2010/07/16
「雑行を捨てよ」の真意(4) 親鸞会.NET
当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。
「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
今日が第4回目です。
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新人太郎氏から459氏へ
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「諸善にふたつある。
倫理道徳でいう善と、仏法の往生のための善である。
私の今まで言っている『諸善』とは、仏法上の善である。世間でいう善ではない。
それをごちゃまぜにしている」
と、今度は叱られました。
だいぶ混乱しておられるようですが、ふたつの諸善の違いをお聞かせ下さい。
そして前にあなたが、
「『諸善』といえば、六度万行のこと。
布施(お金を寄付する、仏法の話をする)、持戒(戒律を守る)などですね。他にもあります」
と言われている『諸善』は、どちらの善でしょうか。お尋ねします。
また、
「往生の何の役にも立たない諸善を、なぜ親鸞会は勧めるのか」
と信じられないようなことを仰っている。
たとえばの話ですが、難民のような、肉体的にも精神的にも苦しんでいる人々を見ても、
「諸善は往生のためにならぬのだから、捨てよ、止めよ」
と、支援を勧めないのが、親鸞聖人の教えですか。
どこかおかしいところがあるのではありませんか。
ますます、はっきりお聞きしなければなりません。
「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われている親鸞聖人の言葉をお尋ねします。
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459氏から新人太郎氏へ
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混乱しているのはあなたです。
仏法上の諸善とは、往生のための諸善、出世間の諸善のことです。
世間でいう諸善は、倫理、道徳上の諸善のことです。
私はあなたとずっと仏法の話をしていました。
ですから当然私のいう諸善は仏法・出世間の諸善のことです。
『「往生の何の役にも立たない諸善を、なぜ親鸞会は勧め
るのか」と信じられないようなことを仰っている。
たとえばの話ですが、難民のような、肉体的にも精神
的にも苦しんでいる人々を見ても、
「諸善は往生のためにならぬのだから、捨てよ、止めよ」
と、支援を勧めないのが、親鸞聖人の教えなのですか。
どこかおかしいところがあるのではありませんか』
といわれていますが、その考えが世間善と出世間善とをごちゃまぜにしている証拠です。
往生のための諸善は、往生には何の役にも立たないから捨てよと聖人は言ってるのです。
ボランティアや募金、献血などは往生のための諸善とは違います。それは世間・道徳・倫理の善です。
親鸞聖人は、『世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ』と仰せです。
決して世間善を否定された方ではありません。
以上のことを踏まえた上で以前の私が挙げた根拠をお読みください。
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新人太郎氏から459氏へ
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「私がずっと話ししてきたのは、ボランティアや募金、献血などの、世間でいう善ではありません。当然、仏法上の諸善です。
仏法上の『諸善』といえば、六度万行のこと。布施(お金を寄付する、仏法の話をする)持戒(戒律を守る)などですね。他にもあります」
と、明快に答えて頂きました。
その仏法上の『諸善』を、すべて『雑行』と言われるのならば、弥陀に救われた親鸞聖人が、日野左衛門や弁円などに、懸命に仏法を話し、伝えようとされたことも、『雑行』と言われるのでしょうか。
あのように仏法を伝えることは、仏法上の諸善に入らないのですか。
いよいよ、「諸善を捨てよ、止めよ」と言われている親鸞聖人の言葉が聞きたくなりました。
よろしくお願いします。
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(コメント)
親鸞聖人は、『教行信証』に、
「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す」
(親鸞は、二十九歳の時、雑行を棄てて、阿弥陀仏に救い摂られたのだ)
と告白されています。
もし、459氏の言うように、「仏法の話をする」などの仏法上の諸善が、すべて「雑行」ならば、
「雑行を棄てて、弥陀に救い摂られた」後の、親鸞聖人の「仏法を伝えられた」行為は、どうなるのか。「雑行」と言われるのか。
それが「雑行」ならば、
「雑行を棄てて」
の聖人のお言葉はどうなるのか、と追及されています。
続く
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