2009/10/07

『目的』が抜けた、社会の変遷

9月親鸞会館で『正信偈』の一節『獲信見敬大慶喜』の講演を聞かれた方の感想です。
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かつて、“経済成長”という、生きる『手段』を『目的』に置き換え、
多くの人が走っていました。

成長の実感が得られなくなると、今度は画一的でない個人の生き方が
求められるようになりました。

そして現代は、“成熟社会”と言われています。
価値観が多様化し、生き方の自由度は格段に高まりましたが、
『得た自由で何をすべきなのか』が明確でない“不安”は
一層強まっているように思います。

社会は、様々な変遷を経ていますが、一番大事な「人生の目的」が
わからないため、結局、迷走を続けているのだと感じます。

親鸞聖人は、この全ての人が求めてやまない『人生の目的』を
『信心獲得(獲信)すること』と教えられ、
獲信する前はどうなのか、獲信した後はどうなるのか、を
『教行信証』に書き残してくださいました。

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2009/10/03

『一字』もおろそかにはできません

9月親鸞会館で『正信偈』の一節『獲信見敬大慶喜』の講演を聞かれた方の感想です。

今回のご縁で、「親鸞聖人のお言葉は、一文字さえ、読み違えたり、
聞き誤ったりしては大変だ」と知らされました。

世間的な感覚だと「たった一文字くらい」と思ってしまいます。
しかし、親鸞聖人の一文字には「人生の目的達成してくれよ」
という深くて重い、大変な心が込められています。

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2009/07/26

憎しみ転じて歓喜の涙

東野恵美さんの永年の悩みの種は、姑との人間関係でした。

「なぜこんな家に嫁いだのか」

真剣に離婚を考えたこともあり、救いを求めてイロイロな宗教に迷ってきました。

そんな中、友人の紹介で浄土真宗親鸞会のことを知り、地元の講演会に参詣するや、

「やっと真実の宗教に巡り遇えました!」

と大変喜び、親鸞会会員になられたのです。
間もなく、お仏壇に正御本尊を迎え、毎月の親鸞会館、地元の講演会、勉強会と
感謝の心いっぱいで聞法を重ねられるようになりました。

そして恵美さんは「自分がこの教えに遇えたのは姑さんのおかげ」と知らされたのです。

「義母さんも難度海(※なんどかい・苦悩の人生)で
 辛い思いをしているのだから何とか聞いてもらいたい。
 今のままでは本当にかわいそうだ」

と思い、それまで離れの隠居部屋に一人いた姑さんに

「義母さん、一緒にお勤めしましょ」

と毎日声をかけるようになりました。
それからというもの、一緒に正御本尊の前で正信偈を拝読し、二人で仏法讃嘆をするの
が楽しい日課となったのです。

そして、姑さんも恵美さんと一緒に親鸞会館へ参詣されるまでになりました。
初めは硬い表情でしたが、だんだんと打ち解け、

「私は若いころから病気の主人の看病、9人の小姑の世話と苦しみの連続で、
本気で入水自殺をしようとしたこともあった」

と語られました。
それから、姑さんは、このように言われたのです。

「私は、息子夫婦の仲のよさがねたましく、
 意地悪なことばかり言ってきた」

姑さんは泣いていました。

「それなのに私を恨んでいるはずの嫁さんから、 
 寺などでは絶対に聞けない本当の親鸞聖人のみ教えを
 聞かせてもらうことができました。
 うちの嫁さんは善知識です。
 私は幸せ者です。
 ありがたいです」

と心から喜び、

「嫁さんについていくので私もお仲間に入れてください」

と言われたのです。

「憎しみ合っていたのに、本当に夢のようです。
 すべて阿弥陀さま、高森先生のおかげです」

とお二人の目からは涙があふれていました。

「今度は主人(息子)にも伝えたいね」

二人とも輝く瞳で笑っていました。

王舎城の悲劇(※)を彷彿とさせる如来のドラマを目の当たりにし、思わず
私ももらい涙でした。

(お名前はプライバシーの関係で配慮しております)

※難度海についてはコチラをご覧ください。
※王舎城の悲劇についてはコチラをご覧ください。

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2009/07/08

人命の尊重は、人間に生まれた喜びから出てくるもの(親鸞会法話の感想)

親鸞会館で「人身受け難しの」の御法話を聞かせていただいて。

人命の尊重は、人間に生まれた喜びから出てくるものであり、自分の命の尊さを感じない人が他人の命を尊重できないのは当然であると思いました。

メディアが発達し、毎日のように耳に入って来る痛ましいニュースに、胸がふさがりそうになります。
駅前で無差別に通行人を殺傷した男は、「蚊を殺すのと人を殺すのと何が違うのか」とうそぶきました。
御法話の翌日の6月8日は、昨年、秋葉原での殺傷事件が起き、八年前は池田小学校の殺害事件があった日だとラジオで言っていました。
人間に生まれながら、生まれた喜びを語る人はほとんどありません。水平線しか見えぬ大海原に放り込まれ、どこに向かって良いのか、泳ぐ方角もわからないまま必死に泳いでいる生き様は悲劇としか言いようがないでしょう。

政治、経済、科学、医学など、世の中の営みは、泳ぎ方を教えるのみで、泳ぐ方角を示すものがありません。

大海に救助の大船があることを知らぬ人たちは、目の前に浮かんでいる板切れや丸太に、とりあえずすがる以外になく、不安の堪えない人生を送っています。

まさに親鸞聖人の「火宅無常の世界は、よろずのこと皆もって空ごと、たわごと、まことあることなし」の実証ではないでしょうか。

人として生まれ、尊く有難い仏縁に恵まれたことに感謝して、光に向かって生きていこうと思います。

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2009/07/06

なぜ多くの人は喜びがないのでしょうか(親鸞会法話の感想)

先日の親鸞会館での講演会の感想です☆

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人間に生まれたことは喜んで当然なのに、なぜ多くの人は喜びがないのでしょうか。
それは、仏法に説かれている生命の大歓喜を聞かせていただくことが大変に難しいからだ、と聞かせていただきました。

このことを、お釈迦さまの有名なお言葉、

「人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く」

を通して詳しく教えていただきました。

「人身受け難し、今已に受く」とは、人身とは私たち人間のことですから、「生まれ難い人間に生まれることができてよかった」という喜びの言葉です。

「仏法聞き難し、今已に聞く」とは、聞きがたい仏法を聞かせていただくことができてよかった、という歓喜の言葉です。

その喜びの身に救われるには、仏法は聴聞に極まるのだよ、と教えていただきました。

生まれたということは、ちょうど空と水しか見えない大海にほうり出されたようなもの。

そのままではおぼれてしまうから、必死に泳がねばならないのですが、どの方向に泳げばよいのか、皆目、見当もつかない状態です。

あてどもなく漂う間にも、次から次と波は押し寄せ、周辺に浮かぶ丸太や板切れを求めて懸命に泳ぐ姿は、人生の苦しみから逃れようと、金や財産、地位や名誉、健康や家族を求めて生きる、すべての人の生きざまを象徴しているかのようです。

しかし、やがて死によって裏切られ、海の藻屑とならねばならない人類に向かってお釈迦さまは、「一向専念無量寿仏」(阿弥陀仏に向かい、信じなさい)と、進むべき方角を明らかに教えられ、親鸞聖人は、苦しみ悩みの人生の海を、明るく楽しく渡す阿弥陀仏の願いによって建てられた大船の存在を教えてくださいました。

人間に生まれてよかった、という生命の大歓喜を獲るまで、続けて親鸞聖人の教えを聞かせていただきたいと思います。

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2009/07/04

「人命は地球より重い」といえる根拠(親鸞会法話の感想)

「人身受け難し、今已に受く。
 仏法聞き難し、今已に聞く。
 この身今生に向って度せずんば、
 さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」
という、有名なお釈迦さまのお言葉について、6月上旬に、高森顕徹先生から親鸞会館でお聞かせいただきました。

人身とは、私たち人間のことです。
お釈迦さまは、人間に生まれることは大変に難しいことだと教えておられます。

日本一の金持ちになることや、総選挙で選ばれること、また、ノーベル賞を取ることが難しいと言われれば、そうだ、そうだ、と分かりますが、
「人間に生まれることが難しいと言われて、そうだと思えますか」
との問いかけに素直にうなずくことができませんでした。どうしても実感がわかないのです。

お釈迦さまは、そんな私たちに、人間に生まれることが、どれほど難しいことであるかを盲亀浮木の譬えで教えておられ、今回のご説法でも聞かせていただきました。

お釈迦さまとお弟子との間に、以下のようなやり取りがあったそうです。

ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えると、お釈迦さまは次のような話をされています。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その盲亀が、100年に一度、海面に顔を出すのだ。広い海には1本の丸太ん棒が浮いている。丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」。

お釈迦さまが念を押されると、
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と教えられた、というお話です。

これまでも聞かせていただいた話ですが、改めてとてつもない内容だと感じました。

では、なぜ「有り難い中を人間に生まれてきた」と思えないのかということについて、それは仏法を聞くことが難しいからだと教えていただきました。

「人命は地球より重い」といえる根拠は、仏法に教えられているのですが、まず、そのことを知ることが難しく、正しく理解すること、そして本当に聞けてよかったと喜ぶことは、なお難しいからだと知りました。

人命の尊さを知らずに生きていたら、どんな味気ない一生で終わったことでしょう。
仏法に遇えたことを心から感謝せずにおれません。

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2009/06/29

ただ釈尊だけが(親鸞会法話の感想)

【ただ釈尊だけが】谷口 崇さん

「人身受け難し」の聖語を通して、人間に生まれてよかったという喜びがないのは、それ一つ教えられた仏法が聞き難いからだと教えて頂きました。
政治や経済、科学や医学は、苦しい人生の海の泳ぎ方、丸太や板キレのすがり方をコーチしてくれるものでありますが、一時的な安心しか与えてくれません。
ずっと私を支えてくれるものではありません。
巷では『余命一ヶ月の花嫁』という映画が上映中と聞きますが、
実話が元になっていて、初め乳がんと宣告された女性が、苦渋の選択で
乳房を切除し、本人も周囲も「助かった助かった」と喜んでいたのも束の間、
今度は肺ガンに侵され、亡くなるという悲劇です。
私たちは日常的に助かったとよく言いますが、本質的には助かってなどいない
のだと知らされます。
死という大問題が確実な未来にある限り、何人も助からないのです。
ならば何故生きるのか。
多くの人は、死に対しては大いなるアキラメ主義で、せいぜい死ぬまでの間に、一本でも多く、より太い丸太を集めるのが良い人生で、それに失敗した人は負け組で、とにかく丸太だけを見ていてその先のことは見ないようにしているように私には感じられます。
しかし、秀吉然り、家康然り、天下人と言われる人でも、人間に生まれて良かったという喜びの声は聞かれません。
始皇帝もカエサルもチンギスハンもナポレオンも世界の地図を塗り替えるような回天の事業を成し遂げた英雄・豪傑でも、“よくぞ人間に生まれたものぞ”という生命の歓喜を遺して死んだ人を知りません。
ノーベル賞を受賞した科学者もまた然りです。
ただ釈尊だけが、生命の歓喜を明示され、親鸞聖人が身命を賭してその仏意を明らかにして下さいました。
誰も知り得ぬ真実をしらされた親鸞会会員の喜び、とても計り知ることはできません。

親鸞会.NET» » 親鸞会館で『人身受け難し』の法話
http://www.shinrankai.net/2009/06/gohouwakansou-2.htm“target=”_blank”
親鸞会.NET» » 一つ歯車狂っていれば(親鸞会の法話の感想)
http://www.shinrankai.net/2009/06/gohouwakansou-2.htm“target=”_blank“

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2009/06/27

池袋で自殺しようとビルの屋上に立っている人を見ました

【池袋で自殺しようとビルの屋上に立っている人を見ました】田辺千尋さん

「人身受け難し 今已に受く
 仏法聞き難し 今已に聞く」
というお釈迦様のお言葉について聞かせて頂きましたが、
人間に生まれたことは、仏法を聞かせて頂いて初めて
喜べるのだと思いました。
高森顕徹先生の講演会の前日、池袋で自殺しようとビルの屋上に立っている人を見ました。
その人は「こんな苦しい人生、なぜ生きねばならないのか、死んだ方が
よっぽどマシじゃないか」と私に訴えかけているようでした。
私は体でこそ自殺しようとはしていませんが、本当に、心から人間に
生まれて良かったと思っているか、と自分に問い質さずにはおれません
でした。
“人間に生まれてきて良かった!”という心を抜きにして、生命の尊重を
説いたり、親を大切にしろと言っても、言葉だけが空回りしてしまうだけだ
と思いました。
命を無駄にしたり、自分の人生を破滅させたり、自殺する人は、仏法を
知らないからだと知らされました。
空と水しか見えない海に放り出された私たちは、とりあえず目の前の
丸太や板切れにすがるしかありません。
お釈迦様は、そんな丸太や板切れしか知らない私たちに
「一向専念無量寿仏」と、泳ぐ方向を示されて、この大船に乗ることこそが
人生の目的だとハッキリ仰っていると聞かせて頂きました。
誰も泳ぐ方角も目的も知らずに泳いでいる人ばかりの中、仏法聞かせて
頂いている私はなんと幸せ者なのか・・・と感動して涙が止まりません
でした。
「人身受け難し、今已に受く」
と言える身になるには、聴聞の一本道しかないと、またまた知らされました。

親鸞会.NET» » 親鸞会館で『人身受け難し』の法話
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