2010/07/16
「雑行を捨てよ」の真意(5) 親鸞会.NET
当サイト(親鸞会.NET)にて、《「雑行を捨てよ」の真意》について連載しています。
「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか」
───浄土真宗で、「雑行を捨てよ」と教えられる真意───
今日が第5回目です。
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459氏から新人太郎氏へ
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『その仏法上の〝諸善〟を、すべて〝雑行〟と言われる
のならば、弥陀に救われた親鸞聖人が、日野左衛門や弁
円などに、懸命に仏法を話し、伝えようとされたことも、
〝雑行〟と言われるのでしょうか』
といわれてますが、『弥陀に救われた後』ということはご存知のようですね。
それらは仏恩報謝の行です。
往生のための行ではありません。
『ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をひろうて、恒常に不可思議の徳海を称念す』(教行信証)
『この一念を他力より発得しぬるのちは、生死の苦海をうしろになして涅槃の彼岸に到りぬる条、勿論なり。この機のうへは、他力の安心よりもよほされて仏恩報謝の起行・作業はせらるべきによりて行住坐臥を論ぜず、長時不退に到彼岸の謂あり』
(改邪鈔)
以上を踏まえた上で今までに挙げた根拠を読み返してみてください。
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新人太郎氏から459氏へ
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「親鸞聖人の仏法を伝えようとなされた行為は、仏法上の善に入らないのですか」
とお聞きした答えが、
「あれは、仏恩報謝の行です」
でした。
仏法伝えようとするのは、諸善の一つだと言われたのはあなたでした。
「諸善が往生の助けになる」とは、誰も一度も言ってはいません。もう忘れてもらっては困ります。
お聞きしているのは、この場合の仏恩報謝の行体は何ですか。仏法上の諸善ではないのですか。それとも諸悪ですか。また、そのいずれにも入らないことですか、ということです。
「諸善を捨てよ、止めよ」
と言われた親鸞聖人の言葉を聞かせて下さい。
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459氏から新人太郎氏へ
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あなたとの議論のなかで扱ってきた「諸善」は往生行です。
報恩行ではありません。
報恩行とは救われた後の感謝報謝の行です。
「助かりたい」等の参らせごころのある往生行とは別物です。ですからここでは「そのいずれにも入らない」ということになります。
『しかれば最勝の弘誓を受行して、穢を捨て浄を欣へ。如来の教勅を奉持して、恩を報じ徳を謝せよ。ここに片州の愚禿(親鸞)、印度・西蕃の論説に帰し、華漢(中国)・日域(日本)の師釈を仰いで、真宗の教行証を敬信す。ことに知んぬ、仏恩窮尽しがたければ、あきらかに浄土文類聚を用ゐるなり』(浄土文類聚鈔)
『平生に善知識のをしへをうけて信心開発するきざみ、正定聚の位に住すとたのみなん機は、ふたたび臨終の時分に往益をまつべきにあらず。そののちの称名は、仏恩報謝の他力催促の大行たるべき条、文にありて顕然なり』(口伝鈔)
『されば弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ』(御文章)
いずれにしても、『弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、仏恩報尽とも、また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ』ですからあなたにはまだ時期尚早のことですね。
以上を踏まえた上で以前挙げた根拠を読んでください。
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新人太郎氏から459氏へ
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「仏法を伝えようとするなどの報恩の行体は、善でも悪でも、そのいずれにも入らないことになります」
との返信、目パチクリです。
「行体」という言葉の意味を理解されてのことですか。
苦渋の選択だったのでしょうが、そんなことを言われてもよいのでしょうか。
くどいようですが、あなたの発言を確認しておきたいと思います。
「仏法を伝えるなどの報恩の行体は、仏法上の善でもなければ、悪でもない。いずれにも入らぬ」
これでよろしゅうございますか。
お尋ねします。
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(コメント)
「行体」とは、あとで「行為自体」と言い換えられているように、「行いそのもの」と理解すればよいでしょう。
その、「報恩行」という「行いそのもの」の、仏法上の善悪を尋ねられているのに、459氏の意外な答えが……。
続く
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