2010/07/16
「雑行を捨てよ」の真意(6) 親鸞会.NET
当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。
「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
今日が第6回目です。
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(1)親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(2) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(3) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(4) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(5) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(6) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(7) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(8) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(9) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(10・最終回) 親鸞会.NET
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新人太郎氏から459氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「仏法を伝えようとするなどの報恩の行体は、善でも悪でも、そのいずれにも入らないことになります」
との返信、目パチクリです。
「行体」という言葉の意味を理解されてのことですか。
苦渋の選択だったのでしょうが、そんなことを言われてもよいのでしょうか。
くどいようですが、あなたの発言を確認しておきたいと思います。
「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らぬ」
これでよろしゅうございますか。
お尋ねします。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
??
私がいつそのように言いましたか?
勝手に人の発言を改ざんしないでください。
私の発言はそのまま引用してください。
私は報恩行は往生行諸善ではない、と言ったのです。
仏法上の善、悪について言ったのではありません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新人太郎氏から459氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「報恩行とは救われた後の感謝報謝の行です。
『助かりたい』等の参らせごころのある往生行とは別物です。
ですからここでは『そのいずれにも入らない』ということになります」
と、459さんが言われたので、
「救われた人の仏法を伝えるなどの、感謝報謝の報恩の行は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らない、と理解してもよろしいのでしょうか」
とお尋ねしたのです。
それに対して、
「私がいつそのように言いましたか?勝手に人の発言を改ざんしないでください。私の発言はそのまま引用してください」
と叱ったあと、
「私は、報恩行は往生行諸善ではない、と言ったのです」
と当然なことを言い、
「仏法上の善、悪について言ったのではありません」
と逃げられる。
報恩行の仏法上の善悪を聞いているのに、答えになっていると思われますか。
もう一度お尋ねします。
「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善悪の、いずれにも入らないのでしょうか」
よろしくお願いします。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
あなたが論点をずらしているのがわかりませんか?
私は、報恩行は、あなたとの議論で扱ってきた往生行諸善とは別物だと言ったのです。
言葉のまま理解すればいいものを、それをなぜ『仏法上の善悪』という問題にすりかえるのですか?
私がここで言いたかったことは往生行と報恩行は別のものということだけです。
それは理解できたのですね?
あなたは、『くどいようですが、あなたの発言を確認しておきたいと思います。「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らぬ」
これでよろしゅうございますか。 お尋ねします』
だったのです。
『発言を確認しておきたいと思います』とあなたは言ってるのですから、私は『そのようなことは言ってない』と言ったまでです。
別の論題に進むのならばその段階を踏むべきです。
一体あなたは私と何をしたいのですか?
確認させてください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
新人太郎氏から459氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「私がここで言いたかったことは往生行と報恩行は別のものということだけです」
と明言されているように、私の尋ねているのも、そのこと一つです。
論点をずらしているとは、とんでもない。
論点はピタッと定まり、微塵の狂いもありません。
「仏法を伝えるなどの往生行」と、
「仏法を伝えるなどの報恩行」の
行体は、別のものだと、あなたは言われる。
仏法を伝える行為のどこがどう違って、別のものと言われるのでしょうか。
「一体あなたは私と何をしたいのですか?
確認させてください」
と459さん、お望みですからもう一度言いましょう。
仏法を伝えるという同じ行為なのに、どこがどう違って、
「あれは往生行」
「これは報恩行」
と、分けられるのですか。
わかる言葉で、分かれ目を、わかるようにお聞きしたいだけなのです。
よろしくお願いします。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
459氏から新人太郎氏へ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
『論点をずらしているとは、とんでもない。
論点はピタッと定まり、微塵の狂いもありません』
とは。
あなたは天然ですね(笑)
「仏法を伝えるなどの往生行」と、
「仏法を伝えるなどの報恩行」の違いは、
真宗では信前・信後で変わります。
以前あなたが勘違いされていた「仏法上の善悪」についてはひとこともふれないのですね。
あなたは私との議論で一体何をしたいのか、と聞いたのです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(コメント)
ここです。
「仏法を伝えるなどの往生行」と、
「仏法を伝えるなどの報恩行」は、
「信前・信後で変わります」
と、459氏は明言されました。
「信前」とは、信心獲得する前(阿弥陀仏に救われる前)ということであり、
「信後」とは、信心獲得した後(阿弥陀仏に救われた後)ということです。
この「信前・信後」の変わり目こそが、浄土真宗の肝要と言われる、
「信の一念」
です。
蓮如上人は、『御一代記聞書』に、
「聖人の御流は、たのむ一念のところ肝要なり」
と、これを仰っています。
すなわち、弥陀に救われる前と、救われた後とでは、何が、どう変わるのか。その変わり目の「一念」こそが、自力と他力の水際であり、地獄と極楽の分かれ目であり、弥陀の本願の至極であり、釈迦出世の本願の肝要ですから、
この「信前・信後」の変わり目を、徹底的に峻別されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』六巻であり、90年のご生涯であったのです。
その「信前・信後」という言葉を出して、459氏はようやく答えました。というよりも、そう答えざるを得ないようになった、といったほうが適切かも知れません。
いずれにせよ、この、
「真宗では信前・信後で変わります」
の一言が、議論を大きく前進させ、また459氏にとっては命取りになるのですが、少なくともこの時点では、気がついていないようです。
続く
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(1)親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(2) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(3) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(4) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(5) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(6) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(7) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(8) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(9) 親鸞会.NET
親鸞会.NET» » 「雑行を捨てよ」の真意(10・最終回) 親鸞会.NET