2010/05/14

後生の一大事について(2) 親鸞会.NET仏教講座

親鸞会.NET仏教講座「後生の一大事について(2)」

●一向専念無量寿仏 ●
この一大事の解決は、大宇宙に無数の諸仏ましませども、本師本仏の阿弥陀仏以外には絶対にできないから、お釈迦さまは 仏教の結論として、

「一向専念 無量寿仏」(大無量寿経)
(無量寿仏に一向専念せよ)

と仰いまし た。「無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことですから、
「阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを一心に信じなさい。必ず救われる」
と説かれたお言 葉です。
この釈迦の「一向専念」の教えに順われて、建仁元年(聖人29歳の御時)、「後生の一大事」の解決を果たされた親鸞聖人は、全ての人の 救われる、たった一本の道、「一向専念無量寿仏」を、釈迦の至上命令として、90歳でお亡くなりになるまで、叫び続けていかれたのです。

※一向専念無量寿仏について、もっと詳しく読まれたい方は、コチラをどうぞ
↓ ↓ ↓

一向専念無量寿仏とはどんなことか
…………………………………………………………………………………………………

 

 仏教はこの地獄必定の一大事に驚き、この一大事の解決で終るもの
と教えられています。

ですから、この一大事が分からなければ、仏教を正しく理解する
ことはできないのです。

「後生の一大事」が抜けてしまうと、それは仏教とはいえなく
なってしまうのです。
●仏教の出発点と終点●

 

ではどうして

「曠劫を逕歴せ ん」(親鸞聖人)
とか、
「無間地獄に堕在すべきものなり」(蓮如上人)
といわれる一大事 がおきるのか。
その理由を仏教はどのように教えているのか。今から明らかにしましょう。

 

 

●仏教の根本教理は因果の理法●

仏 教というのは釈尊の説かれた教えを言います。
釈尊は約2600年前、インドの一共和国の王子として誕生されましたが、人の世の無常に驚き29才の 2月8日出城入山せられて勤苦6年、35才の12月8日一見明星して大悟徹底、仏陀となられました。
これより80才の2月15日、御入滅になるま での四十五年間の教えを仏教とも仏法ともいわれます。

「仏教は因縁を宗とす。仏の聖教は浅より深に至る。一切法を説くに因縁の二 字を出でざるを以てなり」(維摩経)

と説かれているように、釈迦一代の教えを貫いている根本教理は因果の道理で あることは何人も疑う余地がありません。
いわゆる、
「蒔かぬタネは生えぬ」
で、原因なしの結果は絶対に認めないし、
「蒔 いたタネは必ず生える」
と教えます。
しかも因と果の関係は常に善因善果、悪因悪果、自因自果であることが厳然と説き切 られています。

このように、仏教の根幹である因果の道理を否定しては、もはや
仏教ではなくなってしまうのです。

※因果の道理については、こんな記事もありますよ

     ↓ ↓ ↓

  因果の道理を信じる心が人生を変える

このように善因善果、悪因悪果、自因自果の 因果の理法を離れて仏教はあり得ませんが、それは単に現在一世にとどまらず過去、現在、未来の三世を貫いて説かれているところに仏教の因果律の精粋がある のです。
これを三世因果といい、仏教の旗印となっています。故に仏教を深信するということは三世因果を深信するということで す。
では過去、現在、未来の三世はどのような因果関係によって成立しているのか。
『因果経』には、

「過去の因 を知らんと欲すれば現在の果をみよ。未来の果を知らんと欲せば現在の因をみよ」

と至って鮮明に説かれています。
過去の因は現在の果に現われており、未来の果は現在の因によって発現するのだから、現在の自己の上に無限の過去と永遠の未来を知見できることを教えている のが三世因果の理法であります。

※三世因果についてもっと詳しく知られたい方はコチラをお読みください。

↓ ↓ ↓

仏教講座|仏教の根幹、三世因果とはどんな教えなのか|浄土真宗 親鸞会公式ホームページ

故に仏教は、現在の自己を徹見すれば自己の後生は分かると教えます。
現在の自己は、如何なる 後生を生み出す因を造っているでしょうか。
法鏡に映し出された真実の自己を知らされたとき、誰しも脚下に渦巻く必定地獄の一大事に驚かずにおれ ないでしょう。

「いずれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし」

は、その時の親鸞聖人 の悲痛な叫びであったのです。

つづく

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2010/05/14

後生の一大事について(1)  親鸞会.NET仏教講座

親鸞会.NET仏教講座「後生の一大事について(1)

●仏教の唯一の目的●

仏教は後生の一大事を知るところからはじまり、後生の一大事の解決で終わります。ですから、「後生の一大事」とはどんなことかを知らなければ、仏法は何十年聞いてもわかるものではありません。

これは蓮如上人が『領解文』に、
「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御助け候え」
と仰っているとおりです。

では、「後生の一大事」とはどんなことでしょうか。

私たちは、嫌じゃ嫌じゃといいながら、墓場へと向かっています。死に向かって行進しているのです。禅僧・一休は、
「門松は 冥土の旅の 一里塚」
と歌いました。

年が明けるとみんな「おめでとう、おめでとう」と言いますが、一年経ったということは、それだけ大きく死に近づいた、ということです。
「死」は、100%確実な、私たちの未来なのです。
そう聞くとどうしても、50年や60年先の、遠いことだと思いがちですが、一息切れたら「後生」ですから、早ければ今晩かも知れません。

その「後生」に大変な一大事がある、と仏教では教えられているのが「後生の一大事」ですが、この「後生の一大事」に二つあり、阿弥陀仏の救われる前と、救われた後とで、大きく分かれるのです。

●二つの「後生の一大事」●

弥陀の救われた人の「一大事」は、「浄土に往き仏に生まれる」という大事です。
弥陀の救われていない人の「一大事」は、「地獄に堕ちて永い苦患に沈む」大事です。

弥陀に救われた人の「後生の一大事」について、蓮如上人から聞かせて頂きましょう。

(原文)
「信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、諸共に今度の一大事の往生を、よくよく遂ぐべきものなり」

(意訳)
「平生に弥陀の救いに値って、皆にもその不可思議の救いの素晴らしさを伝えて、共に弥陀の極楽浄土へ往き、仏に生まれる一大事を遂げねばならない」

これは弥陀の救いに値った人の後生(来世)の一大事を教えられたものです。
欲や怒り、ねたみそねみの塊(煩悩具足の凡夫)である私たちが、一息切れると同時に、弥陀の浄土へ往って仏に生まれることは、あり得ることではない、大変なことですから、「一大事」といわれるのです。こうも仰っています。

(原文)
「他力の信心ということを詳しく知らずは、今度の一大事の往生極楽は、まことに以てかなうべからずと、経・釈ともに明らかに見えたり」(御文章)

(意訳)
「今生で弥陀の救いに値わねば、来世に弥陀の浄土へ生まれるという一大事は成就できないが、平生に弥陀の救いに値えば必ず来世は、極楽浄土に往生できるとどの経典や経釈にも明らかに説かれている」

次に、弥陀に救われていない人の「後生の一大事」を、蓮如上人はこう教えられています。

(原文)
「後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」 (御文章)

(意訳)
「後生の一大事とは、未来永く地獄に堕ちて苦しむことだから、急いでこの一大事の解決を心にかけて、阿弥陀仏の救いを求めねばならない」

この「後生の一大事」は、弥陀に救われていない、全ての人がかかえている一大事ですから、有名な『白骨の御文章』にも、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて」
と言われ、ご遺言にも、
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」

と、手に汗握って「皆々」=私たち一人一人に、訴えておられるのです。

以上、蓮如上人のお言葉を挙げて、親鸞聖人がどのように「後生の一大事」を教えておられるか、話をしてきました。

●「後生の一大事」は、仏説●

親鸞聖人は常に、

「更に親鸞、珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり」

と仰せの通り、釈迦の説かれた仏教以外に、教えられたことはありませんでした。
ですから、上記の「後生の一大事」は、そのまま釈迦・七高僧を貫く「仏説である」ことが明白でしょう。

つづく

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2010/03/09

『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』  親鸞会.NET仏教講座

『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』と云々。
これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。
これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止(ちょうじ)すべし」(改邪鈔:がいじゃしょう)
親鸞聖人は、

「魂の解決のできた者には、死骸はセミの抜け殻じゃ。
 何の用事もない。

 肉体の葬式や墓に力を入れるよりも、
 魂の葬式こそ、急がねばならぬことなのじゃ」

とおっしゃっています。

寿命が延びたといっても、100年そこそこです。

“悠々たるかな天壌”(果てしない歴史を持つ大宇宙)と比べたら、瞬きする間もありません。

滔々(とうとう)と流れる大河に、ポッと現れすぐに壊れる泡のようなものが肉体です。

しかし、そんな泡(肉体)が私ではありません。

過去、現在、未来を貫いて流れる永遠の生命が私であり、

この魂の葬式が果たされたならば、肉体の葬式は問題にならなくなります。

永遠の生命あることを知らず、肉体こそ私そのものと思い込んで、

遺体や遺骨を大事にする迷いの深い私たちに、親鸞聖人は、

「葬式は一大事ではないぞ。

 仏法の信心獲得(しんじんぎゃくとく)こそ急げ」

と、大事なのは“心”の葬式であることを教えてくださっているのです。

 

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2010/02/20

やっぱり”方角”が大事でしょ

 
毎朝ラジオ体操の終わりに、「今日も一日頑張りましょう!」と呼びかけられる。

しかし、どこへ向かってか分からず、ただ頑張るだけでは、真の幸福にはなれない。

「人生の目的を知らないで百日生きるより、
 出世の本懐に向かって一日生きるのが、はるかによい」(釈尊)

「どう生きる」ばかりに一生懸命で、
肝心の「なぜ生きる」を知らなければ、人生はむなしいものとなってしまう。

3つの事例を通してみてみよう。

 > 1. 黄金のトンネルからは辿り着けぬ ~海運王と言われた男の悲劇

 > 2.「私の人生は何なのか」の疑問 ~金メダルを幾つとっても満たされぬ心

 > 3.円周率 どこまで覚えれば…… ~ギネス挑戦の果ては?
 
 

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2010/02/20

1.黄金のトンネルからは辿り着けぬ

 
1975年、75歳で世を去った「海運王」アリストテレス・オナシスの遺産は1兆円といわれた。

睡眠3時間で猛烈に働き、20代後半には億万長者に。

「金は道徳よりも強い」

と豪語し、手段を選ばず事業を広げ、財産は小国以上だった。

そのオナシスが晩年にこう語っている。

「私の生涯は、黄金の絨緞を敷き詰めたトンネルの中を走ってきたようなものだ。

 トンネルの向こうには幸せがあると思い、出口を求めて走ったが、
 走れば走るほど、トンネルはまた長く延びていった。

 幸福とは、遠くに見える出口の明かりなのだろう。

 だが黄金のトンネルから、そこにはたどり着けないのかもしれない」
 
 

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2010/02/20

2.「私の人生は何なのか」の疑問

 
水泳界のスーパースター豪州のイアン・ソープ選手は絶頂期の24歳で突如、現役を退いた。

15歳の時、世界選手権400メートル自由形で史上最年少の世界チャンピオンに。

2度のオリンピックで計5個の金メダルを獲得、
世界大会では11回優勝、世界新記録は13回更新している。

称賛のただ中で、青年の胸に去来したものは何だったのか。

インタビューで語っている。

「『水泳がなければ、私の人生は何なのか』という疑問がわいた」(毎日新聞)

 
「何か他のことで自分の存在を証明すべきだ、と思い始めた。

 以前のように泳ぐことで心が満たされることはなくなってきた」(朝日新聞)
 
 

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2010/02/20

3.円周率 どこまで覚えれば……

 
円周率暗記でギネス挑戦を続ける山田太郎さん(仮名)。

通勤の往復3時間を利用し、ごろ合わせを映像化して覚えていく。

46歳でついに15151ケタの暗記に成功し世界記録に。

だがその翌月、わずかの差で抜かれる。

ますます闘志を燃やし、同じ年、2万ケタまで暗記した。

しかしその記録も翌年には破られる。

負けじと新たな方法で磨きをかけ、4万ケタの暗記に成功。

再びギネス認定書を手にすっかりご満悦。

だが、その大記録も数年後、抜かれてしまう。

70代となった彼は今も、上を目指し、日夜戦っている。

ちなみに円周率はスーパーコンピューターでは2兆5000億ケタ以上算出されている。
 
 

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2010/02/19

関係のないお聖教の言葉はない

「あわれあわれ、存命の中にみなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」
の悲願で貫かれているお聖教に、信心獲得に関係のないお言葉があるはずがない。
「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の
六字を信ぜしめん(信心獲得)がためなり」
蓮如上人のお言葉である。

 

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2010/01/31

【特集】テレビ座談会の反響(5) 親鸞会.NET

親鸞会.NET» » 【特集】テレビ座談会の反響(4) 親鸞会.net

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その後、「弥陀に救われた人は、皆同じになる」という迷信を徹底して
破っていただき、深く納得いたしました。
七高僧や親鸞聖人が、同じ他力信心の方であっても、最も分かりやすく
弥陀の本願を伝えられた方となると、「親鸞聖人ほど」のお言葉以外に
選択肢がないと、よく分かりました。

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ここで、「信心同異の諍論(しんじんどういのじょうろん)」について
学んでおく必要がありますね。

34歳の御時、親鸞聖人は、同じ法然門下の高弟であった勢観房・聖信房・念仏房と、
「信心同異の諍論」をなされています。
弥陀の本願に救い摂られたら、何が同じになり、何が同じにならないのか。
それは、法然上人のご裁断に、

「信心のかわると申すは自力の信にとりての事なり、
すなわち智慧各別なるが故に信また各別なり。
他力の信心は善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、
源空が信心も善信房の信心もさらにかわるべからず、ただ一なり」

とあるので分かります。

※詳しくはコチラをお読みください。
浄土真宗講座|親鸞聖人の信心同異の諍論とは、どんなことか|親鸞会公式サイト

阿弥陀仏から頂いた「他力の信心」は、救われた人は皆同じになりますが、
「智慧」「学問」「経験」などは、他力信心とは関係ないのです。

法然上人と親鸞聖人の「智慧」「学問」「経験」が同じになったのではありません。
当然、「伝え方」「書き方」「話し方」も、同じにはならないのです。

法然上人の高弟たちも間違えたことですから、注意しなければなりません。
(1月1日『顕正新聞』16面にも出てますよ☆)

椎名さんのお手紙にもこう書かれています。

つづく

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2010/01/31

【特集】テレビ座談会の反響(4) 親鸞会.net

●親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない

「なぜ生きる」(高森顕徹先生監修)には

「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのか」
人類は今も、この深い闇の中にある。
どこにも明答を聞けぬ中、親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない。
「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、
“よくぞこの世に生まれたものぞ”の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。どんなに苦しくとも、この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
聖人、九十年のメッセージは一貫して、これしかなかった。まさしく人類の迷闇を破る、世界の光といわれるにふさわしい。
(『なぜ生きる』2・3ページ)

と書かれています、

親鸞聖人は常に、

「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
(御文章1帖目1通)

とおっしゃり、釈迦の説かれた仏教以外に教えたことはない、と明言されました。。
また、釈迦の教法はあっても、インド・中国・日本の高僧方がましまさねば、
真実の仏法を知ることはできなかったと、『正信偈』に七高僧を著しています。
ならば、お釈迦さまや七高僧も、親鸞聖人と同じように、人生の目的を明示され、
その達成を勧められた方であろうに、

なぜ、

「親鸞聖人ほど」

と書かれているのでしょうか。

この質問に1日、懇ろにお答えいただきました。
高森顕徹先生へのお礼状を通して座談会の内容を振り返ってみたいと
思います。

山本さんのお礼状には、最初にこう書かれています。

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第一声、「この質問は、深い迷信から出ています」とお聞きした時、
申し訳ないことに、お答えの意味がよく分からず、
頭の回線が右往左往しました。

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え!

「なぜ、“親鸞聖人ほど”と書かれているのでしょうか」

という質問は、深い迷信からきている?
これは一体どういうことなのでしょうか。

続きを見てみましょう。

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