。ましてや御恩報謝の活動など、さらさら見られない。そもそも布教しようにも、親鸞聖人のみ教えをまともに聞かされていないから、布教できないのである。
だから彼らが話しできるのは、自分の体験談ばかりだ。自分が苦労して求めて、その結果「ああなった」「こうなった」という自慢話になる。

こうなった 自慢ばなしに 花が咲く

苦労した 体験談が 自慢種

まるで独りよがりな、聞くに堪えない話のオンパレードでも、本人さんたちは「ご示談」と称してやっている。だが、どんな体験も、親鸞聖人の教えと合わなければ、そらごとたわごとなのだ。「あの人は救われた」と聞いて、すぐ飛びつくような心が、迷いの根本であると知らねばならぬ。

体験の真偽は、正しい教えの定規で決するのである。

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擬似体験のコツ(体験記を読ませ、体験談を聞かすこと)親鸞会.net
自戒すべきこと 親鸞会.net

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2010/06/10

自戒すべきこと      親鸞会.net

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ」
(歎異抄・序)

〝決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない〟
親鸞聖人の教えを説かず、「オレはああなった」「こうなった」の体験談で人集めする邪義を、『歎異抄』は厳しく教誡する。
蓮師もまた五百年前、「珍しき法」に群がる体験乞食グループを『御文章』に重ねて指摘され、廻心懺悔を促された。だがいつの時代も、各別の体験談を自慢し、売り物にする輩が後を絶たない。原因は、何か。
〝オレがオレが〟と目立ちたい自己顕示欲、財施を得たい利益欲であろう。
聖人でさえ「名利の大山」と警戒されるのだから、自制できぬ者があるのもうなずける。
だが根本は、「真実信心が無い」からに違いない。まこと信心獲得した人に、
唯一救いたもうた弥陀の本願を、己の名利でネジ曲げることなど、あり得ぬだろう。
常に正しい聖人の教えを聞法し、自戒せねばなるまい。

みえみえの 自己宣伝の 体験談

体験談 自己宣伝の ほかはなし

 

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2010/06/10

生きる目的がハッキリすれば すべての行為が意味を持つ3

真実知る者は幸い
こんなことを公言する哲学者は〝厭な奴〟と思われるだろうが、仏法を抜きにすれば、恐ろしく「正しい」のだ。

「どうせ死ぬのだよ……」

一見、華やかな生活の底にだれしもこんな虚無を抱えている。それに気づかぬよう、眼前の仕事にいそしみ、あえて日々を忙しくしているのかもしれぬ。だがそれは、根底で自己に嘘をついているのであり、最後破綻は避けられぬ。

何の虚勢もごまかしもなく、「人生には崇高な目的がある。その目的に向かう人生すべてに意味がある」。こう断言できる親鸞学徒の身の幸は、何にたとうべきだろう。

(親鸞会 発行 顕正新聞 平成22年5月1日号)

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2010/06/10

生きる目的がハッキリすれば すべての行為が意味を持つ2

どうせ死ぬのに
だが、ほとんどの人はそんな凄い弥陀の救いを知らず、築くあとから崩れ去る、もろくもはかない幸せを人生の目的と信じている。

ある哲学者はその危うさを次のように書いている。
いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまう。他人のために尽くしても、その人も死んでしまう。日本のため、世界のため、地球のために尽力しても、やがて人類も地球もなくなるのに、なぜ「いま」生きなければならないのか。
私が死ぬと周りの人々が悲しむから?でも、それも相対的なものである。そういう人々もまたじきに死んでゆくのだ。そして、この理屈は、誰も私の死を悲しまないとき、私は死んでもかまわないという結論を導く。
(中略)
まもなく地上には人間は誰ひとりいなくなる。それからしばらく経つと、地球は巨大な太陽に呑み込まれ、太陽系も崩壊し、銀河系も飛び散り、一雫も人類の記憶は残らなくなる。これが、われわれを待ち構えている未来の姿である。
(中略)
世の中のことはすべて、私にとって究極的にはどうでもいいのだ。(中略)みんな、どうせ消滅してしまうのだから。成熟するとは「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか」という問いを忘れることであるのに。
(『狂人三歩手前』中島義道)

(親鸞会 発行 顕正新聞 平成22年5月1日号)

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2010/06/10

生きる目的がハッキリすれば すべての行為が意味を持つ1

阿弥陀仏に救い摂られた喜びを親鸞聖人はこう叫ばれる。
「噫、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし。遇(たまたま)行信(ぎょうしん)を獲ば遠く宿縁を慶べ」(教行信証)

「噫!」という感嘆は、かつて体験したことのない驚きと喜びの、言葉にならぬ言葉である。「弘誓の強縁」とは、
〝何としても苦しみの根元を断ち切り、人生の目的を果たさせたい〟
という強烈な弥陀の誓願をいい、その誓いどおり、苦しみの根元が断ち切られ、人生の目的成就した歓喜の生命を、「真実の浄信」と言われている。

それはもう、100年や200年求めて得られる、ちっぽけな幸せではなかった、と知らされるから、「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことを獲た」と言われるのである。多生億劫の間求めても、得られぬものが得られたから、「噫!」と驚嘆されるのも当然であろう。

そして、しみじみ、どんな遠い過去からの弥陀のご配慮があったのやらと、「遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と感泣されている。

(親鸞会 発行 顕正新聞 平成22年5月1日号)

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2010/05/22

『歎異抄』解説書の比較対照【9】『霧に包まれる「摂取不捨の利益」  親鸞会.NET

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《『歎異抄』と「二種深信」》)
http://www.shinrankai.net/2010/05/hikaku.htm
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて
「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に
あずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)

梅原猛著『誤解された歎異抄』の意訳

阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。

高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

〝すべての衆生を救う〟という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

「弥陀の誓願」と聞くと、「死んだら極楽に生まれさせてくださるというお約束」程度に思っている人がほとんどです。万人のその誤解を正し、弥陀の救いは〝今〟であり、その救済は如何なるものかを明示し、人間の真の生きる道をひらかれたのが親鸞聖人です。
聖人の教えを漢字四字で「平生業成」といわれます。「平生」とは「現在」のこと。人生の目的を「業」という字であらわし、完成の「成」と合わせて「業成」といわれます。「平生業成」とは、人生の目的が現在に完成するということです。人は何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。なぜ苦しくとも、生きなければならないのか。
親鸞聖人は、人生の目的を次のように喝破されています。

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
(『高僧和讃』)

「苦しみの波の果てしない海に、永らくさまよい続けてきた私たちを、弥陀の誓願の船だけが、必ず乗せて渡してくださるのだ」
微塵劫のあいだ生死を繰り返し、苦しみ続けてきた私たちが救われる道は、弥陀の誓願ただ一つです。真実の道は一本キリだから「弥陀弘誓の船のみぞ」と仰り、弥陀の救いにあうことこそ、真の生きる目的だと明示されているのです。

弥陀の救いの時と内容

『歎異抄』全十八章の収まる第一章は、親鸞聖人の教えの肝要を略説する極めて重要な内容を持ちます。一章ではまず、弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されています。
ではその救いとは、いかなるものか。
「摂取不捨の利益を得る」
と言葉は簡明ですが、その内容は極めて深くて重い。
「摂取不捨の利益」とは何か。最大の関心事なのですが、なぜか不明瞭なままで甘んじられているようです。
以下に挙げる解説書はいずれも、「摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」の意訳があるだけで、それ以上の解説はありません。

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳
阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の意訳
阿弥陀仏は、そのお光のなかにおさめとってお捨てにならない救いの恵みにゆだねさせになるのである。

佐藤正英著『歎異抄論註』の意訳
摂めとって捨てることのない阿弥陀仏の恵みにあずかる。

私たちが最も知りたいのは、弥陀の光明に摂め取られたらどうなるのか、救いに恵まれる前と後とで、どこが変わるのかです。その肝心なことが、これらの意訳では一向に分かりません。次の安良岡康作著『歎異抄 全講読』の解説も、「摂取不捨」という仏語の出典に言及するにとどまっています。

「摂取」は、仏語で、仏が慈悲心によって、一切の衆生を受け入れて、救済し給うの意。「不捨」は、お捨てにならない。『観無量寿経』に、「一一光明、遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨」とあるのに由る。
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』に至っては、憶測と想像の羅列です。

B▼「阿弥陀の摂めとって捨てない利益」というのは、得られたあとに感ずるものでしょう。「こんなに素晴らしい世界だったんだ」という感覚です。(中略)
A▼「生活に揺るぎのない不動の精神が与えられる」はどうでしょうか?(中略)
C▼「摂取不捨」は、譬喩としては、向こうから守られてあるという感じかな。
(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)

「摂取不捨の利益」とは、「凄い弥陀の救い」のことですが、「凄い救い」とはいかなるものでしょうか。「救われる」前と後とは、どこが、どう変わるのでしょうか。
その違いが鮮明にならねば、依然として『歎異抄』は深い霧に包まれてしまうでしょう。

「摂取不捨の利益」とは

「摂取不捨」とは文字どおり、〝摂め取って捨てぬ〟ことであり、「利益」とは〝幸福〟のことです。
〝ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福〟を、「摂取不捨の利益」といわれます。「絶対の幸福」と言ってもいいでしょう。人生の目的は、時間をかけて徐々に完成するのではありません。人生の目的が果たされるのは「一念」です。一念で弥陀に救い摂られた、永遠の幸福とは、どんな世界でしょうか。

『歎異抄をひらく』では、いちばん聞きたい「摂取不捨の利益」を、次のように詳説されています。

生きる目的は幸福だとパスカルも言う。自殺するのも楽を願ってのことであり、すべて人の営みは、幸せの外にはありえない。
だが、私たちの追い求める喜びは、有為転変、やがては苦しみや悲しみに変質し、崩壊、烏有に帰することさえある。
結婚の喜びや、マイホームの満足は、どれだけ続くだろう。配偶者がいつ病や事故で倒れたり、惚れた腫れたは当座のうち、破鏡の憂き目にあうかも知れぬ。
夫を亡くして苦しむ妻、妻を失って悲しむ夫、子供に裏切られ激怒する親、最愛の人との離別や死別。世に愁嘆の声は満ちている。
生涯かけて築いた家も、一夜のうちに灰燼に帰し、昨日まで団欒の家庭も、交通事故や災害で、「まさか、こんなことになろうとは……」
天を仰いで茫然自失。辛い涙で溢れているのが現実だ。
瓢箪の川流れのように、今日あって明日なき幸福は、薄氷を踏む不安がつきまとう。たとえしばらく続いても、死刑前夜の晩餐会で、総くずれの終末は、悲しいけれども迫っている。

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ (御文章)
病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか。

蓮如上人、乱打の警鐘である。
ふっと死の影が頭をよぎるとき、一切の喜びが空しさを深め、〝なぜ生きる〟と問わずにおれなくなる。
〝死の巌頭にも変わらぬ「摂取不捨の利益」こそが人生の目的〟
親鸞聖人のお言葉が、真実性をおびて響いてくるのではなかろうか。
風前の灯火のような幸せ求めて、今日も人はあくせく苦しんでいる。なんとか摂取不捨の利益の厳存を伝えなければならない。
(『歎異抄をひらく』)

日本の歴史上、最も成功した秀吉も、臨終には「難波のことも夢のまた夢」と寂しくこの世を去っています。死んでいく時に、何が光になるでしょうか。名誉が残るといっても、千年、万年後には影も形もありません。そんな儚い幸福で、「人間に生まれてよかった」の生命の歓喜が得られるでしょうか。
「摂取不捨の利益」に生かされ、人界受生の本懐を果たされた聖人の法悦を、『歎異抄をひらく』では次のように書かれています。
ひとたび弥陀より摂取不捨の利益を賜れば、何時でもどこでも満足一杯、喜び一杯、人生本懐の醍醐味が賞味できるのだ。
親鸞聖人の、その歓喜の証言を聞いてみよう。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法 (教行信証)
まことだった、まことだった! 摂取不捨の利益、本当だった! 弥陀の真言ウソではなかった!

永久の闇より救われて苦悩渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じた聖人の、驚きと慶喜の絶叫なのだ。この摂取不捨の妙法を詳説されたのが親鸞聖人なのである。
(『歎異抄をひらく』)

どの解説書も曖昧だった「摂取不捨の利益」こそ、古今の人類が探求してやまぬ「人生の目的」です。『歎異抄』の愛読者は多いですが、〝摂取不捨の利益にあずかること〟が人生の目的と知る人は少ないのではないでしょうか。
山に入って山が見えないのかもしれません。

梅原 猛

日本を代表する哲学者
京都市立芸術大学名誉教授
国際日本文化研究センター名誉教授
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数
山崎龍明

元・西本願寺教学本部講師
武蔵野大学教授
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

石田瑞麿

元・東海大学教授
浄土教の研究に専心
著書多数
佐藤正英……東京大学名誉教授

日本倫理思想史、倫理学の研究者

安良岡康作

国文学者。
東京学芸大学名誉教授

親鸞仏教センター

真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

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2010/05/15

親鸞会・テレビ座談会 in U.S.A !! 如来の慈雨 世界平等に 親鸞会海外ニュース

○親鸞会顕正新聞22年5月15日号より

親鸞会・テレビ座談会 in U.S.A !! 如来の慈雨 世界平等に

親鸞会講師 毛利光一

親鸞会・テレビ座談会が始まって半年余り、海外にいながら直接質問させていただけるので、心の距離がグッと縮まり、アメリカの親鸞会会員の聞法熱は熱く燃え上がっています。
 ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、カンザスシティなどを中心に現在、親鸞会・テレビ座談会の開催拠点は増え続けています。
親鸞会・降誕会までにさらなる拡大を目指しています。
 遠方で参詣できなかった人、高齢で外出できない人、病気で会館まで来られない人などが続けて聞法されるようになりました。

親鸞会会員Iさんは、病のため、ほとんど外出できません。1時間以上、同じ姿勢でいると硬直し体を動かせなくなってしまうのです。ここ数年、親鸞会ロサンゼルス会館にも参詣できず、残念に思っておられましたが、親鸞会・テレビ座談会が始まってより自宅での聴聞をとても喜ばれています。

 メキシコ生まれのRさんも、親鸞会・テレビ座談会を喜ぶ1人です。生計を立てるのが難しい母国を離れ、アメリカへ移住する時、管理局のミスで支給されるはずのビザが下りませんでした。国家資格がありながら、10年以上、最低賃金で毎日サンドイッチを作り続ける苦労の日々。しかし「因果の道理を知ったことが人生を変えてくれた」と心から仏縁を喜んでいます。彼女から愚痴を聞いたことはありません。
 国外に出られないRさんは、一生、高森顕徹先生から直接お聞きすることはできないとあきらめていましたが、親鸞会・テレビ座談会がスタートし、自宅で聴聞できるようになったのです。
 朝4時半に起床し、5時から働いている彼女が、夜12時まで続く座談会を聞かせていただくのは大変と思いますが、そんなことは苦にもせず、「わが家で阿弥陀仏の御心を聞かせていただけるとは思わなかった」と涙ながらに語っています。

親鸞会会員Mさんは、サンフランシスコの自宅で毎月2回親鸞会・テレビ座談会を開かれています。「6月の親鸞会・降誕会は親鸞会・二千畳でお聞きしたい」と参詣されることになりました。
 サンフランシスコから車で1時間の所に住む親鸞会会員Sさん夫妻も毎月、家庭法話を開かれています。また、トレイシーという町に日本から出張中の親鸞会会員Yさんも多忙の中、親鸞会・テレビ座談会のご縁は欠かしません。 

子育て真っ最中の、テレビ局の元ニュースキャスターKさんは、親鸞会・テレビ座談会のことを耳にするや、すぐパソコンを購入、夜、子供たちが寝静まってから聴聞しています。
 無上仏(阿弥陀仏)の法輪が、このアメリカでも確実に広まっています。

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2010/05/14

後生の一大事について(3) 親鸞会.NET仏教講座

親鸞会.NET仏教講座「後生の一大事について(3)」

●真実の自己とは●

どん な人でも、ものを食べないで生きてゆくことは出来ません。
ところが、私たちの食べものは、かつては生命の通っていたものばかりです。
我々 が死にたくないように、生ある者は、どんなものでも死を嫌う本能をもっています。
されば、どんな生物でも死は苦しみであることは、我々人間と異な るはずがありません。
船の上に揚げられた魚がピチピチ跳ねるのも、首を絞められる鶏がバタバタするのも、みんな苦しいからでしょう。そんな苦しむ ものの生命をとらなければ、我々は生きてはゆけないのです。しかも、そのような生きものの屍を、私たちは、「うまい」
といって貪り食べているので す。
それどころか、そうした生きものの生命を少しでも多く貪ることを、私たちは「良い暮し」
といって喜びとしています。即ち、私たちは、 罪悪を犯しながらそれを、少しも罪悪とは思わず、むしろ、善いことのように考えているのです。

しかも、仏法で難化の三 機、難治の三病といわれる最も怖ろしい、五逆、謗法、闡提の大罪を、私たちは日夜造り続けているのです。
手にこそかけて殺さなくとも、心の中で親を邪魔者扱いにして、毎日毎時殺している五逆罪。
今日の説法は判らなかった、難しかっ た、長かった、短かったと善知識の頭上に登って批判している謗法罪。
これらは『末灯鈔』に、

「親をそし る者をば五逆の者と申すなり」
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば謗法の者と申すなり」

親鸞聖人が厳しく誡めてい られる重罪です。
それだけではありません。
地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、あの人が死んだかと驚いて一時は同情の涙が 出ても、自分は当分は死にはせぬと平気でいる心が闡提で、ドタ牛のように動かない。頭は承知しても肚が承知しない。道理は判っても納得出来ない。なんの不 足もないのに満足が出来ない。分かって分らず、知って知らず、急いで急がず、泣いて泣かず、なんともかんとも言いようのない奴が闡提で す。
これを親鸞聖人は、「逆謗の屍」とも言われています。

●親鸞聖人の一大事の警鐘●

照らし出されたこの人間の実相を、親鸞聖人は、次のように記されています。

「一切の群生海、無始よりこのかた、乃至、今日今 時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心なし」(教行信証信巻)

「無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流 転し、諸有輪に沈没し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なく、法爾として真実の信楽なし」(教行信証信巻)

「然るに、微塵界の有情、煩 悩海に流転し、生死海に漂没して真実の廻向心なく、清浄の廻向心なし」(教行信証信巻)

繰り返し繰り返し、地獄必定の一大 事を警鐘乱打されたものです。
これが単なる合点ではなく、自身の実相として照らし出された時、何人も一切の助かる望みが絶え果てて、必 ず火達磨になって必定地獄を実感させられるのです。
同時に、弥陀の呼び声を聞き破闇満願させて頂くのですが、悲しいかな、この厳然たる必定地獄 の実地の体験がないから、この一大事が分らないのです。

「後生の一大事」が分からなければ、これを「必ず救う」と誓われている 「弥陀の本願」も分からないし、その弥陀の本願一つを説かれた「仏教」も「浄土真宗」も、何にも分からないのも当然なのです。
ですから、もし「親鸞会は『後生の一大事』を説いて地獄の恐怖を植え付ける」という非難をする人があれば、その人は、実は、親鸞会を非難しているのではなく、お釈迦様を非難している人なのです。
知らないこととはいいながら、何と恐ろしいことでしょう。

「善知識にあうことも
教うることもまた難し
よく聞くことも難ければ
信ずること もなお難し」

(浄土和讃)

親鸞聖人のご述懐が、つくづく知らされるではありませんか。

親鸞会.NET» » 後生の一大事について(1)
親鸞会.NET» » 後生の一大事について(2)

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