2009/07/08

人命の尊重は、人間に生まれた喜びから出てくるもの(親鸞会法話の感想)

親鸞会館で「人身受け難しの」の御法話を聞かせていただいて。

人命の尊重は、人間に生まれた喜びから出てくるものであり、自分の命の尊さを感じない人が他人の命を尊重できないのは当然であると思いました。

メディアが発達し、毎日のように耳に入って来る痛ましいニュースに、胸がふさがりそうになります。
駅前で無差別に通行人を殺傷した男は、「蚊を殺すのと人を殺すのと何が違うのか」とうそぶきました。
御法話の翌日の6月8日は、昨年、秋葉原での殺傷事件が起き、八年前は池田小学校の殺害事件があった日だとラジオで言っていました。
人間に生まれながら、生まれた喜びを語る人はほとんどありません。水平線しか見えぬ大海原に放り込まれ、どこに向かって良いのか、泳ぐ方角もわからないまま必死に泳いでいる生き様は悲劇としか言いようがないでしょう。

政治、経済、科学、医学など、世の中の営みは、泳ぎ方を教えるのみで、泳ぐ方角を示すものがありません。

大海に救助の大船があることを知らぬ人たちは、目の前に浮かんでいる板切れや丸太に、とりあえずすがる以外になく、不安の堪えない人生を送っています。

まさに親鸞聖人の「火宅無常の世界は、よろずのこと皆もって空ごと、たわごと、まことあることなし」の実証ではないでしょうか。

人として生まれ、尊く有難い仏縁に恵まれたことに感謝して、光に向かって生きていこうと思います。

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2009/07/06

なぜ多くの人は喜びがないのでしょうか(親鸞会法話の感想)

先日の親鸞会館での講演会の感想です☆

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人間に生まれたことは喜んで当然なのに、なぜ多くの人は喜びがないのでしょうか。
それは、仏法に説かれている生命の大歓喜を聞かせていただくことが大変に難しいからだ、と聞かせていただきました。

このことを、お釈迦さまの有名なお言葉、

「人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く」

を通して詳しく教えていただきました。

「人身受け難し、今已に受く」とは、人身とは私たち人間のことですから、「生まれ難い人間に生まれることができてよかった」という喜びの言葉です。

「仏法聞き難し、今已に聞く」とは、聞きがたい仏法を聞かせていただくことができてよかった、という歓喜の言葉です。

その喜びの身に救われるには、仏法は聴聞に極まるのだよ、と教えていただきました。

生まれたということは、ちょうど空と水しか見えない大海にほうり出されたようなもの。

そのままではおぼれてしまうから、必死に泳がねばならないのですが、どの方向に泳げばよいのか、皆目、見当もつかない状態です。

あてどもなく漂う間にも、次から次と波は押し寄せ、周辺に浮かぶ丸太や板切れを求めて懸命に泳ぐ姿は、人生の苦しみから逃れようと、金や財産、地位や名誉、健康や家族を求めて生きる、すべての人の生きざまを象徴しているかのようです。

しかし、やがて死によって裏切られ、海の藻屑とならねばならない人類に向かってお釈迦さまは、「一向専念無量寿仏」(阿弥陀仏に向かい、信じなさい)と、進むべき方角を明らかに教えられ、親鸞聖人は、苦しみ悩みの人生の海を、明るく楽しく渡す阿弥陀仏の願いによって建てられた大船の存在を教えてくださいました。

人間に生まれてよかった、という生命の大歓喜を獲るまで、続けて親鸞聖人の教えを聞かせていただきたいと思います。

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2009/07/04

「人命は地球より重い」といえる根拠(親鸞会法話の感想)

「人身受け難し、今已に受く。
 仏法聞き難し、今已に聞く。
 この身今生に向って度せずんば、
 さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん」
という、有名なお釈迦さまのお言葉について、6月上旬に、高森顕徹先生から親鸞会館でお聞かせいただきました。

人身とは、私たち人間のことです。
お釈迦さまは、人間に生まれることは大変に難しいことだと教えておられます。

日本一の金持ちになることや、総選挙で選ばれること、また、ノーベル賞を取ることが難しいと言われれば、そうだ、そうだ、と分かりますが、
「人間に生まれることが難しいと言われて、そうだと思えますか」
との問いかけに素直にうなずくことができませんでした。どうしても実感がわかないのです。

お釈迦さまは、そんな私たちに、人間に生まれることが、どれほど難しいことであるかを盲亀浮木の譬えで教えておられ、今回のご説法でも聞かせていただきました。

お釈迦さまとお弟子との間に、以下のようなやり取りがあったそうです。

ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれたことをどのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えると、お釈迦さまは次のような話をされています。

「果てしなく広がる海の底に、目の見えない亀がいる。その盲亀が、100年に一度、海面に顔を出すのだ。広い海には1本の丸太ん棒が浮いている。丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。その丸太ん棒は風のまにまに、西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、浮かび上がった拍子に、丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」。

お釈迦さまが念を押されると、
「何億年かける何億年、何兆年かける何兆年の間には、ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と教えられた、というお話です。

これまでも聞かせていただいた話ですが、改めてとてつもない内容だと感じました。

では、なぜ「有り難い中を人間に生まれてきた」と思えないのかということについて、それは仏法を聞くことが難しいからだと教えていただきました。

「人命は地球より重い」といえる根拠は、仏法に教えられているのですが、まず、そのことを知ることが難しく、正しく理解すること、そして本当に聞けてよかったと喜ぶことは、なお難しいからだと知りました。

人命の尊さを知らずに生きていたら、どんな味気ない一生で終わったことでしょう。
仏法に遇えたことを心から感謝せずにおれません。

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2009/06/29

ただ釈尊だけが(親鸞会法話の感想)

【ただ釈尊だけが】谷口 崇さん

「人身受け難し」の聖語を通して、人間に生まれてよかったという喜びがないのは、それ一つ教えられた仏法が聞き難いからだと教えて頂きました。
政治や経済、科学や医学は、苦しい人生の海の泳ぎ方、丸太や板キレのすがり方をコーチしてくれるものでありますが、一時的な安心しか与えてくれません。
ずっと私を支えてくれるものではありません。
巷では『余命一ヶ月の花嫁』という映画が上映中と聞きますが、
実話が元になっていて、初め乳がんと宣告された女性が、苦渋の選択で
乳房を切除し、本人も周囲も「助かった助かった」と喜んでいたのも束の間、
今度は肺ガンに侵され、亡くなるという悲劇です。
私たちは日常的に助かったとよく言いますが、本質的には助かってなどいない
のだと知らされます。
死という大問題が確実な未来にある限り、何人も助からないのです。
ならば何故生きるのか。
多くの人は、死に対しては大いなるアキラメ主義で、せいぜい死ぬまでの間に、一本でも多く、より太い丸太を集めるのが良い人生で、それに失敗した人は負け組で、とにかく丸太だけを見ていてその先のことは見ないようにしているように私には感じられます。
しかし、秀吉然り、家康然り、天下人と言われる人でも、人間に生まれて良かったという喜びの声は聞かれません。
始皇帝もカエサルもチンギスハンもナポレオンも世界の地図を塗り替えるような回天の事業を成し遂げた英雄・豪傑でも、“よくぞ人間に生まれたものぞ”という生命の歓喜を遺して死んだ人を知りません。
ノーベル賞を受賞した科学者もまた然りです。
ただ釈尊だけが、生命の歓喜を明示され、親鸞聖人が身命を賭してその仏意を明らかにして下さいました。
誰も知り得ぬ真実をしらされた親鸞会会員の喜び、とても計り知ることはできません。

親鸞会.NET» » 親鸞会館で『人身受け難し』の法話
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2009/06/27

池袋で自殺しようとビルの屋上に立っている人を見ました

【池袋で自殺しようとビルの屋上に立っている人を見ました】田辺千尋さん

「人身受け難し 今已に受く
 仏法聞き難し 今已に聞く」
というお釈迦様のお言葉について聞かせて頂きましたが、
人間に生まれたことは、仏法を聞かせて頂いて初めて
喜べるのだと思いました。
高森顕徹先生の講演会の前日、池袋で自殺しようとビルの屋上に立っている人を見ました。
その人は「こんな苦しい人生、なぜ生きねばならないのか、死んだ方が
よっぽどマシじゃないか」と私に訴えかけているようでした。
私は体でこそ自殺しようとはしていませんが、本当に、心から人間に
生まれて良かったと思っているか、と自分に問い質さずにはおれません
でした。
“人間に生まれてきて良かった!”という心を抜きにして、生命の尊重を
説いたり、親を大切にしろと言っても、言葉だけが空回りしてしまうだけだ
と思いました。
命を無駄にしたり、自分の人生を破滅させたり、自殺する人は、仏法を
知らないからだと知らされました。
空と水しか見えない海に放り出された私たちは、とりあえず目の前の
丸太や板切れにすがるしかありません。
お釈迦様は、そんな丸太や板切れしか知らない私たちに
「一向専念無量寿仏」と、泳ぐ方向を示されて、この大船に乗ることこそが
人生の目的だとハッキリ仰っていると聞かせて頂きました。
誰も泳ぐ方角も目的も知らずに泳いでいる人ばかりの中、仏法聞かせて
頂いている私はなんと幸せ者なのか・・・と感動して涙が止まりません
でした。
「人身受け難し、今已に受く」
と言える身になるには、聴聞の一本道しかないと、またまた知らされました。

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2009/06/26

一つ歯車狂っていれば(親鸞会の法話の感想)

浄土真宗親鸞会で「人身受け難し」のお釈迦様の言葉を通しての法話がありました。
その感想です。

【一つ歯車狂っていれば】 田宮一志

受け難き人身、聞き難き仏法と知らされる程に、
なぜ今、この自分が仏縁に恵まれたのかと不思議な御縁を
心から喜ばずにおれません。
高校時代、本当に満足できる人生とは何かと、何度も悩みました。
本を読み、親や友人に尋ねましたが、そこから出てきた答えはどれも、
“どの丸太を選ぶか”以上のものは無く、
「人生とはそういうもの」
と自分を納得させ、必死に、より安心できそうな大きい丸太棒を
探し求めてきました。
必ず訪れる死を前にしたら、どんなものも明かりにならないことも
感じてはいました。
しかし、どうにもならない巨大な壁を、できるだけ見ないように
生きてきました。

仏縁を結ばせて頂いた今、世間中の人達が丸太や板切れに向かって
必死に泳いでいるのを見ると、その気持ちは痛い程よくわかります。
私も、どこかで一つ歯車が狂っていれば、同じだったと思います。
大船が判らない以上、それ以外に方法が無いからです。
泳ぐべき方角を知らされた親鸞会会員として、この喜び、ご縁の
ある方と分かち合いたいと思います。

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2009/06/26

親鸞会館で『人身受け難し』の法話

先日、親鸞会館で『人身受け難し』のお釈迦様のお言葉を通しての法話が
ありました。

『人身受け難し 今已に受く
 仏法聞き難し 今已に聞く』

人身とは、人間のことです。
「人身受け難し、今已に受く」
とは“生まれ難い人間に生まれることが出来てよかった”という喜びの
言葉です。
“よくぞ人間に生まれたものぞ”
の生命の大歓喜です。

人間に生まれてよかったの喜びは、生まれてきた目的がハッキリしてこそ
心から溢れ出てきます。
その人生の目的について親鸞聖人は教行信証の冒頭に次のように書かれています。

「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
     (親鸞聖人『教行信証・総序』)

これは一体どういう意味なのでしょう。

 

「難度海(なんどかい)」とは、人生を「渡りにくい海」に例えたものです。

“人生の荒波”といわれるように、生きているといろんな波がやってきます。
病気、人間関係、失恋、リストラ、裏切り、などといった苦しみの波です。

しかもそこはちょうど空と水しか見えない海のようなもので、
どこに向かって泳げばいいのか、という方角が分かりません。

見えるのは、プカプカと波間に漂う丸太ん棒や板切れのようなものばかりで、
それはちょうど、“とりあえずの幸せ”“一時的な幸せ”を与えてくれるものと
いえるでしょう。

丸太や板切れにつかまれば、身体が浮き、楽になれるし、つかの間の安心は
得られます。
しかし波がくれば丸太はクルッと周り、しがみついていた人はまたも海に放り出され
潮水飲んで苦しまねばなりません。

悲しいことですが夫や妻、子供、金や財産、地位や名誉などはみな丸太ん棒や
板切れのような浮遊物で、押し寄せる波によって、引き裂かれたり、失ったり、裏切られたり
しては、おぼれ、傷つき、人は苦しみます。
最大の波は、老、病、死でしょう。
あまりの苦しみに溺死してしまった人も決して少なくありません。

そんな人たちに、懸命に泳ぎ方のコーチをしているのが、
政治、経済、科学、医学、芸術文学、法律といったものです。

しかしこれらは、

 「どこに向かって泳ぐのか」
 「なぜ、生きねばならないのか」

肝心な泳ぐ方角、人生の目的を明らかにしているでしょうか。 

何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
なぜ苦しくとも生きねばならないのか、
だれも知りません。 

行く先を知らずに泳いでいる人は、やがて力尽きておぼれるだけです。
目的を知らずに生きている人は、死ぬために生きているようなものです。
死を待つだけの人生は苦しむだけの一生に終わります。

私たちは決して苦しむために生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。

すべての人の願いは、苦しみ悩みから解放されて、いかにこの難度海を、
明るく楽しく渡るかに尽きます。 
そんな私たちに、人生の目的を明示されたのが親鸞聖人であり、
その高らかな宣言が教行信証の最初の言葉なのです。

「難思の弘誓は、難度海を度する大船」

「難度海(人生)を明るく楽しく渡す大きな船があった!
 真実の仏法(難思の弘誓)こそがその大船なのだ」

だから真実の仏法(難思の弘誓)を聞くことが大切なのです。
仏教を聞いて人生の目的がハッキリすると

「仏法聞き難し、今已に聞く」
聞き難い仏法が聞けてよかった!

と言わずにおれなくなるのです。
そんな『人身受け難し』についての高森先生の講演会に参詣した
方の感想をいくつか紹介しましょう。

 

親鸞会.NET» » 一つ歯車狂っていれば(親鸞会の法話の感想)
http://www.shinrankai.net/2009/06/gohouwakansou-2.htm

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2009/05/21

あっという間の「同朋の里」の一日でした

 週末、石川から同朋の里に行ってきました!親鸞会館から車で3分の場所です。

 昨年10月に新館がオープンして以来、宿泊や植樹、信心の沙汰で活発に利用されているのが、同朋の里です。

 全国の親鸞会の会員の方たちがすでに、この施設を満喫しておられる様子を親鸞会の新聞で読み、ずっとうらやましく思っていました。
 事前に新しくデジカメも買って、今回の行事を心待ちにしていました。
 平日は仕事があって、なかなかここには来れません。

 今回は土日を利用しての聞法ドメイン掃除、そして信心の沙汰、食堂の百味館お風呂の徳水館を満喫するプランでした。
 高速道路が土日1,000円になったのもとってもうれしいですよね。
 これまで支部の皆さんと宿泊をすることがありませんでしたが、親睦を深められる絶好の機会でした。

 この日の徳水館のお風呂の温度は40℃弱、熱すぎず、ぬるすぎず適温で、うーん、いい感じ。
 いつまでもつかっていたいくらい気持ちよかったです。
 極楽の湯をあらわす”八功徳水”から命名された”徳水館”ですね。
大満足の連続!
 そしてお待ちかねの百味館のバイキング。
 充実したメニューに、大感激。栄養バランス抜ぐんの品々を目の前に、どれから手をつけてよいか迷ってしまうほどでした。
 豊富な種類のデザートやフルーツも盛りだくさんで、大人はもちろん、子供たちも大満足のランチでした。

 そして、信心の沙汰でお互い、日ごろ疑問に思っていることを時間を気にせず語り合いました。

 小鳥のさえずりで目を覚まし、窓を開けるとさわやかな風がスーッと入る。
 朝の勤行、掃除のあとは、記念植樹をしました。サザンカ、ヤマボウシ、キンモクセイ、スモモ、ハナミズキの5種類の木から、自分の好きな木を選びます。
 私はヤマボウシを選び、来月初旬には白い花を咲かせてねと願いを込めて植えました。

 あっという間の一日でした。学生時代の合宿を思い出して、なんだか懐かしかったです。

 やっぱり、実際に来てみないとこのよさは分かりませんね。

(G)

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2009/04/22

無常の風は待ったなし 伝えたい親鸞聖人の教え

病室の点滴最期は、突然来ました。
「生きている」のと、「死ぬ」ことは、一瞬で分かれる。
それは、まさに無常の説法でした。厳しく、激しい無常をよくよく見つめて、光に向かって進ませていただきたいと思います。母のご恩を胸に。

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2009/04/21

植樹……それは親鸞学徒を見守り続ける木

植樹(サザンカ) 同朋の里で、植樹をしました。苗木は、スモモ、キンモクセイ、サザンカ、ハナミズキ、ヤマボウシの5種から好きなものを選べます。
これから先、どれほどの多くの人々が、ここで親鸞聖人の教えに触れ、学び、弥陀の本願不思議に生かされることでしょう。この木々たちは、それを見守り続けることでしょう。

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